曹魏の春★物語!
<6>〜<10>
 
 
 
 

 

 

 張コウの切れ長の眼差しが、ゆらゆらと揺れている。

.....張コウ将軍.....なにか他に、言いたいことがおありなのではないのか?」

.....いえ」

 司馬懿はふぅと大きな溜息をつくと、声をあらためて話を続けた。

「ここ数日、気もそぞろでおられよう。この私が気づかぬとでも思ったのか?」

 司馬懿のその言葉を、どういう意味合いでとったのか、一瞬張コウの瞳に歓喜の色が浮んだ。だがそんな彼の気持ちに気づく司馬懿ではない。

「軍議の最中もぼんやりとしておられる。街亭での攻防戦は必至なのだぞ。先鋒をつとめる貴公が、心ここにあらずでは全軍の志気にもかかわる」

 しかめつらしい物言いは、軍師独特のものであろうか。

「そもそも貴公は日頃から落ち着きが無さ過ぎるのだ。感情の波がありすぎる! 将軍たるもの、常に冷静沈着を心得、軍の志気を鼓舞する使命が.....張コウ将軍? 聞いておられるのか?」

 徐々にうつむいてゆく張コウに向かって、尻上がりに語気を強めた。

.....司馬懿殿」

 張コウが独り言のように彼の名をつぶやいた。

.....司馬懿殿」

「張コウ将軍、どうされたというのだ?」

.....司馬懿殿には.....この張コウをどのように思っておられますか?」

 聞き取れるか否かの小声で、張コウが問うた。

「なに?」

.....司馬懿殿は.....この張儁乂をどのように思って下さっておりますか」

.....なんだ.....やぶからぼうに」

「あなたの口からお聞きしたいのです!.....おっしゃってください!」

.....よさぬか、大声で」

 司馬懿は押さえつけるように、たしなめた。

「私にとっては、とても大事なことなのです! 司馬懿殿!」

 張コウがずいとつめよった。司馬懿は決して小柄ではなかったが、194センチメートルの張コウとはかなりの身長差がある。

「なにを.....どうこたえればよいというのだ」

 やや圧倒される形で、司馬懿はたずねた。

「お心のままに!」

..........

「司馬懿殿、お願いですからお答えください。何かひと言でも言っていただかなくては.....もはや一日たりとも過ごすことは出来ません!」

 張コウは大まじめである。司馬懿には何が何やらわからない。しばらく顔を見せず、いきなりやってきたかと思えば、決死の覚悟の面持ちで、問いを投げつける張コウ。だが彼がこの上なく真剣であり、また深刻な状況にあるということだけは伝わってくるのだ。張コウの顔付きを見れば、誰だとて一目瞭然である。

「どう思うと言われても.....張コウ将軍は張コウ将軍であろう。.....曹魏のため、いなくてはならない有能な武将であられると心得ているが.....

「そんなことをお伺いしているわけではございません!」

.....では何を答えろと.....

.....ケッコン.....

「は?」

.....結婚、なさるおつもりなのですか.....っ?」

「ちょ、張コウ将軍.....?」

「どうなのです? 本気でご結婚なさるおつもりなのですかっ?」

「待たぬか.....そのようなこと、どこから.....

「いやいやいやですーッ! いまさらご結婚なんてなさらないでください、司馬懿殿ーッ!」

 ワッとばかりに泣き伏す張コウ。張りつめていたものがぶつりと切れてしまったようだ。

「張コウ.....

「うわぁん! イヤイヤイヤですぅ〜っ!」

 感極まったのか、司馬懿に身を投げ掛けてくる。だがふたりの体格差を鑑みれば、司馬懿は、抱きつかれるというより、抱きすくめられるといった様子である。張コウの長い腕が背に回され、がしりと組み合わさっている。そして肩のあたりに熱い涙の感触。

「ちょ.....張コウ将軍.....

「うわぁぁぁん! いやですぅ〜ッ!」

「落ち着かぬか.....何を出し抜けに.....

 真っ昼間の表の間である。採光を十分に取り入れたその室は、重厚な装飾がなされていたが、つくりは解放的であった。

 来客用の茶道具を運んできた小者が、扉口でぼうぜんと立ち尽くすありさまも、決して不思議ではなかったのだ。

「あ、あの.....旦那さま.....お、お茶を.....

