白 昼 夢<2>
 
 
 
 
 

 

 

 

 

「ダメだと言ったんだ!」

「いや、だって、バンソコねーと血ィ止まらないし……」

「まずは消毒からだッ! す、座って、あ、あ、足を見せろ!」

 俺は言った。柚木さんが身を折ってまで、笑いを堪えている様子だが、かまっている余裕はなかった。

「なんだよ、いいって」

「梅田先生が居られないんだ。ほ、保健委員の言葉に従ってもらおう!」

「ああ、そうか。そんじゃ、悪いけど頼むわ」

 意外にもあっさりと土浦はそう言った。治療してもらうのが嫌なのではなく、単に面倒をかけたくないというだけのことらしかった。

 物言いは粗野だが、彼は思いの外、気配りの出来る人間なのだ。そして俺は、土浦のそういうところを好ましく思っている。

「す、少し、しみるかもしれないが……い、痛かったら言ってくれ」

 俺は、おっかなびっくり、オキシドールのケースを薬棚から取り出した。

「ガキじゃねーんだぞ、いいからチャッチャッとやってくれよ」

「わ、わかった」

 俺はオキシドールを含んだ脱脂綿を、瓶からピンセットでつまみ出し、構えた。……本当に構えたのだ。さぁ、行くぞ、と。

「……月森くん、手、震えているよ」

 柚木さんがよけいなことを言う。

「だ、だいじょうぶです」

「月森先輩、僕がやりましょうか?」

 横合いから口を出したのは志水くんだ。下級生にバカにされるのは不快だ。

「大丈夫だと言っているだろう。すまないが気が散るので黙っていてくれないか」

「手伝ってあげると言っているのにねぇ」

 やれやれといったように柚木さんがつぶやいた。

「い、行くぞ、土浦」

「……いや、いいから、いつでも」

 困ったように土浦が言った。そんなつもりはないのだが、なぜか俺はいつも彼を困惑させてしまうのだ。

 消毒綿をつまみだし、傷口に触れる。オキシドールが血をぬぐい取り、しゅわっと泡を立てた。この薬は染みるのだ。あろうことか、一時的に出血し、俺はひどくうろたえた。 

「だ、だだだ、大丈夫か?」

「いや、平気だっつーの」

「ち、血が……」

「そりゃ、オキシドールつけりゃ、多少出血すんだろ」

「そ、そうか、そうだな。だ、だが、痛いだろう?」

 俺はバカなことを訊ねた。怪我をしているのだから痛いに決まっている。だが、土浦は俺を気遣っているのか、

「別になんともねぇ」

 とこたえた。

「あ、相変わらず、君は素直じゃないな。こんなに出血して、痛いに決まっている」

「たいしたことねぇって。ホント。大げさなヤツだな」

 

 コンクールなら、どんな大舞台だって、演奏する気概はある。だが、今、目の前で繰り広げられている日常は、俺にとって度し難いほどの緊張を要するのだ。

 ……毎日、サッカー部で鍛えているのだろう。しなやかな筋肉に覆われた形のよい脚。身長は俺より2、3センチ高いくらいなのかもしれないが、体つきは大分違うのだろう。同じ男として、やはりうらやましく思う。

「月森?」

「え、あ、ああ、すまない……え、ええと、しょ、消毒をしたら、ええと、ガーゼと包帯……」

「ガーゼは左手の引き出し、大判のは一番下。包帯は目の前の棚にあるけど」

「……よくご存じですね、柚木先輩」

「生徒会に関わっているからね」

 ……はっきり言って関係ないんじゃないか?

