ああ、無常!
<46>〜<最終回>
 
 
 
 

 

「お二方、準備はよろしいですか?」

 陸遜が声を掛ける。

「ええ、もちろん! カンペキですよ! さぁさぁ、はりきって参りましょう!皆さま!」

 元気いっぱい目一杯の張コウである。非常に単純な男だ。

「張コウ将軍、ず、ずいぶんと気合いが入っておりますね.....あの.....いきなり.....」

「もちろんですよ、陸伯言殿ッ! ちゃちゃっと用事を済ませて、夏侯惇将軍をお救いし、元の世界に戻るんですよ。さーっ!急がないと!」

「あ、あの、そんなに慌てられると危ないですよ.....」

 陸遜の制止の言葉も聞かず、生まれかわったかのような勢いで、張コウは岩壁づたいに歩き始めた。思わず額を押さえる司馬懿であったが、陸遜はそれ以上、何も言わなかった。

 周瑜くんが呂蒙の手を掴んで、なにやらぐずっているらしい。そちらに注意を向けているのだろう。

 司馬懿も気を取り直して歩みをすすめる。一歩一歩の足取りが、とても軽く感じる。我ながら現金なものだと思わざるを得なかった。

 認めるのに勇気がいるが、むしろ生き返った心地なのは司馬懿の方に他ならなかった。相変わらず身体は、鉛のように重かったが、疲労感はない。張コウと再会する前の調子とは、雲泥の差だ。

「司馬懿殿、少しは疲れがとれましたか?」

 そう話しかけてきたのは陸遜だった。

「気を使わせて済まぬな、陸伯言。少し身体を鍛えるようにしよう」

 となりに並んだ陸遜に、司馬懿は独り言のようにつぶやいた。

「いえ、私もホッとしましたよ。周大都督も張コウ将軍もご無事で。信じてはいましたが、やはりご無事なお姿を見るまでは、安心できませんでしたので」

「そうか.....そうだな」

「あああーッ!」

 ふたりの会話を遮ったのは、張コウのとんでもない叫び声であった。

「なんなのだ、騒々しい」

 と顔をしかめる司馬懿。

「張コウ将軍、いかがなさいましたか?」

 陸遜が、身軽にタッと走り出す。

「司馬懿殿! 陸伯言殿! ここっ! この裏ですよ! 泉があります!.....ここだったんですよ、我らの目的の場所は!」

 張コウの言葉に皆が走りだす。ここ数日、ずっと歩きづくめに歩いて、探し回った場所に、ついにたどり着いたというのだろうか。

 張コウの言葉は、ほとんど確信めいていた。

「陸.....伯言.....!」

「司馬懿殿.....!」

 ふたりの軍師は、どちらからともなく互いに顔を見合わせた。

 ガキガキと張りだした鉛色の岩肌。そのほんのすきま.....人ひとりようやく通れる程度のせまい間隙から、真珠色の光が漏れている。

「.....泉.....? 湖が輝いています.....」

 張コウがつぶやいた。

「呂蒙殿! 周大都督! お早く!」

 陸遜がせかす。

「.....桃源郷だな.....」

 さすがの司馬懿も感歎の溜息を漏らした。

「ええ、そうですね。でもそんなこと、どうでもいいんですよ! さっさと用事を済ませなくてはね! えーと、蓮ッ蓮ッ! 女神ーっ! どこですっ!」

「.....張コウ将軍.....」

「さぁさぁ、みなさん、ボーッと突っ立ってないで! 蓮と女神を捜すんですよ〜ッ! 急いで、急いでッ!」

 パンパンと手をたたく張コウ。幻想的な異界の風情も、即物的な張コウの心を蕩かすことは出来なかったようだ。

「.....せわしないことですね」

 その女の声は、一面に響いた。もちろん大きな声ではないが、彼女の吐息さえもが岩山に共鳴して、音楽のように聞こえてくる。

「..........ッ!」

 声にならない声が漏れる。皆、いっせいに視線を向ける。

「.....ごきげんよう。よくたどりつきましたね」

 輝く桃源郷の泉.....その真ん中に、足場のつながった小島が浮んでいる。水の上には、無数の蓮の華が漂っており、その中でもひときわ大きなものが、小島の周囲を取り囲むように咲き誇っていた。