 気の毒な少年は、引き戸の向う側で、身をカタカタとふるわせている。

「ああ、よい! 取り込み中ゆえ、そこにおいてもう行け!]

「は、はい!」

 がしゃんと派手な音を立て、茶器一式を卓子に置くと、小者はまさしく脱兎のごとく走り去ったのであった。だが張コウに渾身の力で抱きすくめられた司馬懿は、小者の様子にまで気を回す余裕はない。戸の外側からでは、内部を透かし見ることができなのが、唯一の救いである。

「張コウ将軍!静まらぬか。これでは話も何もできぬであろう」

 ともすれば、たいそう煩わしげになりがちな口調を押し殺し、司馬懿は忍耐力を総動員して、張コウを説得した。

.....司馬懿殿.....

.....いったいどこから、そのような話を聞きつけてこられたのやら.....

 司馬懿は眉間に指を押し当て、吐息を押し殺したのであった.....

「まぁよい。.....殿から話があったのは事実だ」

 溜息交じりに司馬懿は答えた。

「それでッ? どうなさるおつもりなのですッ!」

「いや、受けることになるのではないか?」

 他人事のように言う司馬懿。

「なるのではないかって.....ご自分のことでしょーっ! 司馬懿殿は、その御婦人をどのように思っておられるのですかッ? お好きなのですか? 愛しているとでもいうのですかっ?」

.....好きも何も.....先日、名を聞いたばかりで、会ったこともないゆえ.....

「どーして見ず知らずの女を、正室に迎えるなどと軽々しくおっしゃるのですッ!」

 激昂する張コウに、不審のまなざしを向けたまま、司馬懿は常と変わらぬ口調で語る。

「軽々しくもなにも、殿からのお話であるしな。私には特に必要はないのだが、ひとりくらい家人が増えても、どうということはない」

「そういう問題じゃないでしょ! そんな簡単な理由でこの屋敷の家裁を決めないで下さい!.....それよりなにより、どーしてこの私と知りあった後に、新たな妻をもらったりなさるのですっ! うわぁぁん!」

「張コウ将軍.....言っていることが支離滅裂だぞ。別に好きこのんで彼の人をもらうわけではない。特に断る理由もないだけだ」

「そんな消極的な意思決定で、この張コウを、こんなにも傷つけるのですかッ!? あまりに残酷なおっしゃりようですッ!」

「だからっ! 何故、貴公が傷つかねばならないのだッ!」

 いいかげんに押し問答が煩わしくなったのか、司馬懿は叩きつけるように言い返した。朴念仁の上に、実は短気な男である。

「決まっているでしょーッ! 私は司馬懿殿をお慕い申し上げているのですッ! あなたのことを愛しているんですよっ!」

「声が大きいッ!」

「大きいのはあなたの方ですッ!」

「ああ、もうわかった! そのことは言わずともよい!」

「これが言わないでいられますかっ? 司馬懿殿! この私があなたのことを想う気持ち、伝わっていますか?」

.....貴公がそう言うのならば.....そういうコトなのだろう.....

「禅問答みたいな、ワケのわかったよーな、わからないよーな言葉をつぶやかないでくださいっ! 愛する司馬懿殿が、どこの馬の骨ともわからない女を、家に入れると聞けば黙っていられるわけないでしょうっ?」

 言葉を区切り、張コウは大きく息を吸い込んだ。そして額に手をかざし、よろりとよろける。

.....ああ、愛で胸が苦しい.....萌える恋心で、私は酸欠状態ですッ!」

 大仰そうに胸に手をあて、うめき声をあげる張コウ。芝居がかった男である。

「大の男が、愛だ恋だと騒ぎ立てるな、みっともない!」

 司馬懿はイライラと叫んだ。

「言わなくちゃわかってくれないでしょ!司馬懿殿は!」

「わかっていると言っておるだろう! これだけ毎日、いわれ続ければ、嫌でもわかるわ!」

「嫌でも? 嫌でもですって? 司馬懿殿は嫌だというのですか?」

「言葉のあやだ! いちいち揚げ足をとるな!」

 バシンと、黒羽扇を椅子に叩きつけ、司馬懿は怒鳴った。

「司馬懿殿! あなたはまだ、私の問い掛けに答えて下さってはおりません!」

「まだ言うか!」

「ええ、言いますとも! 司馬懿殿は私のことをどう思っておられるのですか? 新しく妻を娶るのに、何のはばかりもないのですか? それとも、この私のことなど、なんとも思っていらっしゃらないのですかっ? はっきりおっしゃってください! さぁ!」

