北の国から
<6>〜<最終回>
 
 
 
 

 

 

 ついに張コウは、室の外に追いだされてしまった。

 この処遇には、甚だ納得がいきかねたが、実際に追いやられてしまったのだから、いたしかたがない。

 しかし、こんなことであきらめる張コウではなかった。なにやら秘密の薫りただよう、男ふたりの会話を、なんとしてでも聞いてやりたかったのである。

.....ああ.....この私にここまでさせるとは.....罪作りな方たちですね.....

 張コウはフッ.....とニヒルな笑みを浮かべ、自分の言葉に酔っていた。こういう男なのである。

 まずは夏侯惇の室のまわりをぐるぐると練り歩く。しかしどうやら内側からの情報収集はむずかしそうだ。夏侯惇の室は角部屋であったし、となりの部屋は長い間使われておらず、内側から鍵がかかっていた。

 しばし思案の時を経、張コウはポンと手をたたいた。妙なところでアナログな動作をする彼であった。

「内がダメなら外からアプローチすればよいのです! 我ながら名案ですね!」

 ひょいとポーズをとると、彼は早速行動に移した。ぐるりと回廊を回り込み、広めの中庭にでる。足音をしのばせ、目的の室の前にたどり着くと、張コウは慌てて身を低くした。横になっている夏侯惇に気づかれはしないだろうが、鋭敏な司馬懿は要注意だ。

 そっとのぞき見ると、夏侯惇の室は簡素な内装で、座臥のあるやや広めの主寝室に、大きな書き物机、武具の棚が置かれているだけだ。その簡潔さが、部屋の主の気性を現しているようで、張コウはふむふむと満足げに頷いた。

 目的を思いだし、庭伝いに隣室に潜入する。室のなかを覗くだけなら、さきほどの場所でもよいのだが、会話を聞き取るのは不可能であった。

 物置部屋となったその部屋の窓は、たいそう古くなっていて、多少力を込めれば枠ごと外れた。

 そっと忍び込んでみれば、案の定隣室からの気配が伝わる。隠れて様子をうかがうには、最適のシチュエーションであった。

「まったく!何故、この私がこのようなはしたない真似を! だいたい隠れて覗き見するなど、私の美意識が許しませんのに! 愛しい方たちのためですからね! いたしかたありません」

 だれに頼まれたわけでもないのに、張コウは『いたしかたなく』覗き見方法を模索した。極力物音を立てないように、夏侯惇の室側の壁をあらわにしてゆく。壊れた卓子や掛け軸、陶器の入れ物などが、山積みになっていたからだ。

 それらを退かすと、木造の扉が見えてきた。この隣室はもともと夏侯惇の室から続きになっていたのだ。

「ふふ! 私の目算にまちがいはないのです!.....いささか汚れてしまいましたが」

 顔についたススを、右腕でぐいとぬぐった。両の手が汚れていたので、ますます悲惨な状況になっているが、鏡があるわけではないので気づかない。

 張コウは内から続きになっている、古ぼけた木の扉をかりかりと掻いた。もちろん素手で掻いたわけではない。愛用の武器朱雀虹である。こんなときにも役に立つのだ。

 張コウは扉と石壁の間の溝に狙いを定め、ガリガリと掘った。しかしすぐさまイライラとしてくる。このような地道な作業は張コウに似合っているとは言い難かった。彼はその性格のみならず、いでだち、ふるまい、万事において、派手やかで華やかが信条であったのだ。

...............

..........む?)

...............して?」

 かすかに聞こえたのは、司馬懿の声であった。

 話しの途中なのだろう。夏侯惇の声はまだ聞き取れない。

(やん、もう!聞こえませんよ〜、夏侯惇殿ッ!)

