近似アルゴリズム
〜コスタ・デル・ソル in ストライフ一家〜
<1>
 
 クラウド
 

 

「あっ! 痛ったぁ〜い!」

 キッチンのほうから大声が聞こえた。

 休日の今日は、カダやロッズにつきあわずに、久しぶりに居間でのんびりとくつろいでいた。

 もっとも、今は間もなく夕食という頃合いで、雑誌を眺めつつ時間を潰していたのだが……

「ヤズー、ほらこっちへ」

 めずらしくも、ヴィンセントがヤズーを急かして居間に入って来た。

「クラウド、救急箱を取ってくれるか? ああ、そこの棚だ」

「はいはい。どうしたの、包丁で切った?」

 ヤズーの左手に白い布が巻き付けられ、それをヴィンセントが慎重に押さえていた。

「うん、ちょっとね。たいしたことないんだけどさァ」

 ヘラヘラと応えるヤズーを制して、ヴィンセントが言葉を挟む。

「けっこう深く切っている。ほら、手を心臓より上に持ち上げていなさい」

「おおげさだってば、ヴィンセント。ちょっと多目に血が出ただけじゃない」

 ヴィンセントは救急箱から、器具を取り出すと手早く処置を施した。

「後は私がやるから……クラウド、配膳を手伝ってくれるか?」

 そう声を掛けられ、俺はもちろん喜んでついて行く。

「えぇ〜? ヴィンセント、心配しすぎ。たいして痛くもないし、大丈夫だって」

「ダメだ。ヤズーはソファに座って休んでいたまえ」

 めずらしくも厳しい口調でそういうヴィンセント。彼は、こと家の者については、神経質なほど、その体調やらを気にするのだ。皆、大の男だというのに。

「ねぇ、でも、ヤズーさ。調子悪いんじゃない? 一昨日も怪我したよね」

「そんなことはないんだけどね。あぁ、でも割っちゃったカップはもったいなかったなぁ。俺、あのティーセット気に入っていたのに」

「何を言っているのだ。食器などより、おまえの身体のほうがずっと大切だろう」

 ヴィンセントは、母親のように言い含めた。茶目っ気たっぷりに舌など出しているヤズーだが、俺もちょっと引っかかっている。

 

 一昨日、いつものティータイムの時間に、茶を振る舞っていたヤズーが、テーブルに足を引っかけて、食器を落としてしまったというのだ。怪我というのは、その破片が擦った程度のもので、大袈裟に取りざたするようなものではなかったのだが、俺としては、あのヤズーが『テーブルに足を引っかけて』というのが、釈然としない。

 これがヴィンセントなら、大して驚いたりはしないのだが、ヤズーはレストランの給仕がごとく、腕に数枚の皿を並べて持っていても、まず落っことしたりはしない。

 この家のだれよりも、素早く器用なヤツなのに。

 

 

 

 

 

 

「やれやれ、参ったなァ。今日はセフィロスもいないし、イイトコ見せられると思っていたのにィ」

「ヤズー、身体に傷作るなよ。おまえの場合、そういうの、すごく目立つし」

 俺は救急箱を片付けながら、綺麗すぎる弟にそう言った。ヴィンセントは、もうキッチンに戻ってしまっている。今日はセフィが出かけているから、晩飯もそれほど大量に作らずに済むと言っていた。

「なんか身体に傷とか言われると、Hっぽい。特に兄さんが口にすると」

「なっ……! シツレーなヤツ! 俺は純粋におまえのことを心配してだなぁ!」

「ゴメーン、怒んないでよ。あははは、ただのうっかりだからさ。そんなに気にしないで」

「……おまえに『うっかり』ってのが、似合わないんだよ。おまえって、我が家で一番『うっかり』しないタイプじゃん」

「それってホメ言葉だよねェ」

「ああ、もういい! じゃ、俺、ヴィンセント手伝ってくるから」

 そう言って、ヤズーをソファに置き去りに、俺はキッチンへ足を運んだ。

 

「ヤズーはどうだ? おとなしくしているか?」

 顔を出すなり、そう訊ねられて、なんだか面白くない気分になる。

 あの不思議な世界から戻ってきたばかりのときは、体調を崩していた俺につきっきりになってくれていたのに。

「とりあえず、ソファで落ち着いてる。ちょっと不満そうだったけど」

「……そうか」

「そんな顔しないで、ヴィンセント。ヤズーにしちゃめずらしいことだけど、ちょこっと手を切っただけじゃん。手当てしたんだから、すぐ治るよ」

「ああ、そうだな。……おまえにも大変な思いをさせてしまったが、きっとヤズーやセフィロスも、だいぶ疲れが溜まっているのだろう」

 ジェネシス王子の住む、メルヘンの世界から戻ってきたのがほんの三日前。

 まだなんとなく、ふわふわした気分は抜けないが、そろそろ日常生活に馴染んできた。カダージュやロッズは、気分に切り替えが上手いのか、もうとっくに普段と同じ生活に戻っていた。

