中原青嵐ノ宴
<11>〜<16>
 
 
 
 

 

「昭ちゃん、やさしー、うれしー。来てよかったー、えへえへえへ」

「いえ、そんなふうに言っていただけるなど、私の方も嬉しく思います」

 昭は、ホッと胸をなでおろした。今日一日、まるでジェットコースターに乗っているような気分であった。急激に上昇したり、下降したりをくり返し、肉体はへとへとに疲れているものの、妙に気分が高揚している。

「あの、よかったら、こちらを召し上がりませんか? 周大都督にはあまりお食事をとっておられなかったでしょう」

 わざわざそれをもらいに行って遅くなったのに、昭はすっかり菓子盛りのことを失念していた。

「え、なぁに〜?」

「お菓子です。甘いものがお好きと伺っていましたので」

「わぁ、キレイ! 桃のお花のお菓子だ〜! 周瑜くんの大好きな糖蜜もある〜。 うれしー! いただきまぁす!」

 子供のように喜ぶ周瑜くんに瞠目しながらも、昭は室を見回した。甘い菓子には茶がいるだろう。慌てていて茶器の用意をしてこなかったのだ。

「どしたの、昭ちゃん。いっしょに食べようよ」

「はい.....ええと、こちらのお部屋にも茶器の用意があったと思うのですが.....

「ん.....いーよ、お茶.....

 周瑜くんは、桃のお花の菓子を頬張りながらつぶやいた。お口がいっぱいなので、声がくぐもっている。

「いえ、甘いものは喉が渇きますでしょう。.....ああ、あったあった」

 昭は寝台の斜め向かいの奥に、目当てのものを見つけた。

 茶の入った鉄ビンと器だ。

.....周瑜殿、今、お茶を入れますからね」

.....お茶、いい」

「え? あ、じゃあ、ここに置いておきますから。冷めないうちに.....

.....そのお茶、飲めないよ。昭ちゃんも飲んじゃダメ」

 昭は、周瑜くんの言葉の意味を、すぐに解すことができなかった。

「え.....あの.....

「飲んじゃ、ダメよ」

「あ、あの.....ではこちらは下げて、別のお茶をお持ちしますね。それでよろしいでしょうか」

「うん。悪いけど、そーして。ジャスミン茶にお砂糖入れて。おさとー」

「わかりました、ではちょっと失礼しますね」

 昭はなにやらよくわからぬままに、そう応えていた。

 茶器をかたずけ、盆に乗せ直す。室を出ようとしたとき、周瑜くんの少し困ったような、それでも相変わらずのんびりとした声が、昭の背を叩いた。

「昭ちゃん、ごめんね。そのお茶、捨てちゃって。人のいないトコにね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昭を見送った後、司馬懿と張コウは、昼食を共にしようといいながらも、相変わらず、中庭で歓談していた。

 司馬懿にしてはめずらしいことである。

 ここしばらく、式典の準備やら、遠征の後処理で、ゆったりと語らう機会のもてなかったふたりだ。

 司馬懿はともかく、自他共に、司馬懿の恋人と称している張コウにとっては、この上なく楽しい時間だったのだろう。ふたりの会話は途切れることがなかった。

 

 

.....郭奕(かくえき)殿.....

 ふと会話を止め、司馬懿はゆっくりと立ち上がった。

「これは軍師殿。お久しゅうございます。張コウ将軍もご機嫌よう」

 郭奕と呼ばれた青年は、おだやかな微笑をたたえると、軽く一礼した。

 濃紺に、鈍い朱の綉をほどこした長衣。髪はすっきりと結い上げられ、冠を被っている。やや広めにとられた袖口から、女のように白い手がのぞき、ゆっくりと胸元で組みあわされた。目上のふたりに拱手したのだ。

「こんにちは郭奕殿。久方ぶりですね」

 張コウが言った。

「ええ、先日、式典のために洛陽より呼び戻されました。此度は仲達様にも強くご推挙をいただいたとのこと、御礼申し上げます」

「いや.....貴公の働きは伺っている。当然のことだと考える」

「恐れ入ります。そろそろ亡き父にも顔向けができるようになりそうです」

 郭奕が笑みを深くした。

 

