ああ、無常!
<1>〜<5>
 
 
 
 

 限りなく広く、連綿と歴史を綴るこの世界には、時を選ばず不可思議な出来事が起こる。

 それは言葉で語るには、語彙が拾えず、口伝にしようにも説明がつかない。ようは人知のおよぶ範囲ではないのだ。

 ただ、「そのこと」が実際的に生じたという事実は、巻き込まれた当事者のみが知っている。

 もちろん、その「出来事」は人間世界の利害関係など、まるきり蚊帳の外で、ある日ある時、予告も無しに発生し、気まぐれに終結する。

 そんな不可解な事象が、この三国の時代にだってあったかもしれない。そう、そしてそれを知るのは、被害者当人だけなのである。

 

 その日、司馬懿は、あまり具合が良くなかった。

 今さらながらに、慣れない長江の風にあたったのであろうと見当をつけ、いつもの時刻に起きだした。

 許昌から遠く離れた江陵の地。滞在している孫呉の城は、南の拠点らしく、重厚な中にも華やかな彩りがあり、建業とは雰囲気を異にしている。

 司馬懿をふくめ、曹魏の貴人にあてがわれた室は、たいそう手入れの行き届いた豪奢なものであった。見たこともない鮮やかな色彩の花が、豪奢な細工の花器に活けられ、甘い芳香を放っている。

 さきほどまで、司馬懿が横になっていた褥の掛け布は、濃い桜色に、花模様を透かし込んだシルクで、彼の好みに合っているとは言い難かった。

 婢が汲み置いた湯を、手づから備付けの盆に移し替える。寝乱れた肩口ほどの長さの髪を、簡単に組み紐でひとつに括ると、司馬懿は手早く顔を洗った。

 まっさらな白布で、水気をぬぐった彼の顔は、たいそうととのっている。だが、あたたかみを感じさせない肌の色と、色みのない口唇は、彼の美貌をむしろ怜悧に見せ、ひどく酷薄な印象を与えた。

 今日は孫呉との会談の最終日だ。

 朝食を終えた後、すぐさま会合が始まる。かなり時間的に押しているのだ。

 城の主殿では、呉の面々.....直接交渉にあたっている陸遜、補佐の周瑜、そして呂蒙将軍が、最終会談の準備をしているだろう。

 司馬懿は洗顔を終えると、朝服に着替えた。当初は侍婢がついたが、煩わしいので、すぐさま断った。

 司馬懿は、手づから黒髪を結い上げ、頭巾と冠をかぶると、室を後にした。

 

 

 「おかわりー」

 周瑜くんは空になった小皿を、勢いよく給仕に差し出した。

「ちょっ.....周瑜殿! 杏仁豆腐だけのおかわりはいけませんよ! 昨日も言ったではありませんか。ああ!こんなに野菜の煮つけを残して!」

「まぁまぁ、軍師殿。そんなにキツくおっしゃらずとも。杏仁豆腐は周瑜殿の大好物なんですから」

「呂蒙殿! あなたがそうやって周大都督を甘やかすから、どんどん偏食が激しくなってしまうのです! だいたい主食も食べずに、杏仁豆腐三杯目ってどうですか?」

「おトーフ、いっぱい入れて〜」

「ってゆーか周瑜殿! 人の話聞いてますっ?」

「これ食べたら、次はおヤサイ食べるから〜」

「絶対ですよ? 遠く建業を離れて、偏食が原因で倒れたなどということになったら、この私が殿に顔向けできません!」

「おいしー」

 周瑜くんは、たっぷりと盛られた器から、れんげで杏仁豆腐をすくい、怒れる陸遜の口につっこんだ。

「むーッ?」

「ね? おいしいでしょ〜、りくそん」

 陸遜は猫のように大きな目を白黒とさせたが、周瑜くんに悪気は皆無である。そこそこの時間を共にした陸遜には、それがよくわかっていた。それゆえ、つっこまれた杏仁豆腐を、何も言わず咀嚼したのだ。

