白 昼 夢<1>
 
 
 
 
 

 

 

 

 俺は月森蓮。ハスの華と書いて蓮と読ませる。手前みそで恐縮だが、自分ではけっこう気に入っている名だ。

 

 今は、高校2年の一学期。それももう期末試験が終わって夏休みを待つばかりといった時期である。

 ああ、俺の通学している学校は、星奏学園という。県内ではなかなか名の知れた学校だ。

 私立にはよくあるが、音楽科と普通科に別れていて、俺は音楽科のほうに在籍している。

 

「おい、月森」

 声をかけられて俺は振り向く。

 ここは保健室だ。ああ、ご心配なく。具合が悪くて来ているわけではない。

 俺は保健委員なのだ。

「はい、梅田先生」

「悪りぃけど、俺これから職員会議なんだワ。定時になったら鍵締めて帰ってくれていいから」

「先生は戻られないんですか?」

 俺は、すでに部屋から出ようとしている保健医に訊ねた。彼は梅田先生と言って、この学園では少し変わり者で通っている。俺が口にするのもおこがましいのだが、見た目はたいそう整っていて、有り体に言えば美青年ということになるだろう。しかし言葉使いは乱暴だし、仮病を装った生徒のことなど足蹴にする。

 そのわりに慕われているということは、人間的に良質な部類に属するのだろう。

「あー、一応途中で顔だそうとは思ってるけど。もし急患が来たら知らせてくれ」

「わかりました」

 俺は頷いた。書きかけの保健日誌を仕上げてしまおう。

 星奏学園は、音楽科というめずらしい学科があることから、どうしても文化校的なイメージが先行するだろう。だが普通科は、学力的に県内上位に位置するし、スポーツも活発なのだ。

 俺の普通科の友人、土浦はサッカー部に所属していて、数年前はインターハイを征したこともあるそうだ。もっとも彼はピアニストでもあるので、部活に打ち込みすぎて怪我をするのが心配なのだが。

 

 つらつらとそんなことを考えつつ、日誌を書く。前のページを手繰ってみると、みんなけっこう適当に記しているのが面白い。悪趣味かもしれないが、俺は人の書いたものを読むのが好きなのだ。

 

「あれ、月森くん。君、ひとりかい?」

「……ッ!」

 俺は息を詰める。情けない話だが、彼のことは苦手なのだ。

 

