王子様はだれだ!
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 曹丕は、一旦、割り当ての私室に戻ると、すぐさま、続きの湯殿に入った。

 簡単な沐浴をすませると、新しい服に着替える。

 

 それは豪奢な礼服などではなく、ごくあっさりとした平服……馬に乗るのに向いているような、裾の短めの一重であった。その上に上着を着込みきちんと剣を携える。

 室を出る際に、銅鏡をのぞき込むのを忘れない。

 

 曹丕はそのまま、厩舎へ向かった。

 此度の遠征に、彼は騎馬を使ったのだ。もちろん自国で飼い慣らした愛馬である。

 

「よし、少し走るぞ、冬牙」

 人間と口を聞くよりも、遙かにやわらかな口調で語りかける曹丕。

『冬牙』と呼ばれた黒馬は、高く嘶くと、曹丕を乗せ、走り出した。軍人にとって、馬と人は一対のもの。曹丕はこの有能で聡明な瞳の黒馬を愛していたし、冬牙もまた主を想っているかのようであった。

 

 曹丕は宮中の表門ではなく、東の裏門を通ることにした。仰々しい対応をなされるのは面倒くさかったし、自国の連中に遭遇したら、やれどこに行くのだと尋ねる輩も居よう。

 太子という立場であるおのれの身を鑑みれば、致し方ないということになろうが、さすがに四六時中それではかなわない。

 

 曹丕が、門衛に声を掛けようとしたとき、意外にも、その曹丕を呼び止める者が居た。

 

「曹丕さま〜、待って〜」

 それは周瑜くんであった。白い馬に乗っている。

「……周大都督、いかがした」

 大都督自ら、呼びに来るとは緊急事態かと警戒する曹丕だが、周瑜くんはニコニコしながら言うのだった。

「曹丕さま、お出かけ?ねぇ、お出かけ?」

「え……ああ、まぁ、そうだな」

「お出かけなのね? ねぇ、周瑜くんも一緒に行っちゃダメ? ねぇ、ダメ?」

 曹丕の後ろで門衛の男たちが困惑したように、しかし笑いを堪えている。

 

「……いや、別にかまわぬが……面白い場所へ行こうというのではないぞ」

「うーうん、いいの。曹丕さまと一緒に行きたいの。だって、さっきはあんましおしゃべりできなかったじゃん。みんないたし」

 子どものような物言いだが、午前の視察では司馬懿はじめ、陸遜らも居たので、ほとんどまともな会話ができなかっただろうと言いたいらしい。

「……そうか、側近の者には告げて来たろうな?」

 曹丕は確認した。なんといっても、仮想敵国どころか、実際に矛を交えた間柄なのだ。下手に二人きりで行動しては周囲に警戒させることになる。

 

「うん、だいじょーぶ。りょもーに言ってきた」

「……まぁ、ならばかまわぬが」

「ちゃんとお菓子も持ってきたよ、えへえへ」

 周瑜くんは手柄顔で嬉しそうに笑った。

「やれやれ、お主にはかなわぬな。ではついてくるがいい」

 そういうと、曹丕は馬に鞭をくれた。いきおいよく東門から飛び出してゆく。

 そのまま北を迂回し、西方へ走り抜ける。こちらの方角はいわゆる市街地ではない。そのまま、走り続け、方向をやや南にそれると、20分も走らぬ内に、深い緑に覆われた土地になる。

 曹丕は城がほとんど見えなくなると、ゆったりと馬を走らせた。

 

「ねぇねぇ、曹丕さま、その子、なんていうの?」

「……その子? ああ、この馬のことか」

「うん、綺麗なたてがみ。黒い髪の美人さんだねぇ」

 周瑜くんが訊ねた。独特の言い回しにも不思議と慣れつつある曹丕であった。

 