 そこにひとりの女人が立っている。

 肌は絖のようにつややかで、背を覆う髪を高く結い上げている。黄金の櫛が黒髪を飾り、銀糸と新緑の糸で、綉をほどこされた白い長衣が眩かった。

「.....お主は.....」

 司馬懿はつぶやいた。その場にいる誰もが、その女人に見覚えがあった。

「女堝.....と申されたな。まさかお主が.....」

「あああーッ」

 司馬懿が言葉を終えないうちに、周瑜くんが大声をあげた。

「シローッ! シロっ! シロ〜〜ッ!」

 女堝の足もとにじゃれつく白描。それは確かにあの白ネコであったのだ。

「シローっ!」

 無防備にも、タカタカと走り出す、周瑜くん。あわてて呂蒙と陸遜がその後を追う。

「シロ〜〜〜!」

 周瑜くんは、女堝.....女神のところまでやってくると、彼女には見向きもせずに、白描を抱き上げた。ガラス玉のような、琥珀色の瞳が周瑜くんを見つめる。

「にゃあ〜ん」

「シロッ!シロッ! 生きてたんだね! ヘビにのみ込まれて死んじゃったと思ってたのに.....よかった.....よかったよぉ〜〜! うえぇぇん!」

「ちょっとお待ち、周公瑾。まさか、本当にあの猫なのですか? 別の.....」

「シロだもん! ぜったい、シロなんだもん! 張コウだって、ずっといっしょにいたでしょ? わかんないの?」

「.....いえ、私にもあの猫に見えますが.....だってあの子は、私たちの目の前で大蠎蛇に.....」

「シロはシロだもん! シロはいい子だったから、きっと神様が助けてくれたんだよッ」

 周瑜くんは、ぎゅぎゅっと白描を抱きしめ、頬をこすりつけた。

「ほほほ.....」

 女堝が高く笑った。ハッとして顔をあげる張コウ。

「そーでしたッ! こうしている場合ではありませんッ! 確か、女堝っていいましたね? あんたが崑崙の女神なんですか? そうなんですねっ? そうなんでしょうっ!」

「いい勘ですわね、黒髪の美しい将軍様」

「いちいちホントのことを言っていただいても、嬉しくも何ともありませんね。別にあなたの正体を知ったところで怒るつもりはありませんよ。むしろ話しが早そうでありがたい」

