桜花流水
<11>〜<15>
 
 
 
 

 

 

 

 孫策は言った。

「周瑜は必ず医者を連れて帰ってくるさ。.....間に合うといいな」

 それだけいうと、周泰がなにか口にする前にきびすを返した。戸を開け、その姿が見えなくなるまで、周泰は黙って見送った。

.....ふぅ」

 一人きりになり、肩で大きく息をつく。

 さきほど目覚めたばかりにもかかわらず、周泰は強い眠気に襲われた。

.....なんだ? 手当てを受けたときに飲まされた酒のせいか? それとも練香か.....?)

 傷口の処置を受けたときに嗅がされた、甘ったるい香の薫りを思いだす。すると何故か、長い髪をした孫呉の大都督の、白い顔が浮んできた。

.....周瑜どの.....

 かすれた声でその人の名を呼んでみる。

.....周瑜殿.....どうか.....

 『どうかよろしく頼む』と続けそうになった、おのれの惰弱さを周泰は怒った。今後のことに、思いを巡らせるとまもなく、周泰は二度目の深い眠りに引きずり込まれた。

 

 濡須口河岸、現在午前二時.....

 

.....周泰.....

.....周泰.....周泰.....?)

 聞きなれた声音に、周泰は泥のような身体を起こそうとした。しかし身体がひどく重い。まるで節々まで鉛を詰め込まれたようだ。

「ぐ..........くそ.....

 周泰は意のままに動かぬ、自らの肉体に毒づいた。

.....周泰.....周泰.....

「その声.....蒋欽だな? どこだ? どこにいる」

.....周泰.....あなたのすぐ側ですよ)

.....見えん.....ここは暗くて.....

(いいんです。.....そのままでいて下さい)

「おい.....? 蒋欽?」

 いつもの親友の物言いとは少し違う。周泰は口に出せない不安を感じる。

「蒋欽? 蒋欽? どこだ! どこにいる? 俺の前に来てくれ」

.....周泰.....そのままで.....そう.....お身体はだいじょうぶですか? 肩にひどい怪我を負われたでしょう?)

「俺のことはどうでもいい! おまえのほうこそどうなのだ? だいじょうぶなのか?」

.....あなたが無事でよかった。ええ、本当にそう思います。.....仲間の皆のためにも.....といっているのではありません。ただ、あなたが生きていてくれるという、それだけがひたすらに嬉しいのです)

「蒋欽.....おまえ、何が言いたいんだ? いつもと.....いつもならそんなことは口にせぬではないか!」

 腹の冷えるような不安が、徐々に大きくなってゆく。それを振り払うように、周泰は大声を出した。蒋欽がふ、と笑ったような気がした。

(あなたが無事でよかったという.....言葉のとおりですよ)

「蒋欽.....?」

(ねぇ、周泰.....私たちが初めて会ったときのこと.....覚えていますか?)

.....おまえ.....何を言いたいんだ? 蒋欽.....?」

(村の寺子屋でしたよね。私の父が教師をつとめる.....あなたはいつも窓の外から講義を覗いてらした)

 蒋欽がふたたび、小さく笑ったような気がした。すぐ側にいると彼は言うが、周泰にはどうしても蒋欽の姿を見取ることができない。それがますます不安を増大させるのだ。

(あなたは誰よりも聡明で思慮深い人なのに、その頃はそうして学問所をのぞいておられるだけでしたよね.....

「ああ.....俺の家は貧しかったからな」

 周泰は気を静めて、友の言葉に耳を傾けた。何を言いたいのか、本当に側にいるのか、具合はどうなのか.....尋ねたいことは山ほどにあったが、周泰は問い掛けをやめた。理由はない。なぜか、そうしなければならないような気がしたのだ。

(よかったら入って聞いてください、と声をかけた私を、あなたは冷ややかな眼差しで見つめていました)

「そうだったか.....? ああ、よくも落ち着き払って俺なんぞに声をかけてきたものだと、呆れたのだ」

(ふふ.....今だからこそ言えますが、さすがに少し緊張していたのですよ。あの頃から、あなたは身の丈六尺を越える、強そうな人でしたから)

.....感謝している」

(おや、めずらしい言葉を口にされますね。.....何にですか? 私からあなたに声をおかけしたことですか?)

