愛があればいいじゃない <5>
ボーン.....ボーン.....
壁時計が鳴った。クラシックな木造りの振り子時計の音は、静かな部屋に深く響いた。
「おっと.....やべ、もうこんな時間か!」
「.....え.....あ」
「悪りぃ。そーいや、ここに着いた時間が時間だったからな〜」
予定外に長居をしてしまったというのだろう。アリオスはいつものくせで、ぼりぼりと頭を掻いた。
「ごめん、疲れたんじゃねぇのか?」
「そんな.....わたくしはもうなんとも.....せっかく来てくださったのに.....」
「じゃ、俺、帰るわ! 具合の悪いトコ押し掛けてごめんな!」
アリオスは長椅子に放り投げたままの上着をとりあげた。
「ア、アリオス.....!」
「ん? あ、見送りとかいらねぇから。おまえ、さっさと布団入れよ。冷えるとまた熱が出るぜ」
せかせかとアリオスが言った。彼も面倒見のいいタイプらしい。
水の守護聖は、ちらりと壁時計を見遣った。そして意を決したかのように、銀の髪の青年に向き直る。
「あ、あの、アリオス.....もしよかったら、その.....と、泊まっていってください!」
「.....え?」
「いえ、その.....も、もう遅いですし、あなたさえよければ.....あの.....」
「でも.....その.....」
「あああああのっ! む、無理にではないのですっ! その、よければ.....ですから! お、お引きとめしてごめんなさいっ!」
大慌てにあわてて、そういうと、水の守護聖はぺこっと頭を下げた。やや大げさなくらいに。赤く染まった頬を、アリオスに見られたくなかったのかもしれない。
「...............」
「.....ア、アリオス.....?」
ひと呼吸おいて、ふぅとため息を吐きだす。
「そーだな.....泊まってく。いいんだろ?」
「! .....はい!はい! もちろんっ.....!」
「じゃ、悪いぃけど、なんか軽く食わせて。じゃないと、腹の虫であんたをたたき起こしそうだ」
アリオスは照れ混じりにそう言った。
さきほどとは打って変わって楽しそうに、動き回る水の守護聖を、不可思議な感慨のもとで眺める。そして、そうしたおのれ自身を、もうひとりの自分が、ひどく冷静に見つめている。だが、それは奇妙に気分が沸き立つような感覚を伴っていて、足元がおぼつかない、わくわくとした、彼の知らない感覚であった。
★
「それでね.....ジュリアス様の聖女はとってもお綺麗で.....わたくしなど、足元にも及びませんでした.....」
「.....へぇ、あの人がねぇ.....」
「おいたわしいことに、今もそのときに受けた傷の痕が背中に残っておられるようですが、ジュリアス様は全然気にしていらっしゃらないようです」
「ふぅん。ずいぶんと、勇敢な聖女さまだな。まぁ、そっちのほうが光の守護聖さんのイメージには近いけどなぁ」
「ジュリアス様とクラヴィス様は結ばれるべくして結ばれたのです。おふたりが正式に.....という形をとられたときは、少々驚きましたが、今となっては、一番よい形だったのだと思います」
「.....そう.....だな。そうなのかもな.....」
アリオスはそう応えていた。無理にリュミエールに合わせているわけではなかった。光の守護聖と闇の守護聖の関係については、水の守護聖の言葉通りだと彼自身も感じていたからだ。
「.....あっ.....」
「どうした?」
「ゴ、ゴメンなさい! もう、こんな時間! アリオス、お疲れなのに.....」
「いや、そんなことねぇけどよ。わっ、十一時半? ずいぶん時間が経ってたんだな!」
軽く食事をとった後、アリオスは湯殿を使わせてもらったのだ。後はもう眠るだけ.....となったところに、わざわざ水の守護聖が手ずから入れたハーブティをもってきてくれた。それから二人はついつい話し込んでしまったのだ。
「ええ、わたくしとしたことが.....あなたのことも考えず、ひどく長話を.....」
ひたすらに恐縮する水の守護聖。彼の身分を考えれば、そんなに他人に頭を下げる必要などないはずなのに。
「なぁ、あんたさ.....」
アリオスはわずかに間を置くと、リュミエールに声を掛けた。
「あ、は、はい?」
「あんた、どうしてすぐ、あやまんの?」
「.....え?」
「あんた、俺と一緒にいるとき、かならず、一度は『すみません』っていうよな」
「.....えっ.....あっ.....す、すみま.....あっ.....」
あわてて口を押さえる水の守護聖に、銀の髪の青年は小さく吹き出した。
「別に悪いっていうんじゃなくて。ただそんなに人に気を使ってばっかじゃ疲れるんじゃないかと思って」