 郭奕、字を伯益という。

 三十八という若年で他界した天才軍師・郭嘉の実子である。

 色白の細面に灰色がかった切れ長の双眸。やや冷たい印象の高い鼻梁と細い眉。郭嘉の生前を知る者は、郭奕の容貌を見れば、すぐさま直系の子であると認識するだろう。

 いつでも皮肉げに口角を持ち上げているのさえも、まるきり父譲りのくせのようであった。

 

 

「俊才と誉れ高かった父君によう似てこられた。殿も貴公には期待されているご様子」

「ありがとうございます。恐れながら仲達様には、生前、父と親しくして下さったと聞いております」

「親しくなどと.....教え導いていただいたということにおいては、そのとおりです。いくら言葉にしても感謝したりぬほどに」

 司馬懿が言った。少し照れたような物言いは、彼にしてはめずらしいものだ。敏感な張コウはぴくりと眉をつりあげた。

.....そんなに私は父に似てきましたか」

 静かな問い掛けであるが、口調に微かにからかいの響きがある。

 不思議なことに司馬懿はまるきり気付かないらしい。ごく普通に会話を続けているのに、張コウは少なからず驚いた。

「うむ.....目鼻立ちといい、本当に良く似ておられる。こうしていると、お若いころの彼の御方を思い起こさせる.....

「仲達様には、よく私の父のことをお話下さいますね。今となっては、親しげに父の話をしてくださる方も少なくなってまいりました。いささかさびしく思っております」

「何を言われる。軽き身の者にとっては、郭嘉殿の御名をみだりに口にするのははばかられるのであろう。それほど貴公の父君の功績は大きなものであった。.....お人柄も.....その.....

「ふふ、仲達様。父の素行不良は、耳にタコが出来るほどに殿より聞かされておりますゆえ、ご遠慮なさいますな」

 くっと口の端を持ち上げて、郭奕が笑った。

 不健康に朱い唇がひどく艶めかしい。

 司馬懿がじっと郭奕を見つめている。彼の姿が、かつての郭嘉と重なって見えるのか、司馬懿はしばし微動だにせず突っ立ったままであった。

 

.....司馬懿殿?」

 張コウの呼びかけで、我に返ったようにぴくりと肩をふるわせた。

「え..........これは失敬した」

「仲達様にはお疲れのご様子。どうか御身お大切に。私はこれにて失礼いたします。ご機嫌よう、お二方」

 流れるような動作で辞意を伝えると、痩身の男はあっさりと立ち去っていった。

 彼がここに訪れてから、ものの十分程度の会話であったろう。

 しかし、張コウは、一幕の舞台を見ていたような、奇異な感覚にとらわれるのであった.....

「司馬懿殿.....司馬懿殿?」

「あ、ああ.....

「どうなさったのです。ぼんやりとして」

 張コウが言った。

「いや.....別に.....

.....なんだか、ずいぶん、あの人と親しげな感じがするんですけど」

 張コウの物言いには、ややトゲがある。しかし、司馬懿は、すんなりと、

「そうだな」と頷いたのであった。

「ちょっ.....司馬懿殿? 『そうだな』ってどういうことなんですか? あんなガキンチョに、どーして.....

「よさぬか、張コウ将軍。あの者は郭嘉殿の御子なのだぞ。それに齢も二十歳にとどくはずだ」

「ハタチなんてまだまだコドモですっ!」

....................

「もう、本当に司馬懿殿らしくもありませんよ。あんな若輩者に.....

.....張コウ将軍は郭嘉殿と面識がないのであったな」

「ええ、まぁ」

「そうか.....そうだな。一度くらい貴公と会う機会があれば、面白かったかもしれぬな」

 司馬懿は、張コウをちらりと見遣ると、目をそらせ、少しさびしげに苦笑した。

....................

「私は、本来.....ああいった種類の人間は苦手なのだが.....いや今だとて、それに変わりはないのだが.....郭嘉殿は.....