 少し茶化すような楽しげな声音で、蒋欽が言った。周泰は視線だけで微笑み、つぶやいた。

.....おまえと出逢えたことだ」

(周泰.....?)

「多くの人間がひしめき合うこの世で、おまえというたった一人の人間と出会え.....そしてこれからも共に生きていけること.....

.....周泰.....

「祈ったことなどない俺だが、それだけは天帝に感謝している」

.....周泰.....ありがとう。私もあなたに逢えて嬉しかったです.....

 かすれた声がそう綴った。

「おい、なんだ。これで終いのような言い方をするな」

 ふたたび苦い不安感が沸き起こり、周泰はやや早口に言った。

.....ありがとう.....周泰.....

「おい.....蒋欽?」

(ありがとう、周泰.....ありがとう! あなたに出逢えなければ、私の一生など、路傍の石にも似たものでした.....あなたにめぐりあわせてくれた、すべてのものに、私は感謝しています.....!)

「蒋欽.....! おい、おまえ、おかしいぞ! いったいなにを言い出すんだ?」

.....さようなら、周泰.....本当にありがとう.....どうか君の行く道に幸あらんことを.....

「蒋欽? 蒋欽ッ、蒋欽ッ.....蒋欽?」

 くり返し、友の名を呼ぶ。

「蒋欽っ! おい、返事をしろっ! 蒋欽ーッ」

 だが漆黒の空間は何も応えはしない。ただおのれの発する叫びのみが、空しく木霊するだけであった。

 

 周泰の手が、むなしく虚空をかいた。その拍子に、彼は救いのない悪夢から目覚めた。

 がばりと身を起こした瞬間、負傷した肩に激痛が走る。荒い呼吸をととのえると、汗が頬を伝い、ぽたぽたと掛布に落ちた。

.....夢か」

 あえてそう口に出してみる。

 先ほどまでの場面は、まちがいなく夢であった。なぜなら、周泰の両の目に写っているのは真っ暗闇などではなく、粗末な白い掛布に、焦げ茶色の机、椅子。そして淡い光りの注ぐ、船室の風景だったのだから。

 次の瞬間、はじかれたように顔をあげる。もはや予断の許される状況ではなかったはずだ。周瑜くんが船から飛び出して行ったのが、深夜の二時過ぎである。

 今の正確な時間はわかりかねるが、かすかな日差しから推察すると、どう考えても正午に近いだろう。周泰はあわてて起き上がり、傷の痛みに声をもらした。

「くそ.....ッ! 今は一体何刻なのだ.....周大都督は.....

 枕辺に立て掛けておいた大刀を片手に、なんとか立ち上がる。ふらつく下肢を叱咤しつつ、扉に手をかけた。

 .....夢だ、で一笑する気分には到底なれなかった。あまりにも現実味のある、生々しい夢。そして親友の別れの言葉。

 誰から聞いた話だったか、人間は死ぬ直前に、これまでの記憶を走馬灯のように見るという。周泰が視たものは、自身の記憶に他ならなかった。だが、そのどれもが蒋欽にかかわっていることばかりなのだ。

 鈍色の不安に、疲弊した肉体を内側からおしつぶされる。その苦痛に周泰は吐き気さえもよおした。

 

「おい、大将! 起きてきてんじゃねぇよ!」

 船室から一歩よろけでた周泰を迎えたのは、孫呉の若武者の一声であった。

.....孫策殿.....

「傷口がひらくだろ! 言っとくが、おめぇの傷だって、かなりの重傷なんだぜ? 甘く見てたらえれー目にあうぞ!」

 孫策の物言いが昨夜と違う。あきらかに苛立ちが見える。血走った紅い目は、昨夜、彼がほとんど眠りについていなかったのだと、見て取れた。

「孫策殿.....周大都督は.....?」

「まだ帰ってきてねぇよ!」

 覆い被せるように、孫策が怒鳴った。

「おめーがイラつくのはわかるけどな! まだ何の音さたもねぇ」

...............