 ガリガリガリ。

 張コウは頑張った。石壁と木扉の間に、淡い光のすり抜ける、わずかなすき間ができたのは、その十分後であった。

..........せぬのか?」

 夏侯惇の低い声が、張コウの耳に入った。

(むむむ〜、よく聞こえませんね〜。夏侯惇殿のお声は低いから〜)

 張コウは片目をすがめて、狭くて細いすき間をのぞき込んだ。やっとのことで、目にした風景は、ちょうど司馬懿の座した斜め後ろあたり.....軍師の横顔と、仰向けになった夏侯惇が見える。角度の問題で、隻眼将軍の表情を読み取ることはできなかった。

 

「なにが言いたい、夏侯惇将軍?」

「それはこちらの科白だ.....もはや覚悟はできているのだがな、司馬懿よ」

 おだやかならざるその言葉は、横になった夏侯惇の口から漏れて聞こえた言葉であった..........

 (.....? 覚悟? なんのことなのでしょう.....?)

 ぼそりぼそりと途切れがちな夏侯惇の声は、壁越しではたいそう聞き取りにくかった。

.....それで?」

 司馬懿の声だ。話の流れがよくわからない。

 賢明を自認する張コウは、しばらくの間、ふたりの会話を聞き取ることに集中することにした。

 

.....これ以上、わしに何を言えというのだ、司馬懿。一部始終を見知ったおぬしに.....

「断罪せよというのか? そうだな、軍紀に照らせば、死罪は明白だ」

 なんの感情の起伏も読み取れない、冷ややかな司馬懿の物言い。

(し、死罪とはッ? いったいなにがあったというのです? これはまったくおだやかでありませんねッ!)

 張コウは片手を差し出し、ビシっとつっこんだ。ジェスチャー付きだが、見ている人間はいない。

 

.....主の命に背いた時より、覚悟はできている」

「そう。合肥行軍の全権を委ねられたのはこの私だ。交渉の内容も、質、周瑜の処遇も、すべて私の采配で行うつもりであった」

....................

「交渉を有利にすすめたならば、周瑜を許昌に連れ戻す.....それもこの私が考えた計略だ。.....殿が周瑜を、孫呉に返すなと言われたわけではない」

「司馬懿よ.....それゆえ、わしの行為を許すというのか?」

「殿の信頼篤い貴公を断罪して、なんら益があるのか?」

 司馬懿が言った。

 二人の間にしばしの沈黙が漂った。ふたたび口を開いたのは司馬懿のほうであった。

.....理由はいかにせよ、有益な質を失い、今また腹心の将を失わせ、殿を落胆せしめよと言われるのか?」

.....軍師」

「ぬしの行動を知っているのは、私と居合わせた徐将軍くらいであろう。あやつが口外するとは考えられぬな」

...............

.....話というのはそれだけか、夏侯惇将軍」

「それでよいのか、司馬懿」

 夏侯惇の声は、低くかすれていた。

 張コウは、壁ひとつ隔てて、息を殺して問答に聞き入った。

「くだらぬな」

 吐き捨てるように、司馬懿が言った。

「良いも悪いもないであろう。黙して語らぬが最上の策であるならば、私はなにも言わぬし、何も見なかったことに出来る」

.....司馬懿」

「ふん.....ああ、そうだ、事のついでにひとつだけ聞いておこうか」

 司馬懿の色の薄い唇が、くっと持ち上がった。

「他意はないゆえ、怒るな。.....そんなにあの男はよかったのか?」

...............

(な、な、な、なんですって〜〜〜っ!)

 いきり立ったのは、夏侯惇ではなく、張コウである。飛び出していけないおのれの立場に歯がみする思いだ。

 夏侯惇はしばし天井をにらみつけ、微動だにしなかった。特に怒りを堪えているふうでもない。あおむけに寝たまま、ふぅーと深く吐息すると、ゆっくりと口を開いた。

「司馬懿よ、ぬしはまだ思い違いをしておられるようだ。わしはあの方に指一本触れておらぬ」

.....ほう」

 特に感心したふうでもなく、司馬懿が相づちを打った。

「そういう人ではないのだ。ああいった外見ゆえ、誤解されることも多かろうが.....

「ああ、そうであろうな。私はてっきりその類いの男かと考えていた。容色で孫権に取り入っているのかと思ったがな.....残念ながら赤壁で直接に対峙したわけでもなし.....未だ、あの男の真価はわからずじまいだ」

..........