「司馬懿殿!」

 張コウは大声をあげた。

「司馬懿殿、ゴハン食べに行きましょ! その、郭嘉殿とやらのお話、くわしくお聞かせ下さい! んもう、ただでさえ、周公瑾だのなんだのと、鬱陶しい輩が集まっているときに、やっかいな!」

「は? 何を言っているのだ、貴公は。周大都督と郭嘉殿は何の関係もないだろう。ああ、両者は面識くらいあったかもしれんが」

「あーっ! もう! そんなことを心配してんじゃないんですよ! すでに亡くなられた方のことではなくて.....さ、とにかく行きましょ、御昼にはもう遅い時間ですよッ」

.....なんだというのだ、まったく.....

 ぶつぶつと文句を言う司馬懿の手をひっぱり、張コウは主殿に向かって歩き出した。

 郭奕の、皮肉げな薄笑い。表向きには、あくまでも丁寧で穏やかな物腰をくずさないものの、どことなく人をくったような印象がぬぐえない。

 郭奕の、そこはかとなくただよう色気に、張コウのような人間は敏感なのだ。

 なにより、いつもはほとんど表情も変えない司馬懿が、ぼんやりとあの男を見つめていたのがひっかかる。

 もちろん張コウだとて、曹操軍きっての名軍師、鬼才・郭嘉の名を知らなかったわけではない。

 むしろ事あるごとにその名を挙げ、司馬懿の足をひっぱる愚才の徒を何人も見てきた。それは逆説的に言ってみれば、押しも押されぬ現在の首座の軍師・司馬懿に比肩するだけの能力をもっていた、歴代唯一の男と言えるのだ。

 そしてまた比較される司馬懿自身が、郭嘉の才を積極的に認めている。

.....気掛かりは、やはりきちんとしておかねばならぬようですね.....

 歩きながら張コウはぼそりとつぶやいた。

 

 

 

 

 

  

「さぁさぁ、司馬懿殿。ずずいとお掛け下さい!」

.....もう座っているが」

「ちょっと、そこのボーイさん! 孔雀コースふたつお願いしますね。 あ、デザートはピスタチオのトロピカル風と、杏仁豆腐のアプリコットソースぞえで!」

「いや.....そんなに食べられぬと思うが.....それに甘いものはどうも.....

「さ、司馬懿殿。時間はたっぷりあります。郭嘉殿のことをお聞かせ下さいッ」

 うわごとのようにつぶやく司馬懿を遮って、張コウはぐいと身を乗り出した。

.....まったく何だというのだ、やぶからぼうに。.....えー、郭嘉殿は字を奉孝とおっしゃって、潁川郡のご出身だ。荀イク殿のご同郷であられる」

「そんな教科書通りのことを聞きたいんじゃありませんよ! もっと.....こう.....

「まぁ、聞かぬか。彼の御方を語るには、そのすばらしい功績について触れねばならぬ」

 もったいぶったように、司馬懿はひとつ咳払いをした。

.....未だ、殿の御力が微弱であられたとき、あの呂布の猛攻から、寡兵にして単身で居城を守っておられる。北方討伐でも卓越なる軍略で、長きにわたる患いであった異民族・烏丸をみごと征討された。同行された張遼殿にお話によると、まさしく鬼神のごとき策を次々と繰出されたそうだ」

 そこで司馬懿は感嘆したように、ほうっと吐息した。

.....惜しいかな、その陣中で没されたのだ。もともとご丈夫な体質ではなく、無理がたたられたのだろう。赤壁での大敗の折り、殿が思わず郭嘉殿の御名をだされたのも頷ける」

.....その場にいた人たちにしてみれば、たまらないと思いますけど」

 憮然とした表情で張コウは言った。

「つまり、あの殿にしてそう言わしめるほどに、郭嘉殿はすぐれた軍師であられたのだ」

 しみじみと司馬懿がつぶやいた。

 ほとんど他者を褒めることの無い司馬懿。ましてや同じ軍師という立場の人間を、ここまで手放しに賞賛する様など、張コウにとっては初めて見る光景だ。

「はぁ.....まぁ、優秀な人物であったことはよくわかりましたよ。それより、司馬懿殿とはどういう関係だったのですか? ってゆーか、何かされたんじゃないでしょーね?」

 あくまでも直球の張コウであった。

「おかしな言い方をされるな、張コウ将軍.....まぁよい。そうだな.....私が初めて郭嘉殿に逢ったのは.....そう今の昭くらいの年ごろか」

「いやぁん、十六才の司馬懿殿ッ! 鼻血出ちゃいそーッ

.........................

