執事殿の焦燥 <2>
..........来てよかった..........
私は本当にそう思った。もちろん、たった今、この山荘に到着したばかりなのだから、先のことはわからない。だが未知なる不安に怯えるよりも、突如として目の前にひらけた大自然の一枚画への歓心のほうが強かった。
最後の最後まで、気乗りがしない様子で、仏頂面をしていた闇の守護聖でさえも、この風景に出会った時、ほぅ.....と感嘆の吐息をついたのである。
「おお! ここにやってくるのは久方ぶりであったが、何と美しい!」
感動をストレートに言葉に表すのはジュリアス様。山荘に赴くには充分にゴージャスないでたちの光の守護聖だ。そのまま湖の方へ、ダカダカと走ってゆく。
「アルテミュラー! ほら来い!」
「はい!」
月光の女神が返事をした。
ウエーブのかかった長い髪を、リボンでまとめ、いつもよりもほんの少しだけ動きやすそうな格好をしている。
彼はアルテミュラー。闇の守護聖の側仕えで.....そして、私の想い人だ。
「おふたりとも、あまり湖の側近くにお寄りになられては.....!」
口うるさいと思われるということは、百も承知のうえで、私はそう言った。ジュリアス様が風邪を引かれることはなかろうが、アルテミュラーは身体が弱いのだ。
「なんだなんだ、小舅のようにうるさくいうな! 禿げるぞ、ランフォード! ほら来てみろアルテミュラー、水が澄んでて湖の底に引きつけられるようだな.....」
「はい! うわぁ.....お水が真っ青.....すごく綺麗.....」
精神年齢の低いお二人組はたいそう元気だ。
私はホッと安堵した。そして少しだけ反省した。アルテミュラーを気遣うあまりに、彼の行動を規制してしまっては、せっかくバカンスに遊びに来たのに、楽しさが半減してしまうことだろう。ふだん、屋敷の外に出ることのないアルテミュラーに、思う存分、大自然のめぐみを満喫させてやりたいと思う。それこそが、この旅行に同行を申し出た私、ことランフォードの真の目的なのだから。
「...............元気なものだな」
闇の守護聖が、独り言のようにつぶやいた。彼は私よりも少しだけ遅れて、後ろをお歩きになっていたのだ。
「ええ、そうですね。ですがジュリアス様はともかくアルテミュラーさんが楽しそうで何よりです」
「ふっ.....そうか」
「あっ.....いえ、いつもはお部屋に閉じこもりがちですので」
「.....そうだな.....」
口にした後、私は「しまった!」と思った。アルテミュラーを薄暗い屋敷に閉じこめているのは他ならぬクラヴィス様なのだ。彼は常人よりも少しだけ知恵の遅れた側仕えを、それ以上の意味合いにおいて庇護し、側においているのだ。
「あの、ええと、クラヴィス様には、ご同行願えるとは思っておりませんでしたので.....その、ありがとうございます」
どうつづけてよいのか迷った挙げ句、私はそう言ってみた。本心だ。
「.....ふっ.....正直、気は進まなかったがな.....」
「え、ええ、左様でございましょうとも。ですが、こちらはこのように自然に恵まれた美しい土地です。あいにくこれから参ります別荘は簡素なものですので、お気に召していただけるか不安ではございますが」
「.....別に.....泊まるところなどどこでもよい」
と、闇の守護聖様はおっしゃった。
そうはいわれてもね。
背の中ほどで揺れる漆黒の髪、黒のローブはいつものままに、裾を引くくらいの長衣。派手な装飾品は身に付けておられぬものの、素人目にも高価なものと知れるアクセサリー。
どこからどうみても、山中の山荘に逗留するタイプの御方ではないのだ。ジュリアス様のほうが派手やかで華やかなタイプだが、闇の守護聖殿は重々しく上品で.....荘厳だ。比喩の仕方が難解だが、ようは、軽々しくないのである。