「シロ〜シロ〜」

「下がっていなさい、周公瑾。おまえがいると、緊張感がなくなります」

「なによ〜、張コウだって、シロに逢えて嬉しいくせに〜」

「おだまり。今はそれどころじゃありません!」

 イライラと張コウが叫ぶ。

 私的事情で、一刻も早い夏侯惇の救出と、大円団をめざして突っ走っているのである。そんな彼をいなすのは慎重な軍師さんの役目であった。

「張コウ将軍、落ち着かれよ。.....子細はよい。貴女が崑崙の女仙、伏犠の申していた女神に相違ないのだな」

 ゆっくりと司馬懿が確認した。ひと言ひと言を区切って、言葉にする。

「ええ、左様です」

 すっと両の手を持ち上げて、女堝が微笑した。

「さらに問う。ならば我らが、同胞の夏侯惇将軍を救うために、崑崙山に赴いたのはよくよくご存知であろう」

「お言葉の通りです」

 女堝.....崑崙の女神は笑みを含んだまま、丁寧に応えた。

「ならばよい。さっそく蓮の花弁とやらを一枚いただこうか。しぼった花汁を含ませれば、目覚めるのであったな」

「ええ。ここに咲く花ならば、すべて、その役目を為すことでしょう」

「あいわかった。時に崑崙の女神。夏侯惇将軍の身柄の安全は確保されていると考えてよろしいのか」

 いたって冷静に司馬懿が問うた。そのとなりには、真剣なまなざしの陸遜が立っている。じっと女堝を見つめ、一瞬たりとも目を離さない。

「ご安心を。もとの屋敷にて、我が眷族がお守り申し上げています」

 彼女は夏侯惇のことを気に入っていると言っていたのだ。司馬懿はひとつ頷いた。

「.....その言葉を信じよう。なにゆえ、このようなくだらぬ茶番を仕組んだのかは知らぬがな」

 司馬懿の物言いに、はじめて毒が含まれた。女堝は、微かに口唇を歪めただけで、それには応えなかった。

「.....おおかた、伏犠もこのあたりに居るのであろう。どうでもよいが時間が無い。花弁をもらおうか」

「.....お怒りですか? 聡明な軍師将軍.....」

「別に。最初から、神などと名乗る輩を信用してはおらぬし、期待してもおらぬ。それが真実か否かはともかくな」

 平坦な口調で司馬懿は言い捨てた。そのとき、周瑜くんのふところに抱かれていた白猫が、にゃあとひと声鳴いて、地に下り立った。

「シロ? どしたの.....」

 周瑜くんが言いかけた。その言葉が不意に途切れる。白猫の身体が、淡い黄金色に輝いている。司馬懿も張コウも女堝.....崑崙の女神から、視線を外して猫を見遣る。

 金色の輝きが増す。司馬懿は思わず額に手をかざした。

「あっ.....」

 周瑜くんが子供のような声を上げた。

 猫に異変が起こったのだ。発光する小さな身体の輪郭が崩れてゆく。きらきらとまばゆい光りを放ちながら「猫」と呼ばれていた、そのモノは、いつしか人の形をとりはじめていた。

 背後の張コウが息を呑む。司馬懿も知らずのうちに呼吸を止めていた。

「伏犠.....」

 司馬懿はつぶやいた。おのれの口からこぼれ落ちた言葉に、ふたたび驚愕を覚える。何かを言おうと、もう一度口を開いたとき、怒濤のごとく伏犠に詰め寄った人物がいた。張コウである。

「ちょ.....ちょっと、アンタ! どーいうことですっ! 何のつもりなのですかッ? 神サマのくせに猫なんぞに化けてッ! 起居をともにしたあの数日間.....ああ、身の毛がよだちますッ! なんていやらしい男なんですかッ!」

 まさしく獣の咆哮といった勢いで迫られ、さすがの神サマも一歩後退した。

「いや.....そういうつもりでは.....」

「おだまり、伏犠ッ! この不埒な男めっ!猫のふりをして、この私が水浴びしているのを鑑賞していたんですね! 最低ッ! ハレンチっ!」

「いや、ぜんぜん.....」

「まだ言い逃れをしますかッ! ああ、イヤらしいッ! 変態っ!」

 張コウは人さし指を突きつけ避難する。崑崙の女神殿も呆気にとられて、伏犠を庇うことすら忘れている。放っておけばいつまででも続きそうに見え、さすがに司馬懿は割って入った。ただしかなり弱気に。

「あー.....張コウ将軍.....少し落ち着かれよ.....」

「うわぁん! 司馬懿殿〜ッ! あの卑賎な男に穢されてしまいましたーッ! もうおムコにいけな〜いっ!」

「いや.....それはともかく.....」

「憐れな美しい私を、司馬懿殿がもらってくださ〜いッ!」

「いや、だから、落ち着けと言っておるのだ! 今はそれどころではなかろう!」

 そう言い聞かせながらも、白描に頬を舐められた記憶を思い起こし、人知れずに不快な気分に陥る司馬懿であった.....

「.....悪ふざけが過ぎるな、神さま」

 吐息とともに、司馬懿はつぶやいた。

「その呼び方はやめてくれ。まだ呼び捨ての方がいい」

「要求のできる立場ではないと思うが」

「司馬懿よ。怒るな、とは言わぬが、別にからかうつもりでしたことではない。事実、おまえたちは救われたであろう?」

 伏犠が言った。その言葉は決して得意げではなかったが、司馬懿は黙したまま、頷きもしなかった。そして、「話しをもどそう」と言った。

 実際、怒りがおさまったわけではなかったが、無益なやり取りを続けるのは、軍師さんのすべきことではなかったのだ。一呼吸おいて、司馬懿はくり返した。

「話しを戻すぞ、伏犠。.....無駄にする時間はないのだ。夏侯惇のところへ行かねばならぬ。必要なものをいただきた.....」

「うえ〜〜〜〜んッ!」

 いかずちのごとく、司馬懿の言葉を遮ったのは、周瑜くんの泣き声であった。意図したわけではなかろうが、絶妙のタイミングと言わざるを得ない。司馬懿は思わず前のめりにつんのめった。

