街亭演義
<6>〜<10>
 
 
 
 

 

 

 

 

 

.....旦那様」

 遠慮がちな仕人の呼び声を、司馬懿は無視した。

 なにもかも、すべてが鬱陶しくてたまらない。立ち上がるのも声を出すことさえも、ひどく疲れる。化石のように、ひっそりと呼吸さえも潜めて、ただそこにあるだけの、命のない存在になりたいと感じた。

.....旦那様.....あ、あの、お客様が.....

「客? 何の予定も入れておらぬはずだが.....

 仕人のせいでもあるまいに。己の返事が、この上なく、冷たく尖っていることに、司馬懿は気付いていた。

「は、はぁ.....

「誰が来ているというのだ」

「は、はい。張儁乂様がお見えでございます」

.....なに?」

「あの..........

「張コウが? .....宮中の医務局に留め置かれているはずなのに.....ひとりで参っているのか?」

「はい.....御車を使われたようですが、御供の方はおられません。お見受けいたしましたところ、もう大分よろしいように思われます。.....お通ししてもよろしいでしょうか」

.....あ、ああ」

 司馬懿は、心ここにあらずといった様子で頷いた。

 くらくらと目の回るような気持ちの高揚と、腹の奥に鈍い痛みを感じる。冷や汗さえ滲んでくるおのれを、司馬懿は心から情けなく思った。

 

..........これは.....お邪魔いたしております」

 司馬懿が室に入ると、椅子に掛けていた張コウが、立ち上がって礼をとった。

「いや、お立ちになられる必要はない。掛けられよ」

 がらにもなく気遣いの言葉が口をつく。思えばこれまで、ついぞ優しい言葉をかけてやったことなど無かった。

 数週間ぶりに会った張コウは、負傷する前よりもやや面やつれした印象だが、決して彼の整った容貌を損なうことはなかった。今日は、裾引きの外出着を身に着けている。足元まで布地で隠れる淡い色合いのそれは、常日ごろの彼の嗜好とかけ離れていて、むしろ司馬懿の目を引いた。長い髪も、そのまま背に下ろし、見苦しくならぬよう、中ほどあたりで、飾り紐でくくられていた。

 意識せずにじっと見つめてしまっていたのだろう。不思議そうに顔をあげる張コウから、あえて目線をそらす。司馬懿は茶器に手を添えつつ、おだやかにたずねた。

.....ずいぶんと久方ぶりの気がする.....お具合はいかがか?」

「はい。ご覧の通りもうずいぶんとよいのです。医師がなかなか自由に出歩かせてくれないのですが」

「ふむ。確かに見違えるように回復なされたご様子。嬉しく思う」

 目を伏せたまま、司馬懿はひっそりと言った。

.....見舞いにも伺わず.....失礼した」

「いえ、そのような。.....お気遣い恐れ入ります」

 張コウが微笑む。

 彼は充分に落ち着いた大人の男だ。見目形は、世の常の男性よりも、はるかに端正であるが、優雅な物腰、やわらかな口調、選び取る言葉には、この年代の貴公子としての教養が見て取れるようだ。

.....それで、今日、わざわざお運び下さったのは、如何なる御用であろう。急ぎのことでなければ、此の方から医務局のほうへ伺うゆえ.....

「いいえ、私はすでに離れの方で養生しております。たびたび私邸にも顔を出しておりますし、そのようなお心遣いは無用です」

 そういうと、張コウは言葉を切った。何かを考えるような素振りをみせ、いささか逡巡すると、彼は思い切ったように口を開いた。

「不躾なことを申し上げますが、以前より、私は軍師殿と親しくさせていただいていたと、回りの方々に聞いております。司馬仲達様にとても目をかけていただいたと.....

.....目をかけていたなどと.....

 司馬懿は言葉に詰まった。まるで身分の上のものが、目下の人間に対して接するような印象ではないか。確かに曹操軍、筆頭の軍師であり、年長者である司馬懿のほうが、立場としては上になる。だが今までそのようなことを意識させられることなど無かったのだ。

 .....そう『私たちはそのような関係ではなかったはずだ』.....