 わずかな間隙の後、司馬懿の、常よりも一オクターブ高い叫び声が、ふたりの集う、空間の気を切った。

.....いいかげんにしろっ! 何とも思わぬ相手に、あんな真似を許すかッ!」

 .....場がシンと静まり返る。

 おのれの口から飛び出た赤裸々な言葉に、司馬懿自身がぼう然と立ち尽くす有り様だ。黒羽扇を手にしたままのポーズで、石のように固まってしまっている。張コウは泣き濡れた顔をあげ、ぽかんと口をあけて司馬懿を見つめていた。

.....では.....

 かすれた声で張コウが切りだした。ふるふると口唇が震えている。

「では.....司馬懿殿も、この私を..........

「皆まで言うなーッ!」

 司馬懿は黒羽扇を椅子に叩きつけて叫んだ。

「司馬懿殿.....司馬懿殿.....うれしい.....うれしいですぅ〜〜」

 張コウの切れ長の双眸から、ぶわりと涙があふれ出る。

「な、泣くな! 愛だの何だのと、そういうことは口にするな!」

「もぉ〜、照れ屋さんなんだから〜。ああ.....涙で前が見えません〜 今日は二回目の記念日です.....

 張コウはしみじみと幸福をかみしめているようであった。

「なに.....? なんだその二回目というのは.....

「ですから、一回目の記念日は、あの夜、はじめて.....

「言うな〜〜〜〜〜ッ!」

 司馬懿の怒鳴り声は、ほとんど悲鳴と化していた。

「はいはい。ですが、翌日、口もきいて下さらなくて、死ぬほど不安だったのですよ」

「あたりまえだっ! そんなこと思い出させるな!」

「今となってはよい思い出ですが.....

 ほぅと感慨深げに吐息する張コウであった。

「張コウ将軍ッ! 貴公は一体何をしに来たのだッ!」

 普段は色味のない、司馬懿の白い頬が上気している。戦場でもなかなかお目にかかれない風情だ。

「はっ! ああそうでした!当初の目的を失念するところでした! .....ですが、今のお言葉を聞いて安心いたしました」

「一人で泣きわめいて勝手に安心するな!!」

「まぁまぁ、そうお怒りにならないでください。あんな話を耳にした、私の驚きと悲しみも察しがつきますでしょう?」

「知るか!」

「もう、ホントに照れ屋さんなんですから★ 愛しい方! うふふふ」

...............

 さっき泣いたカラスがもう笑っている。現金なものだ。

「では司馬懿殿、先だっての殿のお話、きっぱりとお断りくださいますよね」

..........は?」

「相思相愛の相手がいるのですから、つまらぬ申し出は早々に御辞退なさってください」

.....何を言っているのだ、貴公は。それとこれとは話が別であろう」

 ごくあたりまえの調子で、司馬懿はきっぱりと言って退けた。いかにも心外といった様子で。

「司馬懿殿ッ?」

 張コウの素っ頓狂な声音に眉をひそめ、司馬懿は続けた。

「大声を出すなと言っている。貴公とのことと、私が正室を迎えることはまったく別次元の問題であろう」

「ど.....どどどどどうしてそうなるのですっ!」

「どうして、だと?」

「そうですよ、どうしてそうなるのです? 今の話の流れで! 先ほど司馬懿殿は、同じように私を好いて下さってるとおっしゃったではありませんか! 私が司馬懿殿を愛しているように、司馬懿殿もこの張コウを愛しているから、受け入れたのだと.....