.....気になって今朝方若い野郎どもに、周瑜の後を追わせたんだがな.....そいつらはさっき帰ってきやがった。.....人数は減っていたがな」

....................なに?」

「狼に食い殺されたんだよッ!」

 吐き捨てるように孫策が言った。

.....うかつだったぜ.....濡須のあたりは、けっこう寒いんだ。.....この季節だと、北に行き遅れた狼どもが集ってやがる。三人ぱかしで、周瑜の後を追わせた俺の判断ミスだ」

.....狼」

「ああ。あのクソデカイ奴だ。おめーも賊やってんなら、一度くらい逢ったことあんだろう」

「ああ.....知っている」

「ちくしょう! .....周瑜だって無事かどうかわからねぇッ あいつの腕ならひとりで切り抜けられるだろうが、じじい連れとなりゃ話しは別だ」

...............孫策どの」

「いや.....仮に行きに遭遇したとしても、大群に遭っちまったとしたら、白姫のほうがびびって動けなくなりそうだ」

...............

「ちくしょうっ!ちくしょうッ!.....俺が行くべきだったんだ。周瑜の言うことなんか聞かないで、無理にでも一緒にいけばよかった.....ッ!」

 孫策は、力任せに壁を拳で打った。周泰には掛ける言葉が見つからなかった。親友の安否を思う彼に、適当な慰めの文句など、気休めにもならないだろう。それは周泰自身が嫌というほど思い知っていることであった。

.....すまん。やつあたりだ」

 孫策のほうから口をひらいた。

「いや.....かまわない。不愉快に感じるかも知れぬが、貴殿の気持ちはわかるつもりだ。俺にも大切な友がいる.....

「そうか.....そうだったな」

「ああ」

.....おめーんところの軍師さんだったけか」

「ああ。蒋欽という」

「こいよ。そいつの室に案内すっから」

 その申し出は周泰にとってありがたいものであった。

 

.....蒋欽ッ!」

 周泰は、藁のけば立った、粗末な座臥に駆け寄った。

「蒋欽ッ 蒋欽ッ!」

「よせ。デカイ声を出すな。もう意識がないんだ」

.....死んでいるようだ」

 周泰はつぶやいた。ぽろりとこぼれ出た本音であった。

「バカを言うな。ちゃんと呼吸しているだろうッ」

.....もってあと三、四時間だろう」

「おい、周泰!」

 孫策が怒鳴った。

.....この空気の澱み.....何度も経験している。死臭だ.....

 周泰は淡々と言った。おのれの口から出てゆく平坦な活字のような文句を、別の場所で、もう一人の自分が慟哭しつつ聞いている。

「周泰! おめーおかしいぞッ コイツの姿見てトんじまったのか? しっかりしろよ! 気を確かに持って周瑜を待つんだッ」

 孫策がまるで自身に言い聞かせるようにつぶやいた。周泰は黙した。孫策も口を閉じる。ふたりの沈黙が、暗褐色の闇になり、澱んだ空気に溶けだした。

 しかしそれは、時間にすれば、わずかなものだったのである。

「若殿ッ! 若殿〜ッ! うわっ!」

 ガタガタガターン!という何かをひっくり返す派手な音。孫呉の若い兵卒であろう。孫策はちっと舌打ちすると、いきおいよく立ち上がった。

「うっせーぞ! ここはケガ人だらけなんだ! ちったぁ気を使え!」

「あっ! す、すんません! オ、オレ、慌てちまって.....