.....失礼しました。お続け下さい」

.....私は、一応官位を賜ってはいたものの、まだまだ未熟な若輩者で、勉学に励みつつ、職務をこなしていたのだ。そんな折り、幸運にも郭嘉殿に知りあう機会に恵まれた.....許都の城でな.....

 司馬懿は、そのときを思い起こすように、双眸を細めたのであった.....

「郭嘉殿とお会いしたのは.....そう、人の紹介だったと記憶している。なにか小さなきっかけで。その時の印象がひどく強くて、後の細かなことは忘れてしまったが」

「ふぅん.....

 張コウは相づちを打ちながら聞く。司馬懿の目が過去の記憶を呼び起こすように細められ、静かに両の腕が組み合された。

「面ざしは郭奕殿によう似ておられるな。いや.....もう少し小柄で、腺病質な雰囲気であった」

「ふーん。そういえばさっき素行不良がどうのとおっしゃってましたよね」

 郭奕の言葉を思いだし、張コウはたずねた。

「うむ.....まぁ、そうだな。今となっては隠すようなことではないだろう。あまり儀礼的なことにこだわるお人柄ではなかったのだ」

.....へぇ、そうなんですか」

「ああ。自由人というか.....私が初めて会ったときも、いかにも起き抜けといったふうな、胸もとの大きく開いた女のような長衣に、冠もつけていなかったな。無礼と憤る前に何というか、ひどく艶めかしくて目のやり場に困ってしまって.....

 本当に困ったように言い淀む司馬懿。もちろん張コウとしては面白くない。

「どーしてそこで赤くなるんです?」

「別に赤くなどなっていない!」

「なってますよ! 鏡持ってきてあげましょうか? ああ、もう気になりますねぇ。さぁ、続き続き!」

.....まぁ、そんなわけで第一印象は強烈であったのだが、それほどよいものではなかったのだ。むしろ私の苦手なタイプの人間であった。.....だがその思い込みはすぐに覆されたな」

「と、おっしゃいますと」

「その後、彼の執務室と、私の仕事場が近かったせいか話をする機会が増えて.....何故か先方が私を気に入ってくれたようなのだ。不思議なことにな。郭嘉殿はその当時はすでに官位もずいぶんと高かったし、なにより気難しい変わり者という風評を耳にしていたので、私のような若輩者にかまって下すったというのが意外であった」

「ちょっと待って下さいよ。『私のような』ってどういう意味ですか?」

「あの頃から人に嫌われることはあっても、好かれたことはなかったからな。、ましてや目上の人間に親しまれるなど、初めてのことだったように思う」

「ふーん、他に周りに見る目のある人がいなかったんですねぇ」

.....とにかく.....まぁ、そんな形で知りあったのだ。郭嘉殿は私に色々なことを話して下さった。博識な方だったからな」

「そうらしいですね。司馬懿殿と比べられるくらいなのですから」

「そのような私など、まだ足元にも及ばん。彼の口にすることは.....政治、軍略、戦術.....そして外交など、軍師という御立場での話も多かったな。だが他にも森羅万象の理や、それこそ語り部の話すような神話の中の冒険譚など.....私にとってはこの上無く楽しい時間であった。.....ああ、そういえば」

「なんです?」

「ああ.....いや」

 微笑を浮かべつつ、司馬懿は言葉を濁す。

「何なんですッ? 気になるじゃないですか」

「いや、たいしたことではないのだ.....ただ貴公に話して過剰反応されるとやっかいだからな」

「そこまで言われて聞かずに放っておけると思いますか? さぁさぁザクッと言ってください、ザクッと!」

「だから.....そのようにいきり立つことではないと言っておるだろうが。.....郭嘉殿は名うての遊び人であったからな。そういった方面にうとい私に、初めての女をあてがって下さったのも郭嘉殿だったと思い出しただけだ」

....................

