悪魔のKISS
〜コスタ・デル・ソル in ストライフ一家〜
<9>
Interval 〜03〜
 セフィロス
 

 

 

 

 

 

 

 時計の針は午後2時過ぎ……

 不快な寝汗に、オレは目を覚ました。

 

 頭がぼうっとする。

 ……クソ……!

 

 誰もいない部屋で、ひとり毒づく。

 こうして、横になっていても、事態は一向に改善しない。ただ、まわりの連中を不安に陥れるだけだ。

 オレはふと思い立ち、パジャマを脱いで平服に着替えた。

 そのまま、音を立てずに部屋を出て、昼間は誰もいないリビングに足を踏み入れる。……もちろん、慎重に慎重にだ。ヴィンセントに見つかると厄介なことになる。

 幸い、居間には誰の姿もなかった。時間が時間だし、ヴィンセントたちも買い物か何かに出掛けているのだろう。

  

 チェストの一番上の引き出しから、車のキーを引っぱり出す。

 その間も、熱のせいで、目の前がクラクラしてくるがそうも言っていられなかった。

 ……舌打ちしたくなるような気分のまま、オレは車を発進させたのだった。

 

 こんな体調で車を運転するなど、とんでもない話だろう。

 そこらの蛆虫など、2、3人すっ飛ばしてもかまわないが、さすがにそれは幸先が悪い。

 

 なぜなら、オレは車を飛ばしつつ、医者を捜していたのだ。

 正直、誰かに、この身体を診てもらおうなどとは、考えたこともなかった。もっともその必要など、ここに来てからただの一度もなかったというのが正直なところだが。

 

 くり返すが、今現在の身体は、リユニオンなどしていない生身の肉体そのものだ。だから、こうして発熱もするし、食欲もあったりなかったり、体調に合わせて変動する。

 ならば、普通の医者でも、『生身の肉体の瑕疵』は見つけ出せるのではなかろうか。それにどういった病名がつくのかは知らないが、余命を数えることくらいは出来よう。

 

 ……大病院よりは、町医者のほうがいい。

 診る人間が診れば、肉体の置かれた状況くらい、的確に判断できるはずだ。

 オレは、イーストエリアの外れに、小さな医院らしき看板を見つけ、すぐさまそこに車を着けたのであった。

 

 

  

 

 ……恐ろしくなるくらい、閑散とした医院だ。

 普通、こんな鄙びた土地柄なら、町医者には人間がざわめいているものだが、待合室はいっそ清々しいありさまだった。

 

 暇そうな看護婦が、オレを見て飛び上がらんばかりに驚く。

 適当に受付を済ませると、そのまま診察室の中に呼ばれた。

 

 古ぼけた椅子に座っているのは、見覚えのある顔だった。

 ……そう、少しばかり宝条に似た……痩躯の男。どこぞで会ったような記憶がある。いや、ほんのささいな出来事で。

 向こうもそう思ったのか、マジマジと分厚いメガネを通して、こちらを眺めやっている。

 

「……一週間前から熱が引かん。食欲もないし、眩暈がする」

「咳はどうかねェ?」

 おかしな抑揚のある口調で、やせこけた医者が訊ねた。

「咳も出る。こう長引くと鬱陶しい。……どんな状況なのか教えてもらいたい」

「フンフン、熱が38℃……発熱による、眩暈、喉の痛み、咳……」

 ブツブツと独り言をつぶやき、カルテにゴミのような小さな文字を羅列させる。

「はい、では口を開けてくれるかねェ」

 ヘラのようなものを構えやがる。

 咳が出ると言っているのだから、喉が腫れているのはあたりまえだろうに。ひどく不快だったが、ここは黙って従うことにした。さっさと見解を聞きたい。

 

「あー、腫れてる腫れてる。痛いですなァ」

 ……ブッ殺すぞ……と心の中でつぶやく。

 

 その拍子に思い出した。……コイツは、ヴィンセントが海で溺れたとき、熱冷ましをガメてやった医者だ。別にどうでもいいことだが。

「吐き気はありますカエな?」

「……ない」

「はいはい。……ええと、発熱して一週間になると言いましたなァ」

「最初にそう言った」

「はいはい。その間、どんな薬を?」

 意外なことを訊ねられ、オレはいささか返答に窮した。そこそこ重要なことであろうに、これまで一切気に留めていなかったからだ。

 

「……あ、ああ、そうだな。熱が高かったので、ずっと熱冷ましだの何だのを飲まされていたと思う……それから咳止め……」

「どれも対処療法ですなァ」

 カッチーンとオレの頭の中で、火打ち石が鳴る。

「仕方なかろう!熱が出れば下げなきゃならないし、咳を止めねばメシも食えん!」

「あ、まぁまぁ。おっしゃるとおりですがねェ」

「おい、医者。さっきから黙って聞いてりゃ、つまらないことをグダグダと……! さっさとオレの病名を教えろ!」

「いや、あの、落ち着いて」

 立ち上がったオレを、オドオドと見上げつつ、とりなすクソ医者。

「……気遣いならば不要だ。覚悟はできている」

 もともと身体の無理は承知の上なのだ。相応の覚悟はできていた。

 