「うえええぇぇん! うわぁぁぁん!」

「周大都督! いかがなされた!」と、呂蒙。

「うわぁぁん! うえぇぇん! シロが.....シロが〜〜ッ!」

「周大都督! 泣くと目が腫れてしまいますぞ! おのどが渇いてしまいますぞ〜〜!」

「うえぇぇぇん!りょも〜! りょも〜〜! シロが.....シロが.....ふっきになっちゃったよぉ〜〜! 周瑜くんのシロが〜〜ッ!」

 火のついたように泣き叫ぶ周瑜くんであった。そのうち立っていることもできなくなったのか、その場にしゃがみこんで泣きじゃくる。

「シロ〜ッ! シロ〜ッ! うえぇぇん!」

「い、いや.....猫が私なのではなく、あくまでもこの私が猫に.....」

「うえぇぇん! うわぁあぁん!」

 伏犠が必死に取りなそうとするが、周瑜くんは耳を貸さない。これまでのいかなるときよりも困惑している伏犠を、女堝がおもしろそうに眺めている。

「シロ〜〜、シロ〜〜。うえぇぇん! せっかく.....せっかく逢えたのに.....シロぉ〜〜」

「いや.....だから.....あの.....周瑜.....どの.....」

 おろおろと語りかける伏犠である。強気な人間に対しては、強硬に出られても、泣いている美青年には弱腰の神様であった。

「うえぇぇん! うわぁあぁん!」

「しゅ.....周瑜.....」

「.....おぬしがくだらぬことをするからだぞ、伏犠」

 冷ややかに司馬懿はささやいた。

「.....おまえたちを影から守るつもりで付いていったのだ。人身でいるわけにはいかなかったゆえ、あえてあのような.....」

「うえぇぇん! うわぁあぁん!」

「.....なにも白猫に化ける必要はなかろう」

「し、司馬懿。いや.....他意はなく.....猫ならば不自然じゃないし、簡単に同行できると.....」

「うえぇぇん! うわぁあぁん!」

 周瑜くんがひときわ大きな声で泣きだす。

「.....ここまで気に入られるとは思わなかったのだ.....すまぬ」

「うえぇぇぇ〜ッ! シロ〜!シロ〜ッ!」

 大人げないどころか、子どもでもここまでハナバナしく泣くことはなかろう。周瑜くんは、呂蒙に頭を撫でられ、陸遜に鼻水を拭いてもらいながらも、いっこうに泣きやむ気配はなかった。