「あの、軍師殿.....?」

 確認を求める張コウの声に、司馬懿はおのれが物思いに沈んでいたことに気付く。

.....張コウ将軍には、私の方こそ、助けられておる。此度の一件も私の策を忠実に果たして下さったがための大怪我だ。.....申し訳なく思っている」

「いいえ、そのように言われては困ります。.....そうではなくて.....そうではなくて、今日、お訪ね申しましたのは.....

...............

「貴方にお会いすれば、何かを思いだすことができないかと.....そう思いまして」

.....左様でござったか」

「ま、そんな簡単なことではないですよね。これだけ御医師や周囲の方々が、いろいろと心を砕いて下さっているのに、いっこうに記憶が戻らないのですから.....焦らずに待つことにいたします」

 むしろ明るい口調で、張コウはそう言った。

 皆がずっと心配し続けていることを知っているのだろう。おのれの思いつきの行動が、司馬懿の負担にならぬようにと、軽い調子の物言いで誤魔化したのだ。

 今の司馬懿には、ただ頷くことしか出来なかった。『無力』という事が、こんなにも残酷で惨めなものなのかと吐き気がする思いであった。

.....そう.....貴公は、なにも不安に思われたり、焦燥される必要はないのだ」

 司馬懿はやっとそれだけをつぶやいた。

「はい、仲達様、ありがとうございます」

「何も心配せず、ゆっくりと養生していただきたい」

「ええ、そうですね、お言葉に甘えたいと思います。みなさん、やさしくしてくださって、居心地が良いですし」

 ふふふ、と笑みをこぼし、張コウは小首をかしげた。黒髪がさらさらと乾いた音をたて、肩口を滑る。淡い黄緑色に箔の綉を施した上着は、不思議なほど、張コウによく似合っていた。

「貴公は私などと違って、皆にとても好かれていたのだ。面倒見も良いし、年少の者も慕っておった」

「軍師殿は、とてもお美しいし、おやさしいではありませんか。戯れにもそのようなことを言ってはいけませんよ」

 張コウらしい物言いに、司馬懿は頬を緩めた。記憶はなくしていても、口の聞き方は変わらぬらしい。

「私邸にも戻っておられると申されていたな。仕人が喜んでいるだろう」

「ええ、私の世話係といっていた少年がいろいろと気を使ってくれます。じいやさんは山のようにお見合いの話をもってくるし.....

「ほう」

「私には配偶者がいないらしいのです。今回のことを考えればそれはそれでよかったと思うのですが、ここぞとばかりにすすめるので、いささか閉口しておりますよ」

 手振りを加えて張コウは言った。じいやというのは、張コウの父の代から使えている家令のことだろう。結婚などしないと、公言してはばからなかった張コウをいさめ、追い掛け回して説教していた小柄な老人の姿を思い浮かべ、司馬懿は目を細めた。

「まったく、元気なおじいさんです」

「さようでござるか.....どなたか、よい女人はおられたのか?」

「はぁ.....皆さん、お綺麗で愛らしいお嬢さんばかりですが、おのれがどういう人間であったのかも思い出せないのに、そんな無責任なことはできませんよ」

.....思いだされたら.....妻を娶る気が無くなるかもしれぬぞ」

 口元をゆがめて、司馬懿は少し苦しげにささやいた。

「それはそれで仕方ありませんでしょう。不実なことをして誰かを不幸にするより、ずっとよい選択です。.....それにしても、軍師殿の邸は静かで落ち着きますね。自分の邸よりも居心地が良いというのもおかしなものですが」

「そうか.....気に入ったのならば、いつでもおいでくださるとよい。歓迎する」

「ありがとうございます。でも軍師殿にはご多忙でしょうから、ご迷惑にならない程度にいたしますね」

 楽しそうに張コウは言った。

.....軍師殿」

.....何だ?」

「思い出すことはできないのですが、やはり私はあなた様と親しくさせていただいていたのだと思います。たわいもない話をしているだけなのに、とても心地が良いのです」

.....張コウ将軍.....

