それでもやはり君が好き <5>
「は〜い、クラヴィス様、ああ〜ん」
「あーん」
「クラヴィス様、こっちのプリンも美味しいよ、お口をおあけ、あ〜ん」
「あーん」
「ああー、クラヴィス〜、お菓子ばかり食べていては身体によくありませんよ〜。まずは〜、ああ〜、このコーンスープを飲んでしまいなさい〜。ああ〜ん」
「あーん」
「.....見てらんねーぜ」
ぼそりとつぶやいたのは鋼の守護聖ゼフェルであった。
「大の男が三人、よってたかって、『あ〜ん』もなにもあったもんじゃないぜ」
「ああー、ゼフェル〜、あなたも、あ〜ん」
「よ、よせよ、ルヴァ! 飲むよ、残さなきゃいいんだろっ! だいたい、俺、こういう甘いカンジのスープって苦手なんだよ」
どちらかというと、スパイシー系の得意なゼフェルだ。たっぷりと生クリームとミルクを使ったコーンクリームスープは苦手な部類に入るらしい。
「おや、君、コーンスープ、キライなの? ここのはけっこういい味出してると思うけど」
「俺は辛いもんのほうが好きなんだよ、セイラン! あんた、朝は苦手じゃなかったのかよ。おめーが、聖地、徘徊すんのは大抵夜のはずだろ」
「徘徊って、君ねぇ。こんな可愛らしいお客様が来ているときに、部屋に閉じこもってはいられないよ」
いけしゃあしゃあと紺色の教官はのたまった。気分が優れないのひと言で、御前会議も欠席する強者がである。
「けっ」
つんとそっぽを向いて、わずらわしそうにスプーンを口に運ぶゼフェル。
いつのまにか彼の足元に黒い小さなものが近寄っているのに気づかない。もちろん闇の守護聖、プチ・クラヴィスだ。
「あ〜ん」
「.....うっ」
「あ〜〜ん?」
口を開けたまま首をかしげる黒髪の妖精。
「お、おう! ああーんだなっ!」
わけもわからず、スプーンを口に持っていってやるゼフェル。クラヴィスはゼフェルの飲みかけのスープも、すっかりと飲み干してしまった。
「ごちそさまでちた」
きちんと言えるのは、カティスのしつけのおかげか。
小さな両の手をあわせて、頭を下げる闇の守護聖は、ひねくれ者の鋼の守護聖が見ても、食べてしまいたくなるほどの愛らしかった。
「よ〜し、偉いぞ、クラヴィス! よく食べられたな! お兄ちゃんがいいもの見せてやるぞ!」
いつでも非常事態でも、ノーテンキに爽やかなのは、風の守護聖だ。
「いくぞ、ランディ・ジャ〜ンプ!」
くるくると空中回転して、スタッと着地する。小さなクラヴィスはキャッキャッと手を叩いた。
「しゅごい! お兄ちゃま、しゅご〜い」
「俺はランディ!勇気を運ぶ風の守護聖さ!」
無意味に名乗りを上げ、チャッ!とポーズをとる風の守護聖であった。
「それはいいから」
と、ゼフェルとマルセルがつっこむ。
「な、なぁ、おめー、どうしてここに来ちまったのか、ホントに覚えてねーのか?」
ゼフェルがたずねた。
お腹が一杯になってはしゃいだクラヴィスは、うつらうつらと眠くなってきたようだ。
「んー、あのね〜、ジュリアスと〜、湖に遊びに来てたのー、でね〜、ジュリアスが先に行っちゃって、ボク、追いつけなくて、悲しくなってきちゃって.....それで、それでね.....」
「やっぱりあの人は問題あるよね!」などといっているのはセイランだろう。小さな闇の守護聖は、一生懸命思い起こそうと頑張っている。
「んとね、それでね、カティスとごはん食べる約束だったから、カティスのおうちに行こうと思ってね.....」
「ふぅん、君はカティス様と仲が良かったんだね」
嬉しそうに言うのは、緑の守護聖マルセルだ。自分の大切な人とクラヴィスが仲良しだというのが嬉しかったのかも知れない。
「ん、カティスはとってもやさしいの。気持ちのいいこと、いっぱい、いっぱいしてくれるの」
「そう.....それで、君はその人のおうちに行こうとしたんだね」
と、セイランが先を促す。
「ん、行こうとするの.....でもね.....そっから、ボク、よく覚えてないの.....ごめんなさい.....」
「ああ、謝ることなんてないんだよ? 君だって突然のことでびっくりしただろう?」
めずらしいセイランの言葉。
