執事殿の焦燥
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 ずいぶんと長く風呂に浸かってしまった。

 いささか湯あたり気味だ。あこがれの人の入浴シーンを目の当たりにしたのだ。長湯をしたということ以上に、アルテミュラーさんのまぶしい姿に、私の頭は貧血を起こしたのだ。

「では、ジュリアス様、アルテミュラーさん、おやすみなさい。夏場とは言え、夜は冷えます。きちんと毛布を.....

「ああ、わかった、わかった。まったく口うるさいやつだ。では、寝るとするかな。ランフォード、クラヴィスをたのむぞ」

「あ、は、はぁ」

 私はなんとも間の抜けた返事をした。

「ラ、ランフォードさま、ご主人様をよろしくお願いいたします」

「はい、アルテミュラーさん。あなたも冷えないようにお休みください」

「はい.....

「いかがなさいました? ご気分でも?」

 あわてて私はそうたずねた。風呂に入っているときはずいぶんと楽しそうだったのに、なにやら沈んでいる様子。気をつけてやらなければならないのはクラヴィス様だけではない。なにより身体の弱いこの人のことが一番心配だ。

「いえ、そうではないのです.....

「ならばよろしいのですが.....お具合が悪いようなことがあれば、すぐに私におっしゃってください」

「ありがとうございます、ランフォードさま。いつもアルは迷惑かけてばかりです。ごめんなさい.....

「なにをおっしゃいます。まったく迷惑などとは考えておりません。そのようなお気遣いは無用です!」

 私は力を込めてそう言った。まったく、この美しい人はなんと遠慮深くて謙虚な方なのだろう。この程度のことが「迷惑」なら、ジュリアス様など「迷惑」のかたまりだ。

 人の気も知らず常にマイペースでがしがしとことをすすめるジュリアス様。元気で強くて乱暴でワガママで、そんなこの御方に仕えている私なのだ。ちょっとやそっとのことで、負担になど感じるはずが無い。

「あ、あの、ランフォードさまはクラヴィスさまとお休みになられるのですよね.....

「ええ.....

 『不本意ですが』と後に続けそうになり、おかしな具合に私は言葉を切った。

「ご気分が優れないとのお言葉ですので、今夜は一応お側にお付きしていようかと思います」

 間違っても、好きこのんでいっしょに寝るなどと考えられては困る。

「そう.....さようでございますね。.....でも、あの、アルは.....ひとりでは.....

「なぁんだ、そなたはっ! ひとりで寝れないというのか! 子どもではあるまいに!」

「ごめんなさい.....でも、アル、知らないところで寝るのははじめてで.....

 ああ、まただ。またもや気遣いが足りなかった。どうして訴えられて初めて気づくのだろう。

 アルテミュラーさんは、闇の館から出たことがないのだ。だいたい自分の部屋の外に出ることだって少ないのに。下界の、しかもこんなに小さな山小屋の一室で、ひとりきりで眠れと言われても不安でしかたがないのだろう。この人は見かけどおりの大人ではない。傷つきやすい子どもと同じなのだ。

「さもあろう!」

 ジュリアス様が叫んだ。騒々しい。

「こんなこともあろうかと、私は愛用のクマを持参した。この準備の良さ! さすが光の守護聖ジュリアス。そなたのような不出来な子どもとはワケが違うのだ!」

 どっちが子どもじゃあ!と、私は心の中でビシっと突っ込んだ。

「アルもお人形を連れてくればよかった」

「今さら言ってももう遅いわ!ふははは!」

「勝ち誇らないでください、ジュリアス様」

「なんだ、だいたいそなたがクラヴィスといっしょに寝るというから、私はこのような気遣いを.....

「いっしょに寝るだなんておっしゃらないでください! 悲しい成り行きです。こんなことさえなければ、この私がアルテミュラーさんのお側におつきして差し上げるのに.....