「.....おまえもご苦労なことだな」
クラヴィス様がつぶやいた。
「え? いえ、そのような」
「ジュリアスの執事というのは、大変であろうな」
「私は光の館の執事であって、ジュリアス様の執事ではございません」
私のお約束の反論を面白そうにお聞きになり、クラヴィス様は笑った。
「.....この度はお邪魔になりませんよう、お世話させていただきますので.....」
そう、考えてみれば神誓を交わした仲のお二人とご一緒するのだ。そのあたりのことは気を配らねばならない。
「そのような気遣いは無用だ.....おまえが側近くにいてくれなくては.....疲れてしまう」
そうささやいたクラヴィス様の声は、いつものように低く、だが不思議な甘さも含まれていたが、そのときの私はまるきり気づかなかったのだ。
「はっ、お身のまわりのことはアルテミュラーさんとご一緒にお世話させていただきます。あの方はお身体が丈夫ではないとのこと、あまり無理をさせるわけには参りませんから」
それとなく私は釘を刺した。
クラヴィス様とアルテミュラーの関係を考えたら、不必要な心配だとは思うが、聖地においてでさえ、屋敷の外に出たことなど、数えるほどしかないというアルテミュラー。そんな彼に主人の面倒を見る余裕があるのか。
そう、それこそ、私は三人分の面倒をみなければならないことを覚悟していたのである。
「.....屋敷は目と鼻の先なのであろう。馬車の荷物を先に運ばせてはどうだ」
たいくつそうに御者台で待っている行儀の良い馬丁を気遣ったのか、クラヴィス様がおっしゃった。
「あ、はい、そうですね。では一緒に行って参ります。すぐにお迎えに参りますので」
「いや.....必要ない。ジュリアスが一緒だからな.....ゆっくりと屋敷に向かおう。湯でも沸かして待っていてくれ.....」
そう言うと、闇の守護聖殿は、水辺で戯れる、おふりのほうへ歩いていってしまった。
.....まぁ、ジュリアス様も一緒だからな。
道迷うことはなかろうと考え、私はひとり馬車に乗って、山荘に向かうことにした。
「.....クラヴィス様.....屋敷にとか言ってたよなぁ.....」
思わず私はそうつぶやいた。
『屋敷』.....
.....その認識はまずい.....
だいたい召使いだっておけるような場所じゃないし(部屋数がまるきり足りないのだ)、ごくふつうの一般庶民の住むような、そんな「おうち」なのだ。
「.....まいったなぁ.....」
そんな私の気持ちを察してか、目の前に現れた『森の一軒家』は、すまなさそうに身をちぢこめてそこに恐縮していた.....
..........こ、こんなだったっけ?
私は頭から、サーッと血の引いていくのを感じた。
額を冷や汗が伝ってゆく。
湖畔の山荘は.....いや、本物の「山の草庵」は、そのものずばりの形で存在していた。端的に言えば、ここしばらくお目にかかったほどのない程度に、質素で簡素で、庶民的であった。
「ランフォード..........」
低い声はクラヴィス様だ。このときばかりは後ろを振り向くのに多大なる勇気を要した。
「はっ.....ははははいっ!」
「.....まさかとは思うが.....宿はここになるのか?」
闇の守護聖様のお声がかすれている。そうですよね.....この私でさえ、小市民的だと感じる愛らしいおうちなのだ。長く守護聖様を務めておられる、クラヴィス様から見たら、到底宿泊できるような場所ではないのだろう。
.....どうしよう、今から引き返そうか.....
まだ陽は高いから、移動がてら泊まるによさそうなホテルでも.....いや、それより、光の館所持の別荘が他にはなかっただろうか。ああ、もちろんここからそう遠くない.....