「夏侯惇殿や張遼殿がおっしゃっていました。私と仲達様は、とても仲が良かったのだと。『軍師殿は気難しい方だが、張コウとはよく一緒にいた』と」

....................

「ですから、どうしても、お会いしたかったのです。やはりお目にかかれてよかったです」

....................

 司馬懿の沈黙をどうとったのか、張コウは慌てて立ち上がった。

「あ、ああ、すみません。大分時を過ごしてしまいました。勝手に押しかけて。.....そろそろ戻らなければ」

...............

「あの.....軍師殿.....では、私はこれで.....

 .....喉の奥が、熱い.....

 腹の痛みが背骨を伝って、首筋に這い登ってくる。それはギシギシと骨をきしませ、激しい耳鳴りを呼び起こすのであった。

 もう、限界であった。このまま、『軍師殿』として、居続けることはできそうになかった。肉体が、心が、引きちぎられる寸前の、断末魔の悲鳴を上げ続けている。

 白い.....しなやかで、そして力強い、両の腕の感触.....耳朶にこぼれるやさしい声音.....形の良い、やや薄めの口唇から、惜しげもなく溢れ出るその言葉.....

『愛していますよ、司馬懿殿.....ずっと.....あなたのお側に居りますから.....

 

「張.....コウ.....

..........え?」

.....張コウ.....ッ!」

「え.....うわっ!」

 司馬懿は、張コウの胸ぐらを掴みしめ、ガクガクとゆすっていた。まるで聞かぬ気の強い子供がするように。

「張コウ.....ッ!」

「ぐ、軍師殿.....? あの.....いかがなさい.....

「張コウ.....ッ! わからぬのか.....この私がわからぬのか.....?」

「軍師.....どの.....

「何故.....何故なのだ.....どうして.....私は.....

「軍師殿.....私は.....

 なだめるように張コウが、司馬懿の手を包む。

「私は.....どうすればよいのだ.....どうすれば.....

「どうか、落ち着いて下さい、軍師殿.....

 張コウの声がとぎれとぎれに聞こえる。司馬懿はおのれが涙を流していることさえ、自覚していなかった。

.....わからぬのか、張コウ.....この私が.....私は.....私は.....

「軍師.....どの.....?」

「私が.....わからぬのか、張コウ」

.....泣かないでください、軍師殿.....どうか.....

「張コウ.....張コウ.....ッ 私を.....

 背に回された大きな手のあたたかさに、司馬懿は嗚咽した。

.....仲達様.....

「私を.....捨てないで.....くれ.....

 司馬懿の悲痛な叫びが、胸の深奥に突き刺さった。

 

 

.....翌日.....宮中、医務局の離れである。

 ここには張コウを含め、四人の男たちが顔つきあわせて座っていた。心尽くしのささやかな酒肴が並べてあったが、なぜか誰も手を着けていない。

.....ぐ、軍師殿が.....

..........司馬懿殿が..........

.....あの司馬懿が.....泣いた〜〜〜〜ッ?」

「しッ! しーッ! お声が大きいです!」

 張コウは大慌てで、自失している三人の将軍をなだめた。徐晃、張遼、夏侯惇と異口同音に驚愕の叫びをあげられ、さすがに張コウも意気消沈せざるをえなかった。

.....まさか.....あの司馬懿がな.....

 夏侯惇は、しきりにあごひげをなでさすりながらささやいた。

「ええ.....そうなのですよ.....私、もうどうしていいのか.....今日、あらためて、御私邸にお詫びにうかがったのですが、会ってはいただけませんでした」

 溜息交じりに張コウはつぶやいた。

.....軍師殿が.....

「そのように取り乱したりなど.....あの軍師殿が.....

「まさかなぁ.....司馬懿が.....

