真夏の夜の夢<30>
 
 
 月森 蓮
 

 

 

 

「……おい、月森? どうしたんだよ?」

 きっと俺は惚けたように、燃える火を眺めていたのだろう。土浦が不思議そうに声を掛けてきた。

「いや…… いくら釣り人が使う小屋だとはいっても、そうそう準備よく薪だのがあるはずはないと思って。君が……?」

「ああ、だが、たいした時間はかかってないぜ。この辺はけっこう木が密集しているからな。だが、乾いた枝を見つけるのが面倒くさかったな。どうしても湿気っちまってるし」

「土浦は……なんでもできるんだな」 

 思わず口から漏れた言葉だった。

 俺は子供の頃からずっとヴァイオリンを弾き続けてきた。音楽への情熱だけは誰にも負けないと……そう自負できるほどに。

 土浦と知り合ったのは、そんな子供の頃だ。

 いや……知り合ったというのは、正確ではない。別に互いに名を名乗り合い、友人として交際してきたわけではなかったから。

 俺は彼のピアノを知っていた。荒削りだが、独特の味のあるその音色を。そして彼も弾き手としての俺を見知ってくれていたのだろう。

 星奏学園での再会は決して友好的とは言い難かったが、俺たちはきちんと互いを覚えていた。

 だが、それなりに交友を得るようになってから、俺は彼との決定的な違いに気づかざるを得なかった。

 子供同士ではなく、大人の男になりかけの高校生として…… 俺はあまりにも彼に劣っていた。唯一音楽だけが俺の最後の矜恃であり、それ以外のすべてにおいて、俺は彼に敗北していたのだ。

 人望でも、力でも…… そして、こういった非常時における状況判断でも、ただ足手まといになるだけで、皆を救うために奔走していた土浦の足下にも及ばない。

 

「……俺はただの足手まといだ……」

「……? なにか言ったか?」

 土間に薪をくべながら、彼が訊ね返した。考えていたことが唇を割ってこぼれ落ちただけだったから、まともな声になっていなかったんだと思う。

「…………」

「どうした? 気分悪いか?」

「い、いや……なんでもない」

 かろうじて、俺はそうごまかした。

「ああ、そうだ。下も脱いでコイツにくるまってろ。濡れたモン身につけてると、いつまでたっても身体が温まらない」

 土浦は俺に毛布を投げて寄越した。驚いた面持ちで受け取ると、彼は、

「そいつも、こん中で失敬したんだ」

 と言って笑った。おまけに、そいつはちゃんと埃を払ってあるから大丈夫だと付け加えてくれた。

 水の中から助け出された俺は、当然ぐしょぐしょに濡れそぼっていたはずだ。シャツは彼が脱がせてくれたらしいが、さすがに下までは面倒見切れなかったのだろう。それでもかなり水気を拭い取ってくれたのだろうが、しめった感触はどうにもいたしかたがなかった。

 俺は言われたとおり、濡れたズボンと下着を脱ぎ、大判の毛布にくるまった。それだけでも、ずいぶんと暖かくなったような気がした。

 

 

 

 

 

 

「……迷惑を掛けて……すまない」

 おのれの情けなさに、ふと気を緩ませると嗚咽が漏れそうだ。

 さきほどから、土浦と俺の歴然とした差違を考えているせいか、このまま消えて無くなってしまいたいほど、悄然とした心もちになっていた。

「おい、よせよ。なんか月森らしくねーぞ」

「……だが……君にとんでもない迷惑を……」

「だから、迷惑じゃねーって。だいたい川に墜ちたのはおまえのせいじゃないだろ?」

 ぐつぐつと湯気の出る何かの味見をしつつ、土浦はどうでもよさそうにそう答えた。

「……いや、俺の不注意だ。あんなにちゃんとつかまってろと言われたのに…… 自分ではしっかり握りしめていたつもりだったんだが……」

 言い訳がましいセリフを、口の中でこねくりまわした。

「ありゃ仕方がねぇよ。あの衝撃じゃ。それより、たいした怪我がなかったのはラッキーだったぜ」

 ……そう、君はいつでも物事のよい方面を見ようとする。

 それは、対人間についてもそうだ。人見知りが激しくネガティブな俺とは正反対の思考だ。

「……土浦、君の方は大丈夫だったのか? どこか怪我は……?」

「ああ、別に。川底であちこち切っちまったみたいだが、深い傷はない。ツバでもつけときゃすぐ治る」

「そんな……」

「よし、できた!」

 尚も言いつのろうとした俺の言葉など意にも介さず、土浦は満足げな声を上げた。

「え……?」

「月森、気分は大丈夫だな? 飯、食えそうか?」

「しょ……食事……?」

「具合が悪くねェなら、腹に温かいものを入れた方がいい」

「…………」

「月森、ほら、これ食え」

 彼は木の椀に、煮え立った汁物のようなものを注ぎ、ズイと俺に突きだした。

「生憎、箸は無ぇから、木杓子使えよ」

「……味噌汁……か?」

 スプーンのような形状の、荒削りな杓子を受け取る。

「ああ、貯蔵庫に味噌瓶があったんだ。残念ながら肉なんかは無いからな。そこらで山菜を摘んできた」

「さ、山菜……? この天気の中で……?」

「どうせ川ん中潜ってびしょ濡れだったんだから、もののついでだろ。ほら、食った食った! 身体ん中から暖めなきゃな」

「…………」

「大丈夫! 合宿場で俺の作ったスープ美味いって言ってただろ。ぜいたくな材料はないが、味はそう悪くない。……って、これじゃ、自画自賛か」

「い、いや……」

 もちろん、土浦の作ったものを疑っているわけではない。だが、あまりにもめまぐるしく状況が変化していて…… 思考がそれについていけないのだ。

 ほんの数時間前、俺たちは火山弾に追い詰められ、急流を渡ろうとして……情けなくも俺だけが川へ落下した。

 土浦が身を挺して俺を救い出してくれ、人口呼吸で息を吹き返させてくれ……

 ああ、そう……人口呼吸で、だ。意識がなかったから、何の感慨も抱きようがないのだが……

 バカか、俺は。この状態で照れている場合ではないだろう。

 

「……月森? どうしたよ。とにかく食ってみろ」

「え……あ、い、いや、そうじゃなくて……」

「…………?」

「あ、い、いただき……ます」

 奨められるがままに、椀に口を付ける。

 舌をやけどしそうな、熱い熱い味噌汁。一口飲むごとに、胃がカッと熱を持つ。自覚することはなかったが、水に浸っていた肉体は、表面だけではなく内臓の熱さえ奪い去られていたのだ。

「……おいしい……」

 思わず、口からこぼれ落ちたセリフに、土浦がしてやったりといった様子で微笑んだ。