.....張コウ将軍?」

.....ハッキリ言って心中穏やかならざるものがありますが、女ならば、まぁよしといたしましょうか」

「敵娼の名も顔も忘れてしまったが、ふふ、思えばそんなことまで面倒見て下さったのだっけ.....もっとも私の反応を面白がっているだけだったのかもしれぬが」

.....ふん、ヤな奴」

「張コウ将軍、よさぬか、故人に」

「はいはい、あなたと仲良しさんだったということは、よ〜くわかりましたよ。.....そんなところですか?」

.....あ、ああ、そうだな」

...............

...............

.....司馬懿殿! 今、不自然な間がありました!」

.....気のせいだろう」

「『あ、ああ』ってどもったーっ!」

「どもっていない!」

「今、目、そらせましたねー!」

「よさぬか、いい年をして、過去のことを根掘り葉掘り。故人のことをあれこれ言うよりも、これからのことのほうが重要であろう」

「そーやって、誤魔化すんですね! これから先のことって、私とケッコンしてくださる気もないくせにっ!」

「当たり前だ。バカを申すなッ!」

 司馬懿は力任せに、扇をテーブルに叩きつけた。

「司馬懿殿はウソをつくとき、かならず瞬きするんですよ。さっきの話の終わりの方、瞬きの回数が増えていたことに気付きましたか?」

「瞬きは人間の生理現象だろうが!」

「恋人の観察眼を生理現象で片づけないでください! だいたい今月はまだ一度も泊まってないんですよ? いくらお忙しいとはいえ、あまりに心無い仕打ちです!」

「いきなり勝手なことを言い出すな!双方多忙なことは、充分承知であろう」

「郭嘉殿とはHするくせに〜ッ!」

「いいかげんにしろっ! 彼とは未遂だッ! 最後まではいっていない! 別に貴公が嫉妬するようなことは.....

....................

....................

.....なるほど、そーゆーコトがあったのですね」

 うって変わって落ち着いた張コウの言葉に、司馬懿は思わず口元を押さえた。

「張コウ、貴様、私を嵌めたのだな! しおらしく話を聞かせて欲しいなどと言っておきながら! 卑怯だぞ、まるでカマをかけるような.....!」

「いーえ、恋する男の直感ですよ」

 確信めいた物言いで、張コウは言って退けた。

.....昔の話なのだ.....

....................

.....私と郭嘉殿は年も離れていたし、ほんの少しふざけてみただけなのだろう。当時は年若かったゆえ、私もみっともなく取り乱したが.....

「ふーん、へー」

「なんだ、その気のなさそうな物言いは! そなたが言い出したことだろう! 不愉快なッ」

 司馬懿は黒羽扇でバシバシと机をたたく。当時を思い出したのか、頬を上気させたまま怒鳴られても迫力のかけらもない。

「別っに〜。何とも思ってませんよ」

「張コウ!」

「本当に何とも思ってませんってば、司馬懿殿。だって昔のことなんでしょう。その郭嘉さんって方は、とうにお亡くなりになってるわけだし」

 さめたジャスミン茶を啜りながら、張コウは言った。

「そ、そうだ、だから、さきほどから、気にする必要はないと.....

「私が気になるのは、郭奕殿のことですよ! さっき、おふたりの会話を聞いておりましたが、郭奕殿は、ご自身が亡き父君に生き写しであるということを、十二分に意識しておられるように感じます」

「それは、実際に良く似ておられるわけだから、意識もするであろうよ」

 司馬懿はあっさりと頷いた。張コウががくっと肩を落とす。

 戦場で百計を操る軍師でありながら、色恋沙汰にはとことん疎い男であった。

「司馬懿殿ッ! 私が言っているのは、郭奕殿が貴方相手に、ことさらに郭嘉殿を思い起こさせるような接し方をしているように見えるということです!」

「はぁ? 何を言っているのだ? 何故、郭奕殿がそのようなことをするのだ。考え過ぎだ、張コウ将軍」

「ってゆーか、あなたは考えなさすぎですっ! ったく戦場ならば鬼のようにイロイロイロイロ考えまくるくせに〜ッ!」

「ぶっ、無礼な! 軍師が戦で策を錬るのはあたりまえだっ! だいたい貴公は、すぐさまそういったよこしまな方向に結びつけようとするではないか! 仮にも将軍と呼ばれる人間ならば、そのように軽率な.....