 オウムのように同じ言葉をくり返す三人の将軍。そのたよりないありさまに憤慨したのか、張コウは椅子から身を乗り出した。

「御三方ならと思ってご相談申し上げているのですよ! 軍師殿の御名に障りますゆえ、このことはくれぐれも内密に.....

「も、もちろん、もちろんですぞ、張コウ将軍」

 実直な徐晃がすぐさま請け合った。

.....しかし、今日会えないというのはどういうことなのだ。別にご病気というわけではないのだろう、軍師殿は」

.....先日、私の前で取り乱されたのを恥じておられるのでしょう.....事情を聞かせて欲しいと、いくらお願いしてもお教え下さらないのです。.....本当に何と潔癖な御方なのか.....

「司馬懿とはそう言う男なのだ。昔から.....な」

「そんな.....あれでは苦しいでしょう。.....すべて己が身のうちに閉じこめて.....

「そう。そういう人間なのだ。軍師・司馬懿という男はな。.....どんな場面に遭遇しようと、いつも冷ややかに黙している。それがあの男だ」

.....そんな.....夏侯惇将軍! .....それではあまりに.....

「だが、これまではお主が側にいた。.....だから司馬懿は微笑うことができたのだ」

..........え?」

.....天帝とは.....もし本当に存在するのならば.....ひどく残酷なことをするのだな。孤独な人間のたったひとつの支えを、戯れに奪い取るとは.....

「夏侯惇将軍.....なんとかならないのでしょうか? このままでは.....

.....張コウ。わしは神に祈って時を過ごしたりはせぬぞ」

「え?」

.....司馬懿には借りがある。あいつが壊れる前に実力行使だ!」

 隻眼将軍は、ぐいとこぶしを振り上げ、ぼう然と座ったままの男どもの前に立ちはだかった。

「張コウ! もう身体の調子はよいといったな!」

「は、はい」

「よし!これからお主の私邸に行くぞ! 張遼!徐晃! おまえたちはいったん私室に戻り、『張コウアイテム』をとってこい! その足ですぐさま私邸に駆けつけるのだ!」

「は、は? あの.....なんです?『張コウアイテム』?」

 張コウはたずね返した。

「記憶のないお主が聞いてもわかるまい! 張遼!徐晃!急げ!」

「お、おう」

「こころえた!」

 夏侯惇将軍の剣幕に押しだされるように、二人の将軍はこけつまつろびながら宮中に駆け戻っていった。

「さぁ、わしらも、こうしてはおられぬぞ、張コウ将軍! なんとしてでもお主の記憶を呼び戻す!行くぞ!」

.....は、はい!お願いいたします!」

 それは張コウにも望むところであった。

 

「あ、若様、お帰りなさいま.....か、夏侯惇将軍ッ?」

「失礼するぞ!」

 隻眼将軍のただならぬ剣幕に、小柄な少年は飛び上がって道を譲った。

「あ、ああ、君.....煌くん.....といったね。あとから張遼殿と徐晃殿がみえるから、私の室にお通ししてください」

「早くしろ、張コウ!」

「わ、若様?」

「はいはい、夏侯惇将軍。では頼みましたよ、君」

「はい、若様!」

 ただならぬ様子に、少年は胸元を押さえる。

 張家の主人である、張コウ付の小間使いは数人いるが、煌と呼ばれたこの少年は、なかでも古株の仕人である。真面目な性格が災いして、張コウのよいオモチャになっていたが、此度の一件では我が身を省みず、主人の看病に力を尽くしていた。

.....神様.....どうか若様を.....儁乂さまの記憶を戻して下さい.....! イジメられてもいいですから、元の若様に戻して差し上げて下さい.....!」

 両の手を組みあわせ、少年は小さくつぶやいた。 

 夏侯惇は張コウを引連れ、無遠慮に私室に入り込むと、バタンと扉をしめた。

.....なにかないか.....! 何か手がかりになりそうなもの.....!」

 こころもとなげな張コウを椅子に座らせると、隻眼将軍は「すまんな」と無愛想にひと言だけ謝ると、手当たり次第に引き出しをひっぱり出し、衣装棚をひっくり返した。

「おおっ! これ、これはどうだ、張コウ! なにか思い出しはしないかッ?」

 夏侯惇は紫の色の鎧をとりだした。肩口に孔雀の羽をあしらったひと目見たら忘れられないような派手やかなものである。

「うっわ.....スゴイ鎧ですねぇ.....よくもまぁ.....こんな鎧を身につけられるものですねぇ.....

