執事殿の焦燥 <5>
ずいぶんと長く風呂に浸かってしまった。
いささか湯あたり気味だ。あこがれの人の入浴シーンを目の当たりにしたのだ。長湯をしたということ以上に、アルテミュラーさんのまぶしい姿に、私の頭は貧血を起こしたのだ。
「では、ジュリアス様、アルテミュラーさん、おやすみなさい。夏場とは言え、夜は冷えます。きちんと毛布を.....」
「ああ、わかった、わかった。まったく口うるさいやつだ。では、寝るとするかな。ランフォード、クラヴィスをたのむぞ」
「あ、は、はぁ」
私はなんとも間の抜けた返事をした。
「ラ、ランフォードさま、ご主人様をよろしくお願いいたします」
「はい、アルテミュラーさん。あなたも冷えないようにお休みください」
「はい.....」
「いかがなさいました? ご気分でも?」
あわてて私はそうたずねた。風呂に入っているときはずいぶんと楽しそうだったのに、なにやら沈んでいる様子。気をつけてやらなければならないのはクラヴィス様だけではない。なにより身体の弱いこの人のことが一番心配だ。
「いえ、そうではないのです.....」
「ならばよろしいのですが.....お具合が悪いようなことがあれば、すぐに私におっしゃってください」
「ありがとうございます、ランフォードさま。いつもアルは迷惑かけてばかりです。ごめんなさい.....」
「なにをおっしゃいます。まったく迷惑などとは考えておりません。そのようなお気遣いは無用です!」
私は力を込めてそう言った。まったく、この美しい人はなんと遠慮深くて謙虚な方なのだろう。この程度のことが「迷惑」なら、ジュリアス様など「迷惑」のかたまりだ。
人の気も知らず常にマイペースでがしがしとことをすすめるジュリアス様。元気で強くて乱暴でワガママで、そんなこの御方に仕えている私なのだ。ちょっとやそっとのことで、負担になど感じるはずが無い。
「あ、あの、ランフォードさまはクラヴィスさまとお休みになられるのですよね.....」
「ええ.....」
『不本意ですが』と後に続けそうになり、おかしな具合に私は言葉を切った。
「ご気分が優れないとのお言葉ですので、今夜は一応お側にお付きしていようかと思います」
間違っても、好きこのんでいっしょに寝るなどと考えられては困る。
「そう.....さようでございますね。.....でも、あの、アルは.....ひとりでは.....」
「なぁんだ、そなたはっ! ひとりで寝れないというのか! 子どもではあるまいに!」
「ごめんなさい.....でも、アル、知らないところで寝るのははじめてで.....」
ああ、まただ。またもや気遣いが足りなかった。どうして訴えられて初めて気づくのだろう。
アルテミュラーさんは、闇の館から出たことがないのだ。だいたい自分の部屋の外に出ることだって少ないのに。下界の、しかもこんなに小さな山小屋の一室で、ひとりきりで眠れと言われても不安でしかたがないのだろう。この人は見かけどおりの大人ではない。傷つきやすい子どもと同じなのだ。
「さもあろう!」
ジュリアス様が叫んだ。騒々しい。
「こんなこともあろうかと、私は愛用のクマを持参した。この準備の良さ! さすが光の守護聖ジュリアス。そなたのような不出来な子どもとはワケが違うのだ!」
どっちが子どもじゃあ!と、私は心の中でビシっと突っ込んだ。
「アルもお人形を連れてくればよかった」
「今さら言ってももう遅いわ!ふははは!」
「勝ち誇らないでください、ジュリアス様」
「なんだ、だいたいそなたがクラヴィスといっしょに寝るというから、私はこのような気遣いを.....」
「いっしょに寝るだなんておっしゃらないでください! 悲しい成り行きです。こんなことさえなければ、この私がアルテミュラーさんのお側におつきして差し上げるのに.....」
私は思い切り本音を口にした。さすがに疲れているらしい。
