sole
<2>
 
 
 
 

 

「もう一度! これでは休んでいるヒマなどないぞッ! しっかりせぬか!」

 ジュリアスの厳しい叱責が飛ぶ。『聖女の舞い』のレッスン中という訳だ。

「は.......はい、ジュリアス様」

 おどおどと返事をしたのはリュミエールだ。今にも泣き出しそうに瞳が潤んでいる。再び躍動的な音楽が流れてくる。リュミエールは立ち上がり、教えられた振り付けをくり返した。

「違う! そなた、まだ覚えられぬのか!? いかにそなたの役割が重要なのかわかっておるのか!?

 ピシリと鞭が飛ぶ。リュミエールは思わず身を竦ませる。............誤解を受けぬように言っておくが、決してジュリアスがリュミエールを殴り付けているわけではない。しかし教師体質のジュリアスは、講議時には教鞭をとるのが常となっているのだ。

「も......申し訳ありません.......ジュリアスさま.......

 蚊の泣くような声でリュミエールが謝る。リュミエールは舞いを覚えていないわけではない。ただその躍動的なテンポについていけるほど、俊敏に身体を動かすことが出来ないのだ。こればかりは一両日中に身につくものではない。

「謝っている時間があったら、鍛練を積まぬか! さぁ、もう一度最初からいくぞ」

 ジュリアスはとてつもなく厳しかった。思わず私情が混じっているのではと考えたくなるほどに。いや実際混じっているのだが、そんなことはリュミエールの預かり知らぬことである。

「は.......はい、ジュリアスさま」

 舞いの練習には聖殿に隣接した、コンサートホールの一室を利用している。そのため、ジュリアスの怒声もよほど近くまで来ない限り外部にもれることもない。レッスン時間は誰の助けも求められず、ほとんど監禁状態のリュミエールであった。

 一通り、リュミエールの舞いを観察した後、...........そう、まさに観察という見方であった..........ジュリアスは地を這うような声で告げた。

.............今日はここまでだ。次までに注意したところはきちんと直してくるように.............よいな」

「は.........はい」

「聞こえぬ」

「はい.......、ジュリアス様」

 今にも泣き伏しそうなリュミエールの顔を見ていると、ジュリアスの嗜虐心が疼く。

「そなたは自分でこの大役を引き受けるといったのだぞ。わかっていような」

「はい.......

 リュミエールの声は消え入りそうである。

「クラヴィスの相手役をそなた自らかって出たのだ。そなたの失敗はクラヴィスの面子をも潰すのだということを肝に命じておくのだな」

 厳しい声でジュリアスは言った。理不尽な言い種だと自分でもわかっている。しかしどうしてもジュリアスは目の前の青銀の聖女を傷つけてやりたかった。それが「嫉妬」という感情だとは、幼い光の守護聖にはわからない。リュミエールの瞳からポロリと真珠の粒がこぼれ落ちたのを見て、ジュリアスはリュミエールを解放した。

 

 聖地の夕暮れは静やかにやってくる。抜けるような蒼い空は徐々にその色を失い、ローズマリーを溶かした飴色の帳がおりてくる。水の守護聖は庭園に来ていた。ぼんやりと噴水の横のベンチに座っている。常ならば、すでにこの時間には館に帰ってゆっくりと寛いでいるはず.....しかし、リュミエールは館に帰る気になれなかったのだ。

 先ほどオスカーが話しかけてきた。しかし、妙に機嫌が悪そうでリュミエールと瞳をあわせようとはしなかった。いつもだったら、困るほど側に寄り、愛の言葉を囁く恋人であるのに.......

......私が一体....なにをしたというのです......

 誰ともなしに呟いてみる。ジュリアスに頼まれたから引き受けたのに.....他に適任者がいないと........年少の守護聖にまで推薦されたら、断わることなどできないではないか。決して自分の意志で嬉々として、役を勝ち得たわけではないのに.........

「わたくしが........なにを.......

 慣れない運動のせいで、足が痛む。腕もだるい。立ち上がる気力さえ無くなってしまった水の守護聖は、そのままベンチに座りつづけていた。すっかり日が暮れてしまい、空には気のはやい星座がキラキラと瞬いている。

..........なんだ、リュミエールかよ。 何してんだ、こんなところで?」

 不意に傍らから、声がかけられた。ぶっきらぼうな声の主は聖地一の問題児、鋼の守護聖ゼフェルであった。

「あ.........ゼフェル.....

