更 紗
 
 
 
 
 

 

 

 クラヴィスの私邸から、北に湖がのぞける。

 『北の湖』というのは、なにも闇の館から北にあるからそう呼ばれている....というわけではない。聖殿を中心とした聖地全体を見回した時にも、やはりその湖は北に位置している。

 それゆえ、北の湖なのだ。

 聖地には大小いくつかの湖がある。なかでも人気なのは、『森の湖』であろう。別名、『恋人たちの湖』と呼ばわれ、ひっきりなしに、そのジンクスにあやかろうと、恋人たちが愛を交わしにやって来る。

 空の蒼を溶かしこんだ『森の湖』は、見るものの心を穏やかにさせ、確かに恋愛効能があってもおかしくないように感じられる。

 しかし、水の守護聖が気に入っていたのは、かまびすしい森の湖ではなく、クラヴィスの私邸近くにある北の湖のほうであった。

 もともと、人付き合いの得意ではないリュミエールである。多くの人間が絶えまなく訪れる森の湖では、心の静まろうはずもない。それに対して、北の湖にはほとんど人が立ち寄らない。森の湖に比べて、大分奥まったところにあるのと同時に、北の湖の持つ不可思議な、ある意味神秘的な雰囲気を怖れて......とも言えるであろう。

 しかし、水の守護聖にとっては何にも代えがたい、憩いの場所であったのだ。

 はじめて聖地に召還された当時、心細さを慰めるためにこの場所でハープを奏でた。またオスカーと初めて結ばれた時、乱れる心をしずめるためにやってきたのもこの場所だった。

 そして今日も.......この場所に来ている。

 別に特別なことがあったわけではない。ただ、なんとなくこの場所に来てみたくなっただけである。

   

 リュミエールは静かに湖畔に腰を下ろし、愛用のハープを奏で始めた。

 涼やかなメロディーが、風にのり、やさしく水面を撫でる。

 瞳を閉じ、心のままに曲を紡ぐ。指先から湧きいでる音は不思議と、湖にたちこめる霧をはらい、やわらかな日の光を呼び寄せるのだ。

   

.......リュミエール.......

 彼の名が呼ばれた。低い声だ。

 振り返らずとも、その声の持ち主はわかっている。だが、水の守護聖はゆっくりとハープを下し、声の主を見遣った。

「クラヴィス様.......

 静かに微笑む水の守護聖。

「演奏の邪魔をしたようだな.........

「そのような......つれづれに......奏でていただけですから.......

 水面を思わせる青い宝石の双眸に、真珠色の睫がふぁさりとかかる。

「今の曲はなんという? 初めて耳にするが.......

 闇の守護聖が訊ねた。

「お恥ずかしゅうございます......手遊びにわたくしが.........

 リュミエールは、ポロロン.....とハープを弾いた。

 闇の守護聖はゆっくりとした動作で、水の守護聖のとなりに腰を下ろした。.......白檀の香が頬をなぶる。

........おまえが.......初めて聖地に来た時にも......よく、こうして竪琴をかき鳴らしていたな.......

........はい。......慰めにと.......

「ふっ.......慰めか......おまえ自身への.......

 クラヴィスが目線を巡らす、紫水晶の双眸で視線を絡め取られた時、リュミエールはうっすらと頬を染めた。

.......はい.......心細くて.....帰りたくて.....寂しくて.......そちらのお屋敷がどなたのものかすら存じませんでした......

 クラヴィスは低く笑った。

.......ふふ.....闇の守護聖の私邸.....と知っていたならば......おまえはハープを奏でになど来なかったと言うわけか......

「ク.....クラヴィスさま.....そのような......

 腰を浮かせ、目に見えて動揺するリュミエール。水色の守護聖を見遣り、漆黒の守護聖は人の悪い笑みを浮かべた。

「まぁ.....そうであろうな......人嫌いの守護聖のもとへなど......

「クラヴィスさま!」

 リュミエールの声は悲鳴のようだ。

 クラヴィスは声を立てて笑った。

「ああ、すまぬ......くく.....冗談だ........

