愛があればいいじゃない <2>
水の守護聖は走りに走った。
何も考えずにひた走ったのだ。とにかくアリオスのいないところへ行きたかった。
やぶれた膝がじんじんと痛んでいる。おそらく血が出ているだろうがそんなことなど、身を焼く羞恥に比べたら、何の苦痛にも感じない。
「どうしましょう.......もう.......もう、だめです.......わたくしは.......」
だれにともなく訴える。そうすることによって、たった今アリオスに話してしまった事柄を打ち消そうというように。
リュミエールは無意識に聖殿に向かっていたらしい。見慣れた建物の前に到着すると、裏庭にまわる。できれば人に会いたくなかったからだ。
「.......わたくしは.......わたくしは.......あのようなことを.......わたくしのバカっ! バカバカバカっ!」
子供のように頭をたたいて、自らの失言を責めるリュミエール。笑ってはいけない。彼は真剣なのだ。
そのときである。
背後から、聞き慣れた声が掛けられた。低い甘い声。
「リュミエール.......? なにをしているのだ?」
声の主は闇の守護聖クラヴィスであった。
彼の問いかけは、もっともであろう。リュミエールは中庭の木陰に突っ立ったまま、ぽかぽかと自分の頭を殴っていたのだから。普通の人間が見たら、気が触れたのかと思うに違いない。
リュミエールはびくびくとそちらを振り返った。しかし水色の瞳には涙が溢れており、クラヴィスだと判別がついたのは、聞き慣れたその声音と、類を見ない漆黒の衣装のおかげであった。
「ク.....クラヴィスさ.....ま.......?」
ふるえる唇がその名を綴る。
「どうしたのだ?」
クラヴィスの声音が変わった。リュミエールの涙を見たせいであろう。
「クラヴィスさまっ.......クラヴィスさまっ! あああっ!」
リュミエールは最愛の保護者のふところに飛びついた。声をあげて泣き出す。
「ク.....クラ......クラヴィスさまっ クラヴィスさま.......わたくしは.......わたくしは....!」
大きくしゃくりあげるリュミエール。その背を撫でながら、クラヴィスがこのうえなく優し気な口調でたずねる。
「どうしたのだ......? 泣いていてはわからぬぞ.......」
「ク.....クラ......クラヴィスさま.......わたくし.......わたくしは.......もう......もう......だめです.......せっかく.......ううっ.......ええっ.......えっえっ.......」
水の守護聖はかなり興奮状態にあるらしい。必死に告げようとしているのだろうが、その内容はまったく要領を得ない。
「ああ、よい.......もう、大丈夫だ..... な? リュミエール」
「ク.....クラ......クラヴィスさま.......クラヴィスさまっ.......」
「よい子だな.......そう、落ち着いて.......」
父のように語りかける。リュミエールが泣き濡れた顔をそっとあげる。闇の守護聖は赤く擦れた頬をゆっくりと撫で、いまだ長い睫毛を覆っている涙の雫を、唇で吸い取った。
「クラヴィスさま.......わたくし.......わたくし.......」
「ああ、よい、わかった......話を聞くから.......もう大丈夫だからな.......」
髪を撫でる大きな手に頬を寄せて、リュミエールはこくりと頷いた。ジュリアスが見たら、切れそうな光景である。
クラヴィスはリュミエールの薄い背に手を当てて、そっと促す。執務室に連れていこうというのだろう。しかし、水の守護聖は一歩足を踏み出した時、苦痛に顔をゆがめた。
「リュミエール? .......どうした......?」
「いえ......なんでも.......」
「何でもないということはなかろう?」
そういうと、クラヴィスはむずがるリュミエールをいなして、彼の足下に膝まづいた。汚れた衣を一気に捲る。艶かしいほど白い足の、膝の部分が破れて血が流れている。衣の汚れは乾いた血液がこびり着いたものであった。
「どうしたのだ、この怪我は.......ひどく血が出ているではないか!」
クラヴィスの声がきついものに変わった。それに慌ててリュミエールが言い添える。
「こちらに.......走ってくる時に転んでしまったのです.......わたくしは.......いつもにぶくて.......頭がまわらなくて.......」
徐々に声が濡れてくる。先ほどの一件を思い起こしたのであろう。
気の回らぬ自分。もういいかげんよい年にもかかわらず、気のきいた会話一つできないつまらない人間。