 俺はそう思ったが口には出さなかった。土浦を前で、彼と口論するのは本意ではない。 ガーゼを傷口の大きさに折りたたんで、そこにも薬液を含ませる。油紙を裏から当て、サージカルテープで付着。そして伸縮包帯で、血液の循環を阻害せぬよう固定してやればよい。

 ……大丈夫だ。きちんと暗記している。

 当然だ。暗譜は得意なのだから。 

 

 俺はあて布用のガーゼを作ると、土浦に向き直った。

 部活中に怪我をしたと言っていた。ついさっきまで運動していたのだろう。彼の側近くにかがみ込むと、微かに汗の匂いがした。そして何となく覚えのある香り……土浦の体臭なのだろう。

 おかしな意味合いに誤解する人間はいないだろうが、断っておくことにしよう。

 

 俺は土浦に対し、特別に好意を持っていると自覚している。その想いは、他の誰に対しても抱いたことがなく、彼にのみ該当する特殊感情だ。

 それは恋愛感情なのか?と訊ねる人もいよう。

 そうなのかもしれない。いや、そうでないのかもしれない。そもそも恋愛感情というのは、どういう物思いを指していうのだろう。

 その定義がわからなければ答えようはないが、少なくとも俺自身は土浦という人間に関心があり、強い興味があり、そして……

 ……そして……共に過ごす時間が欲しいと感じている。それは嘘偽り無い本心だ。

 

「……月森先輩? 大丈夫ですか?」

 後輩の志水くんに声をかけられて、俺は現実に引き戻された。

 いけない。このところ、つい自分の中の物思いに沈んでしまうことが増えた。我ながら、よりにもよって、こんな状況でそれはないだろう。ほら、目の前の土浦も不可解な表情をしているではないか。

 手当をする人間が惚けていては、施されている側が不安になるのは当然のことだ。

 

 俺は、その場を繋ぐために、あえて微笑んでみた。

 ……結果、さらに土浦が不安げな顔をした。場を繋ぐどころか誤爆してしまったらしい。 

「ちょっと、月森くん……顔色悪いよ?」

 柚木さんの声が遠くで聞こえる。おかしなものだ。彼はさきほどから僕のすぐ後ろに立っていたはずなのに。

「……そうですか? 別に……」

「なんだか、まるで君の方がケガ人みたいじゃないか」

「……? なにを……俺は……そんなこと……」

 わずらわしいが、のたのたと応える俺。鬱陶しい、土浦を残して、ふたりとも出て行ってくれないだろうか。

「おい、月森?おまえ、なんかマジで具合悪そうだけど……」

 土浦までもがそんなことを言ってくる。バカバカしい。そんなはずないじゃないか。俺は保健委員の使命を、喜ばしく果たしているところだ。

「バカな……そんなはずないだろう。怪我人は黙って任せていればいいんだ」

「お、おう……でも、ホントおまえ……」

 土浦が俺のことを気にかけてくれるのは正直嬉しい。だが、いつも心配されてばかりだと、さすがに情けなくなってくるではないか。俺の方が、彼の面倒を見てやれることだって、たくさんあるのだ。……いや、たくさんはないかもしれないが、実際あるはずなのだ。

 今がまさにそのときではないか。

「後は包帯を巻けば終了だ」

 気をとりなおし、声を励まして俺は言った。

「あ、ああ。いや、いいよ。自分でやるから。おまえはちょっと休んでろ」

「? なにを遠慮しているんだ。包帯を巻くのは得意だ。まかせておけ」

 薬棚を見回し、目当ての包帯を捜す。緊張しすぎて多少ふらつくが、もうすべき処置は終わりに近い。

 俺はすぐさま目的のものを手に取ると、やや勢いよく振り向いた。

 

 そのときであった。        

 さきほどまで鼻についていた、オキシドールの匂いがほとんど感じられない。硬い保健室の床が、真綿を踏みしめるようにフワリと沈む。

 舟に酔ったかような浮遊感。

 冷たい汗が、つっとこめかみを伝わった。 

 

「おい? ちょ……月森ッ?」

「月森先輩?」

「あぶないッ!」

 どこか遠くで聞き慣れた人たちの声がする。

 

 やわらかい地面が、ずぶずぶと俺の足をとる。

 自分の身体が、まるでスローモーションのように、傾倒してゆくのがわかった。

 

 ……まずい、貧血かもしれない……

 

 俺はどこか頭の隅で、妙に冷静に自分の状況を把握していた。

 

 ガシャッ……ガシャンッ!

 床に金トレイの落ちる音。血を拭った脱脂綿をまだ処理していなかったのだ。失敗した。 

 俺の記憶はそこまでだ。

 目の前の薄闇が、本格的な闇にとって変わったとき、俺の意識はとぎれた。