 顔中に傷のある、まだ二十にも満たなそうな青年が、恐縮して頭を掻いた。

「それで、何なんだッ」

「あっ、ああ! そうでした! しゅ、周大都督がお戻りになられました! あの、なんとかというジイさん.....じゃねぇ、お医者さんも一緒ッス!」

「なにっ?」

 周泰の叫び声と、孫策のそれとがひとつに重なった。

「バッキャローッ! それを早く言えーッ」

 孫策が、文字通りすっ飛びあがって船室を飛びだす。周泰もすぐさまその後を追った。

「かたじけない.....感謝するッ」

 そう伝えると若い男はしゃっちょこばって敬礼した。その実直な行動に周泰は笑みをこぼした。

「あ、あの、今、甲板に登ってくるところだと思うッス。すぐいらっしゃいますから」

 周泰はひとつうなずくと足を早めた。肩の傷が熱をもって、ズクズクと疼き始める。それは周瑜くんへの感謝の気持ちと、神医華佗への期待に、身体が興奮しているのだろう。

「来たか、大将ッ!」

 壁伝いに手をついて、ようやく甲板にまろび出た周泰に、孫策が声をかけた。だが周泰はそれに返事もしなかった。いや、声を返す余裕もなかったのである。

「やれやれ、相変わらず周大都督にはおどかされるわい。泣く子と周瑜殿にはかなわんの〜」

 冗談ともいえぬ口調でとんとんと肩を叩き、老医師はゆるゆると歩いてきた。その背後には似通った紺の衣服を身に着けた青年たちが立っている。華佗の元で医術を学ぶ学徒であろう。

「お若いの。急ぎの患者はどこじゃい」

 華佗が周泰に声をかけてきた。

「え.....あっ.....ああ」

 夢見心地で、ぼうっと突っ立っていた周泰は、すぐさま言葉が返せなかった。

「あ、あ、オレ、案内するッス! こっちッス!」

 さきほどの若い兵卒が、すぐさま案内役を買って出た。その気遣いが周泰には有難かった。

「おうおう、お若いの.....見ればお主も怪我人のようじゃのう。急ぎの患者が終わったら、わしのところへ来い。傷口を看てやろう」

 老医師は、コシコシと眠たげな眼をこすってそう言った。

.....ご、御医師ッ! どうか.....どうか.....蒋欽の命を助けてくれ! お願いいたすっ!」

「ふぉ? ああ、これから看る患者は、お主の大切な人間なのかの。さぁてさて、わしは医者じゃ。できるかぎりのことはするがのぅ」

 うんしょとばかりに、小柄な身体の丸めた背を延ばし、華佗は若い兵卒について船室に消えた。その後を、十数名の医師の卵が、ざかざかと付いてゆく。後ろ姿を祈るような気持ちで見送り、周泰は初めて孫策を見た。

.....孫策殿! 周大都督はッ!」

 周泰は勢い込んでたずねた。

「ああ、無事だ。だがちょっと怪我してるんでな。オレの室で休ませている」

「ひどいのかッ?」

「心配すんな、大将。たいしたことはねぇ」

 あっさりと孫策が言った。

「とりあえず、おめーはもう室に戻って休んどけ。華佗も言ってたが、おめーの怪我も半端じゃねーんだから、悪化させたくなかったら大事をとるんだな」

 ひらひらと手を振ると、話は終わったとばかりに、華佗とは反対方向の船室に向かって孫策は歩き出した。室にいる周瑜くんが気になるのだろう。

 取り残された形になった周泰は、わずかな逡巡の後、さきほどまで居た蒋欽の眠る室へと急いだ。

.....蒋欽ッ!」

「いけねぇっす!」

 扉を開けた瞬間、そう言って止めに入ってきたのは、さっきの若い兵卒であった。

「ダメッス! 周泰の大将!」

「な.....

.....やっぱスゲーむずかしい手術になるらしいッス。出入り禁止だそうです。.....あ、オレ、見張りッスから」

.....そうか」

「あっ、気.....気ぃ落とさないで下さい! 華佗センセは神医ッスから。助けるための手術にすげぇ時間がかかるってだけで.....

...............

「あの.....周泰の大将.....

「いや、すまぬ。わかった.....孫策殿にも言われたからな。少し.....休むことにする.....