「ん.....ボク、びっくりした」
「それでも、泣かないで我慢してるじゃない、エライよ、君は」
「.....昨日の夜、ちょっと泣いちゃった.....」
「ルヴァ様!」
四人の声が揃う。ルヴァを責めるのも気の毒というものだ。
「いいの、だいじょうぶなの。ここは怖くないもん。ちょっと.....さびしいけど.....」
上目がちに皆を見上げる闇の守護聖は、これが本当に「あの」クラヴィスなのかと、思わせるほど、いじらしげで愛らしかった。
「まぁまぁ、もうお寂しくなどございませんよ!いつでもリュミエールがお側におりますからね!」
ぎゅぎゅっと抱きしめる水の守護聖。完全に母モードだ。
「そうだよ、僕たち、いつでも君といっしょにいるから。必ず元の世界へ返してあげるからね。それまで、ずっとずっとそばにいるから」
自分より幼い、儚げな少年に、緑の守護聖マルセルが必死に語りかける。
「うん.....」
恥ずかしげに、こくりと頷く闇の守護聖。
あごのラインで、ふっつりとそろえられた、滑らかな黒髪がしゃらりと泳ぐ。
ガラス細工のような少年は、高名な芸術家が丹精込めて作り上げた美術品のようであった。
そして、子どもに免疫のない聖地の面々は身も心も蕩かされるのである.....
「すまんな、カティス.....」
闇の守護聖.....もとい、ここでは正式な闇の守護聖というよりも、未来の世界の闇の守護聖は言った。
「いいさ。俺もようすを見ておきたいから。だが、別に無理に会わなくてもいいんじゃないのか? いや、おまえが会ってみたいというのなら、止めはしないけどな」
「よくわからぬのだ.....」
炎の館への道すがら、ふたりはそんな会話を交わしていた。
「よくわからぬ.....だが、魅かれる.....あの人に.....あの人に逢いたいと.....もう一度逢ってみたいとそう思うのだ」
「そうか、なら、かまわないさ」
「.....ダメだな、私は。子どものころから何一つ変わっていないような気がする」
クラヴィスは苦笑した。
「どうした」
「おまえには迷惑をかけてばかりだということだ。『お願い、カティス』。今もまた同じセリフをくり返している.....」
「いやー、そんなことはないと思うぞ。昔のクラヴィスはそんな無愛想じゃなかったぜ。『お願い、カティス』は、もっとこう、うるうるした瞳でおねだりするんだよ」
「おい!よさぬか、道端で!」
「あー、その元気、その元気。別にクレアに会おうと、どうということもないさ。もちろん、あっちは驚くかも知れんがな」
クラヴィスは、冗談めかして勇気づけてくれる緑の守護聖に感謝する。
だが、それはないな.....と思った。
クレアがおのれを見て、驚いたり、取り乱したりすることはない。あの人は、「そういう人」ではないのだ。
青薔薇のしずくを啜って、その花弁を食べて生きている精霊.....闇の守護聖にとって、前炎の守護聖とは、おのれと同じ「人」ではなかったのだ。
「お、見えてきたぞ」
カティスが言った。
おのれの心臓が、ずくずくと痛みだすのに、クラヴィスは息を整えた。
予想外にも、クレアは庭先にいた。
その人が緑の守護聖の名を呼んだ。
「カティス.....?」
声が聞こえた。クラヴィスには覚えのある声音であった。
さらりと真珠色の衣が風をおこす。そのむせ返るような薔薇の薫りに、一瞬気の遠くなるクラヴィスであった。
「よう、クレア。気分はどうだ?」
「ええ、もういいんですよ.....ご心配をかけましたね」
低くも高くもない、無機質な声。それでいて奇妙なあまやかさを感じる不可思議な響き.....
「ク.....レア.....」
そう呼んだおのれの唇が、ひどく強ばっているのを闇の守護聖は感じた。
「.....あなたは.....だれです?」
能面のような美貌に変化はない。薄紫と銀の混じった長い総髪が、彼をまるで氷の女神のように見せている。
「ああ、紹介しよう.....って、中に入れてくれよ。歩いてきたから、喉が乾いた」
遠慮なくカティスが言う。その申し出は闇の守護聖にとってもありがたかった.....
