白 昼 夢<最終回>
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 彼はとても紳士的な男だ。皆が褒めそやす、俺や柚木さんなどより、遙かに土浦のほうが、気遣いのできる優しい人間なんだと思う。

 ……最近、うちのクラスを含め、音楽科の女子生徒が、よく土浦の事を話題にしている。別に聞き耳を立てているわけではないのだが、クラスや練習室で話していれば、自然に耳に入ってくるというものだ。

 もちろん、彼の名が認知されたのは、今回のコンクール参加者だということが理由だろう。しかも堂々三位という好成績を残している。

 ぶっきらぼうで無愛想な男だが、本当は人の気持ちを気遣える、だれよりもやさしい人間だということは、他ならぬ俺自身がよく知っている。

 対人関係に疎い俺が、そう気づいているのだから、鋭敏な女生徒はすぐさま彼の本質を見抜いてしまうのだろう。そして今の人気につながっているのだ。音楽科でさえ、そうなのだから、きっと普通科の女子にもさぞかし好意を持たれているのだろうと推察される。 もっとも彼自身、あまりそういったことに興味があるようには見えないが。

 

「おい、どうした、黙り込んで」

「いや……なんでもない」

「まだ気分悪かったか? もうちょい休んどけば良かったかな」

「大丈夫だと言ってるのに。それよりも、足の怪我はどうなんだ。梅田先生は心配無いと言っていたが、治療を完遂できなかった人間としては気になる」

 我ながら堅苦しいしゃべり方だと思うのだが、どうにも直らないのだ。

「俺のは全然たいしたことねぇ。こんなの部活やってりゃ日常茶飯事だ」

「そういえば、梅田先生が君のことを保健室の常連と言っていた」

「えぇ? そうでもないと思うけどな……ああ、でもまぁ、ウチの部活の連中は、世話になる機会は多いかな」

 土浦のくせなのか、彼は何か思い出したり、間が持てなくなったりすると、鼻の頭をカリカリと掻くのだ。

「杞憂だとは思うし、よけいなお世話だと言われるだろうが……」

「はいはい、わかってるよ。怪我には気を付けろだろ? 突き指したらピアノ弾けねーしな」

「俺は君のピアノが好きなんだ。だから気をつけてくれ」

「……プッ」

「土浦?」

「なんだか、それじゃ、おまえのために気を付けろって言われてるみたいだぜ」

「なっ……そうではなくて、俺も、その、周りの人たちも君の音楽を好ましく思っているし、君自身だってこれから先……」

「悪い悪い。冗談だよ、ムキになんなよ……その、サンキュ、月森」

 少し上にある、彼の顔を見上げると、カリカリ……。また掻いている。

 

 俺の家は、歩いて二十分程度だ。雨降りの日などは、いささか遠く感じるが、満員電車の人混みが苦手なので、実際歩ける距離で助かっている。

 土浦と会話しながら、つらつら歩いていると、あっという間に自宅に到着してしまった。ついさっき、学校を出てきたばかりと思っていたのに。

 そういえば、以前、似たような機会があった。もっともそのときは真夜中であったが。あのときも、自宅までの距離がなんだかひどく短く感じられたものだ。

 

「よし、ついたな。ほれ、鞄」

 土浦はすでに場所を覚えてしまったのだろう。俺の案内も必要とせず、最短距離で到着した。 

「あ、ああ、すまない。本当に……あ、あの、土浦、よければ寄って行かないか? きちんと礼もしたいし……」

「バカ言ってんな。おまえ、今日、倒れたんだぞ? 梅やんも早く休めって言ってただろ」

「でも……」

「でもじゃねぇ。じゃあな」

 あっさりとそう言い放つと、土浦は後ろ向きでひょいと手をあげた。彼はいつもこうだ。悪気はないのだろうが、ずいぶんと素っ気なく感じてしまう。

 一年の志水くんや、クラブの後輩には、物言いもやさしいのに、あまりに冷ややかな態度をとられると、嫌われているのではないかと不安になってくる。

 もっとも、同学年であり、これまで親しく語らったことなどない間柄なのだから、仕方がないと言われてしまえばそのとおりなのだが。

 

 そんなことを考えていると、また目の前が暗くなってくる。

 最近よくこうなる。胸の奥の固まりが、時折ざわめくように熱を持つ。

 

 ……その次の瞬間……

 なぜか、土浦が目の前に立っていた。ついさっき立ち去ったばかりなのに。

 荷物を持っていない方の腕を、ぐいと引き寄せられる。

「……あ」

「おまえな、俺の言うこと聞いてたか? ボケッと突っ立ってんじゃねぇよ。ほれ、風が冷たくなってきただろう。はやく家に入れ」

 ぐんぐん引っ張っていかれる。

 呼び鈴を鳴らし、出てきた家人に俺は突き出される格好となった。

 

「あ、スンマッセン。俺、友人の土浦っていいます。コイツ、ちょっと具合悪いみたいなんで、後よろしくお願いします」

 一気にそう言うと、ペコっと勢いよくお辞儀をした。

 うちのハウスキーパーの女性が、恐縮して何度も礼をいうのに、全然気にする必要はないと応え、さっさと扉を閉めて出ていってしまった。

 

 情けないことに、その間、俺は為されるがままに立ちつくしていただけだ。

 土浦が戻ってきてくれて驚いたところから、感覚が吹っ飛んでしまったようだ。

 

 なんだか、泣きたくなるような、切ない思いがこみ上げてくる。 

 

 ああ……いったいどうしたのだろう?

 俺は彼のことが好きなのだろうか。本当に好きになってしまっているのだろうか。

 

 柚木さんが、俺に対して口にするような、そういう意味合いの「好き」になってしまっているのだろうか?

 

 俺は、彼のことを……どう思っているのだろう?

 

 彼が引き返してきてくれたと知ったとき、なぜ呆然と立ちつくしてしまったのだろう。ふぬけのように、彼の顔を見ていることしかできなかったのは、何故なのだろう? 

 そして、そして……たった今……この出来事が……

 

 『なぜ、こんなにもうれしいのだろう?』

 

 

「坊っちゃま、さぁ、こちらで一休みなさって。……坊っちゃま? だいじょうぶですか? あらあら、どうしましょう。医師をお呼びしましょうか?」

 せわしなく、家人がいう。

 なにをそんなに慌てているのか。俺は普通に立っているではないか。

 

 そう言おうとしたときだった。

 水滴が頬から顎を伝わり、ぽとんと靴の上に落ちた。

 

 自分が泣いていることにさえ、俺は気がつかなかった。

 そして、なぜ、涙が流れるのかさえ、俺にはわからなかった。

 

 その理由を、知ってしまうのが怖かったのだと思う。

 

  

 学内コンクールも終わり、すぐに夏がやってくる。

 長い夏休みは、自身を見つめ直すのに、良い機会になるのかもしれない。

 

 そして、いずれ、俺の中の気持ちに、決着がつく時がくるのだろうか。

 

 明日は金曜日。

 また、いつものように学校に行く。

 

 ……なにひとつ、昨日までと変わらぬ様子で、学校に行くんだ……