「それゆえ、今一度、手元に連れ戻し、その価値を問いたいと思ったが.....ぬしが邪魔をしてくれた」

 司馬懿はそういった。苦笑交じりの物言いは、結局どうでもよさそうに聞こえた。

 少し時をおいて、夏侯惇が続けた。

.....樊城攻防の後、あの人を許昌に連れ帰った当時のことを覚えておられるか、司馬懿」

.....? 私はあまり周瑜と接触がなかったのでな」

.....普通、あの身分で、敵国に捕えられれば、平静ではおれぬはずだ。平静を装ってはいても、内心では脱出の算段や、亡命工作など、いろいろと考えるはずだ。.....生き延びるためにな」

 夏侯惇はそこまで言うと、ほぅと大きく息を吐きだした。それはため息ではなかった。夏侯惇の顔色に、疲労の色が濃いのを見て取ったのか、司馬懿が声をあらためた。

.....夏侯惇将軍、もう.....

「だがな、司馬懿。あの人はなにもしなかった。祖国を信じて、救出を大人しく待っていたというわけでもないのだ。ただ事の成り行きのままに.....それに任せて、ただそこに居た」

...............

.....よくぼんやりと外を眺めておられたな。絶望しているふうでもなく、どことなく楽しげに見えたのが、印象に残っている。わしが様子を見に行くと、親しげに話しかけてきた。.....媚びている態度ではないのだ。.....少なくともわしにはそう見えた」

.....周瑜とどのような話をされたのだ」

 司馬懿がたずねた。その物言いは詰問ではなかった。

.....とりとめもないことばかりだ.....窓から見える風景のことや、風俗習慣の話.....ああ、孫呉での昔話もよく口にされていたな」

「昔話?」

「子どものころのお話だ。文台殿が居られた頃の.....孫策殿との思い出などが多かったな」

 夏侯惇の面ざしが和んだ。

.....もうよいだろう。お休みになられてはいかがか」

 司馬懿は言った。彼なりの気遣いの言葉であった。

「この程度のケガ.....どうということもない」

「強がるな。顔色が良くない」

.....ふふ、不思議だな、軍師殿」

「なにがだ?」

「わしはおぬしが苦手だが、話を聞いてもらうと楽になる」

.....はっきりおっしゃる方だ」

 楽しげに司馬懿が言った。不快には思わなかったらしい。司馬懿は低く笑った。つられたように夏侯惇も笑う。

 傷口が引き攣れて痛かったのか、夏侯惇は笑いながらも、小さく呻いた。

 傷病人にもかかわらず、なおも夏侯惇は続けた。それはまるで懺悔のようでもあった。

.....司馬懿よ。こういうとぬしはまた、わしを軽蔑するであろうがな.....

.....なんだ?」

「わしは未だ後悔しておらぬのだ。焼け崩れる合肥城から、あの人を逃がし、祖国に返してやったことを」

.....ふん」

.....知らぬ場所で一人で逝くのは、少しさびしいと言っておられた。はじめて感じた、あの方の人間らしい感情であった」

..........

「わしなどから見れば、たいそう恵まれた御仁に思えたのだが.....あの奇妙な不安定さは決して幸福の裏付けには見えなかった」

.....人間、見た目だけでは何ともわからぬ部分があるのだろうよ」

 独り言のように司馬懿がつぶやいた。

「そうなのだろうな.....

.....だから魅かれたのか?」

「どうなのだろう.....あの何を映し出しているのかわからぬ、うす茶色の瞳が、なんらかの感情を伴って、このわしを見てくれるのが、ただ心地よかった」

.....こむずかしい言い方だな、ぬしにしては」

 司馬懿の嫌みにもかまわず、夏侯惇は続けた。

.....そういえばな」

 なにか思いついたのか、夏侯惇はフッと笑った。

「なんだ?」

.....思い出したのだが.....

.....?」

「いつだったか.....ここに来て少し経たれたころか.....張コウ将軍ととっくみあいのケンカをされたことがあってな」

 壁の向う側の張コウは、耳をそばだてた。おのれの名前と「とっくみあい」という単語が耳に入ったのだ。

「張コウ殿とケンカ.....?」

「うむ」

「ほ、ほう.....