 弱々しくリュミエールは微笑んだ。他人と接する時は微笑を絶やさない水の守護聖である。

「何してんだって、きーてんだよ」

「あ....あの.....わたくしは........

 リュミエールが口ごもってしまったのを、自分の無愛想な口調のせいだと思ったのだろう。ゼフェルが少し慌てたように言った。

「あ.......ワリぃ....言い方よくなかったな。......その、今日はけっこー冷えるぜ。カゼひいたらヤバいだろ」

 ゼフェルは基本的にリュミエールのことを気に入っている。誰にでも気を使い、争いを好まぬため、自分の神経をすり減らすほど周囲に気を配る水の守護聖である。ゼフェルから見れば、そんな彼の態度がバカバカしく見えたり、優柔不断にさえ感じる時があるが、リュミエールの優しさが上辺だけのものでないということはわかっていた。

 おっとりとしていて、運動神経は皆無に等しいが、それでも誰か傷つくよりは自分が身を呈してしまうお人好しだ。そんな水の守護聖は、ゼフェルにとって、なんとなく放っておけない存在なのである。

「ゼフェル.......ありがとうございます........

 鋼の守護聖が本当に自分を心配してくれているとわかったのだろう。笑みの色を濃くして、ゼフェルの顔を見上げた。精神の張りつめている状態において優しい言葉は凶器となる。彼の思いやりがリュミエールの心に染み通った時、水色の瞳からぼろぼろと涙がこぼれた。仰天したのはゼフェルだ。

「お......おい!? どうしたよ、リュミエール?」

 リュミエールは黙って首を横に振る。彼自身も涙をこぼすつもりなどなかったのだろう。今の自分の状況に当惑しているようだ。

「リュミエール、どっか痛いのか? 気分でも悪いのか?」

 ゼフェルはおろおろとリュミエールの肉の薄い背中をさする。

「ち....ちがう.....のです............すみません........

 震える唇で、しゃくりあげながら否定の言葉を口にする。たったこれだけを言うのにも時間がかかる。

「あやまんなよ、マジで........どうした、何かあったのか? その.....またオスカーのこと.....か?」

 リュミエールが微かに頬を染めて、首を振った。羞恥が織りまぜられたためか表情は泣き笑いになっている。

「なぁ、どうしたんだ........言ってみろよ? な?」

 リュミエールの手を握る。ゼフェルも必死だ。目の前の人物が守護聖で、しかも自分よりも年長の男性だということを忘れているかのようだ。

「ゼ.....フェル......ゼフェル........

 溜め込んでいたものが爆発したのだろう。リュミエールは目の前にかがみこんでいる少年を覆いつくすように抱き締め、本格的に泣き出した。

「お.....おい、リュミエール!?

 ゼフェルは焦りに焦った。水の守護聖が声を立てて泣くところなど初めて見た。しかもそれが自分と二人っきりというシチュエーションで起こるなどということは、予想だにしなかったのである。

 あたふたとリュミエールの腕を外そうともがいたが、リュミエールはその折れそうな身体からは信じられないくらいの力でゼフェルを抱き締めている。考えてみれば自分よりも15cmも長身の青年なのだ。そう簡単に外せないのも道理である。

 ゼフェルはすぐに暴れるのをやめた。そのかわり、リュミエールの背中に手をまわし、ポンポンと叩いてやる。ひっくひっくと引き攣るような嗚咽が漏れるたび、リュミエールが顔を押し付けている肩口が温かく濡れていく。

「ま、いいけどさ」

 ゼフェルが呟いた。

「泣きたい時は泣いた方が身体にいいぜ。がまんはよくねぇよ」

 口調は相変わらず無愛想だが、その声音は優しい。もう一度、リュミエールの背中をニ、三度たたいてやり、青銀の髪を撫でてやる。長い髪はさらりと両肩に流れ、白い項があらわれた。

 ..........なんとなくオスカーの気持ちがわかってしまうゼフェルであった。 ひとしきり泣いた後、リュミエールはゆっくりと顔を上げた。白い頬が昂揚し、瞳が潤んでいる。

「すみま....せん.....ゼフェル。 .......取り乱したりして..........

