真夏の夜の夢<44>
最終回 
 
 土浦 梁太郎
 

 

 

「いや、もうオトコだったよな、土浦。マジで」

「本当にすごかったです、土浦先輩。あんなひどい濁流に何の躊躇もなく飛び込むなんて……」

「まったくだね。君の友愛にはつくづく感心するよ」

 火原先輩、志水、柚木さんの順で、口々に誉められる。

「いや、別にそんなたいしたことじゃ……」

「たいしたことだよ、土浦。絶対に大丈夫だと信じていたけど……でも、心のどこかで万一のことも考えたぜ」

「金やん。縁起でもねぇこというなよ」

 あまり眠っていない様子の教師の金澤センセにそう言い返す。今回の一件は、はっきりいって誰のせいでもない。

 まさか浅間山が噴火するなんてとんでもない出来事が一体誰に予見できよう。

 

「女の子ふたりにも連絡済だ。冬海なんか電話口で泣き出しちまってよ」

「あんたらはあの後どうしたんだ?」

 気になっていたことを訊ねる。一晩ぐっすりと眠って、俺にも大分余裕が戻っていた。

「いや、対岸に渡りついたものの、女の子たちが半狂乱でな。おまえらを捜しに行くって聞かなくてよ。だが、一応教師判断として、とにかく残りの連中を麓に戻してから、捜索隊を出した。ホント、スマンかった」

 金やんが片手を拝むような形で差し出し、頭を下げた。

「何謝ってんだよ。当然の判断だろ」

「そう言ってもらえると少しは胸のつかえが取れるぜ。梅田か俺か、どっちか残って捜そうとも考えたんだが」

「それこそ命取りだろ。実際、アンタらが早々に麓から捜索隊出してくれたおかげで俺たちは助かったんだから」

「まーな、結果としてはな。……正直、月森を助けようとして飛び込んだのがおまえじゃなかったら、わずかな逡巡だけで山を下る決心はできなかったよ」

 ハァとため息を吐き、金やんがつぶやいた。

 大分疲労の色が濃い。

「金やん。俺はもう大丈夫なんだから、あっちで寝てこいよ。アンタが起きてても別にすることないだろ。柚木さんの話じゃ、今回の後始末は吉羅理事長が上手くやってくれてるってコトらしいし」

「ったくオメーは生徒の分際で教師を気遣うなよな。……ま、確かに、俺にやれることはなさそうだな。後のことは梅田に任せて一眠りしてくるワ」

 そういうと、金やんはスツールから腰を上げた。

 

「あ、金やん、月森のほうはどんな具合だ?」

「あぁ、怪我はほとんどないな。擦り傷程度だが、多分疲れが出たんだろう。ちょっと熱が出てて、今、梅田が付いてる」

「そうか。熱……高いのか?」

 そう訊ねた俺に、すぐに柚木さんが返事をした。

「大丈夫だよ。さっき見舞いに行ってきたけどね。ぐっすり眠っていたよ」

「そッスか…… まぁ、丸三日けっこう無理させたからな」

「確かにそうだろうけどね。無理をしたのは土浦くんも同じだよ。きちんと休養をとるべきだ」

 サタンにしてはやさしげな物言いでそういうと、彼も席を外した。

 そんなこんなで、皆がいなくなると、ひっそりと病室が静まりかえる。

 

 麓にあるもうひとつの総合病院は、怪我人の対応で大わらわだと聞いたが、こちらの個人医院のほうはほとんど星奏学園の貸し切り状態といった風だ。

 

 ひとりになって、もう一眠りしようかと思ったが、昨夜から眠りっぱなしなのだ。人間そうそう連続して寝られるものではない。

 そっと病室を抜け出し、廊下をすすむ。

 

 月森の運ばれた部屋は、確か斜め前の病室だったはずだ。

 

 

 

 

 

 