「..........いえ」
「あ、気にすんなよ。少し気になったから言ってみただけ」
軽い調子でアリオスは締めくくった。しかし意外にも言葉を続けたのは水の守護聖であった。
「.....わたくし.....だめなんです.....たぶん、怖いのだと思います。人に嫌われるのが.....」
「.....は?」
「いえ.....笑わないでくださいませね.....」
「あ、ああ」
「会話するとき、言葉のニュアンスや言い回しって、人によって個人差があるでしょう? それに物の考え方って、ひとりひとり違うではありませんか」
「ああ、そりゃ、もちろんそうだろうよ」
「そんなときに、はっきりと自分の思ったことを口にしてしまって、知らない間に誰かを傷つけてしまったり.....いえ、そんなあいまいなものではなくて.....私の口にしたことで、だれかに嫌われてしまうのが怖いのです。人に嫌われるのって.....つらいと思うんです.....だから、つい.....」
「ふーん.....まぁ、嫌われっぱなしの俺には、よくわかるーな、わかんねぇような話しだな」
アリオスは言った。
「ま、まぁ!そんな.....わたくし.....」
「あー、はいはい気にするなよ。俺はアンタとちがって、気に入らないやつに好かれなくてもなんとも思わないからさ。別段、痛くもかゆくもねぇ」
「.....アリオス.....」
「でもな、リュミエール。『ここはゆずれねぇ!』ってときには、引くんじゃねぇぞ。人は生きていく間に、何度かそういう場面に遭遇するもんだと思う。その回数は個人差があんだろうが、男なら必ず、二度三度はくると思う。そのときに、すべてを賭けて闘えるんなら、ふだんはあんたにとって楽なように生きればいいだろう」
「すべてを賭けて.....闘う.....」
「ああ。その光の守護聖さんが、万難排して闇の守護聖にぶつかっていったように、どうしても、命を懸けてでも欲しいものがあるんなら.....俺なら闘うぜ。他人にどう評価されようと、その結果だれを傷つけざるを得ない形になろうと、そんなのはかまわねぇ.....かまっている余裕はねぇ。そーゆー意味では、俺、あの光の守護聖って、ずいぶん男ッ気のあるカッコイイ奴だと思うぜ」
「ジュリアス様.....」
「おー、ちょっと久々にいい野郎に会ったなって、シビれたぜ、へへ」
その男ッ気のあるイイ野郎が、いわゆる「受け身側」であるということには、アリオスは触れなかった。ころりと失念しているのか、あえてその部分にはノータッチであったのかは知れない。
「そう.....そうですね.....あなたのおっしゃるとおりだと思います。アリオス.....」
「え、ええ? いや、ま、これは俺の考えだからさ。俺みたいに後悔したくなかったら.....」
「え.....?」
水の守護聖は問い返した。かすかにアリオスの声が沈んだのを聞き逃しはしなかったのだ。
「ああ.....昔の話だよ」
「あ、あの、アリオス! わたくし.....あなたのことを.....」
「.....冷えるぜ」
唐突にアリオスが言った。
「え、あ.....」
「あんた、素足にスリッパだろ? ほれ、こっちこいよ」
「あ、あの.....」
「ほらほら、別に男同士なんだからいいだろう。それより、アンタの具合が悪くなったら、俺、闇の守護聖に呪殺されるかもしれねぇ」
あながち冗談口調でもなくそう言うと、さきほどまで腰を下ろしていた寝台まで、ぐいぐいと水の守護聖をひっぱっていく。アリオスはそのまま細い身体もろともベッドの中にもぐりこんだ。
「うわっ、あんた、足、冷てぇ! よーし、ぬくめてやる」
「きゃあっ!」
冷えきった細い足に、自分の足をからめると、アリオスは恥ずかしげにもぞもぞと身動きするリュミエールを、ぐっと抱き込んだ。
「きゃ.....ア、アリオス.....」
「どうだ? 少しはあったまったか?」
「え、あ、は、はい.....」
「ふふ.....綺麗な水色の髪.....だな。聖地の近衛兵連中が、水様ファンクラブをつくっているってのも、なんつーか、納得いく」
「は、はぁ? なんですの、それ.....?」
「あ、いや、知らねーんならいいんだけどよ」
(ニブっ.....)と、アリオスは心の中でつぶやいた。
「あの.....アリオス.....さっきのお話.....後悔って.....」
おずおずと懐の中から、水色の瞳が見上げてきた。
「ちっ、記憶力のいいやつ」
「聞かせてくださいな.....もし、お嫌でなければ.....」
「ああ.....まぁ、昔のことだから.....かまわねぇけどよ.....」
そう前置きすると、アリオスはリュミエールの顔を見ずに言葉を紡ぎはじめた.....