 運ばれてきた、杏仁豆腐のアプリコットソース添えをわきによけて、司馬懿は扇をふりまわした。

 

 .....と、そのときである。

 おだやかならざる二人の会話を、はからずも遮った勇者がいた。

 

「ちっ、父上ーッ! 張コウ将軍ーッ!」

 それは聞きなれた軍師子息の叫びであった。

「ちっ.....父上ッ!はぁっはぁっはぁっ.....たっ、大変ですッ」

「なんだ、昭か。何事なのだ、騒々しい」

 いきり立ったところを邪魔されたせいか、司馬懿は常よりもさらに不機嫌に言い放った。

「おや、昭ちゃん、こちらも今取り込み中でね。そうそう、お菓子はちゃんと見つかりましたか?」

 ふぅとあきらめたような溜息をつきつつ、張コウがたずねた。

「え、あ、は、はい。周大都督も喜んでおられました。ありがとうございました、張コウ将軍」

「は? な、なんですって? 周瑜? どーして、周瑜に.....

「ああっ! それどころではないのです、父上っ、張コウ将軍!」

 全力疾走でやって来たのだろう。気の毒な司馬昭は今日何度目の渾身の走りか。

 ゼイゼイと肩で息をつぎ、乱れた髪が冠からはみ出している。それにもかかわらず、汗を流している顔は真っ青で、あまつさえ、がちがちと歯を打ち鳴らしている。

 明敏な司馬懿は、息子のただならぬ動揺を悟った。

 

.....本当に何かあったようだな。よい、ふたりもこちらへ」

 先ほどまでとは打って変わった静かな声で促す。

 司馬懿を含めた三人は、たまらない沈黙を腹の奥にこらえつつ、足を進めた。回廊を廻り、よりひっそりと人気の無い廊下をすすむ。

 

「入ってくれ」

 司馬懿は言った。

 彼の宮中での執務室は、本殿の中に一部屋、そしてここ離れの方に、一室を与えられている。周囲からは十重二十重に引き離され、庭木に囲われている。

 

「張コウ将軍、廊下に人影がいないか確認してくだされ」

「だいじょうぶです。だれもいません」

 そうこたえると、張コウは後ろ手に静かに扉を閉めた。

「よし。では、昭、話を聞こうか」

 司馬懿は息子を促した。蒼白の彼を見たときには、さすがに緊張した司馬懿であったが、すでに声音は常と変わらぬ落ち着きに満ちている。

「は、はい、父上」

「昭ちゃん、とりあえず、お座りなさい。はい、お茶をどうぞ。司馬懿殿も」

 まめまめしく茶を淹れる張コウ。心配そうに年若い友人の顔をのぞきこむ。昭はぐいとばかりに、茶を飲み下すと、深い溜息を吐きだした。

「父上.....張コウ将軍.....お、おそろしいことが.....

 震える声で、昭は話し始めた。がちがちと歯の根が合わないため、なかなか続きの言葉が出ない。司馬懿も張コウも辛抱強く彼の言葉を待った。

「落ち着いて、昭ちゃん、ゆっくりでいいですから」

「は、はい、申し訳ありません、張コウ将軍.....もう、だいじょうぶです」

「それで? 昭.....

 司馬懿に促され、昭は、孫呉の一行が視察に出ている間、周瑜に付いていることになった経緯を感単に説明した。

 そして、ごくりと唾をのみこむと、あたかもそれが彼自身の息の根を止めてしまうかのように、あえぎつつ震える声でつぶやいたのである。

.....し、周大都督の室の茶に、毒が仕込んでありました」

 

...............!」

「な、なんですって?」

「即効性の強いものだと思います.....あ、あれが周大都督の口に入っていたかもしれないと思うと.....お、恐ろしくて.....