「ふん。まぁよい。アルテミュラー、私の部屋へ来い」
「え? はんりょさま?」
「ひとりでは眠れぬのだろう? 私が一緒に居てやると言っているのだ」
ジュリアス様がとてつもなく偉そうにおっしゃった。
「本当に? アル、うれしいです。はんりょさまはとてもおやさしいのですね」
「まぁ、あたりまえのことを言われても何とも思わぬがな。さ、行くぞ」
「はい!」
「今泣いた烏がもう笑っているのか。現金なやつだ」
ジュリアス様が言う。頼られるのはまんざらでもないらしい。
「はんりょさまは、お強くてやさしくて、お綺麗で.....アルなんかと仲良くしてくださってありがとうございます.....」
「おい、『なんか』などと言うな。おのれを卑下する輩は好かぬ」
「は、はい」
「わかればよい」
すました顔つきで、ジュリアス様はさっさと歩き出した。その後を小走りにアルテミュラーさんが追いかける。
取り残された気分を、ヒシヒシと感じながら、私はいたしかたなく部屋へ戻る。
寝室の前まで来て、足がすくんだ。
怖いわけではない。いや、ある意味怖いのか。
クラヴィス様はもうお休みだろうか。寝ていてくれるとありがたいのだけど.....
私はそっと、本当にそーっと扉を開いた。寝ているならば、ぜったいに起こしたくなかったのだ。
「遅かったな.....待ちくたびれたぞ」
天蓋つきの寝台から声が聞こえた。
なにか返事をすべきなのだろうが、すぐに声が出なかった。
クラヴィス様は肩口の大きく開いた、銀鼠色の夜着を身に付けていた。男性にしては細く白い指が掛け物を持ち上げている。シーツのすき間から素足が見え、私はあわてて視線を反らそうとした。しかし目はそこに釘付けになっている。
あらわになった両の足は、掛け物のシーツよりも白くまぶしかった。
紫水晶の双眸をもつ夜の魔王は、異世界の住人のようであった.....
「どうした.....なにを惚けている.....?」
低い笑声に、蕩けかけた思考が、徐々に形を取り戻した。そんな私の反応がひどく面白かったのか、クラヴィス様は飽きもせず、小さな笑みをこぼし続けていた。
「ランフォード.....?」
「あ、いえ、失礼しました」
私は極力事務的な口調で続けた。
「クラヴィス様。その夜着は首回りが開きすぎています。それではお寒いでしょう」
「おまえの言ったとおり、綿糸の長衣だぞ」
「.....それはよろしいのですが。あまり肌の露出が多いのは感心できません」
私は目線をよそに向けながら、クラヴィス様の首回りにヴェールをひっかけ、ぐるぐると巻いてしまった。「無粋な.....」とささやく闇の守護聖。だが、そんな独り言は黙殺だ。
「.....いつまでそうしているつもりだ。休まぬのか?」
「ええ。その.....やはり.....」
「なんだ.....?」
「いえ、ですから.....ちょっと.....」
「なんだ、はっきり言わぬか」
.....こんな格好をしたクラヴィス様と、ひとつ寝台で寝るのは.....さすがに気が引けるのだ。私が何を言わんとしているか、気づいておられよう。にもかかわらず、闇の守護聖は私の言葉を待った。
「クラヴィス様.....その、あの.....ここの寝台は大きいですね」
「ああ、そうだな。ありがたいことだ」
「ええ、まぁ.....ですが、やはり光の館、闇の館の、私室の寝台に比べると、見劣りがしてしまうのは、どうにも否めませんね」
私は言った。
「そうか.....まぁ、豪奢という意味合いにおいては、いたしかたないのではないか.....」
「え、ええ.....幅も少し狭いかな.....」
「あまり変わらぬと思うが」
「そ、そうですか? いえ、やはり狭いです。す、少しですが」
「ああ、気になるほどではない」
「華やかさが足りないと、小さく見えるのでしょうかね」
「寝台は横になれればいいのだ」