★
「.....彼女は初めて俺が愛した女だった.....俺をわかってくれた女だった.....」
「....................」
「.....本当に好きだったんだ.....大切で大切で、怖くなっちまうほど大事で.....なのに.....」
腕の中で水の守護聖が身じろぎした。彼を抱きしめるおのれの腕に力がこもってしまったことにさえ、アリオスは気づいていないようであった。
「.....なのに.....あいつを死なせてしまった.....俺は結局なにもできなかった.....何の力もなかった.....好いた女ひとり守れず.....いまだにこうして生き永らえてる.....ダメ人間さ.....」
「.........................」
「.....どうした、あきれたか? リュミエール.....?」
「アリオス.....わたくしならば.....わたくしがエリスさんでしたなら.....けっしておのれを不幸だとか、不運だとか.....ましてやあなたを恨もうはずはないと思います.....」
抱き込まれたままの水の守護聖の言葉は、くぐもっていてやや聞き取りにくかった。
「.....なに?」
「確かに、お若い女性がその年にして死を選ばざるを得なかったのは不幸だったのかもしれません。でもね.....」
「...............」
「でも.....エリスさんは、あなたに愛されたのでしょう? そして彼女もあなたを愛した。こんなにも自分のことを愛していてくれるあなたがいること.....その想いを胸に抱いて黄泉路に旅立てたのなら.....わたくしならば.....本望です」
「.....リュミエール」
「どんなに長く生き永らえたとしても、生涯恋が実ることもなく、満たされぬ想いのまま日々を送らねばならぬ人間よりも、ある意味ではずっとずっと幸福だったのではないでしょうか?」
「....................」
「あなたはダメな人間などではありません。あなたは勇敢な方でした。その方法にあやまりはあったのかもしれませんが、あなたもジュリアス様と同じ.....なによりも大切なもののために闘った方です.....」
「.....サンキュー.....」
ようやく顔をあげてくれた水の守護聖の、ブルートルマリンの瞳には、案の定大きな涙の粒がもりあがっていた。予想通りの反応に苦笑を押し殺し、アリオスは唇でそれを吸い取ってやった。
ボッと真っ赤になる水の守護聖。
「やれやれ、アンタは百面相だな.....」
「も、もう! からかわないでください!」
「悪い悪い。でも.....なんだかアンタに聞いてもらえてよかった。サンキューな、リュミエール.....」
「アリオス.....」
「次はまたアンタの話、聞きたいトコなんだけど.....さすがに.....眠い.....」
「.....アリオス?」
「...............」
「アリオス.....?」
「.....すぅ.....すぅ.....」
「.....まぁ.....」
アリオスは墜落睡眠型の男らしい。唐突にディープスリープに突入している。
水の守護聖は、彼を起こさないように、ほんの少しだけ、身をよじった。眠るのに楽な体勢をととのえる。
「.....寝顔は子どものようですね.....ふふ.....」
ひとりつぶやく。間近にせまったアリオスのアップだが、眠ってさえいれば赤面せずにやり過ごせそうであった。
「.....ええ.....わたくしも.....闘います.....なによりも大切なもののためならば.....わたくし.....」
華奢な腕をそっと大柄な男の背にまわす。アリオスに起きる気配はない。
「.....だいすき.....」
そうつぶやいた、おのれの声を、水の守護聖は夢の中で確かに聞いていた.....