「おぬしがいつも着とるんじゃぁっ!」

 片手を差し出し、ビシィ!とつっこむと夏侯惇はそれをさっさと放り出した。役に立たなかったものにかまっているヒマはない。

(張コウのもの.....というより、『張コウと司馬懿に関わるもの』のほうがいいのかもしれない.....

 そうは考えてみるものの、夏侯惇だとて彼ら二人を追い掛け回しているわけではないのだ。というよりもむしろ避けていることのほうが多かったくらいだ。事細かにそのやりとりを熟知してはいない。

「おまたせいたしたーッ!」

「今、到着いたしましたぞ〜ッ!」

 ドタン、バタンと扉を叩きつけ、入ってきたのは張遼、それに徐晃のふたりであった。

「おおっ!待っておったぞ!」

「うへぇ! こりゃあ、すごいありさまですなっ!」

 張遼が爆発した衣装棚を見て叫んだ。

「いや、今はそれどころではないぞ、お二人とも! さぁ、なにかあったであろう、張コウアイテムッ!」

 期待に充ち満ちた夏侯惇の態度に、ふたりの将軍はたがいに顔を見合わせ、「ああ.....まぁ.....」と言葉少なに頷いた。

「よしッ 出してみろ! まずは張遼!」

「いやぁ、それがし無精者ゆえ、行方がわからぬものも多くてなぁ!」

「前置きはよい! さぁすべて出せ!」

.....まぁ、ソレよなぁ.....すべてって.....なぁ。まぁ、この1アイテムを.....

 ごそごそとふところを探る張遼。申し訳なげに掴み出したのは、手のひらに隠れてしまう小瓶である。

「むむっ! それは.....

.....あのとき、夏侯惇殿も張コウ将軍からいただいたであろう。確か同席しておられたと記憶しておる」

「うむ.....あれだな」

 夏侯惇も頷いた。

「なんです、それ。綺麗なビンですね。中になにやら入ってますね」

 張コウがたずねた。

「うむ。海辺の砂.....だ」

 張遼は、それを不思議そうに眺めている張コウに手渡した。

「おや、本当に砂ですねぇ。こんなもの持っていたって仕方がないでしょう」

「いや、おぬしがよこしたんだってば!」

 夏侯惇と張遼が同時にツッコんだ。

.....覚えておらぬか?」

.....すみません」

「意気消沈している暇はないぞッ! 次ぃ!」

 夏侯惇は徐晃を引っ張り出した。

「せ、拙者も粗忽者ゆえ、行く方知れずの品が.....

「もうよい! 素直に捨てたって言え、おまえらッ! それでもなにかひとつくらいはあるだろう、おい、徐晃!」

「は、はぁ.....ではこれを.....

....................

 一同は黙して、徐晃の手の上にのっている、不気味な物体を見つめた。

.....徐晃.....聞いていいか? 何ソレ?」

 ようやく夏侯惇は口を開いた。ややテンションが落ちている。

.....かつて饅頭だったものでござる」

.....まんじゅう.....

「付け加えるならば、紅白まんじゅうでござる」

「あっ.....