 蚊の泣くような声で謝罪する。こういうところが苛ついてたまらないのだが、ゼフェルはぐっとこらえ、できる限りの優しい声でもう一度尋ねてみる。

「なぁ.......どうしたんだ? 言っちまえよ、楽になっからさ。その......俺でよければ.....だけどよ」

「ゼフェル......ありがとう....ございま....す」

 再びリュミエールの双眸が潤んでくる。それでもゼフェルは辛抱強く待った。

......わたく..しに、あのような大役.....無理なのです.......

 ゼフェルは『聖女の祝福』のことだとすぐに気付いた。

「いっしょうけんめい.....やってはいるのですが.....私は....私は.......

 ひっく.....としゃくりあげる。

「ジュリアス様の....お怒りをかってしまう......

 その一言で、ゼフェルはほぼすべてを悟った。もともと鋭敏な少年のなのである。..........ったく、ジュリアスのヤロー.....大人げねぇったら.........心の中で毒づく。

「わたくしは......不器用で.........

 リュミエールは怒りを感じるべき時にそれを悲しみに変じてしまう。本当であったら、ジュリアスに対して怒りをぶつけてもやぶさかでないのはリュミエールの方だろう。連日の練習と執務の両立を強いられているのも、元はと言えば、ジュリアスがリュミエールにこの役目を押し付けようとしたからではないか。

 自分のマントを握り締め、再び微かにしゃくりあげ始めたリュミエールを見ているうちに、鋼の守護聖のなかに沸々と『怒りのサクリア』なるものが涌きあがってきた。ゼフェルはやさしく細い指を外してやると、その手をとってリュミエールをそっと立たせた。リュミエールの白い顔は遥か自分の頭上にある。それを少々、忌々しく感じながら、ゼフェルは言った。

「さ.....送っていくから....な?」

 リュミエールは静かに従った。ゼフェルは鋭敏な上、聡い少年であった。また、正義感の強い少年でもあったのだ。

 リュミエールの窮状を救うべく、ありとあらゆる方法をシュミレートし、最も理想的な手法を考察した。

 最良の手段とは一通りではまずいのだ。兵法の常道だ。その一つが塞がれた時、為す術が無くなってしまうような手をとるのは得策ではない。ゼフェルは真剣に思案した。

「おい! ジュリアス!! 話があるッ!!

 勢いよく開け放たれた扉にジュリアスが非難の目を向ける。

「何だ、騒々しいぞ、ゼフェル! ノックくらいしろ」

 厳しい口調で注意したのは、アイスブルーの眸に燃えるような紅い髪、炎の守護聖オスカーであった。.........予定通りだ。ゼフェルは内心ほくそ笑んだ。わざと、オスカーがジュリアスの執務室に来ているのを確認して行動を起こしたのだ。

「そなたは何度注意したらわかるのだ。ノックして在室を確かめ、返答を受けてから.........

「説教聞きにきたんじゃねーんだよ」

 ゼフェルの剣呑な物言いにオスカーが不審の眼差しを向ける。

「よー、ジュリアス、あんた大人気なさ過ぎんじゃねーの?」

 唐突に、ゼフェルは言った。

「リュミエールいじめてどうすんだよ。もともとはおめーが忙しいとかいって、あいつに押し付けたんだろーがよ。.............昨日、あいつ一人で泣いてたぜ」

 最後の一言はオスカーに向けて言った言葉である。はじけたようにオスカーがジュリアスを見た。

........なんの話だ....ゼフェル」

 尋ねるまでもなかろうが、低くジュリアスが問う。

..........決まってんだろーがよ。『聖女の祝福』とかいうヤツだよ」

...................

「あいつが自分からやりてーって言ったワケじゃねぇだろ。アンタみたいに何度も経験してるヤツと同じにやれったってムリなんだよ。そもそもリュミエールのトロさはおめーだってわかってんだろーがよ。ジュリアス」

 一気にまくしたて、さぁ、どうだ! とばかりにジュリアスの変化を見守る。しかし、顔色が変わったのはオスカーだけであった。

「泣いて.....って、リュミエールがか!?