「し、司馬懿.....」

 苦し紛れに伏犠が言う。

「なんだ?」

「こういう場面は.....苦手なのだ。というか、どうしていいかわからない」

「そうだろうな。苦労知らずの神様ならば」

 素っ気無く、司馬懿は言い捨てた。

「そういう物言いをするな。.....なんとかしろ」

「命令するな」

「.....なんとかしてくれ」

「.....言われた通りにするか?」

 乱れた黒髪を撫で付けつつ、司馬懿はささやいた。

「聞こう」

「簡単だ。事が済めば、我らは元の世界に戻る。協力しろ」

「ほほほほ.....あなたの負けね、伏犠」

 そう言ったのは崑崙の女神.....女堝であった。

「おさすがですわ、冷たい目をした聡明な軍師殿。すぐさま、眠った将軍のところへお戻りになる方法をお教えしますわ」

 そう続ける女堝は、心底楽しげであった。

「うえぇぇん! うえぇぇん!」

「はやくなんとかしろ、司馬懿!」

 そわそわと伏犠が言った。困惑する神様は、ただ人と変わらぬように見える。

「わかっている」

 どうでもよさそうにそう応じると、司馬懿は崑崙の女神・女堝に向き直った。

「さぁ、たのむ。そう長く人界を離れてるわけにもいかぬでな」

「待ってる御方がおられますのね?」

「別に。ただ、やらねばならぬことがたまっているだけだ」

「軍師将軍らしいおっしゃりよう.....」

 面白そうな女堝の物言いを無視し、司馬懿は「急いでくれ」とだけくりかえした。

「よろしゅうございます。蓮の花は採られましたわね」

「ああ、ある」

「.....まだ札をお持ち?」

「.....? ああ、伏犠の札ならば、あと一枚」

 そういって、司馬懿は胸元から黄色の紙をとりだしてみせた。得たりというようにうなずくと、女堝は細く白い手を天にかざした。

「うえぇぇん! うえぇぇん!」

 呂蒙がかたわらによりそって、必死になぐさめるが、未だ周瑜くんは泣きやまない。それを横目でちらちら見遣りながら、伏犠がせかす。

「おい、司馬懿、はやく何とか.....」

「わかったと言っている。.....伏犠、猫に化けろ」

「なんだと?」

「猫に化けろと言っている。やすいことなのだろう」

「.....それはそうだが」

「別れの時は近かろう。どうせ別れるのなら、最期くらい一番好いてくれた人間の、気持ちのとおりにしてやったらどうかと言っているのだ」

 めんどうくさそうに司馬懿は言った。わざとそういった口調をしているわけではない。彼は興味の無い人間の心の機微を読み取るのが、心底わずらわしいのだ。

「.....わかった」

 苦笑して伏犠が頷いた。そしてあらためて、司馬懿の冷ややかな横顔を見つめる。過酷な長旅で、冠もとれ、黒髪を背にほうりだしたままの司馬懿。頬や額にも土汚れがこびりついている。だが、司馬懿の白い面は常と変わらず冷ややかで、固くて、そして美しかった。

「.....司馬懿」

「まだ何かあるのか?」

「.....いや。人界にもおまえのような男がいるのだな」

「..........?」

 いぶかしげに、わずらわしそうに、眉をひそめる。彼のくせなのだろう。

「こういう形ではなく.....もっと.....」

「いらいらする。なにがいいたい?」

 朴念仁の軍師殿の前に、嫉妬に頬を染めた張コウが割って入ってきた。

「おだまり、伏犠。この変態神様! 私の大切な司馬懿殿に色目を使うんじゃありませんよッ!」

「.....よせ、張コウ将軍。そのようなこと」

「私の後ろにさがっててください、司馬懿殿! もー、あなたって人は、おかしなところで無防備なんですからッ! しっしっ!早く猫にでもなんでもなっておしまい、伏犠!」

 伏犠はそれには応えず、ひょいと両の手をあげてかわした。その、隆たる肉体から、ふたたび淡い光りがあふれ出たかと思うと、彼はふたたび愛らしい白描に変化した。

「おおおーッ! 周大都督! ほらほら猫さんですぞ〜」

 状況をわかっているのか、否か。それともそんなことはどうでもいいのか、呂蒙は野太い指で、ひょいと猫をつまみあげ、周瑜くんに差し出した。

「シロ〜、シロ〜」

 単純な周瑜くんである。子猫に、ぐりぐりと顔をおしつけ、ほおずりした。猫が、にゃあんとくすぐったそうに鳴いた。

 

 .....ドドドド.....

 低い地鳴りのような音に、最初に気付いたのは誰であったろうか。

「.....な、なんです.....あの音.....」

 陸遜がつぶやいた。胸元にぎゅっと手を当てる。恐怖からではなく、夏侯惇のために摘んだ蓮の花を気にしているのだ。

「そちらの軍師将軍様とお約束いたしましたから。すぐさま隻眼の将軍様のところへお送りいたしますと.....」

 女堝は艶然と微笑んだ。

 .....ドドドド.....

 .....ガガガガガッ.....!

 地鳴りが徐々に近づいてくる。

「が.....が.....崖崩れですかっ?」

「崑崙の女神よ!」

 打ち付けるように司馬懿が叫んだ。

「美しい軍師殿.....最後の札を.....」

 それだけ言うと、女堝の姿は湖上に消えた。

「な、なんですって、最後の札?」

「張コウ将軍、これのことだろう」

 司馬懿は慌てることもなく、ふところから札を取りだし、空にかざした。

「シロ、シロ〜、周瑜くんのおひざにおいで!」

「ちょっと、あんた! 周公瑾! バカなこと言わないで下さい! そいつは変態神様なんですよ? 伏犠なんですよ?」

「シロだもん!」

「だから、伏犠が猫に化けてるんでしょ! そんなもの、連れてかないでくださいよ!」

「やーッ! シロッ! シロッ! シロおいで!」

 周瑜くんは有無を言わせることもなく、猫をふところに庇うと、ぎゅっと抱きしめた。

 ゴゴゴゴゴ.....ズゴゴゴゴゴ.....!