数少ないとりえのひとつである料理でさえも、この前は皿を割るという失態を犯してしまった。アリオスは何も言わなかったが、無言でかけらを拾ってくれた彼は、あきらかに呆れていたのだと察する。
ふたたびぽろぽろと涙をこぼし、立ち尽くしてしまった青銀の天使を、クラヴィスは有無を言わさず抱き上げた。
「ク.....クラ......クラヴィスさまっ?」
いきなり宙に浮いて驚くリュミエールである。
「よいから、このまま内に入るぞ。話は手当てが終わってからだ」
クラヴィスはずんずんと歩き出した。いつもの緩慢な歩みではない。
「ク.....クラヴィスさまっ! このような......皆が見ておりますっ!」
いったん、中庭からでて、聖殿の内部に入れば、守護聖殿につくまでは一般の官吏も廊下を通る。自分だけならまだしも、クラヴィスまでもが好奇の目にさらされるのはたえられなかった。
「ク.....クラ......クラヴィスさまっ.......自分で歩きます.......大丈夫です。ちょっと血が出ただけで.......」
「おまえは黙っていろ」
ぴしりとクラヴィスが言った。思わず身が竦んでしまいそうな厳しい声であった。
「ク.....クラヴィスさま......申し訳ございません.......」
「よい。おまえの気にすることではない」
「.......はい」
素直にリュミエールは好意に甘えた。闇の守護聖はいつでもリュミエールを守ってくれる。ふところに入れて甘えさせてくれる。それはジュリアスと神誓を行ってからも変わることがなかった。
クラヴィスは足早に聖殿の廊下を通り抜け、医務局ではなく、まず自分の執務室に連れていった。そこから、医師を呼びつける。行きなれない場所にリュミエールを運ぶよりも、静かな執務室のほうがよいと判断したのであろう。
すぐに宮廷医師が助手とともに闇の守護聖の執務室にやってきた。なぜか光の守護聖も一緒であった。医師が手早くリュミエールの怪我を手当てする。
その間、ジュリアスは口を噤んでその様子を眺めていた。話はあとからだというのだろう。
医師がクラヴィスの執務室を辞したとたん、ジュリアスが真剣な表情で尋ねてきた。
「クラヴィス、これはどうしたことだ.......?」
まず、声を掛けたのは伴侶のクラヴィスに対してであった。リュミエールの様子を一見すれば、いきなり話し掛けるのがはばかられたのであろう。
リュミエールは手当てをされている最中も、とうとう泣き止むことができなかった。しゃくりあげるわけではないが、瞳が赤く潤んでいる。
「中庭でこの者に会ったのだ.......怪我をしていたので、抱いて連れてきた」
クラヴィスが端的に述べた。
「リュミエール.......?」
ジュリアスが視線を水の守護聖に移す。
「ジュリアスさま.......もうしわけ.......なんでも.......なんでもないのです.......どうか.......どうかお許しください.......」
リュミエールが言った。
「それではわからぬ、どうしたというのだ?」
問いつめるジュリアスをクラヴィスが手で制した。
「.......待て、ジュリアス。リュミエールは未だ興奮している。しばらくそっとしておいてやりたいと思う.......」
やわらかな.......このうえなく優しい声音。ジュリアスでさえ、聞いたことのないような声だ。
「ク.....クラ......クラヴィスさま.......クラヴィスさまっ.......」
ふたたび、リュミエールの双眸から涙が流れ出す。ジュリアスの手前、少々気が引けたが、それでも泣き濡れた青銀の天使を放っておくことはできなかった。静かにその腕に細い身体を抱く。
思わず、きりりと瞳をつりあげ、怒鳴りかけたジュリアスを視線でなだめる。
「な.......? もう、大丈夫だ.......落ち着いて.......ここには私もジュリアスもいるのだから......」
「ク.....クラ......クラヴィスさま.......ク.....クラ......クラヴィスさま.......」
「よい子だな.....リュミエール.......話をしてくれぬか? おまえが泣いている姿を見るのは私も心苦しいのだ.......」
甘い囁きに、あからさまにむっとする光の守護聖。なぜなら、日頃、ジュリアスがびーびー泣いていても、クラヴィスはほとんど取り合ってくれないのだ。
ふたりの異なる含みを持つ視線の中、リュミエールは震える口唇を開いた。
「.....アリオス?」
漆黒の守護聖は、愛娘の言葉に目を見開いた。リュミエールは震えながら頷く。無意識のうちに両手が組み合わされている様が、なんとも可愛らしい。