 周泰はつぶやいた。無理やり室の奥をのぞき込むわけにもいかず、それしか口にする言葉がなかった。

「あっ.....あの、周泰の大将ッ 手術終わったら、すぐにお知らせするッス!」

...............

「あ、あの.....

「いや.....かたじけない」

 一礼してきびすを返した。ズクンズクンと高鳴る心の臓を無理に押さえつけて、周泰は歩いた。どうしてもまっすぐに、あてがわれた室に帰る気になれなかった。元の場所に戻って座臥に横臥しても、決して心地よい微睡みは訪れはしないだろう。

.....オレはとんだ役立たずだな」

 自らを嘲るように、周泰はそうささやいた。

 甲板につながる道と、左舷の船室に向かう岐路にたどりつく。左に折れれば、孫策の室だ。

.....周大都督.....

 その人の顔が思い浮かぶ。怪我をしている、と孫策が言っていた。周泰は、ゆっくりと左のほうへ、足をすすめる。

左舷方向の、段幅の広い階段を上ると、すぐさま孫策の室がわかった。

 他の船室よりも重厚なつくりで、地味な装飾がなされている。しかしそれよりなにより、周瑜くんの大きな泣き声が目印になったのである。周泰は扉の前までたどり着きながらも、なかなかそれを叩くことができなかった。

 だが、周瑜くんの無事な姿を、ひと目だけでも見ておきたいと痛切に感じる。それも偽らざる本心である。周泰は、木戸の節目をのぞき込むと息を止め、身を固くした。

 果たしてそこには彼の人がいた。

「うえぇぇぇ〜ッ! うわぁぁん!」

 周瑜くんは声をしゃくり上げて泣いていた。顔中、涙まみれ鼻水まみれでデロデロである。

「うっうえぇぇ〜ッ! うぇぇぇ〜、策〜策〜 えっえっえっ! げっ、げほげほげほッ!」

 泣き過ぎで噎せ返り、子供のような大咳をくりかえす。周瑜くんによく似合う、赤を基調とした華やかな装束は、今は見る影もなく泥にまみれて汚れている。顔をこする袖口には、大きな鉤裂きができ、刺繍はほころびて縺れていた。

「うぇ〜、うぇぇぇ〜ん!」

「ほら、もう泣くなよ、周瑜。鼻かめよ。はい、ちーん」

「ちいぃぃぃん!うっえっうえっ、ふえっふえっ」

 孫策があてがってやった布きれに、思い切り鼻をかむ周瑜くん。興奮しているせいか、大きな茶色い瞳には、次々と涙の粒が盛り上がってくる。

「さ、ケガしたところ、手当てすんぜ。この程度の怪我なら、消毒して薬塗り付けるだけですむから、少しだけがまんしろや。な?」

「う、うん.....うん.....

 周瑜くんがコクコクと頷いた。周泰の目から見ても、孫策の処置は手慣れたものであった。汚れた傷口を湯に浸した手布でぬぐい、手早く薬を塗り込み、白布で覆ってゆく。

「痛いか?」

 手を休めずに孫策がたずねた。やさしい声音であった。周瑜くんがぷるぷると頭を振った。横にだ。長い栗色の髪が、さらさらと揺れる。

「うーうん、ちがうの。痛いんじゃないの。よかった、華佗センセとちゃんと会えて。連れてこられて」

「うん、そーだな。よくやったぜ、さすが周瑜だ」

「策の顔見たら、なんか安心しちゃった。そしたら涙、出てくんの。不思議、ね」

 そういうと、周瑜くんの目からボロボロと、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「そっか、よくやったな。ホント、よくやったよ、おまえは。手当て済んだら、何か腹に入れて眠れ。な?」

「うん.....うん.....みんな助かるといいね.....周泰殿のお友だちも大丈夫だといいね.....

