水色の季節 <2>
翌日、水の守護聖は闇の守護聖の執務室にいた。
伏せた顔は見ることができないが、俯いた肩が小刻みにゆれている。
「.....話はわかった.....」
巨大な執務机に座した漆黒の守護聖はそう言った。
「.....クラヴィス様.....」
恐る恐る顔をあげたリュミエールの双眸は露を含んでゆれている。
「.....クラヴィス様.....わたくしが軽率な発言をしてしまったばかりに.....このようなご迷惑を.....」
言いつのるリュミエールをクラヴィスが低い声で差し止めた。その声音はやわらかい。
「もうよいと言っている.....だが、リュミエール.....」
「はい.....?」
「私を恋人と告げてしまったのならば、あの者があきらめるまで、我らはそのようにふるまわねばならぬ.....」
「はい、誠に申し訳ありませんが、そのようにしていただければと.....」
『そのように』とは具体的にどのようになのか、恋人たちの『そのように』を到底理解しているとは思えない調子でリュミエールが言った。
「...............」
「.....オスカーもほんの戯れに過ぎないのだと思います。ですから、しばらく時間をおけば気持ちも冷めるではないかと思うのです」
リュミエールの言葉に、クラヴィスは何か小さくつぶやいた。それはあまりにささやきに近くてリュミエールには聞き取ることができなかった。
クラヴィスは「それはどうかな」と言ったのである。
「.....クラヴィス様?」
不思議そうにこちらを見つめるリュミエール。童女のような愛らしい表情。白桃の頬に、さくらの口唇。水色の瞳には銀のまつげが撓わに被さり、柳眉と呼ぶにはやさしげな眉がすっと刷かれている。
「.....いや、なんでもない.....」
「.....クラヴィスさま.....」
「.....そのように心配そうな顔をするな.....大丈夫だ.....」
「..........はい」
「ああ、そろそろ昼だな.....食事に出るぞ」
めずらしくも闇の守護聖のほうから食事に誘う。はやくも短針は12時を超えている。リュミエールはクラヴィスの促しに従って席を立った。
会いたくないときに限って、会ってしまう人間がいる。
今のリュミエールにとってはオスカーがその最たる人物であろう。そして密かにジュリアスにも会いたくないと感じるリュミエールであった。
光の守護聖は絶対に認めようとはしないであろうが、ジュリアスがクラヴィスに対して特別な感情を抱いているのは確かだと思われる。
自分の事にはとんと疎いリュミエールであるが、他人の気持ちの機微を理解するのは長けているのだ。いや、とりわけ聡くなくともジュリアスの行動を見れば、容易に想像がつく。
クラヴィスが聖殿に顔をみせないとたちまち機嫌が悪くなる。
闇の守護聖に惑星視察が命じられることはほとんどない。その理由は見知らぬ土地にクラヴィスをひとりで行かせては、徹底的に執務をさぼるに決まっているとジュリアスは言う。
だが、気持ちの半分は、首座の守護聖として聖地を動けない己の近くにいてほしいのだ。
「.....クラヴィス様っ!」
小さな、だがするどい声音で、かたわらのリュミエールがクラヴィスを呼んだ。無意識に黒衣にすがってしまう。
それに視線を巡らせると、クラヴィスは、もう一方の道から紅い髪の男が歩いてくるのに気づいた。
「.....ク.....クラヴィス様! どうしましょう、どうしましょう!」
今にも泣き出しそうにおろおろと慌てるリュミエール。だが、漆黒の守護聖はまったく動揺しない。
オスカーは、まだこちらに気づいていない。
「取り乱すな、リュミエール。自然に振る舞え.....」
「でっ.....でも、でも.....」
オスカーはどんどん近付いてくる。
「.....ふぅ.....いたしかたないな.....」
クラヴィスはそういうと、演技力皆無の水の守護聖の背に腕をまわした。
「.....ク.....クラヴィスさまっ?」
驚きに目を瞠はるリュミエールに悪戯っぽい笑みを返すと、闇の守護聖はそのまま腕に力を込める。
水の守護聖の華奢な身体がふわりと浮く。ぐいとひっぱられると黒衣に身体が密着する。
「えっ?....リュミ.....っ!」
オスカーのするどい声音。ふたりの姿を見つけたのだ。
「クラヴィ.....っ.....」
リュミエールの声は途中で途切れた。クラヴィスの接吻は初心者にはなかなか濃厚であったようだ。水色の天使は人形のように、なされるがまま唇を弄ばれている。
クラヴィスがオスカーを見る。
リュミエールをむさぼったまま、滴るような流し目を炎の守護聖に送ったのだ。
オスカーはそのままきびすを返した。
無言で立ち去る。走り出さないのがプライドのあらわれなのだろう。
オスカーの姿が完全に見えなくなってから、クラヴィスは青銀の天使を解放した。腕をゆるめるとそのままずるずると凭れ掛かってくる。
「.....大丈夫か?」
笑みを含んだ低い声音。
「.....あ.....は.....はぁ.....」
真珠の肌が桃色に色付き、吸われた唇が紅く染まっている。演技とはいえ、甘苦しい衝動を押さえ込むのに一苦労だ。
「.....演技過剰であったかな.....」
くすくすと笑いながら、クラヴィスはリュミエールの腕を取った。
足取りの不確かなリュミエールを抱きかかえるようにして、クラヴィスは執務室への道を急いだ。
この寸劇を見たのは炎の守護聖オスカーともうひとり.....
