水色の季節 <3>
「今日はこちらへ.....私の部屋へ.....」
湯殿からあがってきた水の守護聖を闇の守護聖が促した。銀鼠色のうすい衣を纏ったクラヴィスは、血の通った人間ではなく、美術品のようだ。言葉に言い表すのが難しいほどに、艶かしく不可思議な存在になる。
「え.....あの.....」
こちらはうす水色の夜着をまとったリュミエール。きちんと彼用に準備されたものであろう。
水の守護聖が不思議そうな顔をしているのには理由がある。闇の館にはリュミエールのための部屋がもうけられていた。
正確には、ときおりこちらに泊まる水の守護聖のために一部屋用意してあるということだ。だから今夜も当然その部屋を借りることになるのだと思っていた。
「こちらへ来いと言ったのだ.....」
もう一度クラヴィスが言った。
「あ、はっ.....はい」
リュミエールはおとなしくクラヴィスに付き従う。重厚な装飾の施されている、巨大な木の扉を開く。闇の守護聖の寝室だ。
「.....どうした?」
突っ立ったままのリュミエールに、クラヴィスが可笑しそうに声をかけた。
「いっ.....いえ、いつもは別室をお借りしておりますので.....」
あいまいに微笑むリュミエール。
「ふっ.....たまには共に寝すむのもよかろう。なんせ、私とおまえは口づけを交わした仲なのだからな.....」
からかうような漆黒の守護聖の言葉に、気の毒な水色の天使は耳朶まで真っ赤に染めた。
「ごっ.....ごめいわくをおかけして.....」
「ふっ.....だれも迷惑などと言っておらぬ.....」
「クラヴィス様.....」
「もうよかろう。さすがに眠くなった、寝すむとするか.....」
闇の守護聖は巨大な寝台に横になった。当然のようにシーツを持ち上げ、水の守護聖を促す。
リュミエールはそっとかたわらに身をすべりこませた。
☆
「先ほど.....おまえが考えていたこと.....当ててやろうか?」
不意に闇の守護聖が笑った。水の守護聖はその言葉に、せっかく微睡み始めていた双眸を大きく見開く。
「.....ク.....クラヴィス様.....?」
「あの者.....炎の守護聖のことだろう.....」
クラヴィスのささやきは、横になったリュミエールの耳朶に、熱く滴った。
「ク.....クラヴィス様.....そっ.....そのような.....」
「くくく.....別に隠さなくてもよかろう.....本当のことなのだからな」
「おっ.....おやめくださいっ」
「どうした、そのようにおびえた顔をして.....」
そっと青銀の髪に触れてみる。リュミエールはびくりと身を強ばらせたが抗いはしなかった。
「ク.....クラヴィス様.....?」
「ふふっ.....なんでもない.....くっくっくっ.....」
闇の守護聖は未だくすくすと笑っている。普段、めったに笑わない人物が間近で笑みを浮かべている様は、ひどく水の守護聖を落ち着かなくさせた。
「リュミエール.....ひとつ聞いてよいか.....」
シルクの髪を弄びながら、クラヴィスが言う。
「は.....はい.....」
「おまえはオスカーに迫られた時.....なにゆえ、この私の名を出したのだ.....」
「もっ.....申し訳ございませんっ!」
気の毒な水の守護聖はもう顔をあげることすらできない。
「咎めているのではない.....理由を訊ねているだけだ.....興味本意でな.....くっくっくっ.....」
「ク.....クラヴィス様.....」
「どうした、言ってみるがよい.....」
からかうように、だがどこか真面目な響きを含んだ、闇の守護聖の声音である。リュミエールはしばらく黙り込むと、たどたどしく言葉を紡いだ。
「そっ.....その.....クラヴィス様ならば.....オスカーも納得してくれると思って.....」
「.....ほぅ.....?」
「あっ.....あの、いつもお側においていただいておりますし.....恐れながら、わたくしをご不快に思われてはいないと.....勝手に判断してしまいました.....」
「...............」
「クラヴィス様は、いつも.....その.....まるで、お父さまのようなあたたかさで、わたくしを守って下さっていると.....そう感じて.....あっ、あの.....申し訳ございません.....」
「あやまるなと言っている.....」
「で.....でも.....」
言い淀む水の守護聖に、漆黒の守護聖は人の悪い笑みを見せる。
「くっくっくっ.....『お父さま』か.....それだけとは.....いささか残念に思うな.....」
「は.....はぁ.....」
不思議そうに首をかしげる青銀の天使。夜の魔王はふわりと身を起こすと、彼の細い手首をシーツに縫い付けた。
「きゃっ! ク.....クラヴィス様? いきなり.....どうなさったのでございますか?」
「水の守護聖.....湖の精霊よ.....おまえは私が好きか.....?」
手首から手をはなし、ゆっくりとリュミエールの頬を撫でる。
「え.....あ.....はい.....クラヴィスさま.....」
「ずっと私の側にいるな.....?」
指で桜色の唇をなぶる。
「は.....はい.....お側に.....おいていただきとう.....ございます.....」
水の守護聖の声が掠れる。急に強烈な睡魔に教われ、目の前が淡く滲んでゆく。
「.....リュミエール.....私の天使.....」
「.....あ.....ん.....」
「おまえは私のふところにいればよい.....おまえはなにも傷付く必要はない.....」
「.....ん.....」
「.....この私の腕の中で.....永遠に.....美しくあれば.....それでよいのだ.....」
闇の守護聖はゆっくりと、青銀の髪の守護聖に口づけた。
リュミエールの長い長い呼気が、口唇にあたる。それはすぐに規則的な呼吸に変わった。おだやかな眠り。
水の守護聖はやわらかい夜の腕に抱かれ、そのまま意識を手放したのであった.....
