真夏の夜の夢<22>
 
 
 土浦 梁太郎
 

 

 

 

「土浦、その辺ちょっと回ってみたけどね。やっぱり、この岩の右……そう、そこ。そのでっぱった対角線上が一番いい位置だと思う」

「ああ、やっぱりそうか。松も視界に入るし、そうするか」

「ただちょっと高くなっているからね。風はきついんだけど……」

 加地の促しに従って、俺たちは場所の移動を始めた。別についてこなくてもいいのに(というか、ギャラリーは少なければ少ないほどいい)、三年生も、教師連中も女子同伴でくっついてきた。

 元の場所に戻っていろといいたくもなったが、いちいち気にするのは辞めよう。

 とにかく平常心…… 弓道はなによりも静かな心が肝要なのだ。

「よし……足場はいいな」

 俺はスニーカーで、ぐいぐいと土と砂利で満たされた大地を踏みしめた。

 背後からは、俺を急かすように、浅間山の悲鳴が聞こえる。火山弾が迫ってきたら、川のこちら側にも、火が点くだろう。なんとしてもその前に、向こう岸に渡らないと……!

 ああ、いやいや、いかん。焦燥も心の乱れだ。

 落ち着け……落ち着け、俺……!

 

「じゃ、行くぜ。……おい、月森」

「あ、ああ、なんだ? 俺は何をすればいい?」

 先ほどの言葉を覚えているのだろう。手を貸してくれと言った、俺のセリフを。

 彼は緊張に震える声で、すぐに応じてくれた。

「……周りの連中はちょっと離れてくれるか。……月森、俺の左側に来てくれ」

「わ、わかった!」

 彼は促されるままに、危なっかしい足取りで、云われたとおり俺の左半身側に来た。

 ……本当はこの役目も加地に頼むつもりだったんだが……まぁ、いい。体格が近いのが条件だから、月森とでもそう不釣り合いではないだろう。……身長だけは。

「月森、片膝をついて、脇から俺の腰を支えてくれ」

「え、あ、ああ、わ、わかった」

 要領を得ない彼に、実際に手を取って押さえるべき場所を伝えた。

 普段なら、ひとりで射るのが一番いい。……というか、それが当然なのだ。

 だが、今はこの風だ。もろに吹き下ろしてくるこの場所で、ひとりで身体を固定させるのは難しい。

「しっかり押さえていてくれ。……この風だと、どうしても支えが必要なんだ」

「わ、わかった!何が起ころうと、絶対にこの手は放さない!」

 いや、アレ、そーいうんじゃなくてね。とにかく俺の身体がフラフラするのを止めておいて欲しいっつーか……そう説明したんだが。

 ふぅと大きく吐息し、身体の力を逃がす。

 弓を持ち上げ、まっすぐに松の木を狙う。もちろん、一番太い幹の部分だ。

 くそ……やはり遠い。

 遮る物はないから、視界は開けているのだが、風がひどくうるさい。

 月森は頼んだように、しっかりと俺の下肢を両手で押さえてくれていた。

「ハッ!」

 俺は息を止め、瞬間矢を放った。

 

 

 

 

 

 

 俺の射た矢は、ロープの尻尾をつけ、一直線に飛んだ。

 正確には風の強さを計算にいれているから、松の老木の斜め右上を狙った形なのだが……

 

 ドンッ!!

 

 と、川のこちら側にいる俺たちにも、矢が幹に突き刺さった音が聞こえた。

「……よしッ」

 俺は頷いた。よかった。風向きを計算に入れたのはやはり正解だったのだ。

 いや、いかん。まだ二本あるのだから。

 

 集中力を途切らせるつもりはなかったのだが、背後から襲ってきた歓声にずっこけそうになった。

「うおぉぉぉぉ! やったぁ!」

「土浦先輩、すごいですぅ〜!」

「君はやる男だと思ったよ、土浦くん!」

「つっちーっ! マジ最高ーーッッ!!」

 いや、もう、どれが誰のセリフだかなんて、どうでもいいだろう。そりゃ、命が掛かっているわけだから、必死にもなるだろうが……

 緊張を解いてしまったせいか、ドッと額に汗が噴き出した。

「騒ぐなよ、まだ二本あんだろ。失敗しても知らねぇぞ」

 ふぅと袖口で額を拭いそうつぶやいた。

 すると、バカみたいにきっちりと支えの構えを崩していない月森と目が合う。彼はハッとして、俺の腰から手を放した。

「あ、あぁ、いや、失敬……つい……」

「いや、助かったよ。重心がずれなくて上手くいった。後二本あるからよろしく」

「ああ。……君はすごいんだな。本当に……あの木に当ててしまうなんて……」

 呆然とした月森の物言いに、俺サマはちょっとだけ気分を良くした。

「へへ、上手くいってよかったぜ。いや、やっぱ緊張してるしよ。こんな場合だから」

「君はプレッシャーに強い。……見習いたいものだ」

「おいおい、そういうことなら、おまえだって、どんな大舞台でもソツなくやってきてんじゃねーか。プレッシャーには強いほうだろ?」

「いや……ヴァイオリンの演奏とかそういう時ではなく……もっと……」

 ごにょごにょと、月森はなにやらつぶやいていたが、俺は彼を促し、二射目に移った。

 

 幸い……射た三本の矢は、信じがたいことだが、すべて松の木に命中した。緊張の緩んだ三射目は、少しずれてしまったのだがとにかく当たった。もう、ホント、一生分の運を使い果たしたのではないかと感じられるほどだ。

「つっち〜〜っ!」

「ツッチーーーッッ!」

「土浦くーんッ!」

 という、つっちーコールを浴びて、俺はようやく舞台から降りた。

 もちろん、対岸の松の木につながっている、命綱のロープを岩に固定して。

 やれやれ大騒ぎしている場合じゃないだろう。実際に向こう岸に渡るのはこれからなのだから。

 とりあえず、最初の一歩を上手い具合に踏み出せたせいか、さきほどよりもかなり冷静になってきた。だからこそ、これからのことに不安がある。

「つ、土浦、お疲れ。……汗を拭いた方がいい」

 月森も緊張が解けたのだろう。軽く息を弾ませていた。そして彼は、汚れてもいない綺麗な蒼いハンカチを寄越してくれた。

「あ、い、いいよ。もったいねーって」

「何を言っているんだ、君は。つまらない遠慮をするな」

 そういって彼は、きっと値段も張るであろう、手布を俺に押しつけたのだった。

「……君は、すごいな……」

「へ?」

「どうしてそうやって聞き返しをするんだ。君はすごいと……そう言ったんだ」

 なぜか怒り出す月森。難しいヤツ。

「いや、別に。たまたま経験があったんだよ。まさかこんな場面で役に立つとは思わなかったけどな」

「そうだな。人生は……何が起こるかはわからない。後悔するくらいなら、自分の心に正直に生きるべきかと常々考えるようになった」

 は?いや、そういう話か?

 だが、ここで聞き返すと、さらに面倒くさいことになりそうなので、適当に相づちを打っておくことにした。