真夏の夜の夢<7>
 
 
 
 
 

 

 

「あ、うーん、ちょっとストップ。出だしちょっとバラけるな。弦、弓、確認して。そいから三小節目は次第に早くだけど、走り過ぎ。もうちょい引っ張って」

 三小節目に掛かったところで、金やんがストップを掛ける。

 金やんはもともと声楽が専門で、それこそ世界にまで到達したバリバリの音楽人だと思うのだが、こういう練習時に、あまり専門用語を使うことがない。

 例えば、出だし……なんかは、『アインザッツ』っていうし、「次第に早く」はアッチェレ……正確には『アッチェレランド』だ。

「あー、ヴァイオリン……日野先輩、ちょっと遅れます〜……」

 半分寝たような口調で志水がつぶやいた。指摘を受けた日野は、となりの月森に指導を受ける。今回は第一バイオリンを月森、第二を日野が努めている。

 演奏曲目は事前に言われていたので、基本的に、個人練習は済んでいるはずだ。だが、こうして合奏の形を取ってみると、もろもろのほころびが出るのが普通なのだ。

 

 曲目は『セレナード第13番 ト短調』だ。いや、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と言ってやった方がわかりやすいだろう。

 市民向けのゲストということで、金やんの選曲は非常にポピュラーなものばかりだ。

 三曲ほど演奏することになっているのだが、まずは『G線上のアリア』そして俺が主役の『ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第2番ハ短調op.18』『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』という流れだ。

 ラフマニノフはとりたてて得意というわけではないが、好きな作曲家なので、よく弾くし、俺としては何の問題もないが……

 しかし、金やん、なんつー統一性のない選曲なのだろうか!?

 最も聴きに来るのは、基本的に素人さんだから、有名な曲を集めたという理由には頷けるものがあったのだが。

「よーし、最後に一回通しで行くぞ。ストップ掛けないから」

 金やんがサッと指揮棒を持ち上げた。

 彼の腕が軽やかに舞った。

 


 


 
 

 

 練習は一応、午前が個人練習。(時間は自由)

 午後は昼食後から夕方四時まで、合奏演習だ。もっとも、合宿も後半に入ったなら、午前にも合わせの練習は入るのかもしれないが、今のところはマッタリである。

 午前中、個人練習に時間を当てるとは言っても、基本的には練習しようとしまいと各人の勝手だし、三年生などは午後の三時間だけが拘束時間というスタンスのようであった。

 そりゃわざわざ試験休暇つぶして、ギャラ無し(笑)で、こんなところまでやってきてるんだから。ガチンコでいく気にもならなくなる。それなら、「合奏」というひとりでは成し得ない時間を、充分に楽しもうと考えていた。ああ、もちろん、舞台に上がるのだから、演奏に妥協などは考えていないが。

 俺たちは午後の練習を終え、あっさりとフリータイムになった。なんといっても金やん自身が、時間を延長してでももう少しやりたい!というタイプのキャラじゃないから。

「あー、そうだ。おまえら、今日の晩飯遅れんなよ。紹介したいヤツがいるから」

 早速練習後の一服をふかしている金やんが、解散しかけた俺たちに声をかけてきた。

「紹介したいヤツ? 誰だよ? まさか新聞部じゃねーだろーな」

「違うよ。ビオラ」

「ビオラ?」

 月森が繰り返した。

「そ。せめてラストのアイネ・クライネではビオラが欲しいかな〜と思ってさ。主催側の関係者にそこそこ弾けるヤツがいるっつーから話付けて置いた」

「金澤先生……! お気持ちはわかりますが、弦のバランスを取るのに……」

「まーまー、月森。大丈夫だって。やっぱ、あったほうがいいと思うんだよね、ビオラ。本来ならウチの学生に頼むべきなんだけど、今からじゃちょっとな」

「なんだよ、金やん、音楽科のだれかじゃないの?」

「ああ、試験休み中だからな。なかなか依頼するのが難しくて」

 ぼりぼりとおのれの段取りの悪さを、照れ笑いで誤魔化す金澤教諭であった。

「まぁ、いいじゃない。確かにビオラが加われば、曲に厚みができるのは間違いないし。僕はむしろ楽しみかな」

「うん、わかった! 夕食までに帰ってくればいいんだろ? ね、もういい?もういい?」

 上の大人びた発言は柚木さん、そして下の子供っぽいヤツは火原先輩だ。ふたりとも同じ学年ではあるのだが。きっと火原さんはすぐにでも外に出掛けたいのだろう。

「あいよ、じゃ、みんなそういうことで。解散」

 さっさとコーヒーを飲みに、食堂へ退散する金やん。そこには校医の梅田もマッタリしているのだろう。

 月森と志水は、日野にさきほどの部分を指導している。柚木さんは先生方のお相伴らしい。

 俺はピアノの蓋を閉めると、外の空気を吸いに部屋を出た。

 ビオラに新人参入か……

 まぁ、ぶっちゃけ、どうでもかまわないんだが。柚木さんじゃないが、結果的に演奏に厚みが出るのなら、むしろ有り難い話だろう。

 避暑地の軽井沢は、日が暮れるとすぐに涼しくなる。俺はそこらをちょっと一回りして、すぐに風呂に行くつもりだったから半袖のままで出てきた。なんと、ここには室内風呂の他に、露天風呂があるのだ。風呂好きの俺としては、最低日に二度は浸かりたい。

 ゆっくりと足を進め、何気なく野外の弓道場まで来てしまった。

 管理人さんの好意で、和弓他、弓道用具一式が道場の横に設置されたログハウス風の更衣室に用意されているのだ。そんなことまでしてもらう必要はないと遠慮したのだが、立派な道具があるのに、誰も使わないのではもったいない、ということらしい。

 なんせこの別荘には図書室まであるのだ。もちろん、楽譜や楽典など、音楽関係の所蔵物が多いが、ベストセラーになった書籍くらいは置いてある。至れり尽くせりとはまさにこのことだ。

  

 だれも人がいないのをいいことに、俺はそっとログハウスに忍び込み、弓と矢を取り出した。ちゃんと弓掛も用意されているので、そいつもありがたくお借りする。

 おととい、火原先輩に乞われて、射てみたのだが、そいつが予想以上に気持ちよかったのだ。放たれた矢が綺麗な直線を描き、まっすぐに的に吸い込まれる。そしてターンと小気味の良い音……!

 昨日と同じ、二の白巾……!

 うんうん、なかなか俺も捨てたものじゃない。

 よし、こうなったら五本全部射てみよう!

 気をよくした俺は、用意してきた矢を台に並べ、スッと深呼吸した。競技会のときと同様に、緊張を解かず連射することにする。

 気が冴える。

 俺は、姿勢を正すと、一本目の矢を手に取った。

 

「うーん、なかなかイイ感じじゃねーの」

 五本の矢はすべて的の中に収まっていた。ギャラリーはいないので、自画自賛だ。

 

 パチパチパチ!

 

 ひとり上手であった俺は、背後からの拍手に驚いて振り返った。

「いや、ホントすごいよ。綺麗な連射だった」

 そこに立って惜しげもなく手を打ってくれているのは、見覚えのないヤツであった。