うすぼんやりと、まぶたの裏側まで、滲みだしてくる光の攻撃に、水の守護聖は、まばたきした。
薄い膜のかかった視界が、徐々にハッキリとしてくる。
うつしだされたのは、見慣れた自室の、オフホワイトの天井ではなかった。
「あ.....」
彼は小さな声を上げた。
「.....めざめたか.....」
低い、耳朶に滴る声。
「.....? ク.....クラヴィスさま.....? わたくし.....」
言葉に困惑の色が混じったのを、見て取ったのだろう。闇の守護聖が苦笑した。
「なんて顔をしている.....」
「あ.....ここは.....」
「私を見てわからぬか.....? くくく.....」
「あ、ああ.....そう.....でした.....昨夜は.....」
「ふ.....」
「えっ? わたくし.....なにかついておりますか? あ、顔を洗っていないから.....」
リュミエールは、子どものようにたどたどしい手つきで、ごしごしと頬を拭った。
「よさぬか.....こすれてしまうぞ.....おまえの目覚めた時の顔が、あまりに素頓狂な表情だったのでな.....眠っている時は眠りの森の美女さながらであったというのに.....ふふ.....」
「ク、クラヴィス様! おからかいにならないでくださいませ!」
「ああ、悪かった悪かった.....ふふ.....それよりもこのようなことをしていてよいのか? もう大分よい刻限のようだが.....」
「え? きゃっ.....もう、こんな時間! 急ぎませんと、遅参してしまいます!」
几帳面な水の守護聖である。これまで、体調不良くらいでしか、昇殿に遅刻したことなどない。
「では、急げばよいだろう」
ひとごとのようにクラヴィスがつぶやいた。もちろん守護聖である彼も、急いで支度すべきなのであるが。
「は.....はい.....あの.....クラヴィスさまは?」
「私のことは放っておけ.....」
いつもの調子で漆黒の守護聖は言い捨てた。
「え.....でも.....あ、はい.....わかりました。では、わたくしは失礼して着替えて参ります」
そう言うと、リュミエールは、うすい夜着の上からガウンを羽織り、寝台から飛び下りたのであった。もちろん時間に遅れるという懸念もあったが、同時になんとなく気恥ずかしく、間が持てなかったのだ。
蒼白いのとは異なる、透き通るような雪色の肌に、対照的な銀鼠色のうすものを一枚.....合わせの胸元が乱れて大きく開いている。見方によってはふとどきなほどに艶かしい。
その自覚があるのかないのか、闇の守護聖クラヴィスは、夜具をおしのけ、だらしのない格好で、黒髪を放り出したまま、しどけなく横たわっていたのだ。
朝一番の起き抜けの目には、いささか刺激の強すぎる見せ物であった。
そそくさとリュミエールが別室にひっこんだ後も、ひとしきり人の悪い笑みを浮かべ、心地よさげに微睡んでいたが、ふと何か思い付いたように、クラヴィスは起き上がった。
「.....クラヴィス様.....?」
三十分後である。
すっかり身繕ろいを整え、馬車の乗り口にあらわれた黒衣の麗人に、水色の精霊は瞳を瞬かせた。
「どうした.....私が時間に間に合うように聖殿に上がってはいけないのか?ふふ.....」
「い、いえ.....そんな.....」
「どうした、ゆくぞ.....遅れたくははないのだろう.....?」
「え、あ、は、はい! 急ぎます!」
ゆったりとした旧型の馬車は、長身のふたりを乗せても、まだ十分に余裕があった。
「あ、ジュリアス様、おはようございます!」
「おはようございます、ジュリアス様」
「よー、ジュリアス、相変わらずはえーな」
いつも元気な聖地お子様三人組は、しかめつらしい首座の守護聖に、朝のあいさつをした。
「む、そなたたちか。おはよう。よい天気だな。.....今日は朝参がある。はやめに奥の部屋に入るがよい」
重々しい調子で、ジュリアスは子どもたちに言った。なんといっても光の守護聖ジュリアスである。これくらいの重厚さは誇り高きものには必要な威厳なのである。
「はい、ジュリアス様!」
「へーへー、いこーぜ、ふたりとも!」
「ゼフェル〜! ジュリアス様に失礼だよ〜」
大声でものを言い合い、元気の余った年少組は、バタバタと廊下を走っていった。
「ふぅ.....」
光の守護聖はひとつ大きく吐息した。ひどく疲労している様子である。もちろん守護聖の長殿である。皆の前ではいつもと変わらぬよう振る舞ってはいるものの、彼は明らかに疲れていた。
「なんだかだるいな.....昨夜はよく眠れなかったから.....」