「うああああーッ! 言葉にするなーッ!」

 両の手で耳を塞ぐ司馬懿。どうにも彼は、愛だ、恋だという話は不得手であった。

「とにかく!とにかくだ! 貴公のことと、此度の話はまったく別の話だ!」

「お待ち下さい、司馬懿殿!」

「もう話をすることはなにもない!」

「待って下さい! 私のことを好いて下さっているのなら.....!」

「話は済んだと言っているだろう! 約束の刻限に遅れてしまう!」

 話は終わりとばかりに、司馬懿はいきおいよく衣の裾をはらった。そのまま、ズカズカと扉口の方へ歩いてゆく。未だ半ベソ状態の張コウを、一度もふり返ることなく、逃げるように私邸を後にしたのであった。

 

 コメディ小説の時の流れは早い。

 あれよあれよと言う間に、もう明日は司馬懿の婚礼の日、そして今日、内々に婚前の対面が行われることになっていた。

 婚礼とは言っても、略式である。司馬懿の身分を鑑みれば、それなりの式典を催すべきと考えられるが、書面一枚でも完結できる儀式に、わざわざ大掛かりな準備と時間を割くつもりはないらしい。黒羽扇の闇軍師と異名をとる、司馬懿らしい物の考え方であるが、彼よりもやさしい心根の司馬昭少年は、いささか不満であった。昭は、父が、先方からの希望で、対面に赴くことをようやく承諾したのを知っている。

『こうなったからには、今さら話をくつがえしたりはせぬ、わざわざ事前に会う必要はない』と多忙な父は言い張っていたが、さすがに女性側からの、たびたびの要請を無視しきれなくなったのだろう。

 ようやく司馬懿が筆を執ったのは先日.....『明後日、昼の執務を終えた後に、少々なりとも』 そう返事を書いた手紙を、先方の小者に持たせたのだ。

 

.....おや.....昭ちゃん.....ごきげんよう」

「ちょ、張コウ将軍?」

 げっそりと面やつれした張コウに、昭はすぐさまあいさつを返せなかった。

.....お、お久しぶりです、張コウ将軍.....ご、御機嫌は.....よろしくないようですが.....

 おそるおそる、その顔をのぞき込む昭。

.....ふっ.....

「あ、あの、張コウ将軍.....?」

「ふふ.....美人薄命とはよくも言ったものです.....

「は、はぁ?」

「もはや、私の魂は死んだも同じ.....抜け殻になったこの美しい身体だけが現世を彷徨うのです.....

「そんな.....張コウ将軍.....

「賭けはあなたの勝ちですよ、昭ちゃん.....司馬懿殿は、明日、式を執り行うそうですね。内々にとのことらしいですが」

 ほぅ.....と張コウが、ふるえる息を吐きだした。

 さすがに気の毒になってくる昭。もともと張コウとは、年は違えども、親しく交際していたのである。

.....そんなに落ち込まないで下さい、張コウ将軍。実際、父上はそれほど気乗りしているわけではないのですから」

...............

「正室としてお迎えしたとしても、それはむしろ私たち、子のためという意味合いが強いはずです。父上自身が懇意にされるとは.....

.....もう、よろしいのですよ.....皆までおっしゃいますな」

 あらぬ方向に視線を泳がせ、ふぅ.....と吐息する。怜悧に整った面立ちに、疲労の色が濃い。いつもは白く透きとおるような頬も、いっそ青白く、黒々とした隈が痛々しかった。

「張コウ将軍.....

.....御用がなければ、これで.....

「お、お待ち下さい、張コウ将軍!」

 おもわず昭は、張コウを呼び止めた。

.....なにか? 昭ちゃん」

「張コウ将軍! あ、あの、今、別殿の東の間で、父上が御当人と会っておられるはずです! あそこなら隣室に待合がありますし、中庭に出られたとしても、待合から様子をうかがえます! こっそり行ってみませんか?」

 昭にしては大胆な提案である。別に父の縁談を邪魔したいわけではない。だがこうして意気消沈している張コウを見るのもつらいのだ。

「いかがです? 張コウ将軍!お付き合い願えませんか?」

 励ますように司馬昭は言葉を重ねた。別殿とは、本殿とは石回廊でつながれた、主に諸国の使者との面談に利用される別棟の建物である。賓客が来所すれば、護衛の数も多いが、普段は中に控える人員も少ない。

 また父・司馬懿が、彼の人と面会すると言っていた、東の対の間は、棟の突端で、そのまま小さな中庭に続いていることもあり、さらに人目につきにくい場所なのだ。

.....なにが楽しくて、司馬懿殿と、そのお相手が密会する場を覗きに行かなくてはならないのです」

「そんなことをおっしゃらずに。張コウ将軍だとてお相手の方を見てみたいと思われますでしょう?」

.....まぁ.....それは.....