 思わず、オスカーはゼフェルの腕をとる。オスカーの思考回路はその言葉を聞いた時点ですでに停止しているのだ。尋ねてくる声に異様な迫力があった。ゼフェルは思いっきりその手を振払った。手加減などしていては、オスカーの腕力には到底かなわない。

「ああ、そーだよッ アンタ知らなかったのかよ! 普段はうっとーしーくれーリュミエールの側に付きまとってるクセに、カンジンな時にはシカトかよ、え!? オッサン!」

 ゼフェルの罵声にオスカーは何も言い返さなかった。図星すぎて何も言えなくなってしまったのだろう。蒼白のまま、ゆっくりとジュリアスに視線を戻した。

........だから、何だと言うのだ?」

 ジュリアスが常と変わらない口調で言った。

「聖女にリュミエールを推薦したのは確かだが、最終的には本人が引き受けると申したのだ。そなたたちも聞いたであろう」

「し......しかし、ジュリアス様!」

 思わずといった様子でオスカーが口を開いた。

「控えよ、オスカー。そなたたちも『聖女の祝福』がいかに重要な祭礼であるかは理解していよう。リュミエールの役目は非常に重い。舞いの一つも満足に踊れぬのでは話にならぬわ。そのような者に懇切丁寧に教授している私の身にもなってみよ」

 淡々とジュリアスは言う。

「しかし.....ジュリアス様........リュミエールが泣いていたと......

「あの程度に耐えられぬなど守護聖として未熟と言わざるを得ぬな」

 厳しい口調でビシリと言い切り、話は終わったとばかりに手元の書類に目を戻した。

 ........ちっ........! 作戦失敗か.........と、ゼフェルは心の中でつぶやき、

「あー、そーかい、そーかい! リュミエールも災難だよな。ヤキモチ焼きの首座の守護聖様にニラまれちまうなんてよー」

 捨てゼリフを吐き、ジュリアスの執務室のドアを叩き付けて退出した。ジュリアスが何か言い返してきたようだがゼフェルは無視した。こうなったら........作戦、第二弾だ!!

 ゼフェルは足早に闇の守護聖の私邸に向かった。

 

 闇の守護聖クラヴィスは、毎日出仕するとは限らない。ゼフェルいわく「さぼりの常習犯」ということである。執務室にいる時でも最低限の仕事のみ、面倒くさそうに片付けている。

 守護聖としての能力も、クラヴィスというひとりの人物としての力量も、首座の守護聖ジュリアスに匹敵すると目されているにも関わらず、闇の守護聖の職務怠慢は相変わらずであった。

 ゼフェルが闇の守護聖の私邸に着いた時にはすでに太陽が傾き、気の早い月がほっそりとその姿を表していた。

..........というわけなんだよ。おめーなんとかしてやれよ。アンタの言うことならジュリアスも聞くだろう」

 ぼそりとゼフェルが言った。派手ではないが十分に見事な細工を施されたワイン色のビロードの長椅子に腰を下ろしている。どうも、ゼフェルは落ち着かないらしい。クラヴィスはゼフェルの話を、始終その色のうすい唇に微笑を浮かべながら聞いていた。

「さて.......な、私が下手に口を挟んだら、ますますあれは意固地になるかもしれぬ」

「じゃあ、アンタ放っとけっつーのかよ! リュミエールは泣いてたんだぜ!? オスカーのヤローは役に立たねぇし、アンタ何とかしてやれよ! 可哀相じゃねーか!!

 クラヴィスの気乗らぬ返答に、ゼフェルは頭に血がのぼったらしい。ほとんど怒鳴るような口調でたたみかけた。

「んだよ、てめー、普段からリュミエールとは親しくしてんだろ!? 何とかしてやろうとは思わねぇのかよ!」

.................

「もとはといえば、アンタが相手役を引き受けたから、リュミエールがOKしちまったんだぜ!?

「ふ.........別に? 嫌であったなら断わればよかったではないか」

..........っ! てめぇ......  ああ、アンタなんかに頼んだ俺がバカだったぜ! この冷血漢ヤロー! もういいぜ俺が何とかしてやる!」

 ゼフェルは立ち上がると、傍らに投げ出してあったマントを手に取った。もう帰るというのだろう。

「待て.....ゼフェル。......夕食を共にしてゆけ、もうよい時間だ」

 クラヴィスはゆっくりと引き止めた。

「んだとッ、冗談じゃねぇ! 誰がてめーなんかと......