「それがまた、ものすごいありさまだったのだ。あの時はたいそう驚き呆れてしまったが、今思いだすと可笑しくてな」

「原因は何なのだ?」

 司馬懿は一応たずねた。どうでもよさそうな口調ではあったが。

「さて.....なんであったかな。きっと理由も覚えておらぬほどに、くだらぬことであったのだろうと思う」

 夏侯惇はあっさりとそう言った。もちろん壁ひとつ隔てて、張コウがわなわなと怒りに身をふるわせていることなど、知りはしない。

.....理由も思い出せぬような些事で.....それで殴り合いか?」

 本気で呆れたのか司馬懿の声は、尻上がりの疑問符を投げ掛けた。

「ふふ、そうなのだ。周瑜殿が張コウの二の腕に噛み付いて、張コウは張コウで、周瑜殿の顔を思いっきりひっぱたいておったな。大きな物音がして、わしが駆けつけた時は、ちょうどそんな場面であった」

.....それは.....

 司馬懿の言葉は先が続かなかった。冷徹無比なる軍師には、こういった無目的な感情のぶつけ合いに、すぐさまコメントが返せないのかもしれない。そんな司馬懿の様子が可笑しかったのか、夏侯惇は小さく吹きだした。

「ぬしのそんな顔は初めて見る」

.....どうにも周瑜というのは、軍師らしからぬ人物だな」

「ああ、そのとおりだ。先にも言ったであろう。ぬしとは似ても似付かぬ。軍師という同じ職に就いておってもな」

 皮肉か本気か、夏侯惇は大まじめにそう言った。

.....あれの容態はそんなに芳しくなかったのか?」

 司馬懿は話の方向を変えた。

「私はほとんど周瑜と接触が無かったのでな。詳しくは知らぬのだ。.....というより、嫌われていたらしい。所用あって事の伝達に赴いたときですら、目を合わせようともしなかった」

 司馬懿の口調はいっそ愉快げであった。

「おぬしのことを大分恐れていたようであったからな」

「そうなのか? 特になんら手を下したわけでもないのだがな」

「そういうことではないのだろう。理屈があって怯えていたわけではないのだと思う。そういう人ではないのだ」

「ますますもって軍師らしくない男だ」

.....わしは.....医者ではないのでな。くわしいことはわからん。だが.....なんとなくこのまま異国の地においておけば、そう長くはもたないのではないかと.....そう感じた。ただ感じただけだ。実際のところは知らぬ」

「ふ.....ん」

「病のこともそうなのだがな.....あの人には生きるという意志が感じられぬのだ。棄てられた子どもが、絶望的なまなざしで死に場所を探しているような.....そんなふうに見えた。まぁ胸を患っていたせいかもしれぬが」

「胸の病は業病.....治すのは難しいであろうな。人にうつるとも言われておる」

.....ああ、だからなのか」

 ぼんやりと夏侯惇が言った。

「どうされた?」

「口づけようとしたときに、ひどく抗われた。思えばあれは病がうつるのを避けようとされたのだな.....

 夏侯惇は、何の抑揚もなく、ぼそりとつぶやいた。

 お約束のように、司馬懿と壁の向う側の張コウは、瞬時に固まった。

 

.....夏侯惇将軍.....さきほど周瑜には、指一本触れておらぬと.....そう申されなかったか?」

 司馬懿の物言いは、夏侯惇のつぶやき以上に低くかすれていて、聞き取りにくかった。さもあろう。

 だが司馬懿の動揺も、壁ひとつ隔て硬直状態の解けぬ張コウには及ばなかった。張コウは目の前が紅蓮の炎に被われ、ぐらぐらと揺らいでいくのをただ一人感じていた。

「あ、いや.....別によいのだ。ぬしと周瑜の関係など知ったとて.....とりたてて.....

 とりつくろ

..........? 司馬懿? ああ、口づけたというのは、水を飲.....

 そこまで夏侯惇が言った時であった。

 うように司馬懿がささやいた。

 突如、彼らの、眼前の壁が音を立てて崩れた。

 「ちょっ.....