ぐはっ.....も、もう、引っ張れない。これ以上、問答を続けるわけにはいかない。本当にクラヴィス様に風邪をひかせることになってしまう。
私は清水の舞台から飛び降りる気合いで、闇の守護聖に向き直った。
「ランフォード.....?」
「し、失礼します、クラヴィス様。もう休みましょう!」
「うむ.....」
「し、失敬!」
ガバリと掛け布団をめくりあげると、私は疾風のごとく、闇の守護聖のとなりにもぐりこんだ。と、同時に、怒濤のように、寝台のがけっぷちぎりぎりまで身をよせる。
「じゃっ!おやすみなさい、クラヴィス様! 電気消しますっ!」
サイドテーブルに置いてある小さなランプを手に取り、ぶちりとばかりに電源を切る。一瞬であたりは漆黒の闇につつまれた。
「おい、ランフォード.....そんなに端によったら、夜中に落ちるのではないか?」
「御心配は無用です! 私は寝相がとてもいいのです!」
苦し紛れに、私はそうこたえた。
冷静さを欠いた私は、なにゆえクラヴィス様が、私が思いっきり端に寄っていることを知っているのか、考えを及ぼさなかった。
「ランフォード.....もう寝てしまうのか?」
「夜です、クラヴィス様ッ! 生き物は、夜、眠るものですっ!」
「夜行生物はどうなるのだ.....こうもりとか.....」
「人間は、夜、寝るんですッ!」
私は四角四面に答えた。その言葉はほとんど叫び声のように、寝室にこだました。
「.....あまり眠そうにも見えぬがな」
「いいえ、眠くて眠くてたまりません。おやすみなさい、クラヴィス様!」
『ああ、眠くなんてないわい! ついさっきまでは眠気を感じていたが、この部屋に入って、アンタと顔つきあわせたら、眠気なんざ吹っ飛んだわい!』
.....ああ、そう叫べたら、どんなに気が楽だろう。
「ぐーぐー」
「ランフォード?」
「ぐーぐーぐー」
「ランフォード? 眠ってしまったのか.....?」
「ぐーぐーぐー」
私は意地になって寝た振りを続けた。
「ランフォード.....そうか、寝つきの良いことだな.....ならば.....」
「ぐーぐーぐー」
「ならば.....今なら、私がなにをしても気づかないというわけだな.....」
「ぐ? ぐーぐーぐー.....」
.....今、恐ろしい言葉を聞いたような気がする。だが、くぐもっていて良く聞き取れなかったのも事実であった。寝た振りを気づかれるのもバツが悪い.....
「.....ふふ.....では私も眠るか.....湯上がりでずいぶんと時間が経ってしまった.....」
クラヴィス様は私に聞かせるようにそう言った。
「.....少し冷えたな.....だが、ちょうどいい.....」
(きゃっ!)
私は女の子のような悲鳴を上げた。ただし心の中で。
クラヴィス様の腕が、私を肩先をすべり、腹の方に回される。それも下の方だ。そして背に感じる彼の人の体温。
.....背後から抱きしめられている.....?
ああ、その時、意を決して起き上がり、食堂へ避難すべきであったのだろう。だが、私はそうしなかった。
どうせ、からかっているだけなのだろう、というのがひとつ。もうひとつは.....背に感じるクラヴィス様の体温が、私にとっても心地よかったということ。風呂から上がって、思ったより時間が経っていることに、いまさらながらに気がついた。そう、私の身体は、クラヴィス様以上に冷え冷えだったのだ。
「.....ん.....ここちよい.....」
ほぅ.....と満足げな深い吐息が背にかかった。ああよかった耳元でなくて。
.....別にこの人が嫌いなわけではないのだ。ただ.....どうにも自分たちと同じ次元に棲む人には感じられなくて.....持て余してしまうというのが正直なところ。
かすかに伝わる彼の吐息が規則的になる。
それは私をも夢の世界へ誘うようであった.....