 三年生の柚木さん。

 容姿端麗で、品行方正。その上家柄も良く、女生徒に大変人気のある先輩だ。おだやかな物腰はさもありなんといったところである。

「ゆ、柚木先輩……」

「どうかしたの? そんな顔をして」

「いえ……具合でも悪いんですか?」

「え? ああ、違うんだよ。生徒会の用事。君は……ああ、保健委員だったよね」

 にっこりと微笑む。なんでここで笑う必要があるのか、俺にはわからない。

「ええ、そうですが。梅田先生ならば、ただいま会議中です。長くかかるようですけど」

 俺は無愛想に伝えた。あまりにあからさまに好意を向けてくる相手は苦手だ。もちろん悪意をぶつけてこられるのも不快だが。

「そうか。困ったね。少し待たせていただこうかな」

「…………」

「かまわない?月森くん」

 さすがにこの俺でも面と向かって「いやです。帰って下さい」とは言えない。仮にも相手は上級生だし、生徒会の用件と明言している。

「どうぞ。何のおかまいもできませんが」

「ふふ、君って本当に面白いね」

 彼は嬉しそうに頬を染めてそう言った。

 なぜ、そこで赤くなるんだろう。それに面白いとは、どういう意味なのであろうか。

「ああ、ごめん。コンクールが終わってしまって、なかなか君に会えなくて少し寂しかったんだよ」

「…………」

「だから、こんなところででも話ができて嬉しいんだ」

「……そうですか」

「相変わらずつれないなぁ。僕と話すのはつまらない? そんなことないよね」

 『そんなことないよね』と言われては、返事のしようがないではないか。柚木さんは俺に好意を持っていると公言するが、俺にそういうつもりはないのだ。

 俺の心の中を見透かしたように、柚木さんは笑った。それでも出て行こうとしないのだから、ある意味肝が据わっていると言える。

「コンクール楽しかったね。卒業の年にいい思い出ができたよ」

「そうですか」

「二年生に優勝をさらわれたのは、少ししゃくだけど、君の演奏はすばらしかった」

「ありがとうございます」

「僕が二位で、三位が土浦君か。普通科なのに、立派な成績だよね」

「そうですね」

「まったく、こうまでいい成績を残されると、音楽科かたなしといったところかな」

「ですが、実力に学科は関係ないというよい証明になりました」

「ふふ、君のいうとおりだね」

「はい」

 このような不毛なやり取りを続けているとき、期せずして話題の主がやってきたのだ。 少しばかり驚かされる形で。

 

           ★

 

「ああ、痛そう……だいじょうぶですか?、土浦先輩」

「なんともねーよ。これくらい。ホレ、おまえはもう行け。俺もバンソコもらったら、グラウンド戻るんだから」

「ばんそうこうなんて……その程度のケガじゃないですよ。ちゃんと梅田先生に診てもらわないと……もし、骨に異常があったら……」

「オイオイ、あるわけねーだろ。部活中はこんなの日常茶飯事だ」

 

 廊下のほうが、騒々しいと思ったら、そんなやり取りが聞こえてきた。土浦と一年の志水くんだろうか。

「付き添いなんていらないって、志水」

「ダメですよ。土浦先輩、すぐ逃げるんだから」

「逃げないっつーのッ」

「すみません、失礼しまーす! 梅田先生、おられますか?」

 ガラリと扉が開かれる。すると、さんざん言い合いをしていたふたりの声がぴたりと止まった。それもそうだろう。

 保健医の先生ではなく、俺と柚木さんが机で向かい合っていれば。

「あれ……月森先輩に、柚木先輩? どうしたんですか? こんなところで」

 志水くんがいつものように、おっとりとした口調でたずねてくる。気のせいか、土浦が一緒のときはことさらにあどけない下級生を演じているように見える、といっては言い過ぎか。

 だが、そんないじわるな感想も、土浦のありさまを見たら引っ込んでしまった。

「つ、土浦ッ? どうしたんだ、その足は……」

「お、なんだ、月森に……ゆ、柚木さん……」

 言い忘れたが、土浦は柚木先輩が苦手らしい。いや、『苦手』などという、なまやさしいものではないとのことだ。以前、本人の口からそう聞いたことがある。

 いや、そんな昔話を思い出している場合ではない。

「どうしたと聞いているんだッ!」

 俺は常ならず、我ながらめずらしい大声を上げてしまった。

「どうしたって、おまえ、見りゃわかんだろ。すっ転んだんだよ」

「ち、血がひどく出ているじゃないかッ、あ、ああ、はやくそこに座ってくれッ!」

「たいしたことねーって。擦り傷だから傷口のわりに出血がひどいんだよ。梅やんは? いねーの?」

 平然とした面持ちで土浦がたずねてくる。情けないことだが、俺は血を見るのが苦手なのだ。子どもの頃から楽器をやっていたせいで、危険な運動はしたことがなかったし、また自身の嗜好もそちらのほうにはなかった。

「う、梅田先生は職員会議だ。お、俺は保健委員の当番で……」

「あ、そーなのか。ちょうどいい。バンソコくれ、月森」

 などとあっさり言うではないか。

 断っておくが、土浦の右膝の負傷は、どうみても普通の絆創膏でフォローできる状況ではない。血はだらだら出ているし、この場所では足を曲げることだってできないだろう。

「土浦せんぱ〜い、またそんなこと言って。ダメですよ、ちゃんと手当てしないと」

「いいっつーの。さっき水道の水で洗ったし。いいから、バンソコよこせよ、月森」

「ダ、ダダダ、ダメだ!」

「へ?」

 俺は思いっきり噛んだ。となりで、柚木さんの吹き出す声が聞こえた。