白い指が器用に茶器を扱う。
彼らの前には、湯気の立つローズティが注がれた。
「では、あなたは.....クラヴィス?」
前炎の守護聖は言った。
歌うような不可思議な口調は、闇の守護聖の知るままの彼であった。
「ああ.....このような形であなたに逢うことになるとは思わなかったが」
「な? 面白い話だろう? こんなことってあるんだよな〜。まぁ、俺たちの可愛いチビもそのうち戻ってくるだろうが」
カティスが言った。幼いクラヴィスのことを言っているのだろう。
「クラヴィス.....綺麗になりましたね」
クレアが言った。目の前の青年が、闇の守護聖だと名のったことに、驚きはみせなかった。クラヴィスの思った通りだ。
「あなたも変わらずにお美しい.....炎の守護聖よ」
「そう?」
くすくすと銀と紫の青年が笑った。むせ返るような薔薇の薫りがする。香水などではない。
彼が笑うたびに、庭の薔薇の花が甘い薫りを醸し出すようだ。
「そのお年になっても、この私のことを覚えてくれていたのだね.....嬉しいこと」
「あなたのことを忘れられようはずが無い」
「そうなの? そうね.....そうでしょうね」
鈴を転がすような笑い声。闇の守護聖には彼がひどく楽しそうに見えた。
「ここに来てくれたということは.....私に会いたいと思ってくださったの?」
「ああ.....そう.....あなたに逢ってみたかった.....逢ってはいけないような.....そんな気がしていたのだが.....でも、誘惑には勝てなかった」
「なぜ、逢ってはいけないの? クラヴィス」
「あなたは.....」
闇の守護聖がつぶやいた。徐々に双眸の光が失われてゆく。薔薇の薫りが強くなった。
「どうして、逢ってはいけないの? クラヴィス.....」
「あなたは.....なぜ、私に.....」
「どうしたの? クラヴィス.....」
「クレア.....あなたは.....私に.....」
「おい、クラヴィス?」
カティスが声を掛けた。だが、クラヴィスの、うつろに開かれた両の瞳には、なにも映し出されていなかった。
「あなたは.....なぜ私にあのようなことを.....?」
「.....愛しい私の天使.....クラヴィス」
「クレア.....あなたは私をどう思っておられたのだ?」
「私の分身.....私の黒い天使.....」
冷たい能面の口元が、くうっと持ち上がった。
「クレア.....徐々に私はあなたになってゆく.....あなたという毒がゆっくりとこの身を犯して.....」
「だって、あなたはこの私の半身ですもの.....あなたは私なのだから.....」
「なぜ、そのようにした.....? 先に逝ってしまうのに.....どうして?」
「だって、ひとりは寂しいから.....あなたは私と同じ瞳をしていたから.....あなたは私の同胞だったから.....」
「年を経るごとに.....この身体に巣喰った化物は、満たされぬ欲望にのたうち回る.....」
「そうね.....私が逝ってしまったら、あなたを理解して満たしてくれる人はいなくなってしまうね.....あなたはひとりになってしまう.....」
「そのとおりだ.....そこまでわかっていて.....残酷な人だ.....」
「ごめんね.....」
そう言って笑った唇は、つややかな朱が刷かれていた。
「この器の奥底にしまいこんだ妖かしが、獲物を求めて暴れだすのだ.....それがいかに苦しいことか.....恐ろしいことか.....!」
「おい、クラヴィス、どうした、落ち着け」
緑の守護聖が、あきらかに異常と思われる闇の守護聖の言動を止めた。だが、なにものかに憑かれたように語りだすクラヴィスは、もはや先ほどまでの、闇の守護聖ではなかった。
「可哀想に.....」
クレアが言った。このときばかりは痛ましげに。
「.....愛しいと思えば思うほど.....その人間を傷つけたくなる.....悲鳴を上げて泣き叫び、血を流してのたうち回るさまを.....見たくてたまらなくなる.....」
「クラヴィス.....」
「そうしなければ.....この呪わしい身体が満たされなくて.....」
「....................」