 先にこぼれ落ちたのは司馬懿の声であった。そして再び、

.....張コウ!」

 と、ふたりの叫びが重なった。それを合図にしたように、崩れた壁の石片が、がらがらと音を立てて床に落ちた。

.....この私を室の外に追いだしたかと思えば、そのような破廉恥な内緒話を.....けがらわしいっ!」

 シャキーンと冷たい金属音をたて、張コウは朱雀虹をふたりにつきつけた。仁王立ちになり、声高にのたまう彼は、その一九四センチの長身も手伝ってか、たいそうな迫力があった。

 比して石像のごとく硬直したふたり。常ならば、ギガバイトの容量でフル回転する司馬懿の頭脳も、あまりの事態の展開にフリーズしたらしい。

.....それにしても憎々しきは孫呉の周公瑾よ! 殿の歓心を買うばかりか、私の大切な御二方にまで魔の手を.....!」

 呪文を唱えるように、張コウは早口でつぶやいた。睫毛のうるさい切れ長の双眸は、もはや現実世界を映し出してはいない。

「ちょ、張コウ、張コウ将軍! 落ち着かれよ」

 やっとのことで司馬懿が口を開いた。つられたように夏侯惇も身を乗り出して叫ぶ。

「張コウ将軍、おぬしは何やら誤解を.....ぐぅっ!」

「ばか者! 動くな! その状態で上半身に力を入れるなど.....

 司馬懿は慌てて、身を起こしかけた夏侯惇をささえた。

「いや.....つい、すまぬ」

「よいから.....そのままゆっくり体勢をととのえられよ」

 わずかな間隙の後.....

.....うるわしきご友情ですねぇ、御二方」

 そう、ささやいた張コウの声音は、この上なくやさしく.....冷ややかであった。

「あの.....張コ.....

「かつての私ならば、愛しい御二人が、仲むつまじく庇い合い、語らいあうのを、うっとりと.....もとい、あたたかな眼差しで見守ることもできたでしょうが.....

 張コウは切なげに、視線を虚空に投げ掛け、鋭利な爪のついた両の腕を大きく広げた。その拍子に爪先が掛布に触れた。落ち着いた色合いのその厚布は、音もなくはらりと二枚に分かれた。

 ゾーッとばかりに震え上がる黒羽扇の軍師と隻眼将軍である。張コウの技に怯えたというよりも、うつろな半眼に、悲しげな薄笑いを浮かべた張コウ彼自身に恐怖したのだろう。もちろん当の張コウに、その自覚はない。

.....私の大切な御二方が、周公瑾に懸想したなどという話.....とても正気では聞いていられません!」

「張コウ将軍には、いつでも正気を疑う振舞いが.....

「し、司馬懿! 危険な発言をするな! ぐぅっ!」

「動くなというのに、夏侯惇将軍!」

 張コウの色みの薄い目が、すっと細められた。

「やはりあの男.....この私が始末をつけておくべきでした.....あんなものを生かしておいては、殿の御為にも、あなた方のためにも、ひいてはこの中華全土においても、負の遺産でしかありません」

.....そんな大げさな.....

 つぶやきにも似た軍師の言葉は黙殺された。

「あやつの息の根を止めずに置いたのは、一生の不覚.....いや、今からでも遅くはありません!」

 張コウは鋭く言い放った。

「この後に及んでは、理由のすべてを殿に進言した上.....!」

 いったんそこで言葉を切り、夏侯惇らが口を挟む前に、張コウは声高に続けた。

「対呉戦線の火蓋を切っていただきましょう!ええ、もちろん先陣は私がつとめます!」

「ええええーッ!?」

 世にもめずらしい、軍師と隻眼将軍の悲鳴であった。

「何もそんなに驚くことはないでしょ」

 つんとして張コウは言った。

「いずれ孫呉とは雌雄を決するのは必至。その時期を早めよと提言するだけです」

「ちょ、張コウ将軍! 確かに近い将来、呉と再び合いまみえるのは必定ではあろうが、こんなくだらぬコトをその理由に戦端を開くなど.....馬鹿げている! だいたい殿に、一体なにをどう告げるおつもりなのか.....