「ああっ.....!」

 強烈に記憶を呼び覚まされたのは、夏侯惇に張遼の二将軍のほうであったらしい」

「紅白まんじゅう.....あれかっ!」

「おい、徐晃ッ! 貴様、食わなかったのか!?」

「それでも.....友だちか!」

「すみませぬっ!」

「なんです? そのカビだらけのモノは.....おまんじゅうなんですか?」

 三人のやり取りを眺めていた張コウがたずねた。

「キサマが配りまくったんじゃあッ!」

 今度は三人が綺麗にツッコミを入れた。

「私が.....? なんでこんなものを? 徐晃殿.....?」

「え.....え〜、その張コウ将軍は、『今日はおめでたい日なんですよ★』とおっしゃられて.....

「なにがおめでたいんです?」

「ああ、もうよい! 次ぃ! .....ってもう次はないのか?」

「すみませぬ」

「面目無い」

 肩を落とす将軍らを素通りに、夏侯惇は妙に綺麗に調えられている鏡台に歩み寄った。

「おい、張コウ! おぬし、この異様なまでに充実した鏡台を見ても何も感じんのかッ!?」

 ほとんどやけくそのように夏侯惇は怒鳴った。

「はぁ.....まぁ、男性にしてはめずらしいかもしれませんね。几帳面というか.....

「そういう問題ではないだろう!  ごちゃごちゃと化粧品やら.....わけのわからんものばかり.....むっ? なんだこれは?」

「いかがなされた夏侯惇殿」

 気を取り直して張遼がたずねる。徐晃も立ち上がり、夏侯惇の手の中の、小さな冊子をのぞき込んだ。

 濃い桜色の、妙に愛らしい装丁がなされている。それは鏡台の一番下の、わざわざ布張りにされた引き出しに、厳かにしまわれていたのである。

...............

 無言のまま、やや恐ろしげに手に取る夏侯惇。さもあろう。

 目を引く原色ピンクの表紙には、でかでかとあやしい文字が飛んでいるのだから。

『司馬CHU★日記』と、いう表題。

 その下に、投げキスをしている張コウ自身の、手描きイラストだ。『BY 張コウ』とある。だれがどうみても、張コウの秘密日記だ。

...............おそろしい.....

 張コウ以外の3将軍のつぶやきが重なった。当人はきょとんとして成り行きを見守っている。

「か.....夏侯惇将軍.....なかを開かれるのか?」

 おどおどと徐晃がたずねた。

「あ、あたりまえだ! 重要な手がかりなのだから.....ひ、開らかざるを得まい.....おい、張コウ! おぬしもこっちに来んか!」

「ハイハイ」

「い、いいか、張コウ、恐れるなよッ 我々がついているのだからな! 気をしっかりともって見るのだぞ!」

 己自身は思いきり目線をそらして、張遼が言った。

「ハイハイ。別になにも怖いことなどありませんよ。これで記憶が戻ればありがたいくらいですから」

 張コウは素直に円卓についた。

「で、では、開くぞ」

 意を決して、夏侯惇は頁をたぐった。微妙に手が震えている。

 

『○×年4月3日 雨。

 宮中にて、司馬懿殿、発熱。輿にお乗せしてご私邸にお送りする。途中、私の肩によりかかって眠ってしまわれた。なんて、ラブリー★ 役得役得!』

.....なんですか、この日記は.....夏侯惇殿」

「だから、『司馬CHU★日記』だろうが.....

「オソロシイ.....

「続けるぞ!」

『○×年5月5日 晴れときどき曇り

 ついに司馬懿殿に、愛を告白。しかし、冗談と受け流される。ずっと愛していると言い続けているのに.....(涙)』

.....言いまくってるから、信じてもらえないんだろーが」

「ま、まぁまぁ、張遼殿。さ、さぁ、続きを夏侯惇将軍」

「うむ.....この先は読むのが怖いような気もするが.....

『○×年5月11日 小雨

 数日の間、試行錯誤するものの、何の策も思い浮かばず。よって昨夜、再度思いを伝えた後、実力行使に及ぶ。司馬懿殿はとってもス・テ・キ★だったが、今朝から口を聞いてくれず。もぅ、ホントに照れ屋さん! この慶ぶべき日を祝して、さびしい者どもに紅白まんじゅうを配ることにする。幸福のおすそわけ』

....................