「はぁ……まぁ……あの、言いにくいんですけどねェ……」

「覚悟は出来ていると言っただろう。さっさと教えろ」

 オレは冷ややかにそう促した。なにを聞かされても……そう、仮に余命が一週間だと言われたとしても、もはや動揺するつもりはなかった。

 

「……あー、コレ、インフルエンザですねェ」

 

 その一言は、まるで神の啓示のように、オレの脳天を直撃した。

 

「……は?」

 つい、そんな間抜けた声がこぼれ落ちる。重ねて訊ねるオレ。

「おい……なんだと?」

「ですから、インフルエンザですねェ、コレ」

「貴様……もういっぺん言ってみろ、ヤブ医者がッ!」

 オレは、ヤツの胸元を締め上げて詰め寄った。干物のような薄い身体が空に浮く。

「ネクタイで窒息したいか、このヤロウ!」

「ひえぇぇぇ!」

「貴様はどこに目玉を着けてやがるッ!」

「い、いや……だって、コレ、今年の典型的なインフルエンザの症状ですものねェ、コレ……」

 ヒィヒィと怯える痩身を放りだし、オレは茫然自失の呈で診察椅子にへたり込んだ。

「……インフルエンザ……だと?」

「ええ、そうですね、コレ。間違いありませんね、コレ」

「バカな……あまりにもバカバカしくて……」

「いや、だって、アナタね、コレ……本当にインフルエンザだからね、コレ……典型的な今年流行のアレだからね、コレ……」

 ひん曲がったネクタイを直しつつ、ヤツはくり返した。

 

「……薬はずっと飲み続けていたんだぞ?」

 呻くようにオレはつぶやいた。

「だから、何度も言ってるけど、インフルエンザだから。関係ない薬飲まれても効かないよね、コレ」

「……じゃあ」

 こちらが口を開く前に、エセ宝条野郎が、重ねて言ってくる。

「あ、この薬で、一発だから。今年のインフルエンザ専用の薬ね、コレ。何なら注射打っていきます? すぐ楽になりますからね、コレ」

 促されるままに、看護婦に注射をしてもらう。受付で薬を受取り、車に戻る。

 まるで狐につままれたような気分だ。

 

 ……インフルエンザだと?

 

 ……インフルエンザ……今年の流行感冒……?

 

 「この薬で一発」?

 

 バカな……そんなバカな……このオレが……こんなくだらない勘違いを……? 

 このオレの完全な思い違いだというのか?

 ……まるでピエロではないか……このオレが……ッッ!!!!!

 

 どのツラ下げて、ヴィンセントに報告すればいいというのだろうか……いや、言えるか、こんなことッ!!

 

 こうして考察している間にも、潮が引くように身体が楽になってきている。さきほどの注射が効果を発揮しているのだ。

 

 ……もはや疑うべくもなかった。 

 ……人騒がせなインフルエンザめ……いったいどこで伝染されたというのだろうか! 

 いや……このままでは、人騒がせな迷惑ピエロは、このオレになってしまう……

 

 身体は軽くなりつつも、オレは鬱々とした気分で帰途についたのであった……

 時刻は夕暮れ……沈みかけた穏やかな太陽の色とは正反対に、胸の中にインクを流したような闇が広がる思いであった。

 

 

 

 

 車を車庫に入れ、暗澹たる思いと、肉体の快適さにアンビバレンツを感じつつ、玄関を開けた。

「みゅんみゅんみゅんッ!」

 扉を開くと同時に、チビ猫が飛び出してくる。

 だが、その次に飛び出してきたのは、ヴィンセント本人だった。そのままの勢いで、まだ靴を履き替えてもいないオレに抱きついてくる。

 ドンという軽くはない衝撃に、オレは我に返った。

 

「……おい?」

「セ……セフィロスッ! セフィロス……!」

 華奢な腕を背に回し、ヤツは人目もはばからずに泣き出す。

「……セフィロス……ッッ! よかった……無事で…… 部屋に行ったら、君が……いなくて…… もう……どうしたらいいのか……私は……私は……ッ」

「……ああ」

 泣きたいのはこちらのほうだった。

 ますます口にしにくくなる。こいつがこんなふうに嗚咽することは滅多にない。いつもさめざめと涙を流すだけなのだが……

「ああ、よかった……無事で…… 君の姿が見えなくて……どれほど私が心配したと……」

「……ああ、悪かった」

「無事に戻ってきてくれて……本当によかった……」

 背にしがみついてくる腕に、ぎゅっと力がこめられ、顔を押しつけている胸元が、徐々に熱くなってくる。

 

 いったいどうすればよいのだろうか……熱は引いたはずなのに、眩暈がしてくる展開だ。

 

 オレは未だかつて無い苦境に立たされていることに気づいたのであった……