「クラウド、夜はちゃんと眠れているか?」

「え、俺? もちろん、なんともないよ。そりゃ、ヴィンセントが一緒に寝てくれればもっと……」

「そうか……ならばいいのだが……」

 言いかけた俺の大切なセリフを遮り、ヴィンセントは小さくため息を吐いた。

 カダージュの童話は、家に戻ってきてからすぐに確認した。絵本はヴィンセントそっくりの白雪姫とジェネシスによく似た王子が、寄り添っているラストで締めくくられていた。

 今回はずいぶんと大変な思いをした俺たちだったが、そのかいはあったのかもしれない。

 体調のよくなった今なら、終わりよければすべてよしといった気分だ。

「クラウド……」

「え?」

 耳元で名前を呼ばれたかと思うと、背中からそっと抱きしめられた。

「わ…… ちょっ……ヴィンセント、どうしたの?」

 ヴィンセントがこんな真似をすることなど、まずありえない。全然、嫌なわけではないが、思わず驚いた声が飛び出てしまった。

「クラウドは……大丈夫だな?」

「な、何言ってるの? 熱なんか翌日には下がってるし、もう全く何ともないって!」

「そうか……そうだな。でも何だか不安で……」

「ヴィンセント……」

 前に回された腕に、俺はそっと手を重ねた。

「まさか夢で訪れた別世界で、おまえたちがあんな目に遭うなんて……」

「だ、だからさぁ。終わりよければすべてよしでいいじゃん! アンタによく似た白雪ちゃんは、無事王子様のところへ行けたんだしさ」

「……私は利己的な人間なんだ。童話の中の少女よりも、この家の人間のほうが大切だ……」

 ヴィンセントにしては思い切った言葉だったのだろう。彼の声は、いつもより低くて掠れていた。

「そりゃ、俺だって、ヴィンセントが一番大事だよ? でも、あの場合、童話どおりに、王子と姫が結ばれないと、俺たちだってこの家に戻ってこられなかったんだから仕方ないよ」

「おまえがあんなに高い熱を出して苦んでいたのに、私はただ側についているだけしか…… ヤズーも調子が悪そうだし、セフィロスもなにやら考え込んでいるようで……」

『皆がバラバラになるようで怖い……』とヴィンセントはつぶやいた。

 そんなことなどあるはずがないのに。どうにも俺の一番大切な人は、ものごとを悪い方へと考える良くないクセを持っているのだ。

「クラウド……」

「もう、ヴィンセントの悪いくせだよ。前から言ってるじゃん。今は、みんな疲れもあって、ちょっと調子が出ないだけだよ。頑丈な男ばっかなんだから、すぐ元通りだよ」

「ああ……そう…… ん……そうだな」

「そうだよ、ヴィンセント。それより、ヴィンセントが暗い顔してると、カダやロッズが心配する。俺だってつらいし。……なんてたって、アンタのことは俺が無理やりコスタ・デル・ソルに攫って来ちゃったんだから。幸せにする責任がある!」

 胸を張って悪戯っぽくそう言ってみたが、ヴィンセントは珍妙な顔で俺を見つめていた。

「あ、ち、違うよ? 責任がって、義務みたいなそういうことじゃなくて。俺的な決意っていうか、みんなで幸せになりたいっていうか……」

「わかってる……」

 くすっとヴィンセントが笑った。人形のように整った顔が、ほんの少し『普通の人間』っぽく見える。

「わかってる…… おまえのいうとおりだな。ありがとう、クラウド」

「ヴィンセント、俺たちは大丈夫だよ。ずっとヴィンセントの側にいるから。あ、でも、一番側にいんのは俺だからね」

「ふふ、そうだな…… ありがとう……」

「さ、晩ご飯の支度さっさと済ませよう。カダたちももうすぐ戻ってくるから」

 そう言って、俺はヴィンセントを促した。

 キッチンの窓から、夕暮れの海辺を眺める。

 ……もう、セフィのアホッ!

 こんなときくらい、家に居てくれればいいのに!

 ジェネシスのところに行って、まだ戻らないセフィロスに、俺は悪態を吐いた。