「あなたが私をそうしたように.....」
「....................」
「傷つけなければ.....満足できなくなった.....」
「あなたは今.....誰といるの?」
クレアが訊ねた。ささやくようなやさしげな声音であった。
「.....私は.....いま.....?」
「そう.....もう私は側にいないのでしょう? あなたのかたわらには誰がいるの? その人はあなたを満足させてくれないの?」
困惑したようにカティスが、同僚とクラヴィスを交互に見遣る。声を掛けようか迷っているのだろう。だが、彼は口を噤んだ。なりゆきを見守ることにしたのかもしれない。
「わたしは.....いま.....私のとなりにはジュリアスがいる.....」
この答えに、前炎の守護聖は驚いたのかも知れない。切れ長の双眸がわずかに見はられた。
「.....ジュリアス.....」
「ああ、そう.....光の守護聖ジュリアスだ.....彼は私をこの世界につなぎ止めてくれる.....明るいほうへ導いてくれる.....」
「そうなの.....」
「ジュリアスは何も知らぬ.....私のおぞましい性癖も.....血に飢えた真の望みも.....」
「それでいいの.....? つらくはないの?」
そう訊ねたクレアを、闇の守護聖が、見たこともない凄まじい眼差しでにらみつけた。
「苦しいに決まっていよう!」
血を吐くごとき慟哭。
「だがどうすればいい? あの者に私の真実を見せてしまえば、たちまち疎まれて捨てられるに決まっている.....澄んだ蒼い瞳がこの私を睨めつけ、紅い唇が蔑みの言葉を吐き、ついにはこの私を見限るにちがいない.....そのようなこと.....耐えられぬ.....狂ってしまう.....ジュリアス.....ああ.....ジュリアス、ジュリアス.....」
クラヴィスは両の腕で、おのれの身を抱きしめた。がたがたと震え出す。
「あなたは.....ジュリアスをどうしたいの? どんなふうに愛してやりたいの.....?」
クレアの口調は変わらない。アルカイックスマイルの彼は壮絶に美しかった。
「私はあれを.....この私の意のままにあやつり縛りつけ.....私以外の何者も見せず触れさせず.....世界のすべてを閉ざしてやりたい.....私の血で唇を飾り、白い衣を血潮で染め、棘の腕輪と首輪で、その美しい身体を戒めて.....あれの.....いや、違う.....!」
カティスがはっと顔を上げた。最後の悲鳴だけ、彼の知っているクラヴィスの声だったからだ。
「違う!違う!.....私はジュリアスを愛している.....この腕に抱いて、いつでも幸せに笑っていられるように.....かたわらで守ってやりたいと.....あああっ!」
「もう、よせ!」
今度こそ、緑の守護聖は割って入った。
クレアはなにも言わなかった。
「もうよせ、落ち着くんだ、クラヴィス!」
「あああっ.....ジュリアス.....!」
「クラヴィス! クラヴィス!」
「ジュリアス!.....ジュリアス! わたしは.....わたしは.....!」
「クラヴィス! 俺だ! しっかりしろ!」
緑の守護聖は、クラヴィスの肩を揺さぶり、今は異様な光を帯びた両の瞳をのぞきこんだ。
「.....ジュリ.....カ.....カティス.....?」
「そうだ.....いい子だな、目をつむってゆっくり息をしろ.....」
子どもにするように、含んで聞かせると、カティスは前炎の守護聖に向かった。
「俺には何がなんだかさっぱりわからないが.....クレア」
「...............」
「おまえ、クラヴィスになにをしたんだ? 今のこのことじゃない.....子どものクラヴィスに.....」
「あなたにはわからないでしょうよ、カティス」
「クレア.....」
「この子はね.....私の血族なのです。闇のね.....」
前炎の守護聖がささやいた。もう彼は笑っていなかった。
「クラヴィス?」
腕にかかる重みが増したのだろう。カティスは抱きとめた細い身体をのぞきこんだ。
「クラヴィス? どうした、クラヴィス!」
「気を失ってしまったのでしょう.....お帰りなさい、カティス.....その子を連れて」