(ごきげんよう.....聡明な将軍様がた.....)

 女堝の甘やかな声音が耳元で響いた.....

 

 

「それで気付いたら、江陵の地に.....もとの場所に居ったのだ。黄色の札は『土』の札だったのであろうな」

「そうか.....全員.....孫呉の御方々も無事に.....」

 夏侯惇のつぶやきに、司馬懿はうむ、とだけ言葉少なに頷いた。

「もう、ほーんといろいろと大変だったですけど、けっこう楽しい経験でしたよねぇ、司馬懿どの★」

 かたわらから、にこにこ微笑みながら声を掛けたのは張コウである。

 ここは許昌、魏の三将軍は、無事に国に帰ってきたのである。到着してから、ようやく一週間、まだまだ、日常の感覚が戻ってくるには時を要するようであった。

「しかし.....わしの不明のせいでずいぶんと迷惑をかけたな.....すまぬ」

 律義にあやまる夏侯惇。

「もー、辛気臭い方ですねぇ。そう何度も頭を下げずともよろしいでしょう、夏侯惇将軍」

 ひらひらと朝服の袖を翻して、張コウが言う。

「さよう。不可抗力だ。無事に帰ってこれたのだから、よしとすべきだ」

 めずらしくも張コウの言葉に司馬懿が賛同した。

「.....しかし、世の中には不可思議なことがあるのだな.....」

「や〜ん、司馬懿殿がしみじみとおっしゃられると、実感してしまいますよね〜」

「.....まこと、不思議な.....としか言い様がないな。崑崙の女神に、人の始祖か.....彼らは何のために我らを呼びつけたのであろうかな.....」

 少しやつれた夏侯惇が、無精ヒゲを撫で付けながらつぶやいた。

「何なんでしょうかねぇ.....私たちに.....いえ、『人間』に忠告したいことでもあったんでしょうか.....」

「.....さてな。なにがあろうと、それはあやつらの勝手。我らは我らのすべきことを迷いなく行うべきだ」

 静かな声で司馬懿は言った。その物言いは、常と変わらず平坦で、何の抑揚もなかった。彼はいつものとおり、曹魏の筆頭軍師殿の顔つきに戻っていた。

「さぁてとっ!」

 パンと手を打ち付けて、張コウは勢いよく椅子から立ちあがった。

「なんだ、出かけるのか?」

 と、夏侯惇が問うた。よく見ると張コウは外出着を身に着けている。それもなかなか凝った装束だ。常に派手やかないでだちのため、わかりにくいが。

「そーっ! おでかけでぇす★ ねーっ! 司馬懿殿〜★ うふふ.....」

「....................」

「さっ、行きましょう、司馬懿殿! 夏侯惇殿にもおみやげを買ってきてあげますから、おとなしく養生しててくださいよ★」

 頬を染める張コウはたいそう嬉しそうだ。

「めずらしいな、おふたりで揃って外出とは」

 夏侯惇が言った。

「いや.....なに.....」

「さーっ! 行きましょ、司馬懿殿! 許昌中の小間物屋を回ってみたいくらいなんですから★」

 きゃっきゃっと小娘のようにはしゃぐ張コウである。たいそう長身なので、とても小娘には見えないが。

「.....小間物屋」

「.....復唱されるな夏侯惇将軍」

 司馬懿の声は苦鳴にも聞こえる。

「司馬懿殿がね★ 美しい私にふさわしい、飾りぐ.....」

「さっさと仕度をしろっ!」

 めずらしくも足音荒く出てゆく司馬懿、その後をいそいそと追う張コウ。

 記憶の無い間に、さまざまなドラマが演じられたのだろうと、夏侯惇は嘆息した。

 

 余談だが、周瑜くんのふところにかくまれた子猫は、そのまま建業の城に住みついたらしい。

 それが伏犠なのか、否かは、だれも知らない。

 

 .....斯くして、この不可思議な旅路は幕を閉じたのであった.....