 怒鳴りかけた鋼の守護聖の言葉に重ねるようにクラヴィスが言った。

「私もこのまま捨て置くつもりはない.......... リュミエールのハープがない夜は寝つきが悪くてな.......

 艶めいた声でそういうと、クラヴィスは低く笑った。

 

 

 「リュミエール! そこはこの前も注意したであろう! 足の運びが遅いのだッ、何度も言わせるな!!

 ジュリアスの叱責が飛ぶ。ゼフェルが闇の守護聖の館に駆け込んだ翌日、これまでの状況に変化はみられないようであった。たったひとつ違うのは、ぶ厚い扉のこちら側に炎の守護聖がへばりついているということだけか。

「どけよ、オッサン」

 居丈高な口調に、オスカーがきっと顔をあげる。そこに思わぬ人物の姿を認め、オスカーはそのままの姿勢で固まってしまった。

.........何をしている? オスカー」

 かすかにからかいの色を含んだ物憂い口調。

.................クラヴィス様......

 炎の守護聖が赤面する様子など滅多に見られるものではない。クラヴィスは笑みを含んだ艶のある声で言った。

...........ジュリアスに用がある。.........道を開けよ」

 棒立ちになったオスカーを一瞥し、何の躊躇もなく、クラヴィスは室内にずいと入った。と、その時だ。クラヴィスの胸元にドシンと何かがぶつかった。.............それは水の守護聖であった。

 クラヴィスの姿を目にした瞬間、リュミエールがクラヴィスにしがみついてきたのだ。これにはさすがのクラヴィスも驚いたのであろう。目を瞠はり、かすかに口を開いた表情で、リュミエールを抱きとめていた。開け放たれた扉のこちら側には、これまた呆けた顔の鋼の守護聖と、顔面蒼白で引き攣っている炎の守護聖だ。

 光の守護聖はらんらんと眸を光らせ、リュミエールの後ろ姿を睨み付けている。手には今にも折れそうなくらいに撓った乗馬鞭だ。最初に冷静さを取り戻したのはクラヴィスであった。

.........どういうことだ? ..........ジュリアス」

 リュミエールの背に手をまわしたまま尋ねる。

.........見てのとおり、舞いの稽古中だ」

 絞り出すようなジュリアスの返答。

............鞭を片手に......か?」

 茶化すようなクラヴィスの言葉に、後ろでオスカーが鼻血を吹いた。ゼフェルに「オッサン! なに考えてんだよ!?」とにらまれながら、手近な布を顔に押し付けられ、ズルズルと引っ張られて部屋を後にする。残ったのはクラヴィスとリュミエール、そしてジュリアスであった。

..........今日はもうここまでにせよ。このようにおびえているものを相手にしたところで、成果は望めぬであろう」

 クラヴィスが低く言う。

「時間がないのだ! リュミエールは女王陛下の代わりを果たすのだぞ!? この程度で音をあげられては困るのだッ!」

 ジュリアスはあくまでも、「女王陛下」「祭典」と大義名分を持ち出す。

.........そのように不満ならば、なぜこの者を推挙した? あの状況でリュミエールが拒否できるわけなかろう」

 舌の根の渇かぬうちに、昨日ゼフェルに言われた科白をくり返す。

.........すでに決まったことだ。...........目標に向かって邁進してもらわねばならぬ」

 ジュリアスは視線をリュミエールに戻し、手厳しい声で言い放った。リュミエールの細い肩がビクリと震える。

「そう.......か。 祭典は目の前だからな..........ならば、次回から私も同席しよう。.........かまわぬな」

.............それはリュミエールのためにか?」

 地を這うようなジュリアスの声。苦渋に満ちた表情は、この場にいる誰よりも傷ついているように見えた。

..........そう思いたいのならば、それでかまわぬ」

 静かに言葉を残し、ふらつくリュミエールを片手で支え、稽古部屋をあとにする。残された、ジュリアスの表情は、傍らの姿見だけが映し出していた。