星奏戦記<15>
放っておけばいいのかもしれないが、さすがに目の前で知り合いが陵辱されるのを、黙ってみていることはできそうにない。
というか見たくないし、心臓に悪い。精神的には悪いなんてレベルじゃない。
だからといって無視して帰ったら、猛獣の檻のウサギを、見殺しにするようなものだ。
「やれやれ、無粋な人たちだね。用が済んだのならお引き取り願おうか」
上から睨め付けるようにサタンが言った。
「…………」
「どうかしたのかい? 土浦王子くん。まだなにか言いたいことでも?」
……言いたいことは……ある。
いろいろとあるわけだが、なかなか言葉にならない。
純粋なサタンへの恐怖と……それ以上に、口を開いたらとんでもないことを口走ってしまうような気がする。
『俺自身、この気持ちが柚木さんがいうような恋愛感情なのかどうか、よくわからないが、少なくとも今現在、俺にとって君は特別な存在らしい』
『俺は、君に好意を持っているし、特別な存在だと認識している』
昨夜の月森の言葉を思い出す。
「特別な存在」というのが、なにを意味するのかはよくわからない。
だが、俺にとっても、まちがいなく月森という人間は特別な存在なのだ。サタンのいうような、恋愛感情などではないが、「特別」は特別……言葉どおりなのだ。
……うがいをすればいい……ッ!!!
俺は心をとぎすませ、わずかな間隙をぬって目を閉じた。祈りにも似た思い……
「……柚木さん」
俺は低く、魔王の名を呼んだ。
「なんだい? 僕はもう何も話すことはないのだけど」
「俺はあります」
決死の思いで真正面から、サタンをにらみつけてやった。正直、ちびりそうなほどに怖い。
「へぇ、なにかな? 聞いてあげるよ」
「……やっぱり、月森をあなたには渡せません」
言った!!
俺は言ったぞッ!!
「土浦〜ッ! 俺はおまえを信じていたぞ!」
「マジ、かっこいいぞ、土浦ッ! それでこそ王子だッ!」
金やんと火原……もとい従者ABが歓声を上げる。
……俺の背後で。
「だって君、姫を起こすこともできないんでしょう? そんな王子サマにこそ月森くんは任せられないと思うんだけど……」
嬲るような物言いにひるんでいる場合ではない。
俺も男だ。やる時にはヤル。
俺はズンズンとロボットのように歩みをすすめると、月森の身体をサタンの腕の中から取り上げた。自然に俺が抱く形になるが、重くない。さすがの俺サマも緊張しているのだろう。
月森の顔を凝視する。
顔を見なきゃキスできない。唇の顔面積における比重は少ないので、狙わないと違うところへ口づけてしまいそうだ。
やりなおし……なんてことにならないように、俺はピンポイントに狙いを定める。
ゴクリと喉の鳴る音がする。俺かと思ったら、後ろの火原先輩らしい。
……いや、気を散じている場合ではない。
俺は深く深呼吸した。
こんな間近で月森の顔を見るのは初めてだ。
女どもがさわぐのもうなずける。傷ひとつない白い顔、瞳を閉じ合わせているせいで、細くて長い睫毛までよく見える。眉の形も綺麗だ。小説なんかで出てくる「柳眉」っていう言葉は、こういうヤツに使うのだろう。
そして色味の薄い口唇……
そう、やはり綺麗なのだ、月森は。
……できる! 今ならできる!
この勢いならば……イケる!(はず)
観自在菩薩行心般若波羅密多慈……
俺は、昔ばぁちゃんに教わった般若心経の一節を唱えると、目を瞑った。
だいじょうぶ。唇の着地点は押さえてある。
月森も男になんぞキスされたのがわかったら、ひどくショックを受けるだろう。なるべく衝撃を少なくするため、チャンスは一度きり、それも触れるか触れないかくらいのキスでいくぞ!
……親父、おふくろ、ごめん!!!
バクバクと高鳴る心臓を、必死になだめつつ、俺は月森の身体を軽く持ち上げた。
そして顔を寄せる。目を閉じているから、正確な距離は測れていない。
ヤツの口唇に到達するまでの時間が果てしなく長く感じた。
時間にしたら、ほんの数秒といったところなのだろう。
俺の唇はなにかやわらかいものに触れた。すぐに引き離すつもりだったが、なんとなくそのままでいる。
真綿に触れているような、どこかくすぐったい不可思議な感覚……淡いグリーンの香りがする。月森の匂いなのだろうか。
俺は月森に口づけたまま、固まっていたような気がする。
耳の奥で、なにか、鐘を打ち鳴らすような、耳障りな音が聞こえている。
「……あ……」
かすかなつぶやき。俺ではない。
なぜなら、その声は、俺の口唇を割って吐息とともに、俺の中に滑り込んできたからだ。
……姫が目覚めた……