....................

....................

『○×年5月14日 快晴

 主殿の控えの間で司馬懿殿のお姿を見かける。夏侯惇将軍と談笑のおり、割って入ったが逃げられる。もうっ 照れ屋さん!』

....................

....................

....................張コウ。ここまで読んでも、キサマはおのれという人間を思い出せぬのか.....?」

「はぁ.....これ、ホントに私が書いたんでしょうかねぇ。まるで変質者のような.....

 ぼそりとつぶやく張コウに、三人の猛者は、指を突きつけ、

「キサマ以外の誰がいるんじゃぁ!」

 と叫んだ。

「ええ、はぁ.....私の室にあるものですから.....そうなんでしょうが.....まぁ続けてみてください。もしかしたら、なにか思い出すかもしれませんから」

 張コウの言葉に夏侯惇は先を続けた。張遼、徐晃の2将軍も冷や汗を拭きつつ、意識を集中する。

『○×年6月1日 快晴

 司馬懿殿が口をきいて下さらない。照れ屋さんもここまでくると困りもの。そういえば、司馬懿殿はまだ私に「愛している」と言って下さらない。私の方は何度も申し上げてるのに〜 ちょっと欲求不満気味。』

『○×年6月29日 快晴

 司馬懿殿をお誘いして、水遊びに。

もろ肌司馬懿殿を見られるかと期待するものの、いっこうに脱衣せず。むりやり河岸にひっぱりこみ、スキを見てチュウするものの、顔面を殴られる。デートの記念に、岸辺の砂を持ち帰り、さびしい者どもに幸福のおすそわけ』

.........................

...............さっきの砂.....

「うむ..........

「この『幸福のおすそわけ』ってフレーズ面白いですね」

 プッと吹きだし張コウが言った。

「あ、ごめんなさい。つい笑ってしまって。でも『おすそわけ』された『さびしい者ども』にとってはたまらないですよねぇ」

 邪気のない物言いに、『さびしい者ども』は沈黙した。

『○×年9月3日 曇り

 司馬懿殿、北方の築城ご視察よりお戻りになられる。見学中、足場の悪い場所で、足首をねんざ。護衛官をシメる』

『○×年1012日 雨

 司馬懿殿、天候のせいか体調を崩され、発熱。医務局へつきそってゆく。座薬を入れようとした医師をシメる。』

..........つくづくおそろしい日記だ.....

.....うむ.....オソロシイ.....

 口々につぶやく張遼と徐晃を無視して、ばらばらと頁を手繰り、目に付いたところを読む。

『○×年3月1日 雨

 司馬懿殿、出征先より戻られる。負傷のせいでひどい高熱が続いている。すぐさま宮廷医師団が治療にあたる。傷口から悪性の菌が入ったという。私にはよくわからない。.....ご子息の昭殿がつきっきりで看病している。.....心配で眠れない.....

『○×年3月5日 曇り

 司馬懿殿の熱が引かない。傷の手術は無事に終えたものの、肉体への負担が大きすぎたのかもしれない。.....ひどく痛かっただろうに.....熱でお苦しいだろうに.....気丈なあの人は何も言わない。.....私はどうすればいいのだろう。私にはなにができるのだろう。戦場以外では、私はこんなにも無力だ.....情けないほどに無力だ.....

...............

..........夏侯惇将軍.....あの.....いまのところ.....

 ぼんやりと張コウがつぶやいた。霞のかかった記憶を手繰るように。

「なんだ? 司馬懿の怪我の話か? たしか3年前の話だ。軍師として出征した司馬懿が矢傷を負ったのだ。それ自体はたいしたことはなかったのだが、ここに書いてあるように、化膿して発熱してな」

.....ええ、なんだろう.....なんとなく覚えがあります.....はっきりとではないんですけど.....

「なっ、なに! 本当か、張コウ!」

 三人の将軍は、頭を押さえる張コウをのぞき込んだのであった。