「私にとっては切実な問題なのです。その方が継母となるかもしれないのですから。覗き見など、はしたないと思われるでしょうが、心配でしょうがないのです。ひとりでは行くには心細いし.....

 昭は言葉たくみに張コウをかきくどいた。気落ちしている彼を元気づけようという考えもあったが、実際、縁が出きるかも知れない女性を、ひとめでも見知っておきたかったのである。

「ですから、ほんの少し.....お顔を遠巻きに拝見するだけでいいのです。お付き合いいただけませんか、張コウ将軍」

.....仕方ありませんね。昭ちゃんがそこまでおっしゃるなら」

 張コウがやや大袈裟に肩をすくめて見せた。

「行くのなら、さっさと行きますよ」

「あ、はいはい!ありがとうございます!」

「確か、東の端のお部屋といいましたね」

「ええ、先方もあまり人目につくのはよくないと気にされているようで。おくゆかしい方ですよね」

「さ、どーだか」

 ふんと張コウは顔をそむけた。

「あの、張コウ将軍.....

「まだ、なにか?」

「いえ、その.....自分からお誘いしてなんですが、相手がどのような方であっても、大声を出したりなさらないでくださいね。いくら隣室からとはいっても、聞こえてしまいますでしょうから」

「はいはい。わかってますよ。昭ちゃんこそ、すんごい醜女であっても、うろたえるんじゃありませんよ」

「また、そういうイジワルを.....

「ホントのことですよ。では参りましょう!」

「ああ、お待ち下さい!」

 張コウは大きな歩幅で先に立って歩き出した。昭は慌ててそれに続く。前を行く、張コウの力強い足取りに、幾許かの不安を感じながら.....

 

.....司馬懿、あざなを仲達と申す」

 司馬懿は桜花の舞い落ちる中、臙脂色の扇を持ち、艶とたたずむ彼女にそう名乗った。淡雪のごとく舞う、桜の白い花びら、頬を撫でる蒼い春の風.....男女の逢引の場としては、絶好のシチュエーションである。それにも関わらず、司馬懿の朴念仁ぶりには、常とまったく変わるところが無かった。

「零姫と申します」

 鈴の音のような.....とはこんな声音に似付かわしい表現であろう。女性特有の、やや高めの声であるが、耳障りには聞こえない。桜花の下に立つふたりは、互いに名を口にしただけで沈黙した。

 そしてこちらは中庭につづく、控えの小部屋。今は覗き見隊の司馬昭と張コウがいる。

....................

.....昭ちゃん。なにをあなたまで黙りこくっているんです? あっちのおふたりに合わせなくてもいいでしょう)

(あ、い、いえ、なんというか.....お可愛らしい方だなと思って.....年上の女性に失礼ですが)

(もう二十代も半ばのはずですよ)

 フンと張コウは横を向いた。

 零姫と名乗ったその女性は、張コウの勝手な憶測に反して、たいそう美しい人であった。華奢で色白のせいか、年齢よりも若く見える。またこの時代の女性風俗から見ればめずらしいことに、豊かな栗色の髪を、ゆったりと背に流していた。それが童女を思わせる風情である。

 耳の上で、両わきの髪をくくった部分に、桃の花を飾っている。茶味がかかった、猫を思わせるアーモンド型の瞳は、露を含み、濡れ輝いていた。

.....ねぇ、張コウ将軍.....髪形のせいか.....あの、ええと、呉の国の.....なんとおっしゃいましたっけ? 大都督殿に似ているようなカンジがしますね)

 昭はとなりの張コウに耳打ちした。なるほど、言われてみれば、栗色の、風に遊ぶ長い髪が、彼の人を思わせる。

(誰のことをおっしゃっているのです? .....まさか、周公瑾のことじゃないでしょうね)

(ああ、そう、周大都督.....そんなににらまなくてもいいではありませんか)

(あなたが不愉快なことを言うからです! ただでさえ具合が悪いのに、これ以上、気分を悪くさせないで下さい!)

