真夏の夜の夢<29>
 
 
 月森 蓮
 

 

 

 水に叩きつけられたとき、視界を覆ったのは鮮やかな青色ではなく、あっという間のブラックアウトだった。

 いきなり目の前が真っ暗になり、ああ、いや……そうだ、水に落ちる前に、土浦がこっちを見て口を開けていた。それが可笑しくなるほどの大口で……

 ははは……

 ああ、いや、何を笑っているんだ俺は。彼は俺の身柄を心配してくれていたのに。

 土浦に言われたとおり、しっかりと身を伏せ、補助帯にしがみついていたつもりだったのだが。無意識のうちに手を酷使することを避けていたのかもしれない。

 死んでしまってはヴァイオリンを弾くことなど、かなわなくなってしまうのに。ついつい指に負荷を掛けることを避けていた。

 

 ……俺は死んだのだろうか?

 こうして思考できるということは、俺の意識はまだ生きていて…… 

 そういえば、以前読んだ本で、幽体離脱についてふれてあるものがあった。暇つぶしに読んだ雑誌の手記だったから、疑わしいことこの上ないが。

 つまり、こういうことだ。

 俺の肉体は既に死んでいて、魂が身体から離脱し自らの死体を眺めている様子。

 あいにく、俺の周囲には暗闇が降りていて、長く付き合った肉体は見つからないのだが、きっと時が経てばお別れをいう暇くらい与えられるだろう。なんといっても、17年付き合ってきた身体なのだ。

 

 ほぅ……と大きく吐息して、再び双眸を綴じ合わせる。

 目を開けていても暗闇しか映らないのだから、わざわざ閉じる必要もないのだが、なんだか疲れを感じて。死んでしまった肉体に疲労を感じるというのも道理がとおらないが…… 

 ああ、考えごとはよそう。

 なんだかひどく疲労した。

 眠くて……眠くて……

 

 

 

 

 

 

「フゥ…… ゲッ、ゲホッ! ゴホッ!ゴホッ!」

 せっかく心地よい暗闇に淫蕩とうていたのに。

 音一つ聞こえない安寧の中、俺は急激な胸苦しさを感じて、大きく咳き込んだ。

 それがいわゆる救助活動…… 端的に言えば、蘇生を促すための人口呼吸だと知ったのは、ようやくはっきりと目覚めてからのことであった。

「ゴホッ! ゴホッ! はっ……はぁはぁ……」

「おい、大丈夫かよ。上体ちょっと起こしたほうがいいな」

 俺の背を大きな掌が行き来している。びしょぬれになった上着は脱がされており、彼は繰り返し、もろ肌の背をさすってくれていた。

 彼……

 ああ、彼…… 土浦がいるということは、ここはあの世ではないらしい。こんなことで、彼が死ぬはずはないのだから。

「……つ……つち……」

 この状況から察するに、河に墜ちた俺を、彼が助けてくれたのだろう。霞んでいた瞳に映ったのは、ひどく心配そうな土浦の顔であった。

「つ……ち…… ゴホッ!」

「お、おい、無理してしゃべるな。ゆっくりでいいよ」

「い、いや……ゲホッ…… つ、つち……ら…… あ、あり……が…… ゲホッ! ゴホッ!」

 きちんと礼を言おうと思ったのに、俺の肺の中にはまだ水が残っているのか、喉は詰まり、せわしなく咳込んでしまう。

「バカ、礼なんて言う必要はねぇよ。ああ、それよりよかった…… 見よう見まねで呼吸を戻そうとしたんだが、おまえ、なかなか目ェ覚まさなくて……」

「…………」

「とにかくよかったよ。ああ、ようやくホッとした……!」

 彼は大きく吐息すると、張り詰めた肩の力を抜いた。

 何度か咳払いを繰り返すと、ようやくまともに呼吸ができるようになった。自然、しゃべることも可能になる。

「いや……ちゃんと礼を……言いたい。ありがとう。……君に助けられなければ、俺は死んでた」

 そう……『死んでいた』。

 平凡な日常、『死』という存在を知りつつも、決して身近ではなかったソレが、今、目の前に横たわっている。

 俺が今、生きていて、こうして呼吸しているのは、当たり前のことなんかじゃない。

 彼の勇気と幾ばくかの幸運に支えられて、こうしていられるのだ。

「オイオイ、よせよ。そう簡単に死ぬわけねーだろ。ただ怪我とかな、精神的なダメージとかが心配だったんだ」

 土浦はあっさりと、俺の囚われていた『死』という概念を、横に退けてしまった。

「どっか、痛ェとことかないか? シャツ脱がせるとき、肩の辺りがあざになっていたんだ」

 そういわれて、軽く腕を動かしてみたが、痛みは襲ってこなかった。

 ただ身体が重く、感覚が鈍感になっているような気がする。思案顔の土浦に、正直にそう答えると、

「ああ、そりゃそうだろ。さっきようやく目ェ覚ましたばっかなんだから。少し休んで腹に何か入れりゃ、気分も落ち着くさ」

「……あ、あの……土浦、ここは……?」

 俺はようやくその質問を口にした。実はさっきからずっと気になっていたのだ。

 外は相変わらずの状態らしいが、この場所には屋根がある。俺が横になっていたのは、岩かげだの、石のベッドだのではなく、ややほこり臭いが、ちゃんとした敷き布団の上であった。

「たぶん、釣り小屋かなんかだと思うぜ。この場所を見つけられたのはマジでラッキーだったよ。おまえを川から引き上げて、風と雨を避けられる場所を探してちょっと歩いたんだ」

「そ、そうだったのか…… あの……すまない」

「バカ、謝るとこじゃねーだろ。 ほんの五分くらいでここに行き着いた。川の向こう側だし、溶岩もここまで降っちゃ来ないだろう」

「……ああ、そうだな……」

 俺はホッと吐息し、頷いた。そうなのだ、さきほどまで、俺たちは必死に対岸へ行くために試行錯誤していたのだから。

「生憎、携帯だの何だのは流されちまったが、リュックにいれておいたサバイバル用具と、着替えは無事だぜ」

「サ、サバイバル……?」

「おうよ。男ならサバイバル用具一式は基本中の大基本だ」 

 ややいたずらっぽくそういうと、彼はダガーナイフをくるりと一回しした。

 きっと、土間と囲炉裏で燃やしているのは、そいつで切り出してきた薪なのだろう。十分な分量とは言い難かったが、少なくとも明日くらいまでは十分持ちそうな木々の束が積んであった。