 私は思い切り本音を口にした。さすがに疲れているらしい。

「ふん。まぁよい。アルテミュラー、私の部屋へ来い」

「え? はんりょさま?」

「ひとりでは眠れぬのだろう? 私が一緒に居てやると言っているのだ」

 ジュリアス様がとてつもなく偉そうにおっしゃった。

「本当に? アル、うれしいです。はんりょさまはとてもおやさしいのですね」

「まぁ、あたりまえのことを言われても何とも思わぬがな。さ、行くぞ」

「はい!」

「今泣いた烏がもう笑っているのか。現金なやつだ」

 ジュリアス様が言う。頼られるのはまんざらでもないらしい。

「はんりょさまは、お強くてやさしくて、お綺麗で.....アルなんかと仲良くしてくださってありがとうございます.....

「おい、『なんか』などと言うな。おのれを卑下する輩は好かぬ」

「は、はい」

「わかればよい」

 すました顔つきで、ジュリアス様はさっさと歩き出した。その後を小走りにアルテミュラーさんが追いかける。

 取り残された気分を、ヒシヒシと感じながら、私はいたしかたなく部屋へ戻る。

 

 

 寝室の前まで来て、足がすくんだ。

 怖いわけではない。いや、ある意味怖いのか。

 クラヴィス様はもうお休みだろうか。寝ていてくれるとありがたいのだけど.....

 私はそっと、本当にそーっと扉を開いた。寝ているならば、ぜったいに起こしたくなかったのだ。

 

「遅かったな.....待ちくたびれたぞ」

 天蓋つきの寝台から声が聞こえた。

 なにか返事をすべきなのだろうが、すぐに声が出なかった。

 クラヴィス様は肩口の大きく開いた、銀鼠色の夜着を身に付けていた。男性にしては細く白い指が掛け物を持ち上げている。シーツのすき間から素足が見え、私はあわてて視線を反らそうとした。しかし目はそこに釘付けになっている。

 あらわになった両の足は、掛け物のシーツよりも白くまぶしかった。

 紫水晶の双眸をもつ夜の魔王は、異世界の住人のようであった.....

 

 「どうした.....なにを惚けている.....?」

 低い笑声に、蕩けかけた思考が、徐々に形を取り戻した。そんな私の反応がひどく面白かったのか、クラヴィス様は飽きもせず、小さな笑みをこぼし続けていた。

「ランフォード.....?」

「あ、いえ、失礼しました」

 私は極力事務的な口調で続けた。

「クラヴィス様。その夜着は首回りが開きすぎています。それではお寒いでしょう」

「おまえの言ったとおり、綿糸の長衣だぞ」

.....それはよろしいのですが。あまり肌の露出が多いのは感心できません」

 私は目線をよそに向けながら、クラヴィス様の首回りにヴェールをひっかけ、ぐるぐると巻いてしまった。「無粋な.....」とささやく闇の守護聖。だが、そんな独り言は黙殺だ。

 

.....いつまでそうしているつもりだ。休まぬのか?」

「ええ。その.....やはり.....

「なんだ.....?」

「いえ、ですから.....ちょっと.....

「なんだ、はっきり言わぬか」

 .....こんな格好をしたクラヴィス様と、ひとつ寝台で寝るのは.....さすがに気が引けるのだ。私が何を言わんとしているか、気づいておられよう。にもかかわらず、闇の守護聖は私の言葉を待った。

「クラヴィス様.....その、あの.....ここの寝台は大きいですね」

「ああ、そうだな。ありがたいことだ」

「ええ、まぁ.....ですが、やはり光の館、闇の館の、私室の寝台に比べると、見劣りがしてしまうのは、どうにも否めませんね」

 私は言った。

「そうか.....まぁ、豪奢という意味合いにおいては、いたしかたないのではないか.....

「え、ええ.....幅も少し狭いかな.....