 ……一瞬、ノックをすべきか否かと迷ったが、失礼してドアノブに手を掛けた。

 さっき、柚木さんが、月森は眠っていると言っていたからだ。

 梅田校医が付いているはずだから、何も問題ないと思うのだが、救助されたときの月森の様子を思い出すと、なんとなく気になったからだ。

 

 病院に収監されて早々、家政婦さんに、「手間を掛けて申し訳ない」などという他人行儀な物言いをしていた。

 両親のどちらも来ていないことに、不満も悲しみも見せず、ひどく淡々と医師の指示に従う姿が痛々しくて俺のほうがつらかった。

 ……月森が素直に感情を表せないのは、何も彼のせいではないのだ。

 彼は周囲の人々への配慮から、『そうするしかなかった』のだ。

 

 そっとドアノブを押すと、それはキィと小さな音を立ててゆっくりと開いた。

 校医の梅田が、簡素なパイプ椅子で船を漕いでいる。

  梅やんは総合病院での治療にも手を貸していると聞く。きっと大分疲れているのだろう。

 

(梅やん…… おい、梅田先生ってば……!)

 小声で名を呼び肩を揺すると、銀縁メガネがずるりと落ちそうになった。

(うおっと…… な、なんだ、つ、土浦……?)

(おう。梅やん、向こうのベッドで寝てこいよ。月森のことは俺が見てるからさ)

(……相変わらず回復の早ェヤツ……)

 サッカー部レギュラーで、保健室の常連の俺がそういうと、梅田はハァと苦笑混じりのため息を吐いた。

(休めるときに休んどけよ。俺は昨日から寝っぱなしでヒマなんだよ)

 そういうと、梅田校医はあっさりと席を俺に譲った。

(んじゃ、そうさせてもらうわ。……あぁ、言っておくけど、おまえ、左足の消毒忘れんなよ)

(わかってるよ。つーか、もう全然痛くないけど)

 擦り傷切り傷は数え切れないほどこさえたが、川渡しをしたときに負ったふくらはぎの怪我だけは少々深かったようだ。山歩きをした三日間、タオルで縛っておいたがそれ以上出血することもなく気にしていなかった。

 

 俺の返事に、梅田はひらひらと手を振ってさっさと部屋を出て行った。ヤツのこういうあっさりとした態度は好きだ。

 

 パイプ椅子を引き寄せ、ベッドサイドに陣取る。

 ノリの利いた真っ白なシーツの上に、月森が横たわっている。

 スースーという規則的な吐息を聞いて、ホッと安心する。熱が出たと聞いたが、柚木さんのいうとおり、それほどひどい様子ではなさそうだ。

 白い顔の頬の部分だけが、ほんの少し上気しているのが、わずかに発熱しているのだと気付かされる程度であった。

 

 額に乗せてあった手布を取り上げ、まだ氷の浮いているボウルに浸す。

 固く絞ったそれを、元通りに乗せてやると、ほぅっという満足そうな吐息が聞こえた。

 

 俺はしばらくの間、神経質に整った、妙にキレイな顔を眺めていた。

 

(ステージの上のおまえは、あんなに大きくて力強く見えるのにな……)

 ……いいさ、まわりの連中に気を気を遣うのが、ほとんどおまえの習性になっちまってるなら仕方がないことなのかもしれない。

 だが、何も皆に対して、等しく同じようにする必要はないだろう。

 少なくとも俺や、一緒にコンクールに参加した仲間には、気を張る必要はないじゃないか。

 ましてやこんな死線を一緒にかいくぐってきたんだぜ?

 

『おまえがほんの少し素直に笑うだけで、幸せになれるヤツはたくさんいる』

 これは本当のことだ。

 ……俺もその中のひとりだよ。

 

 肩から少しずれた毛布を直し、投げ出された腕を収める。

 

 ……なんとなく放っておけないんだよなァ……

 

 やれやれと頬杖をつきながら、今はすこやかに眠り続ける月森の顔を眺めていた。

 そう、他にやることもないので、飽きるまで見ていようかという心持ちで……