真夏の夜の夢<37>
 
 
 月森 蓮
 

 

 

「じゃ、そろそろ行くぜ。疲れたら、すぐに言うんだぞ」

 出発直前まで、そんなことを言う土浦だ。

 予定よりやや出発が遅れたのは、食料の準備をしていたからだ。朝食は山菜の汁物で済ませたが、これからは川の流れを頼りに歩いていくことになる。

 道行きにこんなふうに、運良く掘っ立て小屋があるとは限らない。それゆえ、すぐさま出立することに、彼はかなり慎重になっていた。 

 

 何か使えるものはないかと、ふたりして小屋中を漁り、ビニールシートと、昨夜使用した毛布を拝借することにした。それからステンレスの簡単な食器など。

 ……申し訳ないことだが、非常時だ。

 

 それでもなかなか出発しない土浦に理由を問うと、『燻製』ができあがっていないというのだ。

 今朝、捕ってきた魚を、木片と外に放置された空のドラム缶で、燻製にしているのだという。

 それなら、食料が調達できない状態に陥ったとしても、すぐに食べられるとのことであった。ただ焼いただけの魚では、腐ってしまうからダメなのだという。

 

 ……燻製……

 スモークだ。

 口にすることはよくあっても、作った経験はない。

 土浦は、なんでこんなことまで出来るのだろう。それとも、サバイバルナイフを持ち歩く年代の男子ならば、この程度の知識はあって当然なのだろうか。

 またもや差を見せつけられ、劣等感が首をもたげてくるが、今は落ち込んでいる場合ではなかった。

 準備を整え、外に出ると、青空が覗いてはいるものの、雪のようなものが落ちている。

 火山灰だ。

 そう、浅間山が噴火したのは、昨日のことなのだ。

 今は鎮まっているとはいえ、いつまた活動を開始するかもしれない。少しでも早く麓の町へ逃げのびなければ……

 

「そう難しい顔すんな」

 ポンと肩に手を置かれ、俺はびくんと背筋を伸ばした。

「土浦……」

「確かに楽観視できる状況じゃねぇが、昨日はあの状況の中で、誰一人欠けることはなかった。大丈夫だ、必ず助かる」

「……ああ、そうだな」

 力強い言葉に、頷き返した。

 

 

 

 

 

 

「よーし、それじゃあ、出発!」

 彼の掛け声で、俺たちはいよいよ下山する。

 川沿いに歩いていけばよいのだ。地図もあるし、食料の準備もした。

 何より心強いのが、今一緒にいるのが、土浦であるということ……

 コレは何よりも大きな僥倖であった。

「昨日の雨のせいでぬかるんでいるところがあるな。足を取られないように気を付けろよ」

 前を歩く彼に声を掛けられ、

「わかった」

 と、返事をするところで、見事に滑りかける俺だ。

 それをまるで予想していたかのように、尻餅をつく前に引っ張り上げてくれる。

「す、すまない」

「その辺は川が増水して水浸しになったんだな。粘土みたいになってる」

 注意深く彼は言った。

「おまえ、こっち側歩け。違う、川側じゃなくて、俺の右隣だ。少し行くと雑木林みたいな場所に出るから、そうしたら大分マシになるだろう」

「そ、そうか。道を見失わないかな」

「川を意識して歩けば大丈夫だろ。それより、おまえ、手に気をつけろよ。あの小屋ん中で手袋でも見つかればよかったんだが……」

「あ、ああ。問題ない。注意して歩く。……だが、君だって、ピアニストなんだ。それを忘れないでくれ」

「ヘイヘイ。やぶへびだったな」

 きっと俺に忠告されたと感じたのだろう。やれやれというように、両手を広げ、ふたたび俺たちは連れだって歩き出した。

 

 少し前にも、ふたりしてこんなふうに歩いたことがあった。

 俺が家に帰らず、夜の公園を彷徨っていたとき、なぜか彼が探しに来てくれたとき……

 そして、貧血で倒れた俺を、家まで送ってくれたとき……

 

 ふふ、こうして思い返してみると、今回のことも含めて、土浦には迷惑のかけ通しだ。

 普通の人間なら、さすがにもう関わり合いになりたくないと考えるだろう。

 

 それなのに……

 ああ、土浦が人に好かれるのがよくわかる。

 彼は自分の損得で動いていないのだ。自分の出来る範囲だというが、誰に対しても、やさしく気配りが出来る。物言いがぶっきらぼうだから、誤解されることはあろうが、そんな問題は時間が解決するに違いない。

 

 彼は普通科に入学しながら、音楽科の先輩や後輩とも、良い関係を築き、楽器の演奏とは無関係のスポーツクラブでも、副主将を務めていると聞く。

 加地のように初対面の人物とも、すぐに仲良くなれるかと思えば、古参の教員との信頼関係も強固だ。

 

 ……俺とはある意味、正反対の人物なのだ。

 だからなのだろうか。

 ……こうして強く惹かれるのは……

 

「よし! ここが分水点だな。そしてこっちがわの支流にそって歩けば、やがて、雑木林が見えるはずだ! な、月森!」

「え? あ、ああ、そうだな。君の言ったとおり、道は誤っていないようだ」

 慌てて同意する。

 楽器も手にせず、こうして彼と歩いていると、ついつい物思いに耽ってしまう。

 ……やはり、そうだ。

 俺はどうしようもなく、彼のことが気になっている。

 『好き』なのだ。そう、もう自身の気持ちは、あの日、確認したではないか。

 

 貧血を起こしたその日、土浦に連れられて自宅に帰った。

 彼が家にも上がらず、そのまま帰ってしまって…… なぜか涙が止まらなくなった、あの日。

「おう、どうした? 疲れたか? ずっと歩き通しだったからな。ちょっと休憩するか」

「あ、いや、大丈夫だ。すまない」

 そう告げ、俺はぎこちない作り笑いをしたのであった。