The beginning of Autumn
〜コスタ・デル・ソル in ストライフ一家〜
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Interval 〜05〜
 ヤズー
 

 

 

 
 

 

 

 廊下を歩き出したとき、すぐにザーッ!という洗浄音が耳に入った。

 ヴィンセントは、シャワールームの手荒い場に、つっぷすようにしてしがみついていた。蒼白の頬が小刻みに震えているのが痛々しい。

 

「ヴィンセント? 大丈夫……?」

 驚かさないように小声で話しかけ、背を軽く撫でてやりながらとなりに立つ。

「……あ、ああ……すまない……失敬……した」

「ちょっと、失敬とかじゃないでしょ? 具合悪いなら、すぐに言ってくれなきゃ」

 早い息を継ぐ肩をささえ、静かな声でそう言ってやった。

「あ、ああ……」

「どう? まだ苦しい……」

「いや……もう大丈夫……だ」

「どうしたんだろう。食べ物のせいじゃないと思うんだけど。俺たちも同じもの、食べているからね」

「……わからない……なんとなく胃が重苦しいような気がするが……腹に物を入れたら、急に吐き気がして……」

 ボソボソとつぶやくヴィンセント。一生懸命説明しようとしているのだろうが、要領を得ない。

 

「ヴィンセント、ちょっとごめんね」

「……あ……」

 額にそっと手を当てる。

 ……少し……熱い気がする。平熱ではないだろう。

 ……37℃かもう少しあるか……微熱が出ているように感じる……ただの風邪ならいいのだが。

 性格的なものだろうけど、俺はいつもよくないことばかりを想定してしまう。なんといっても例の事件から一ヶ月あまりなのだ。そのときの怪我がようやく回復したばかりだというのに……それとも『アレ』が原因で、外傷ではなく……肉体の内部に変調を来したわけではなかろうか?

 いけない。俺は不安そうな顔をしては、ヴィンセントが怯えてしまう。

 

「さ、つかまって。吐き気が治まったなら、ベッドに横になっていた方がいい」

 敢えて笑みを浮かべ、そっと彼の手をとった。

「ヤズー、いいか? ヴィンセントの具合どう?」

 オドオドと兄さんとカダージュ、ロッズが覗きに来る。三人が縦に顔を並べて、覗き込んでいる様は、何だかひどく可愛らしく見えた。

「あ、ヴィンセント! どう、大丈夫!?」

「ああ……心配掛けてすまな……」

 呼吸をするのさえも苦しかろうに、顔を上げてそう答えるヴィンセント。

 普段、あれほどきちんと家事をこなしているのだから、具合の悪いときくらい甘えてくれればいいのに。

 

「今はまだ平気なはずないでしょ、兄さん。ヴィンセント、熱あるんだよ。物を食べると吐き気がするってことは、内臓から来てるんだと思う」

「ウソッ!ホント!? ど、どどどどどどーしよう、ヤズー!」

「ええッ! ヴィンセント、お腹痛いの? ゴハン、食べられないのッ?」

 一緒にくっついてきたカダージュが眉を顰めて声をあげる。この子もヴィンセントを母親のように慕っているのだ。

「どうして? あんなに美味しいゴハンなのに」

「バカロッズ! お腹痛いときは美味しいとかそーゆーこと関係ないだろ!」

「う、うるさいな、カダージュ!」

「ああ、ほら、ふたりともちょっとどいて」

 騒ぎ立てるふたりを制止し、俺はヴィンセントの肩を抱きかかえた。

 

「お、おい、まさかニンシン……」

「ニシンの佃煮にされたいの、兄さん。……こんなときに冗談言わないで」

「ごっ、ごめッ……」

「あ、あの……も、もう大丈夫だから……」

「なに言ってるの、無理しちゃダメだよ、ヴィンセント。まだ真っ青じゃない! ほら、兄さん、ぼやぼやしてないで、ヴィンセントを部屋に連れてって、すぐに寝かせてあげて。カダとロッズは、タオルと氷を用意してくれ」

 三人にそう頼むと、俺は急いで居間に戻った。

 

 

 

 

 ツカツカと、唯一、シャワールームへ駆けつけなかった男のところへ歩み寄る。 

「セフィロス、ちょっとセフィロス!」

「なんだ。騒々しい」

 定位置のソファに横になっているセフィロス。読みかけの新聞を放り出し、煩わしげにそう訊ねる。

 本当はヴィンセントの様子が気になっているはずなのに。まったく素直じゃない人だ。

「決まってんでしょ、ヴィンセントのこと!」

「だから何だ、もしかしてガキでも出来たのか? 銀髪だったらおおごとだな。クックックッ」

「ホンット、あなたと兄さんて似たもの同士だよね、お似合いだよ」

 ツケツケとそう言ってやった。

 さぞかし、ふたりが付き合っていた当時は、ラブラブのカップルだったのだろう。ふたりとも絶倫系だし、閨事に対しては飽くなき探求心があるよう見受けられる。

 

「はぁ? オレをあのクソガキと一緒にするな、ボケが!」

 いかにも心外というように、セフィロスが抗議してきた。

「ああ、もう、こんな悠長な話してる場合じゃないんだよね、あなたにお願いがあるんだよ!」

「……おまえの態度はまったくもって『お願い』じゃないな」

「なんとでも! ねぇ、セフィロス、お医者さん、連れてきて! この前の人ッ!」

 俺はそう頼んだ。

 この前……そう一ヶ月前、半死半生のヴィンセントとセフィロスを看てくれた町医者のことだ。

 負傷していたとはいうものの、意識ははっきりしていたセフィロスに命じられて、兄さんが呼びに行ったのだ。セフィロスとは、彼のインフルエンザ騒動のときに面識ができていたらしい。もちろん、ヴィンセントは人事不省に陥っていたから、会うとしたら今回が初対面になるのだろう。

 

「はぁ? またあいつか?」

 不平たらしくセフィロスが言った。

「そうだよ、あの人なら事情知ってるし。絶対に口外するようなキャラじゃないしね」

「おまえが呼びに行きゃいいだろうが」

「俺はヴィンセントの側から離れられないよ。医者が来るまでまともに看病できるの俺だけでしょ?」

「……チッ。そんなに様子が悪いのか?」

「うん、真っ青だし、吐き気は内臓から来ていると思う。もともと食の細い人だし、悪化すると厄介だよ」

 やや大げさに、俺は病状を伝えたのであった。

「おい……ただの吐き気だけなのか? 他に異変はないんだろうな」

「だから、俺じゃそこまでわからないよ」

 やや力無くそう答えた。鋭敏なセフィロスも、この前の事件とヴィンセントの不調を結びつけて考えているのだろう。

 ひとつ大きく溜め息をつくと、彼は立ち上がった。

 

「……仕方がない。この貸しは高くつくぞ、イロケムシ」

「……あなたねぇ、この貸しって……まぁ、いいや。とりあえず往診お願いしてね」

 ブツブツと文句をいいながらも、車のキーをとり、ズカズカと玄関に行くセフィロス。

 ……医師には気の毒だが、大切なヴィンセントのことだ。大事がなければよいのだが、念には念を入れたかった。