「あまり変わらぬと思うが」

「そ、そうですか? いえ、やはり狭いです。す、少しですが」

「ああ、気になるほどではない」

「華やかさが足りないと、小さく見えるのでしょうかね」

「寝台は横になれればいいのだ」

 ぐはっ.....も、もう、引っ張れない。これ以上、問答を続けるわけにはいかない。本当にクラヴィス様に風邪をひかせることになってしまう。

 私は清水の舞台から飛び降りる気合いで、闇の守護聖に向き直った。

「ランフォード.....?」

「し、失礼します、クラヴィス様。もう休みましょう!」

「うむ.....

「し、失敬!」

 ガバリと掛け布団をめくりあげると、私は疾風のごとく、闇の守護聖のとなりにもぐりこんだ。と、同時に、怒濤のように、寝台のがけっぷちぎりぎりまで身をよせる。

「じゃっ!おやすみなさい、クラヴィス様! 電気消しますっ!」

 サイドテーブルに置いてある小さなランプを手に取り、ぶちりとばかりに電源を切る。一瞬であたりは漆黒の闇につつまれた。

「おい、ランフォード.....そんなに端によったら、夜中に落ちるのではないか?」

「御心配は無用です! 私は寝相がとてもいいのです!」

 苦し紛れに、私はそうこたえた。

 冷静さを欠いた私は、なにゆえクラヴィス様が、私が思いっきり端に寄っていることを知っているのか、考えを及ぼさなかった。

「ランフォード.....もう寝てしまうのか?」

「夜です、クラヴィス様ッ! 生き物は、夜、眠るものですっ!」

「夜行生物はどうなるのだ.....こうもりとか.....

「人間は、夜、寝るんですッ!」

 私は四角四面に答えた。その言葉はほとんど叫び声のように、寝室にこだました。

.....あまり眠そうにも見えぬがな」

「いいえ、眠くて眠くてたまりません。おやすみなさい、クラヴィス様!」

『ああ、眠くなんてないわい! ついさっきまでは眠気を感じていたが、この部屋に入って、アンタと顔つきあわせたら、眠気なんざ吹っ飛んだわい!』

 .....ああ、そう叫べたら、どんなに気が楽だろう。

「ぐーぐー」

「ランフォード?」

「ぐーぐーぐー」

「ランフォード? 眠ってしまったのか.....?」

「ぐーぐーぐー」

 私は意地になって寝た振りを続けた。

「ランフォード.....そうか、寝つきの良いことだな.....ならば.....

「ぐーぐーぐー」

「ならば.....今なら、私がなにをしても気づかないというわけだな.....

「ぐ? ぐーぐーぐー.....

 .....今、恐ろしい言葉を聞いたような気がする。だが、くぐもっていて良く聞き取れなかったのも事実であった。寝た振りを気づかれるのもバツが悪い.....

.....ふふ.....では私も眠るか.....湯上がりでずいぶんと時間が経ってしまった.....

 クラヴィス様は私に聞かせるようにそう言った。

.....少し冷えたな.....だが、ちょうどいい.....

(きゃっ!)

 私は女の子のような悲鳴を上げた。ただし心の中で。

 クラヴィス様の腕が、私を肩先をすべり、腹の方に回される。それも下の方だ。そして背に感じる彼の人の体温。

 .....背後から抱きしめられている.....

 ああ、その時、意を決して起き上がり、食堂へ避難すべきであったのだろう。だが、私はそうしなかった。

 どうせ、からかっているだけなのだろう、というのがひとつ。もうひとつは.....背に感じるクラヴィス様の体温が、私にとっても心地よかったということ。風呂から上がって、思ったより時間が経っていることに、いまさらながらに気がついた。そう、私の身体は、クラヴィス様以上に冷え冷えだったのだ。

..........ここちよい.....

 ほぅ.....と満足げな深い吐息が背にかかった。ああよかった耳元でなくて。

 .....別にこの人が嫌いなわけではないのだ。ただ.....どうにも自分たちと同じ次元に棲む人には感じられなくて.....持て余してしまうというのが正直なところ。

 

 かすかに伝わる彼の吐息が規則的になる。

 それは私をも夢の世界へ誘うようであった.....