 鼻息も荒く、吐き捨てる張コウ。しかし、壁一枚、隔てた小部屋にいる、ふたりの男のことなど、当の司馬懿はあずかり知らないのだ。

.....何か聞いておきたいことはござらぬか」

 満開の桜の下で、こうも情緒の無い物言いができるのは、いっそ才能と言えるかも知れない。だが無愛想な司馬懿の対応にも、桃花の人は不快を表しはしなかった。一瞬その大きな目を見開くと、ころころと笑った。

「司馬仲達様.....おうわさどおりの御方。お目にかかれて嬉しく思います」

.....貴女は私のことを見知っていると聞いたが?」

「はい.....短い間でしたが、奥づとめをしたこともございます」

「左様か」

 司馬懿は頷いた。

 また、話が途切れた。

.....父上、無愛想ですね.....初めて会った女性に.....もう少しなにか言い様があると思うのですが.....

 さすがに呆れた調子で、司馬昭はつぶやいた。

(昔っからでしょ、司馬懿殿は。しかし、あの女! 初対面から、いきなり『仲達様』?馴れ馴れしいーッ!)

(しーッ、しーッ! 聞こえちゃいますよ、張コウ将軍!)

(ふん!)

.....他に、なにかござらぬのか」

 軍議と寸分たがわぬ口調で、司馬懿は再びたずねた。トレードマークの黒羽扇を持ち、深い紫の衣装を纏った彼は、桜散るこの場に似付かわしいとは言い難い。凄みのある怜悧な美貌が、シンと彼女を射る。それに笑みを返せる女性は稀であろう。そして彼女は、そんな希有な女人のひとりであった。

「まぁ、せっかくお目にかかれましたのに、せっかちなこと.....

 細い指を口元にあてがい、ひとしきり笑うと、零姫は言った。

「この奥に池がございますでしょう。あそこの桜は、また格別なのだと伺っておりまする。見に参りませんか?」

 物怖じしない女性らしい。仏頂面の司馬懿を花見に誘えるとは、たいした心臓である。司馬懿は鼻白んだように、眉を持ち上げたが、断るのも大人げないと思ったのか、

.....参ろうか」

 とだけ、応えた。もちろん若干二名のお邪魔虫が、手に汗握って、見つめているのも知らずに。舞い散る花と戯れ、さらさらと歩いてゆく零姫に促されるように、黒羽扇の軍師が重い足を動かした。

.....行っちゃいましたね、張コウ将軍.....

(なんて不躾な女.....

(そんなこと、言うもんじゃありませんよ。あの父上をあんなふうに誘える女性がいるなんて。.....すごいことです)

(なにを感心してるんだか、昭ちゃん! 単に無神経なだけです! さっ、行きますよッ)

 張コウは鋭く言い放った。

(え? 行くって.....

(あとをつけるに決まってんでしょ? あの女.....池のほとりで司馬懿殿を押し倒すつもりかもしれませんよ!)

(いや、押し倒すって.....相手はたおやかな女性なのですよ?)

(私のほうがたおやかです)

(異議があります)

(ぐずぐずしている暇はありません!行きますよ、昭ちゃん!)

 強引にも張コウは立ち上がった。あわてて追う司馬昭。どうも張コウといるときには、好むと好まざるとに関わらず、行動派の、切り込み将軍の後を追っかけさせられることが多いようだ。

 足音に気をつけながら、池の方角へ忍び寄ると、すぐさま、件のふたりの姿を見止めた。しかし、そうそう都合よく、手ごろな東屋などありはしない。あわてて植え込みにしゃがみこむ。

.....張コウ将軍.....ハッキリ言って、かなり危険な場所だと思いますよ、ここは。こっちに歩いてこられたら、もろに見えてしまいます)

(ふん、まぁそうとも言えますね)

(なんでそんなに余裕があるんですかッ こ、こんなことをしているのを父上に気づかれたら.....き、気づかれたら.....

(往生際の悪い人ですね、昭ちゃん。だいたい覗きに行こうって言ったのは、そちらではありませんか)

 張コウが心外そうに言った。

(いや.....まぁ、あの.....息子としてはやはり気になりますし.....

(ならば覚悟をお決めなさい)

 しゃがみこんだ姿勢のまま、張コウはじっと目を凝らしてふたりを監視している。昭も彼に習う形になった。

 シチュエーションの危険性が増したのは確かであったが、隔てるものの無くなったこの場では、聞き取りにくい司馬懿の物言いも、自然にふたりの耳に入ってくるのであった.....