「昭! 状況をもう一度、最初から詳しく話せ。おまえが気付いたこと、すべてを含んでだ」

 声こそ荒げないが、さすがの司馬懿も蒼白である。ピリピリといたいほどの緊張の中、司馬昭は記憶の糸を手繰り直した。

 周瑜くんが体調を崩して私室で休んでいたこと。側についていると約束したこと。甘いもの好きな周瑜くんに、張コウのお菓子を持っていってやったこと。

 .....そして備付けの茶を入れてやろうとしたところ、周瑜くんが拒んだこと.....

 

.....それで、おまえはいつ茶に毒が入っていることに気付いたのだ? 周瑜殿は知っておられたのか? それとも.....

「気付いておられたのではないかと思います」

 昭はきっぱりと言った。

「はっきりそうとはおっしゃいませんでしたが、困ったような拒み方をされましたので.....他の人に飲ませてはダメとまでおっしゃるものですから。さすがに気になって、さげてきた茶を.....その.....いけないとは思ったのですが、堀池に少しだけ流してみたのです」

.....それで気付いたというのか?」

「はい.....ぞっとしました。10秒もかかりませんでした」

...............

.....し、司馬懿殿.....

「ち、父上.....ど、どうしましょう.....どうすれば.....

 告白を終えた司馬昭は、ほとんど半泣きである。傍らの張コウも、茶に手すら付けず、唇を噛みしめている。

 司馬懿は、顔をあげると鋭い声で命じた。

「昭、すぐさま孫呉の御方々の客室から、飲食物を片づけろ!急げ! 彼らが街から戻ってくる前にだ!」

「は、はいーッ!」

 はじけたように昭は室から飛び出そうとした。

「ばか者!動揺するな。冷静に迅速に動け」

「は、はい、父上!」

 昭は、ずれた冠を押さえながら、小走りに去った。

「司馬懿殿、私も昭ちゃんと一緒に行ってきますよ!」

 張コウが言う。

「いや、今はいい。貴公まで一緒に動くと目立つからな。孫呉の御方々が戻ってこられたら、さりげなく身辺に注意するよう、よろしくたのむ。.....気取られぬように」

「心得ました」

「此度のことは、我ら三人と、徐晃、夏侯惇にのみ知らせる」

.....わかりました」

.....ふぅ」

 司馬懿は大きく吐息すると、どさりと長椅子に身を投げた。

.....まいったな。充分注意していたつもりだったが.....スキがあったようだ」

「司馬懿殿.....

「夏侯惇将軍らが戻られたら、ご苦労だが、すぐに私の室に運んで下さるよう、申し伝えてくれ」

「承知いたしました」

.....気になるのは.....

.....え?」

 独り言のように司馬懿はつぶやいた。

「気になるのは.....周大都督が『あらかじめ気付いていた』ということだ。室内の茶をすすめられたとき、自ら拒んで、別のものを持ってくるよう頼んでいる。昭の言う通り、周大都督は知っていたと考えるべきだろう」

...............

「周大都督には何か思い当たることがおありなのだろうか。もしそうならば何故、何も言わないのか.....命を狙われたというのに.....

「ちょ、ちょっと司馬懿殿? 周公瑾は犯人を知っているとおっしゃるのですか? そんな.....

「いや、わからない。思うままに述べてみただけだ。根拠はない。.....犯人に心当たりがあるのなら、黙しているのは解せないがな」

.....ええ、まぁ」

「ただ.....あの人はあまり.....その.....どういう思考回路を持っておられるのか、私にはよくわからないゆえ.....そこが一番不安だな.....

「ただのドーブツ的直感で、毒に気付いたんじゃないんですか? あの天然ボケのクソわがまま男は」

 おのれの鬼のようなわがままさを棚に上げ、張コウは平然と言い放った。

.....いずれにせよ、大事にならぬよう、手を打たねばな。貴公においてもよろしく頼むぞ」

「もちろんです。周公瑾はどうでもいいですが、司馬懿殿のためならば」

 張コウが力強く言った。

 さきほどまで、頭の奥に引っ掛かっていた郭奕の話は、今はもう記憶の彼方であるかのように。

 昭は、父、司馬懿の命に忠実に従っていた。

 誰がこの毒殺事件に関わっているのか知れないのだ。下手な人間に手助けを求めるわけにはいかなかった。

 周瑜くんのとなりの室、陸遜の部屋に始まり、甘寧、そしてかれらの護衛兵たちの室を含め、片っ端にかたづけてゆく。回収した飲食物をめったな場所に捨てるわけにもいかないのだ。

 標的となったのは、周瑜くんのみなのか、否か、調べ終えるまで気は抜けない。

 

 

 

.....昭。昭だろう?」

 大慌ての仕事を終え、柳の根元の石椅子に、座り込んでいた昭は、頭上からの声に顔をあげた。

「昭、ひさしぶりだな」

.....あ、か、郭奕殿? え、あ、あれ.....どうして許昌に.....え、あ.....