悶々と考え込む私に、クラヴィス様は意外なことをおっしゃられたのだ。
「.....まぁ、よいがな」
「え?」
「別にかまわぬと言ったのだ。.....ほら、見てみろ」
闇の守護聖様は小さな山荘の裏方にある、シロツメ草の花畑を指さした。さっそくそこでは元気組が遊んでいる。
「はんりょさま、アルはこんな素敵なところ、初めてです! 見たことのないお花がいっぱい!」
「そうであろう! そなたは屋敷にこもっているから知識不足なのだ! 今後は嫌がらずに外に出て、多くの知識を吸収せよ」
「はい! あ、でも.....アルはかしこくないから.....」
「バカだな、そなたは! かしこくないから学ぶのだろう! なぁに、クラヴィスだとて、この光の守護聖が一緒ならば、外に出るななどとは言うまいよ! がはははは!」
ジュリアス様の大きな笑い声が聞こえてくる。アルテミュラーさんが、この山荘を『お菓子の家』と、比喩された。
どうやら、おふたりはこの家が気に入った.....らしい。
「あ、は、はぁ.....ですが.....やはり.....」
「よいではないか。別におまえのせいではないのだから。横になれる部屋はあるのだろう?」
「いえ、やはり私の配慮が足りませんでした。医者のいる街の場所や、聖地からの連絡経路などはくり返し確認したにもかかわらず、肝心な滞在場所を.....」
「つくづく真面目な男だな.....ふっ.....」
「それぐらいしか取り柄がありませんから」
私はおのれへ促した猛省を笑われ、憮然とした物言いをした。
「怒るな。そんなことはなかろう.....」
「は?」
「だから、真面目しか取り柄がないなどということは、無いと思うぞ」
本当にクラヴィス様の言葉は、謎掛けのようで真意をさぐるのに時間がかかる。
「いえ、クラヴィス様、私は本当に.....」
「たとえば、背が高く、容貌も整っている。おまえは美男子だな」
とうとつにおっしゃるクラヴィス様。私は耳がおかしくなったのかと思った。だが、向こう側でキャッキャッと遊んでいるおふたりの声もきちんと聞こえているのだから、中耳炎などではなかろう。
「あの.....」
「そのうえ、鍛えているのだろう.....? 私とは筋肉のつき方が全然ちがう」
長い指が、すっと私の肩を滑る。私は氷ついたまま身動きできない。
「美しい身体だと思うぞ.....」
「.....といいますか、ごらんになったことなど.....」
「そして、やさしい色合いの亜麻色の髪、アーモンド・ブラウンの瞳、とても好ましい」
私の髪をいじりながら、低くささやく。
「...............」
「それにおまえはだれにでもやさしいからな.....多くの人間に好かれているのだろう.....」
「いや、私は.....」
「そんなおまえがこの私を労ってくれるのは.....ありがたいと思っている。例え、光の館の執事としてでもな.....」
「あ、あの..........」
妙に迫力のある闇の守護聖様。
この人は告白モードになると、壮絶なほどの色香を発揮する。
おおっと失礼。今のは色恋がらみの発言ではなかろうが、免疫の少ない私にとっては、いささか心臓に悪かった。
「ふふ.....なんて顔をしている」
「あ、はぁ.....」
こーゆー顔をさせたのはあなたでしょ!
そんな私の気持ちなど、素知らぬふりで、クラヴィス様は小さくあくびをされた。
「さすがに疲れたな.....少し、横になりたい.....」
「あ、はい!」
部屋の準備はいいつけどおり、きちんとなされているはずだ。私は小さな部屋しかないのを謝りつつ、クラヴィス様を奥の小部屋に通した。セミダブル程度のベッドがおいてあり、木綿地のソファのある東側の部屋だ。
「お着替えは運んでございますから。浴室はこの部屋の正面です。あ、あの、すべてのものが、その.....庶民的なスケールですが.....使用できないということはありませんので.....」
「ああ、よいよい。夕食まで休む.....時間になったら.....お.....こせ.....」
掠れた声でつぶやかれると、闇の守護聖様は骨の溶けたように、くたりと寝台に倒れ込み、そのまま小さな寝息をたてられた。
家の外からは、まだおふたりのはしゃぎ声が聞こえる。
私は一休みしたのちに、山荘の点検を行うことにした。