「クレア.....どうしてそんな顔をする?」
「.....どんな顔をしていますか、カティス?」
「バカな、ふざけているんじゃないぞ。おまえ.....泣きだしそうじゃないか。なぜ.....」
「いやな、カティス。見ないでください」
ふいとクレアが横を向いた。真珠色の長衣がふわりと舞う。
「クレア、気分が悪いのか? おい.....」
「見ないでくださいったら.....もう.....はやく帰って.....」
しかたなく、闇の守護聖を背負い、扉を閉める緑の守護聖。クレアのことも気になったであろうが、今は気絶した闇の守護聖のアフターケアのほうが重要だったのだ。
ドアを閉めるとき、「また来るからな」と、声を掛けたが、白衣の麗人は、返事はしなかった。
「ジュリアス.....ですか.....ひとりきりなのは私だけ.....やはり.....あなたと私は違うのですね.....」
自嘲を帯びた声音は次第に震え、低い嗚咽がとってかわった。
「クラヴィス? .....クラヴィス?」
耳元でおのれを呼ぶ声に、闇の守護聖は覚醒した。うつろな目覚め。
いまだに夢の世界をさまよっている気分だ。
「カティス.....?」
「お、気がついたか.....」
「ああ.....」
オフホワイトの壁紙、クリーム色のカーテン。ここ数日で見慣れた、緑の守護聖の私室だ。今はクラヴィスが使っている。
「すまぬ、また.....おまえに.....」
乱れて額にはりつく前髪をおさえ、クラヴィスはつぶやいた。
「おい、無理に起きるなよ。 それともシャワーでも浴びるか? ひどく汗をかいていたからな」
「...............」
「.....クラヴィス? どうした」
「.....なにも聞かぬのか?」
カティスのほうを見ずに、闇の守護聖が言った。
「...............」
「.....カティス?」
「話しは後にしよう。今はおまえの身体のほうが心配だ」
額に滲んできた汗を、緑の守護聖は丁寧にぬぐってやった。
「.....ああ.....うっ.....」
「おい、クラヴィス?」
「...............」
「クラヴィス? どうした?」
「.....ぐっ.....」
「.....クラヴィス! 真っ青だぞ!」
「カティ.....ス.....気持ちが悪い.....」
がんがんと耳鳴りがする。銀の前炎の守護聖を思い起こすだけで、クラヴィスは腹の奥が冷えるような鈍い痛みを感じた。
「吐きそうか? おい? .....ちょっと、がまんしろ。俺につかまって」
「カティ.....」
「いい、いい、そのままでいいから!」
身長こそ、成人した闇の守護聖にはかなわぬものの、腕力はそれを上回るようだ。身を折って寝台にうずくまるクラヴィスを抱き上げ、カティスはバスルームへ直行した。
「.....放っておけ.....もう、ひとりで.....」
「バカ言うな。いいから、むかつくようなら吐いちまえ。そのほうが楽になるから」
「うっ.....ぐぅ.....」
闇の守護聖の薄い背を、カティスがさする。クラヴィスは数度、空えずきをくり返した。
「ぐ.....はっ.....はっ.....はぁ、はぁはぁ.....」
汚れぬように、長い髪を持ち上げてやる。闇の守護聖はぐったりと力を抜いた。胸元に回された力強い腕が細い身体を支えている。
「.....もう、大丈夫か?」
「あ、はぁ、はぁ.....はぁはぁ.....」
「口を濯げ。ああ、またひどく汗かいちまったなぁ」
「うむ.....風呂に入りたい」
闇の守護聖が言った。
「おいおい、だいじょうぶか? 熱はないんだろうな?」
「なんともない。ただ、吐き気がしただけだ。腹が空になったら.....楽になった.....」
ふぅと大きく吐息し、闇の守護聖がつぶやいた。
「まぁ、おまえがだいじょうぶなら.....そうだな、このまま、入っちまうか。心配だから俺も一緒にな」
「.....ひとりがいいんだが.....」
「ダ〜メだ! 風呂ん中で、貧血起こされたらたまらないからな。それに長湯は禁物だぞ。汗を流すだけだ」
ちっちっと人さし指を立て、父親のようにカティスが言った。
「.....わかった」