「ク.....クラヴィスさ.........

 今にも涙をこぼしそうなほどに見開かれたブルートルマリン。クラヴィスはそっとリュミエールの青銀の髪を手に取る。

「クラヴィス....さま.....?」

 それに敬うように口づけを落とした。水の守護聖の声音には困惑の色が混じっている。

........おまえは......初めてここへ来た時からかわらぬな......この聖地が色褪せぬように.....おまえもまた変わらず美しい........

「クラヴィスさま.........

 闇の守護聖はそっと青い光を手放した。名残惜し気に真珠の光沢が弧を描く。

「リュミエール.........

 低く、青銀の天使の名をつぶやくと、夜の魔王はリュミエールの膝に頭を乗せ、そのまま横になる。水の守護聖は何も言わない。

......気持ちがよい........

......はい.......

.......なんだか......昔に戻ったようだな.......

.......はい.......

.......おまえは......いま.....

........はい?」

 律儀に返事を返すリュミエール。クラヴィスの言いかけた言葉の先を促すために、聞き返した。だがクラヴィスは

......ふっ.....いや.....なんでもないのだ......

 と、囁くように言った。

 清涼な風が二人を誘う。やわらかな日ざしが身体を包む。クラヴィスはゆっくりと瞳を閉じた。己の膝で風に遊ぶ長い黒髪を、リュミエールが愛おし気に撫で付ける。

  

 .......ゆっくりとリュミエールが言った。

.......はい.....わたくしは......いま......幸せです.......

  

 返事はなかった。クラヴィスは目を瞑っている。

........オスカーと共に生かされている今......わたくしは幸せだと.....感じます.......

  

 いつの間にか、リュミエールの膝枕で、闇の守護聖は静かに寝息を立てていた。深い紫色の双眸が閉じられると、なんともやさし気な面立ちになる。クラヴィスの纏う神秘的で不可思議な雰囲気は、その瞳から発されていたのだというように。

........クラヴィスさま.......?」

 木の葉の囁きのようなリュミエールの呼び声。

..........クラヴィスさま......お風邪をお召しになります......

 いらえはない。

.......クラヴィスさま?」

......クラヴィスさま......クラヴィスさま.......

  

.......クラヴィスさま.......愛しております.......

 そう言うと、リュミエールは微睡む闇の守護聖のこめかみに接吻した。それは恋人へのキスではなく、......そう.......誰よりも大切な、信頼すべき人物への感謝のキス......

 クラヴィスは何も応えない。だが、その横顔にうっすらとあたたかな笑みがのぼった.......と感じるのは気のせいであろうか?

 リュミエールはくり返し、くり返し、クラヴィスの黒髪を愛撫する。

 今は、もう光の守護聖と共に在る闇の守護聖の漆黒の髪を........

 

  

 日がやや傾きかけた。聖地の初秋は夜がはやい。

 

 クラヴィスは本格的に眠りに落ちたようだ。膝に感じる彼の感触が少し重くなった。

 

 .......このまま、寝まれては本当にお風邪を召されてしまう......

 

 心配になったリュミエールがクラヴィスを起こそうとした時。

  

 そう、その時まさに、いま、最も聞きたくない声がリュミエールの耳に入った。

  

.......クラヴィス〜っ! どこまで行ったのだ! すぐ戻ると言っておったくせに〜! .....クラヴィス〜っ! クラヴィス〜っっ!」

 慌てふためく、水の守護聖。だが、存外に膝の魔王はしぶとかった。

「クラヴィス〜っ! クラヴィス〜っっ! .....む? そこにいるのはリュミエール?.......ちょうどよい、このあたりでクラヴィスに会わなかったか?」

  

 今にも泣き出しそうな、水の守護聖の膝元に眠る人物を、ジュリアスの瞳が捕らえるのは時間の問題である。

  

 .........聖地のほんの一幕。

 互いのつがいを見つけあった守護聖たちの、やさしい夕暮れ......

 ..........続きはあなたの心の中に........