もっとも見てはいけない人物、光の守護聖ジュリアスであった。
さすがのクラヴィスも、背後の木の蔭にジュリアスがいたことには気づかなかったようである。
ジュリアスはリュミエール以上にあいまいな足取りで、己の執務室に向かったという。
どこまでもこんがらがってゆく、聖地の人間模様であった。
それから、三日過ぎた。
その三日間の間、リュミエールには、ひとことも言葉を交わさなかった人間がいる。
炎の守護聖オスカーだ。
おのれに『愛している』と告げて来たオスカー。そんな彼のセリフは言葉半分、信じ切ることができなかった。
あたりまえだ。
精悍な美丈夫の炎の守護聖の周りには、いつでもあまたの美女が群れをなしていたし、それだけでは満足できず、あたらしいロマンスを求めて、下界へ遊びにいくことなど、日常茶飯事のオスカーだったからである。
水の守護聖は、闇の守護聖との口づけシーンを見られた翌日、たまたま、渡り殿でオスカーとすれちがった。
特別珍しいことではない。隔離されている守護聖殿から、正面玄関や集いの間に行くには、必ずここを通らなければならなかったし、また守護聖以外の人間も、普通に通行する場所だ。
リュミエールはわずかに躊躇したものの、黙っているのも気まずいと感じ、無難に挨拶をしたのだ。
だが、炎の守護聖はそれを無視した。
いや、悪意をもって知らんぷりしたと言うことではなく、リュミエールが見えていないようであった。比喩表現である。
もちろん、目の前から歩いて来た水の守護聖に気づかないはずはないし、声を掛けられればなおさらだ。
だが、炎の守護聖は一瞬ひどく傷付いた表情を見せたが、次の瞬間瞳の色を無くしたのだ。まさに凍れる大気の色。アイスブルーの瞳はなんの感情も映し出さなくなった。
「オ.....オスカー?」
見たことも無い炎の守護聖の表情に、おどろきをかくせないリュミエール。もう一度声を掛けてみたが、彼が振り向くことは無かった。
☆
「..........ル.....」
「...............」
「.....リュミエール」
何度めの呼びかけであったのだろうか。闇の守護聖の低い声音に、水の守護聖は、はっと顔を上げた。機械的に抱えたハープはもちろん何の音楽も奏でてはいない。
「.....あ、こ.....これは.....」
「.....どうした?」
「ク.....クラヴィス様.....ご無礼いたしました。も.....申し訳ございません.....」
あわてて謝罪するリュミエール。闇の守護聖とともにいて、意識を飛ばしてしまったことなど初めてだ。ましてや、それが苦手だと忌避していた炎の守護聖のことなどで.....
「よい.....何を考えていたのだ?」
闇の守護聖はゆっくりと長椅子から立ち上がった。長い黒衣がさらりと波打つ。人から無感動で無表情と恐れられている闇の守護聖だが、水の守護聖にとっては、この漆黒の守護聖の側にいる時が、一番心が休まるのだ。
クラヴィスは決してリュミエールを傷つけない。不用意に心をゆさぶったりはしない。いつでも静かにゆっくりとおのれを受け止めてくれる。
リュミエールは、そんなクラヴィスに惹かれていた。ジュリアスに悪いとは思いながらも、いつまでも側において欲しいと願っていた。
わずかな間隙の後、はっと気づくと、目の前に黒耀の双眸が迫っていた。闇の守護聖のそれは陽の光に透けると、美しい紫水晶の輝きを放つのだ。
「.....なにを考えていたと.....問うたのだ.....」
クラヴィスがくりかえした。
「あっ.....あの.....もうしわけ.....ございません.....」
「.....言えぬか.....ふふ.....」
唇のはしをくぅっと持ち上げて、妖しく微笑するクラヴィス。
「もうしわけ.....ございません.....」
水の守護聖は俯いた。
「よい.....夜も遅い.....そろそろ寝むとするか.....」
「本当に.....申し訳ございませんでした.....」
「よいと言っている.....それより、おまえはどうする?」
「.....え?」
闇の守護聖は音も無く立ち上がった。濃密な白檀の薫りが、水の守護聖を惑わせる。
「私はもう寝ると言っているのだ.....おまえは.....どうする?」
闇の守護聖がふたたび訊ねた。クラヴィスがこのように問い掛けることなど今までに無かったからだ。
遅い時間になると、退室を促されるか、泊まっていくようにすすめられるかのどちらかで、水の守護聖に選択権は無かった。
「あ.....あの.....」
「...............」
「あ.....あの.....お側に居いてくださいませ.....」
「では、こちらへ.....」
漆黒の守護聖がゆっくりと青銀の天使を手招く。
あやつり人形のように、それに引かれてくるリュミエールに、このうえないあたたかな笑みを浮かべるクラヴィスであった.....