不精不精、闇の守護聖は承諾した。やはり迷惑をかけたと思っているのだろう。
こんなときに、クラヴィスにあてがわれた客間は便利であった。
それほど大きくはないが、大人ふたりには充分の広さのバスルームが、続きで設置されており、いつでも温かい湯で満たされている。
カティスが二人分のバスローブを用意する合間に、闇の守護聖はさっさと中に入った。
やや勢いを強めにしてシャワーを浴びる。カティスにしかられてしまいそうな冷水だ。だが、熱に浮かされたような悪夢を追い払うには、冷たい水のほうが心地よかった。
カティスがやってくる前に、湯船に浸かる。
徐々に体温が戻ってくるようであった。
「よっ、クラヴィス。汗流したか?」
「ああ.....ここちよい.....いい湯だ。眠くなってしまいそうだ」
「おいおい、寝るなよ。よいしょ」
クラヴィスのとなりにカティスも肩を沈める。
天然の採光を天井から取り入れた岩作りの浴槽は、さきほどまで彼らがいた世界と、同じ場所とは思えなかった。
「ふぅ〜。おい、クラヴィス、寝るなったら。風呂上がってから寝ろよ」
「.....ん.....わかっている.....ふふ.....なんだか、ホームシックにかかってしまったようだ。おまえのせいだぞ、カティス」
苦笑するクラヴィスは、楽しそうにも見えた。
「なんだ、それは。おかしなやつだな」
「ふふ.....向こうの世界ではな。リュミエールという.....ああ、後の水の守護聖なのだが.....あれはおとなしいが、妙にかいがいしいところもあってな.....ひどく私に気を使うのだ.....」
「おいおい、後輩だろう? 迷惑かけてどうする」
「そんなつもりはないのだが.....よく注意される」
「ジュリアスは?」
「ジュリアスは.....ふふ.....口うるさいのはもちろんだが、力も強くてな.....下手に逆らったら何をされるか.....」
「って、おまえら、とりあえず一緒に住んでるんだろう? この前の話しだと」
恐る恐る.....だが、興味が勝った口調でカティスが言った。
「ああ.....まったく.....騒々しくて.....楽しくて気の休まる暇が無い。ふふふ.....」
「なんだ。それで帰りたくなったのか?」
「.....そんなところか.....」
「すぐさ」
いたずらっぽく、緑の守護聖が片目を閉じた。
「すぐに、帰ることになっちまうさ。向こうへ戻ったら、今度は、この俺と過ごした時を懐かしむようになるだろうよ」
「.....ふふ.....おまえらしい言い草だな」
「しっかし.....クラヴィス。おまえ、その身長にして、その身体はないだろう。鎖骨、浮いてるじゃないか。あばらもくっきりなんじゃないだろうなー。そんなんじゃ、誰かに押し倒れてても抵抗できんぞ」
ずけずけというカティスであった。
「.....見るな」
「あーあ、足もこんなじゃなぁ〜」
「タオルを引っ張るな! だれが、この私を押し倒すというのだ。バカバカしい」
「俺。って言うのはウッソー。ジュリアス相手だと分が悪いんじゃないのか」
「.....あれ相手では、ふつうの人間は手も足も出んと思うが? 私だとて力ではかなわぬ」
「ふーん、あいつ、そんなふうに成長するのかー? いや〜、楽しみだな。見たいぞ、俺は」
「安心しろ。否が応でもおまえは見ることになる」
「ふふーん、そうか。楽しみにしているか。どうだ、温まったか?」
「ああ。充分にな」
「じゃ、あがるぞ。それで水分とって寝ろ。な」
「このままここで眠ってしまっても心地よいのだが.....」
うっとりと双眸を閉じて、闇の守護聖がささやいた。本当に気持ちが良いのだろう。
「ダメダメ。湯あたりするだろう。ほら、つかまって」
「だいじょうぶだ。もう歩ける」
そう言いながらも、足取りの怪しい闇の守護聖をささえ、カティスは湯から上がった。クラヴィスが冷えないように、すぐにバスタオルで包み、厚手のローブを着せかける。
「至れり尽くせりといった様子だな」
「人事のように言うな。おまえが心配だからだろう。ほら、さっさと出ろ。すぐにベッドに入るんだぞ」
「はいはい」
「はいは一度でいい.....とと、ジュリアス?」