 周瑜くんがつぶやいた。周泰は唐突に扉を開け放った。ノックをすべきだったのだろうが、そんな瑣末なことは、完全に脳裏から消え失せていた。

「周大都督!」

「きゃー」

 周瑜くんは、周泰を見とめると、間延びした悲鳴を上げた。

「おっと、大将! びっくりさせんなよ」

 孫策が言った。

.....すまぬ、つい.....周大都督、ご無事で.....よかった」

「うん。ちょっと汚れちゃったけど」

 周瑜くんが笑った。少し無理をしたように。

.....あなたには何と礼を言っていいのかわからぬ。心から感謝している」

「やぁだ、頭なんて下げないでよ、周泰どの〜」

「周大都督、傷の具合はどうなのだ? それを気かねば、休めといわれても、寝つくことなどできそうにない.....

 周泰は言った。本心であった。

「えっとね、あのね、おケガ、痛いの。血が出たの。ほらほら」

 周瑜くんは白い包帯を巻いた、右足や左の二の腕を、周泰に向かってやや誇らしげに見せつけた。

.....ひどく痛むのか.....?」

「うん。痛いの〜。血が出たし。ズクンズクンすんの。ズクンズクンって」

「おいおい、よせよ周瑜。周泰が蒼くなってんだろ。ああ、大将、心配すんな。周瑜のケガは、そこの船着き場の植え込みでズッコケただけだ。たいしたことはねーんだから気にすんな」

「おケガはおケガだもん! 華佗センセ連れててあわててたんだもん! なにさ、策のカバ! カバカバカバッ!」

「この男前に何を言いやがる! おめー、とりあえず顔くらい洗ってこい。泥んこと鼻水で、全然美周郎じゃねぇぞ」

「うっ.....うえぇぇん! びえぇぇぇーッ!」

「お、おい、孫策殿.....言い過ぎでは.....

「びえぇぇぇーッ! びえぇぇぇーッ!」

「ああ、だからもう泣くなっての!」

「うえぇぇぇーッ! びえぇぇぇーッ!」

「あ、ああ、そうだ! おい、ほら、周瑜。おめー、コイツのダチの容態、心配してたじゃんかよ。なっ?」

 強引に話をそらす孫策であった。

「あっ、そーだよ、周泰殿。お友だち、どう?」

 ぐずぐずと鼻水をすすりながら、周瑜くんが聞いた。さらに顔をこすりつけるので、いよいよひどい有り様になってしまう。

.....先刻、華佗殿が室に入った.....時間がかかろう.....

 周泰は言った。それだけしか返せる言葉がなかった。

.....そっか.....

 指をくわえたまま、周瑜くんがぽつりとつぶやいた。その面ざしは、悲痛にも深い思考に沈んでいるようにも、周泰には見えなかった。まるで、下界を知らぬ童女が、人の不思議を見て、問い掛けをする、ただそれだけの風情のように見えた。

.....周大都督.....

 周泰はゆっくりと言った。

.....蒋欽のことは別にしても.....あなたには感謝の言葉すら浮ばぬ。.....あなたのおかげで負傷した仲間が幾人も救われる。どうすればこの恩に報いることができるのか.....よう知れぬ」

「いいったら〜。周泰殿のために行ったわけじゃないもん。行きたいから行ったの〜。そんだから周泰殿が何度も頭を下げる必要はないよ。ケガ人のくせに〜」

「周大都督.....自らの危険もかえりみず.....貴方は勇敢な方なのだな」

 周泰は言った。言葉の苦手な彼であったが、周瑜くんに対する感謝の念は、万言で言い尽くしても足りないと感じたのだ。

「ゆうかん〜? えへえへ。策、ちゃ〜んと聞いてた? 周瑜くん、やさしくってキレイなだけじゃなくって、ゆうかんなんだよ。ゆ〜か〜ん!」

 周瑜くんはぽっと頬を染めて、孫策をかえり見た。

「ああ、はいはい、わかったよ! 恥ずかしいから、へらへら笑ってくり返すな!」

「ふーんだ。策、『しっと』してんのね。周泰殿にほめられちゃった周瑜くんに『しっと』してんのね!」

「するかーッ!」

 孫策が怒鳴った。こんな状況には似付かわしくもない笑みがこぼれそうになる。それをかみ殺し、周泰はずっと心に思っていたことを告げた。

.....周大都督それに孫策殿。なにか礼をさせて欲しい。どんなことでもいい。.....貴公はそんなつもりはないとおっしゃるであろうが.....どうしても礼をさせて欲しいのだ」