 『こんなくだらぬコト』とは、夏侯惇が周瑜くんに接吻した件であろうか。それとも張コウ的解釈による、ふたりのお気に入り(司馬懿自身も含む)が周瑜くんに懸想したということであろうか。

 とにもかくにも司馬懿は、張コウをいさめようと説得を試みたのだ。だがそれはかえって張コウの逆鱗に触れるばかりであった.....

「そんなこと? そんなことですって? 私にとっては大問題ですっ! 心からお慕い申し上げていた司馬懿殿と夏侯惇将軍が、あのような下賎な輩に想いを寄せるなど.....ああ、考えただけでも、臓腑が煮えくり返る気がいたします! この上はなにがなんでも周瑜をこの手で.....

「待たぬかッ!」

 するどく遮ったのは司馬懿である。

「いいかげんにせよ! 私は周瑜に懸想などしておらぬ! いったい何ゆえ、この私があの男に想いを寄せたことになっておるのだ! あまりにもくだらぬ!」

 めったに声など荒げない司馬懿であったが、もはやそんな体裁を取り繕っている場合ではなかったのだろう。

「だいたい周瑜に口づけなどしたのは夏侯惇将軍であろう? 私の方は触れるどころか、言葉を交わしたことすら稀なのだ! 私があやつを許昌に連れ戻したいと思ったのは、軍略上のことだ。他意があるわけなかろう! 不快な!」

.....は、はぁ.....

 立板に水のごとき軍師の反論に、頭に血が上っていた張コウも、わずかに平常心を取り戻す。

「ちょっと待て、司馬懿よ! 口づけなどという誤解を招く言い方をしてくれるな! い、いや、確かに、口を付けたのは事実なのだが.....

 墓穴を掘る夏侯惇である。みるみる張コウの眉がつり上がっていくのを見て、あわてて付け加えた。

「そ、そういう意味合いではないのだ! 合肥への行軍中、周瑜殿が血を吐かれたのだ。それで水を含ませようとしたのだが、嚥下する力が無くてだな! 何とか口移しで飲み込ませたのだ。ただそれだけ! それだけのことなのだ! た、他意はござらぬ!」

.....それだけ.....

 微妙な調子で、司馬懿がくり返した。

「そ、それだけ、それだけなのだ! 張コウ将軍! それゆえ、ぬしが怒ることではないし、ましてや周瑜誅殺だの、孫呉討伐だのと、騒ぎ立てる必要はないのだ! な、わかったであろう?」

 ほとんど掻き口説くように、夏侯惇は言い募った。

.....本当にー.....?」

 常とは異なる、やや低めの声で、疑わしげにたずねる張コウ。

「本当だ! 孫呉よりあずかった大切な質なのだ! 合肥への道程で死なせるわけにはいかなかろう。.....ただそれだけの.....ことなのだ」

 司馬懿がちらりと夏侯惇を見遣った。だが、黒羽扇の軍師は、口を開きはしなかった。

 張コウは憮然とした面持ちで沈黙を守る。そして、

「では.....

 と、声をこぼした。

「夏侯惇将軍.....では、もし、私が倒れたとしたら.....口うつしでお水、飲ませてくださいます?」

 夏侯惇は固まった。座臥の上に、起きあがったままの姿勢で。ふた呼吸ほどもおいたのち、隻眼将軍は黙ったままぎこちなくうなずいた。ほんのりと涙目になっているのは、司馬懿が布団に手を突っ込んで、スネ毛でも引き抜いたのであろうか。

「では、夏侯惇将軍.....この私、張コウと周瑜、どちらがより美しいと思われます?」

 張コウはずずいと夏侯惇に迫った。その切れ長の双眸に、淡い紫の炎を灯して。

「そ、それは.....

 ぐっと息をつめた後、苦鳴のような声が、乾いた口唇から漏れる。

「ちょ.....張コウ将軍.....

 司馬懿が、気の毒そうに夏侯惇を横目で見る。すぐさま「司馬懿殿は?」とふられ、無言のまま軍師殿は頷いた。

「では、夏侯惇将軍、司馬懿殿。私と周瑜、どちらが愛らしいですか?」

「い、いや、愛らしいというのは、通常、男には.....