ぼそりとつぶやく。
「はぁ.....」
ニ度めのため息だ。
「バカな.....なにを.....さぁ、これから会合だ。未だ不安定な女王陛下の補佐もあるのだ.....気をひきしめねば.....」
おのれを戒めるように、そうつぶやくと、光の守護聖は、白亜の長い回廊を、集いの間へ向かって歩み出した。
一刻の後、水の守護聖は、集いの間の扉口に立っていた。かたわらには、もうひとりの守護聖が影のように寄り添っている。
「.....間に合いませんでしたね.....クラヴィスさま.....」
はぁはぁと弾む吐息を押さえ込み、水色の守護聖は、がっくりとした様子でつぶやいた。
馬に引かせる馬車を、そんなにもせかすわけにはいかない。ましてや闇の館の馬車なのである。クラヴィスはまるきり表情を変えず、居眠りの続きを楽しむように、短い馬車の旅を楽しんでいた。
時間に正確な首座の守護聖のことである。もうとっくに席につき、いらいらとリュミエールたちを待っていることだろう。
気が重いが引き返すわけにはいかなかった。
「.....どうした、入らぬのか?」
いっそどちらでもよさそうに、漆黒の守護聖は訊ねた。水の守護聖が、『やめましょう』と言えば、『ああ、そうか』のひとことで、くるりときびすを返しそうである。
「.....参りましょう.....遅れてしまったのは.....お詫びするしかございません」
そうつぶやくと、覚悟をきめて、リュミエールは瀟洒な細工の把手をつかみ、力を込めた。鈍い音がして、ゆっくりと重厚な扉が開かれる。
.....案の定、首座の守護聖は、書類の束を片手に、なにやら話の途中であったらしい。強い紺碧の光が、不作法な闖入者らを射しつらぬいた。
「.....も、申し訳ございません! .....遅れてしまいまして.....」
慌てて頭を下げるリュミエール。それに覆いかぶせるように、クラヴィスは、
「遅参した。すまぬ」
とだけ、それこそ、どうでもよさそうに低くつぶやいた。
「.....よい、席に付け」
ジュリアスの言葉はそれだけであった。
年長者の遅刻に、さぞかし厳しく叱責されるであろうと、覚悟していたリュミエールにとっては、肩すかしをくらったような気分だ。
むしろ、嫌みのひとつふたつ言われた方が、納得がいくようなカンジだ。
光の守護聖は、変わらぬ口調で、書面を読み上げた。
事務的な抑揚のない調子である。
水の守護聖は、それの邪魔にならぬよう、気を使いつつ、空いた自分の席へ、足をすすめた。
「.....よって.....で、あるからして.....陛下より以下の内容を.....守護聖それぞれが.....自覚を持ち.....辺境惑星への.....」
首座の守護聖の声がつづいている。
カシン.....と、リュミエールの耳もとで、なにか堅いものがはじけたうような音がした。
「..........?」
「どーしたの? リュミちゃん?」
となりの席の、夢の守護聖が言った。
「え、ああ.....いえ、今.....」
「やーん、ごまかさないで★」
「は? あの、オリヴィエ?」
「もう、リュミちゃんてば、水くさいんだから!」
くすくすと、今日はパールレッドに、ぬりたくった紅い唇が、楽しそうな笑みの形をとった。
「オ、オリヴィエ? あの.....おっしゃることが.....」
「やーね、アタシにまで、かくすことないじゃない! リュミちゃんって、やっぱ、クラヴィスが好きだったんだね〜!うんうん、まー、なんつーか、お似合いよ、あんたら」
「は、はぁっ?」
素頓狂な水の守護聖の声は大きすぎたらしい。光の守護聖がきっとこちらをにらみつけた。
「私語はつつしめ! 今は、女王陛下のお言葉を伝えているのだぞ!」
「も、申し訳ございません!」
大慌てで水の守護聖はあやまった。
となりの虹色の守護聖の、くすくす笑いが気になって仕方がない。
(オリヴィエ.....! 誤解です! いったいなぜ、そのような.....)
小声でささやくように注意する。にくたらしいことに、夢の守護聖はだんまりを決め込んだらしい。
ふいに.....ふたたび.....
カシン.....
あ.....また.....
なにかがぶつかって、散るような感覚。
それは、リュミエールの座った真向かいから、感じる視線であったのだ。
いや、視線.....という意図的な強いものではない。
(.....オスカー.....?)
水の守護聖はそう思った。
真正面からぶつからないよう、やや俯きがちの姿勢を保ったまま、リュミエールは、紅い髪の同僚を眺めやった.....