いきおいよくバスルームの扉を開け放ったカティスが、あわてて立ち止まった。緑の守護聖と闇の守護聖の目線では、十才にも満たない光の守護聖は目に入りにくい。
「あ、ああ、すまぬ、勝手に客間に入ったりして。その、様子を見に来たのだが、家人が.....」
「はは、家のやつが、闇の守護聖、ぶったおれてご帰館〜!とでも言ったのか?」
「カティス!」
風呂上がりよりも、いささか血色のよい頬を隠すようにして、クラヴィスが言った。すぐに幼い光の守護聖に向き直る。
「ああ、おまえにも心配を掛けてしまったようだな、その.....すまなかった」
「.....いや、そんなことはよいのだ。だがいったい.....」
「まったく、心配させてくれる。疲れてたんなら、無理につきあってくれなくてもいいのに。俺の野草狩にな。ちょっと遠出して、炎の館で休ませてもらったんだ」
「野草狩? 山に行ったのか! おい、カティス!」
「そんな怖い顔をするなよ、ジュリアス。ほら、クラヴィスももう元気になったからさ。見舞いに来てくれたんだろ? さすが光の守護聖。いい子だな!」
できの良い生徒を誉めるように、カティスが言った。もちろん、闇の守護聖をかばっての言葉である。今はクラヴィスの口から炎の守護聖の話しをさせるべきではないと思ったのだろう。
「おちゃらけるな! 年長者のクセに! クラヴィス、横になれ。だいたいそなたもそなただ。無理にカティスにつきあうこともなかろう? 異なる環境に適応するには神経を使うのだ。安静にせよ」
とうてい、子どもの言葉とは思えぬ口調で、ジュリアスが言った。そんなところが、逆にひどく幼く愛らしく見える。
闇の守護聖はジュリアスに促されるままに手を預け、素直に寝台に入った。
「やれやれ。じゃあ、ジュリアス、クラヴィスを頼むな。後でお茶入れるから、下に降りてこいよ」
そう言ったが、一生懸命の幼い守護聖は、あいまいに返事をしただけであった。
「だいじょうぶか? ケガをしたわけではないよな? カティスめ、山に連れてゆくなど.....」
「ふっ.....ふふ.....ジュリアス、そう怒るな。もうなんともないのだ」
「クラヴィス! そなたは.....子どものころからずいぶんと心配をかけてくれる! この私がいつでもそなたの身を案じていることがわからぬのか?」
十才にも満たない子どもが、二十半ばの青年を叱りつける。微笑ましい光景だ。闇の守護聖はしばらくの間、かすかに微笑を浮かべ、光の守護聖の物言いを聞いていた。声を出して笑ったりなどしたら、両の頬をはたかれそうな勢いだ。
「.....クラヴィス? あ、ど、どうした? 疲れたのか?」
「.....いや.....」
「すまぬ。少し言葉が過ぎたようだな。体調が優れなかったのだろう。もう外そう」
「ジュリアス.....」
小さな手をぐいっと引き寄せた。
「きゃあっ!」
ボスンとよりかかってきたぬくもりは、大人のクラヴィスからしてみれば、子犬のような重さにしか感じられない。
「なっ、なにをする! この無礼者!」
「元気で愛らしい光の守護聖よ。その力を少しばかり分けてくれ。 .....な?」
「ひゃっ!」
勢いよく小さな身体を抱き込む。さすがに驚いたのだろう。ジュリアスが二度目の高い悲鳴を上げた。
「ふふ。声を上げるな。カティスが来るぞ」
「そ、そなた.....この光の守護聖をからかって.....」
「そのような怖い顔をするな、ジュリアス。少しの間でいいからこうしていてくれ」
大きな手がおもちゃのような背中を包み込む。はしかにかかった赤子のように、真っ赤にふくれる光の守護聖ジュリアス。
「い、いたしかたない! しばらくの.....ほんの少しの間だけだぞ!」
「ああ.....ふふ、あたたかい。気持ちがいい、ジュリアス」
「ふ、ふん! よい年をして.....みっともない!」
「なんとでも.....」
「あ、これ、寝るな」
「ん.....だいじょう.....ぶ.....」
.....三十分後.....
苦労性の緑の守護聖が、ホットミルクと桃の紅茶をトレイに載せてやってきた。
だが、残念ながら、それらはそのまま下げられてしまう。
なぜなら、大きな闇の守護聖と小さな光の守護聖は、猫のようにに寄り添いあい、寝息を立てぬほど、深く眠り込んでいたからである.....