「ふ……これは『冬牙』……冬という字に、牙と書く」

「へぇ、かっこいい。女の子なのに」

「ふ……これは雌だが、なかなかのじゃじゃ馬なのだ。私以外には触れられるのも嫌がることがある」

「ふ〜ん、曹丕さまのこと、好きなんだねぇ」

 となりに並んだ周瑜くんが微笑んだ。長い栗色の髪が、午後の日差しに融けるように輝いた。

「……馬は飼い主に似るというではないか。こいつも私に似て気難し屋ということらしい」

「へへへ、そっかー。あのね、周瑜くんのこの子はね、白姫ってゆーの。雪みたいに白いでしょ?」

「なるほどな、美しい娘だ」

「ありがと、よかったねー、白姫」

 そんなことをいいながら、ぽんぽんと馬の首を撫でる周瑜くん。皮肉屋の曹丕といえど、こんなふうな彼に対して、冷ややかな態度をとる必要はないようだった。

「でもね、白姫もね、周瑜くん以外には、あんまし懐かないんだよ。策なんか蹴っ飛ばされてたもん」

「……策……ああ、孫伯符……か。親父殿が残念がっておったな」

「曹操さまが? そうなんだ……」

「……ああ、お主の親友だったな。思い出させるようなことを言ってすまなかった」

「え? ううん、そんなことないよ。策の話出したの周瑜くんだし。それに策がいなくなって、もうずいぶん経つし」

 少しだけ寂しそうに周瑜くんが言った。

「あ、でもね、策と周瑜くんはいつもずっと一緒に居るんだよ? 周瑜くんの気持ちはずっとずっと策の側にいんの。ただ住む世界が違っちゃっただけで、一時的に離ればなれになっちゃってるだけで、もうすぐまた会えるもの」

「……周大都督……それは……」

「周瑜くんはね、もうすぐ、向こうへ行くの。わかんの、そーゆーの。昔からわかんのよ」

「どういうことだ、それは。まるでお主はすぐにでも死ぬような物言いではないか」

 普通の者ならば、この不吉な予言を聞かなかったことにしたり、やんわりと周瑜くんをたしなめ、話を反らせてやり過ごすだけだが、曹丕ははっきりとそう問い返した。

 

「え、え……と、これはそんなに悲しいお話じゃないの。ヤな事じゃないのよ」

「それは単にお主が、死生観についてそういう考え方をしているという意味だろう。私が訊いているのは、まるでおのれの死期を知るような言い方のことだ」

「だって……なんかわかんだもん……」

 周瑜くんは言い負かされた子どもが愚痴るように、口の中でブツブツとつぶやいた。

 

「あ、あれ、曹丕さま、ずいぶん遠くまで来ちゃったよ? どこに行くの?」

「……ああ、呉には、中原では見られない、おもしろい植物が生息すると聞いてな。市街地だけでなく、少し奥深いところまで行ってみたいと思っていただけだ。特に目的地といったものはない」

 なんとなく話を続けにくくなった周瑜くんの様子を察したのだろう。曹丕は自然にそれに合わせた。

「そうなの? じゃ、周瑜くんが案内してあげるよ。こっちの方角なら、綺麗な湖があるよ!ちっこいけどね!」

「そうか、では参ろう」

「うん、すぐだよ」

 周瑜くんは手綱を引いた。白馬がまるで主を守るように駆ける。

 曹丕は無言のまま、その後に続いた。

 

 女人以上に長く美しい髪が、やわらかく風に舞う。

 

『周瑜くんはね、もうすぐ、向こうへ行くの。わかんの、そーゆーの。昔からわかんのよ』

 

 その背を見ていると先ほどの言葉が埒もなく思われる。

  

 名誉・地位・財産、そしてたぐいまれな容姿に明晰な頭脳……おおよそ、人間の望むすべてを手に入れている彼……

 いくら、親しかった友が亡くなろうと、後を追うような意味はないだろう。いや、後を追うというニュアンスではなかった。

 彼は「わかる」と言っていた。

 ……「わかる」……

 

「……私にはよくわからぬな、周大都督……」

 曹丕は頬を撫でる風にのせ、独り言のようにつぶやいたのであった。