星奏戦記<1>
俺の名は土浦梁太郎という。
星奏学園の普通科2年5組に在籍する健康的な好青年と言っておくことにする。
え?わざわざこんなところで、宣伝するなって?いや、あの学園に通っている身としては、一応そう断っておきたくなるのだ。
星奏学園には普通科と音楽科が併設されていて、学園の名の由来から考えれば、むしろ音楽科のほうが、メインになるのかもしれないが、この音楽科のヤロウどもはまったくもって、「不健康」優良児ばかりなのだ。つまり、大人たちが眉をひそめる「不良」などはまったく居はしなかったが、丼メシ一杯も完食することのできないような、「不健康」優良児ばかりだということだ。もっとも、それはどちらかといえば、音楽科に偏っていて、俺たち普通科はかぎりなく、そこらの高校生と変わりはなかったが。
「せんぱ〜い、土浦せんぱ〜い」
のんびりと間延びした声が背中から追ってくる。俺はサッカー部に所属しているが、そこの一年生でないのは見なくてもわかる。
パタンパタンという急いでいるのかそうでないのか理解しがたい足音と、一生懸命声をあげているつもりなのかもしれないが、早足で歩いている者ならば、到底聞き逃してしまいそうな、おっとりとした声。
「せんぱ〜い」
もう一度呼ばれてから、俺は仕方なく振り向いた。
すると目の前に、いや、彼はまだ俺の目の前にすら到着していなかったのだが、高校生というのは少々小柄な少年がポトポトと走って(?)きた。
「よう、志水」
俺はそう呼びかけた。
「土浦先輩、歩くの早いですねぇ。僕、走ってきたのになかなか追いつけないんだもの」
「ああ、やっぱ走ってたのか、アレ」
「ええ、そうです」
こくんと頷いた。俺だったら片手でへし折れそうな細い首が、カックンというように前に倒される。彼は志水桂一、音楽科の一年坊でチェロを専攻している。見かけはこんなだが、コイツの技術力には、あのいけすかない月森でさえ、一目おいているのだ。その証拠に前回のコンクールでは並み居る上級生を差し置いて、堂々の二位についている。
「先輩、これから練習に行くんですよねぇ?」
「お、おう、まぁな。今は部活も休んでるし、他にやることもねーからよ」
「僕、土浦先輩のピアノが聞きたくなっちゃって。さっき」
『君、俺の話聞いてるかい?』と思わず聞き返したくなるが、志水とはこういうキャラクターなのだ。「さっき」というのが何だか妙にコイツらしい。
「ねぇ、先輩、僕、練習室とってますから一緒に行きましょう」
「いや、でも俺も自分の練習しねーとなんねーし」
「そこで練習すればいいんですよ、ね?」
また細い首がカクンと倒される。今度は横にだ。
「この時間だと、大きな練習室空いてないかもしれないし」
「いや、別に俺はピアノさえありゃどこでも……」
「はやくはやく」
まるで小さな子どものように、俺の手をつかみ、くいくいと引っ張る。またその手が白くて小さい。サッカー部でならし、ガタイも180cmを越えた俺と比べるのも無理はあるだろうが、とても同じ男の手とは思えない。
国語力に自信のない、俺の比喩表現が何処まで通用するか自信はないが、砂糖で作った飾りの菓子のような、熱を加えたら、しゅっととろけてしまいそうな、そんな雰囲気なのだ。
「僕ね、チャイコフスキーって、あんまり好きじゃなかったんです。今もそんなに好きじゃないけど。でも土浦先輩がこの前のセレクションで弾いた『感傷的なワルツ』はよかったんです。なんかもう突き抜けちゃってるっていうか。あんな風に謳ってあげれば、チャイコフスキーも喜ぶんじゃあないかなーって」
志水はぺらぺらとしゃべった。こうして俺の手を引っ張って、ズカズカ歩いている時でさえも、まだ半分夢見のなかにあるような、不思議な抑揚で口を聞く。
それほど親しくない連中は、志水のことを無口なヤツだと思っているようだが、いったんツボに入る内容だと、こうして野別幕なしにひとりで語っている。聞き手がいようがいまいが関係ない電波なのかと思ったが、少なくともそうではないようだ。
「それをね、さっきまた思い出しちゃって、そしたらなんか土浦先輩に会いたくなって、普通科の教室行ったんですけど、いなくて……」
「おまえ、わざわざ俺のクラスまで来たのか?」
「はい、聞きたくなったから」
あっさりと彼は言った。
音楽科には浮世離れしたヤツが多いようだが、コイツもまぎれもなくその中のひとりだろう。なんせ外見も外見だ。またもや俺の国語力のなさが露呈されてしまうが、何にたとえればいいのか……そう、宗教画の天使といえば一番近いのかもしれない。
淡い栗色の髪と、光の加減で琥珀色にも感じられる大きな瞳。こんな大きな目はどこぞの少女漫画家が描くヒロインのものだろうと思っていたが、実在するのだからしかたがない。肌の色も普通高校男子ともなれば、適度に日焼けしていてしかるべきだと思うのだが、もともと色素が薄いのだろう。綺麗な牛乳色……もといミルク色だ。
「ああ、今日はできれば土浦先輩と合奏したいかな。僕、チャイコフスキーはあまりレパートリーがないんですけど、『感傷的なワルツ』くらいはさすがに弾けますから」
「え、ああ、いや……」
「ちょっと土浦先輩みたいに弾いてみようかなぁ。くすくす」
笑い声を『くすくす』と表現するのもいかがなものかと思うが、本当にその言葉通りの笑い方なのだ。
「おまえ、ホンット強引な……」
思わず俺はそうつぶやいていた。志水は一瞬、『心外』というように、大きな瞳をさらに見開いたが、不思議な微笑を浮かべると、すぐにとろんとしたいつもの様子に戻った。
「練習室、二階のちょっと大きめのところを取ってるんです。とはいっても普通教室くらいですけど。あそこならグランドピアノがおいてあるし、先輩の音、綺麗に響くと思いますよ」「ああ、そう……」
俺はほとんどあきらめて、つぶやいた。
こうしていいなりに連行されている俺自身も問題なのかもしれないが、どうにもこういうタイプには弱いのだ。押しの強さではなく、ずばりその非力な外見にだ。胸元あたりまでしかない身長、しかも女子どものように華奢な手足、よくもまぁ、あの大きなチェロを持ち運びできると思ってしまう。
顔を近づけられると否が応でも、ばさばさと音のしそうな長いまつげと綺麗な弓なりの眉が目に入る。
「おい、志水、引っ張るなよ、わかったって」
「だって土浦先輩、足早いでしょ。やっぱやめたってどっか行かれちゃったら、僕、追いつけないもの」
「いや、ガキじゃねーんだからそんなこと言うわけないだろ」
ふぅと大きく息を吐き出して、俺はそういってやった。
音楽科に併設された練習棟は、普通科校舎からは少し離れている。いかにコンクール出場者とはいっても、白い制服だらけの音楽科校舎に単身乗り込んでいって練習室をキープするのは、気が引けるのだ。幸いピアノをやる俺には、学校以外にも練習する場所があるから、あまり学校での練習にはこだわっていないのだが、広い練習室でグランドピアノを弾くのは悪い気分ではない。それでも志水はちらちらと俺の顔を見ては、それこそ天使のような無邪気な笑みを浮かべ、くいくいと手を引くのをやめなかった。