.....お礼〜?」

 指をくわえたまま、周瑜くんは小首をかしげた。

「ああ、礼だ。俺にできることならば、何でもさせて欲しい。これは俺自身のけじめなのだ。.....どうか意を汲んでほしい」

「そーなの。そっかー。なにをお願いしてもいいの?」

 意外にもあっさりと周瑜くんはそう言った。孫策は黙ったままだ。

「もちろん、俺にできることであれば!」

「あのね、二個あんの」

「は?」

「ふたっつ、あんのよ。お願い〜」

 周瑜くんの物言いは、のんびりと語尾が伸びる。

「ふたつ? それは.....

 周瑜くんの立てた、二本の細い指を見て、周泰は勢い込んで問いかけた。孫策は笑みを堪えた困り顔で、周瑜くんと周泰のやりとりを見守っていた。

「あのね、ひとつめはね、仲間のみんなと一緒に呉に来て」

.....は?」

「だからね。このままね、みんな一緒に呉にくんの。川賊に戻っちゃダメ」

.....しかし.....それは.....

「周泰殿。なんでも言うこときくって言ったもん。ねーっ!策!」

 強引に振られた孫策は、吹きだしそうな面持ちでコクコクと何度も頷いた。

「約束守って、ね? 周泰殿、そういったもんね〜。みんな、一緒に来んだよ?」

 まだ涙の名残を残したまま、周瑜くんはねへねへと笑った。

「わかり.....申した。皆に否応があるはずはない.....

 周泰はやっとそれだけを言った。周瑜くんの意図がわからなかった。司馬懿のような物言いならば、理解はできる。魏の軍師は武勇に優れた周泰をのみ欲しいと、誘ったのだ。だが周瑜くんの言っていることは違う。

 傷ついたあらくれ共も、女子供も一緒に孫呉に来いと言っているのだ。周泰の一味は300はくだらない。しかもその半数は女や幼い子供なのだ。

 彼らを受け入れることに、孫呉の大都督として、どんなメリットがあるというのだろうか。

「そんでね、あともう一個はね〜」

 思索にふける間もなく、周瑜くんが言う。そのあどけない物言いに思わず身震いしそうになる周泰。

「あともう一コはね〜。.....うんとね〜.....蒋欽どののお手当てが全部終わってからお話すんね」

 周瑜くんはにっこりと笑った。

.....蒋欽の.....?」

「うん、もうそろそろ華佗センセがお部屋から出てくるだろうから」

..........それは.....?」

「あ、だいじょうぶだよ? お話してるうちに蒋欽どのの手術終わったみたい〜」

「えええっ?」

 周泰と孫策の声がそろった。さもあろう。

「あー、ふたりとも、心配しないで〜」

 とろとろと周瑜くんが言う。

「蒋欽どの、たすかったよ〜。さすが華佗センセ。よかったね〜」

「な、なぜ、そんな.....そんな.....

 周泰は絶句した。だが幼なじみの孫策は立ち直りが早かった。

「あー、たぶん、周瑜がそういうんなら、だいじょうぶだったんだろうぜ。コイツは不思議なやつなんだ。外見だけじゃなくて、中身もな」

「ちょっと、策、それどーゆー意味よ! 策はシツレーだよ!シツレー!」

「まぁまぁ。さ、行こうぜ、大将。早いトコ安心してーだろ。それに、周瑜のふたつめのお願いを聞いてもらわなきゃな」

「そ。ふたつめのお願い〜。まずはお友だちのトコね。華佗センセに会いにいこ!」

 周瑜くんが、周泰の袖口をくいくいと引っ張った。そして周泰は、自分がぼう然と突っ立ったままであったことに気づいた.....