 身長一九四センチの張コウを、座臥から見上げ、夏侯惇は思わずつぶやいた。無理もない。司馬懿は言わずもがな、一八をゆうに越える夏侯惇以上に、張コウは上背があるのだ。

.....まぁ、夏侯惇将軍の言われるように、男性相手に愛らしいだの、なんだのというのは考えたこともないが.....あえていうのならば張コウ将軍だな」

 さすがの軍師殿であった。尊敬の眼差しで司馬懿を仰ぎ見る夏侯惇。色みを感じさせない司馬懿の面は、無我の境地に達していた。

.....では最後にひとつ.....

 ぐぐぐーっと、張コウはのびあがった。一九四センチの長身の影が、ふたりに覆いかぶさってくる。

 

「この私と周瑜.....どちらの方が好きですか?」

 

..........張コウ.....

 夏侯惇はこたえた。

「いわずもがな張コウ将軍ですな。愚問であろう」

 と、司馬懿。言葉の終わりに、「.....魏だしな」とささやいた。黒羽扇で顔を覆った後の、その言葉は、もちろんだれの耳にも入らなかった。

.....よろしいでしょう。おふたりのお気持ちは、この張コウ、よーっくわかりました」

 そう言って、わずかに首をかしげた彼は、それなりに可愛らしく見ええた。

「やれやれ.....私としたことが、どうやら激しい思い違いをしていたようですね。あらあら壁が崩れちゃってますねぇ」

 見事に破壊され、風通しのよくなった壁を、彼はほのぼのとみやった。

『おまえが壊したんだろう!』と叫べる勇者は、この場にはいなかった。

「あ、ああ.....まぁ.....

 ぎこちなく夏侯惇は頷いた。

「すぐに人をやって修理いたしますからね」

.....あ、ああ」

「ああ、でも、騒々しいですし、ほこりもたちますねぇ。傷によくないですね〜」

..........

「そうだ! 夏侯惇将軍には、四五日、こちらのお部屋を退出していただくことにいたしましょう!」

「え?」

「ご安心を。その間、私の私室にいらっしゃればよろしいのです! 美しいしつらえになっておりますし、私がついていれば安全です!」

 張コウは嬉しそうにそう言った。

「い.....いや、そんな迷惑は.....というか.....

「まぁ、なにをおっしゃいます!ご遠慮なさいますな! ねぇ、司馬懿殿!」

.....あ、ああ、まぁ.....その.....

 別の方向で安全性は保証できないだろう、と言いたげな司馬懿の面持ち。もちろんそんなことを気にとめる張コウではない。

 

「ああ、よかった! さきほどまでの胸のつかえが取れた気分です! 今日はとてもよい日ですね! 曹魏バンザイ!」

「いや.....あの.....

「ささ!善は急げです!」

 張コウが、長い柄物をはずし、ぱんぱんと両の手を打ちあわせると、春に配属が決まった張コウ軍団があらわれた。

「失礼いたしますっ!」

「うわっ! お、おまえたち.....な、なにを.....

 肩の傷で不用意に動けない夏侯惇を、座臥ごとひっかかえ、八人がかりでもちあげる。

「よ、よせ、おい!」

「みなさん! 大切なお客人です!丁寧〜にお運びしてください! ええ、私の寝室に!」

「ぎゃーっ!司馬懿っ! 司馬懿ーッ!」

 夏侯惇は、軍師に救いを求めた。だが、司馬懿が何か口にする前に、張コウが満面の笑みをたたえて牽制する。

「この私の心遣い、おわかりいただけますね? うふふ。司馬懿殿も、時々ご様子を見にいらしてくださいね 司馬懿殿なら、いついらしても大歓迎です」

 張コウはやさしく言った。怜悧な顔立ちがふわりとなごむと、彼の面ざしはたいそう愛らしかった。

 

 こんな曹魏の問題児は、実はだれからも愛されているのである。

 張コウ、あざなを儁乂。もと袁紹幕下の勇将にして、現在は魏の将軍である。

 そんな彼の物語は、たったいま、始まったばかりである。