星奏戦記<5>
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

最後の音が、すぅっと虚空に解ける。

 『感傷的なワルツ』

 俺は前回この曲を弾いたので、次回は別なものをやるつもりだが、志水のリクエストに応えて、練習の最後に二人で合奏した。一学年下といっても、コイツの技術力には舌を巻く。新曲に向かうとき、必ず楽典を一からチェックし直して、解釈を構築すると言っていた。恥ずかしながら、とっかかりはおのれの感覚のみで弾いている俺にとっては、志水と一緒に練習するのはかなり勉強になるのだと思い知った。

 

「はぁ〜、キモチよかった〜、ね? 先輩」

「おう、お前、ホントたいしたもんだよ。なんかスゲー教えられる」

 俺は正直にそう言った。いいと思ったものを口に出して賞賛することに、俺は抵抗がない。

「そんなァ、土浦先輩にそう言ってもらえるなんて、僕、嬉しいです」

「いや、マジで。俺はホラ、けっこう感覚で弾いちゃうところあるからさ。お前みたいに、一度きっちり楽典あたるのも重要なんだってわかった。いや、頭じゃ理解してるんだが、これから実行しようと思ってるよ」

 俺がそういうと、志水は笑みの色を強くして、ゆっくりと弓を置いた。

「ねぇ、先輩」

 そう呼びかけられる。

「先輩、僕と弾くの楽しい?」

「え? 楽しいって……そうだな、楽しいよ。やっぱお前、上手いし、ひとりの時じゃ、考えつかなかった解釈とか、いろいろヒントをもらえるカンジだ」

「本当に……?」

「ああ。もうちょっと深く踏み込んで解釈してみるよ」

「先輩……これからも僕と一緒に弾いてくれます?」

「え? あ、ああ、機会があれば合奏も楽しいしな」

「僕もね、先輩といっしょにいるの、すごく好きなんです」

 いるの? いるのって何? 一緒に合奏して『いるの』ってことか?

「ねぇ、土浦先輩?」

「え? あ、ああ?」

「先輩は、月森先輩とどういう関係なんですか?」

 その問いかけはあまりに唐突であった。どうにも会話に脈絡が感じられない。どうしてここで月森が出てくるのだろう。

「どういう……って、まぁ、知り合いとか、そんなもんだろ。別にダチってわけじゃねーし」

「…………」

「志水?」

「だって……土浦先輩、よく月森先輩と言い合いになるじゃない。ただの知り合いってカンジじゃないし」

 不平そうに口をとがらせて彼が言う。

「ああ、まぁ、アイツとはいろいろ因縁があるんだけどよ。そんなたいした話じゃねーさ。今は……まぁ、同じコンクール参加者だし、それなりに……それなりな仲だな」

 俺はそう言った。

 ヤツとの因縁を説明するとなると、どうしても心の奥深いところまでさらけださなければ説明がつかない。俺にとって、それはまだ簡単にできる作業ではなかった。

「ふぅん……」

 志水がつぶやいた。納得してはいないというのだろう。

「どうした、月森となにかあったのか?」

「え? いいえ、別に……」

「なにかキツイことでも言われたか??」

 少し心配になって、そうたずねてみた。志水がこんなふうに、月森のことを話題に出すのが解せないのだ。二人の間になにかトラブルがあったのだと考えれば合点がゆく。

 俺なら立場の弱い後輩とケンカなどしないが、月森みたいなヤツは、気に入らないことがあれば遠慮会釈なくもの申すであろう。

「……え〜、いえ、そんなことはないんですけど……」

 長い前髪を指先でいじりながら、志水がささやく。こいつの声は小さくて注意していないと聞き漏らしてしまう。

「おい、何かあったら、言えよ? 先輩とか同級生ならともかく、おまえはまだ一年なんだからな」

 俺にしてはかなり真剣にそう言ってやった。志水のつぶらな瞳が、大きく見張られる。こぼれおちてしまいそうな、などという比喩表現は、きっとこういうときに使うのだろう。

「土浦先輩はやさしいんですねぇ」

「いや、別に普通だろ」

「そんなふうにいってくれる先輩、あんまりいませんよ」

「ふーん、まぁ、俺は音楽科のことはよくわからないからな」

「…………」

 志水は少しまぶしそうに目を細め、やわらかく微笑んだ。

「さてと、そろそろ行くか」

「え? もう……?」

「いや、だって五時半過ぎてるぜ。二時間以上、ほとんどぶっ続けで弾いてたみたいだぜ」

「そうみたいですねぇ……」

 志水は音も窓際に歩み寄ると、わずかにカーテンをずらしてみた。沈む間際の夕日が室内に慣れた俺たちの目をさす。

「お前、細っこいくせに、案外タフだな」

 俺は笑いながらそう言った。本当に不思議系の一年だ。

「僕……夢中になると時間の感覚なくなっちゃうんです。朝から解釈初めて、気がついたら夜……とかよくあるんですよ」

「へぇ、メシも食わないで?」

「お腹が空かないわけじゃないけど、空いたことを忘れちゃうみたいです」

「おまえ、集中力すげーもんな。人前で弾いてても、ギャラリーがいること忘れちまうタイプか」

「ええ、ですから、あんまり緊張とかしないんですよ。その辺はわりと助かるかなぁ。コンクールのたんびに緊張してたら疲れちゃいますもんね」

 たいそうなことをさらりと口に乗せると、志水はチェロをケースに仕舞った。かなり大きな楽器だが手慣れたものだ。俺はピアノに鍵をかける。

 

「じゃ、志水、お疲れさん。俺、これ返してくるから」

 鍵は準備室に戻さなくてはならない。

「……僕も一緒に行きます。どうせ通り道だし」

「そうか? じゃ行こうぜ」

 俺は志水を促した。一緒に並んで歩くと、本当に小さい、と思ってしまう。身長は、男にとってかなりデリケートな問題であるから、口には出さないが。ついついいつもと同じ歩幅で歩いてしまいそうになる自分に注意する。コイツが俺と同じスピードで歩くには、下手をすると小走りになってしまうくらいなのだ。

 正門の近くまで来て、俺は月森の言葉を思い出した。