「.....はい、わたくし.....わたくし.....アリオスに嫌われてしまいました.....」
ひっくと喉元から、ひきつった嗚咽がもれる。悲壮に青ざめたリュミエールの顔には生気がない。
「.....どういう.....ことなのだ?」
闇の守護聖がゆっくりと尋ねる。せかしたりせっついたりしないところがクラヴィスらしい。傍らでは彼の伴侶が興味津々で水の守護聖の表情を覗き込んでいる。いわずとしれた光の守護聖だ。
「とても.....申し上げられません.....恥ずかしくて.....わたくしは.....っく.....うっ.....えっえっ.....」
ふたたび本格的に泣き出しそうになった青銀の天使を、あわてて闇の守護聖がなだめにかかる。どこまでも愛娘に甘いクラヴィスであった。
「.....ああ、よい.....無理に言わずともよいのだ.....」
「.....クラヴィス様.....」
「だが.....ひとつだけ、聞かせて欲しい.....」
頬を伝う涙の跡を、そっと指先で辿りながら、闇の守護聖は口を開いた。
「.....リュミエール.....おまえは.....あの者が.....アリオスの事を好いているのか.....?」
それを尋ねるクラヴィスの横顔には、常と異なる色が刷かれている。
「あっ.....あの.....わたくしは.....わたくしは.....」
案の定、あわてふためく青銀の天使だ。己の中で自覚するのと、他人に確認されるのとでは、まったく心境が異なる。
「アリオスを.....特別に思っているのだな.....?」
闇の守護聖が語調を強めた。それはまるで、たった今、クラヴィス自身が口にした事実を、否定してもらうのを期待しているようであった。
だが、次の瞬間、水の守護聖はそっと双眸を閉じあわせると、静かに、だがはっきりと頷いた。
「ほぉー!」
という無遠慮な声は、幼い伴侶殿のものだ。
「そうか.....」
クラヴィスが低くつぶやいた。苦渋の滲んだ、その声音にリュミエールが顔をあげる。
「.....あの.....クラヴィス様.....?」
「いや、なんでもないのだ.....」
深い吐息にリュミエールが小首をかしげる。
「そうか.....あの者が好きなのか.....」
「.....不満そうだな、クラヴィス」
さらに不満げな声音で、ジュリアスが言った。最愛の伴侶であるはずなのに、クラヴィスのリュミエールに対するひとかたならぬ思い入れが不愉快でならないのだ。
常にクラヴィスにとって、おのれのポジションがナンバーワン、オンリーワンでなければ、納得できない光の守護聖であった。
「.....クラヴィス様.....?」
「いや.....リュミエール.....」
「.....はい?」
「.....アリオスがおまえを嫌うということはなかろう.....」
クラヴィスはゆっくりと含めるように言った。
「.....ですが、クラヴィス様.....」
リュミエールはやはり不安げである。
「.....おまえがあれに何を言ったかは知らぬが.....おまえのような者を厭う輩がいるわけはない」
その言葉に、肌の薄い水の守護聖は首筋まで赤く染めた。
「.....あっ.....あの.....そのような.....わたくしのようなつまらない人間は.....」
しどろもどろに反論するリュミエールに、重ねて言い含める。
「おまえはつまらない人間でも、気の利かぬ人間でもない。.....おまえはひどくやさしい人間だ.....そして繊細なまでに美しい.....」
黒耀の双眸が甘く細められる。頬を膨らませるジュリアスなど、おかまいなしでクラヴィスは続ける。
「.....天から舞い降りた使徒のように.....そんなおまえを忌むものがいると思うのか?」
「.....クっ.....クラヴィス様.....そのような.....」
「おまえは、以前からおのれを卑下するくせがある。その必要はまったくないというのに.....困った天使だな.....」
砂糖を吐くほどの、激甘なセリフをさらりと言い放ち、クラヴィスは目の前の白い額に、やわらかな接吻をひとつ与えた。
「.....リュミエール.....少し落ち着いて、そしてゆっくりと鏡を見てみるがよい.....」
「鏡.....?」
リュミエールがふたたび首をかしげた。愛らしいしぐさだ。
「.....ああ、そこには青銀の天使が映っているであろう。誰からも愛される私の大切な.....な?」
ふぎゃーっ!と切れかかった、金の大猫を片手で受け止め、クラヴィスはリュミエールに退出を促した。
部屋を出る時、涙をぬぐった水の守護聖は、恥ずかしげに微笑み、クラヴィスとジュリアスに一礼した。
恋に幼い水の守護聖の恋愛は、初めの一歩を踏み出したばかりである。