「どうしたんだ、おまえ、真っ青だぞ?」

 郭奕は、司馬昭の顔をのぞき込むようにして、そう言った。さきほどまでの口調と大分違う。

 郭奕がまだ許昌に居たころ、司馬懿とそれなりに親しく付きあっていたおかげで、ごく当然に、年の近い昭は、彼の友人となった。と、いうよりもむしろ、昭は郭奕を、兄とも師とも思い、慕っていたのだ。

 郭奕が、遠く洛陽へと、隔たってしまってからは、交流も薄くなってしまったが、会えば昔日にも増して、語らうのが常となっていた。

 郭奕の細い指が、昭の乱れた前髪を掻き上げる。

「おい、だいじょうぶか?具合でも悪いのか?」

「あ.....はい、いえ、その.....ご、ごめんなさい、平気です。ああ、そういえば、今日にもこちらへ戻られるとご連絡をいただいていましたよね。失礼しました」

「いや、そんなことはどうでもいい。何かあったのか? 先ほどおまえの父君にごあいさつに伺ったが、常と変わらぬご様子であられたゆえ」

 形のよい眉をひそめ、郭奕はたずねた。

「え、ええ」

「いや、別に無理に聞きだそうというつもりはないんだ。おまえのことが心配でな」

「郭奕どの.....

「そんな顔すんなよ。みんな、心配するぜ?」

「か、郭奕どの.....わ、わたしは.....わたしは.....

 昭は声をつまらせる。

「いや、いいからさ。それより、おまえ、大任を与えられているそうだな。世話係とはいえ、外交官にはかわりないからな。がんばれよ、昭」

.....私ごとき未熟者では心もとないのですが.....

 昭はからだの震えを押さえつけるように、声低くつぶやいた。

「何を言ってる。司馬懿殿の息子が。しっかりしろよ」

 郭奕が昭の背を軽く叩いた。

 こうした人懐こい振舞いも、司馬懿や張コウに対する人を食ったような取澄ました有り様も、そのどちらもが、何の矛盾もなく郭奕の中に修まっている。こうしたところも、郭嘉の資質を受け継いでいるのだろう。

「俺、しばらくこっちだから。なにかあったら遠慮なく言って来いよ。それだけでも気が楽になるからさ。じゃあな」

 郭奕は言うだけいうと、すっと腰を浮かせた。

 その彼の袖を、昭は我知らず掴んでいた。

「あっ.....ご、ごめんなさい。つい.....

「おいおい。あんまりキリキリすんなよ。ハゲるぜ、昭」

 ポンポンと二度ほど昭の頭をたたくと、郭奕は笑った。淡い笑みを浮かべるだけでも、父親譲りの怜悧な面ざしがずいぶんとやさしくなる。

「式典まで特に用が無けりゃ、邸でぐーたらしてるつもりだけど、宮中なら、いつもの室に居るからさ。ひとりだし、いつでも来いよ、な?」

「はい.....はい、ありがとうございます.....郭奕殿」

「よせよ、堅苦しい。じゃな、昭」

「あ、あの.....郭奕殿!」

 すでに歩き出した背に声をかける。

「ありがとうございます。帰ってきてくれて.....嬉しいです!」

「ははは、式典の間だけだけどな。.....変わんないなぁ、おまえは。じゃーな」

 一度だけふり返ると、彼は面白そうに声を上げて笑った。

 そして後ろ向きに、ひらひらと手を振り、歩き去った。

 昭は彼の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くし、やがて頽れるように座り込むと、両の手に顔を埋めた。