「しかし軍師殿。予想していたとはいえ、此度の会合は、大分長くかかりましたな」

 感慨深げにそうつぶやいたのは呂蒙であった。甘いものが不得手な、彼の小皿は、とっくの昔に、周瑜くんに奪われている。それ以外は、きれいに食らいつくしてあるのは、さすが豪傑と言えようか。

「ええ、まぁ.....予想通りですよね。曹魏が江陵の地での会談を望んできたのは意外でしたが」

 陸遜は少し冷めたスープをすすりながら、そう言った。

 ここ江陵は、孫呉の領土内に入るが、主要都市の建業からは大分離れている。この居城も会談の日程が決まってから、あわてて手入れをしたのだ。

「ですが、軍師殿。拙者、とても公正な印象を受けました。ここは双方の都から同じくらい離れた場所ですし、自国との国境間近とは言え、あえて敵国の拠点を指定してくるとは! あの冷たそうで怖そうな軍師を思い浮かべると、なにやら意外な感じもするのですが」

「.....ふふ。司馬懿殿ですか? まだ油断はなりませんよ。なにかの罠でないとは言い切れません。こうしてあなたの歓心を買って、気を許したところで寝首をかかれるかも.....」

「御安心ください、寝室には軍師殿と周大都督しか入れません!」

「いや.....そういう問題では.....」

 少し疲れたように陸遜が言った。

 飲みかけのスープにふたたび口を付ける。わずかに眉をひそめたのは、会話のあいだに、すっかりと冷めてしまったからであった。

 

 

「おっはよーございまーす★ 司馬懿どの〜、うふっ!」

「よい朝だな、軍師殿。いや、顔色がお悪いぞ。お疲れなのではないか?」

「.....張コウ将軍、夏侯惇将軍.....お早いですな」

 司馬懿は言った。

「うふふ、ようやく今日で、この長ったらしい会合も終わりかと思うと、目覚めもよくなるというものです! はやく殿のいる許昌に戻りたいですねぇ!」

 力強く張コウはのたまった。心なしか、今日は肌の色つやもよろしいようだ。

「.....さようでござるな。.....たしかに、いささか疲れた.....」

 司馬懿はふぅと大きく息を吐きだした。

「ささっ!司馬懿殿、座って座って。ご飯にいたしましょうよ。これっ! これ、とっても美味しいですよ。田舎町と思いきや、なかなか手の込んだものを並べてくれますねぇ!]

 はばかりもなく言ってのける張コウ。給仕の女官は下がらせても、ここは呉国の城なのだ。外交交渉のできる間柄に在るとはいえ、つい先まで、戟を交えた敵国同士だ。張コウに比べれば、遥かに常識のある夏侯惇などは、食堂に来てから、咳払いをくりかえしていた。

「ほら、司馬懿殿! 豚肉の紫蘇葉巻き〜 こっちはかぶと山菜の炒め物、デザートには杏仁豆腐もあるのですよッ★」

「.....甘いものは好かぬ。.....あまり食欲はないのだが.....粥だけもらえるか」

 司馬懿は言った。もともと小食の彼ではあるが、この地にやってきてから、ほとんどまともに食べていない。中原の味付けとは異なり、南国料理には、こってりと油が使われている。どうにもそれは、司馬懿の口には合わなかったのだ。

「えーっ? 司馬懿殿! 召し上がらないおつもりですか? ここ数日、お粥と果物しか口にしていないではありませんか!」

 母親のように張コウが叱った。

「ああ、そうですかな.....」

「そうですかって、そーなのですよ! そんなことではお身体が持ちませんよ!」

「.....あまり食欲が無くてな。どうも南の料理は口に合わぬ」

「まぁ、ちょっとくどいカンジはいたしますがね。ですが.....」

 張コウがそこまで言いかけたときであった。

 ガクン!

 と、床が沈んだ。

 いや、正確には、地面が大きく縦に揺れたのだ。

「なっ.....!」

「きゃあぁぁ! 司馬懿殿ーッ! 夏侯惇殿ーっ!」

「張コウ! 司馬懿!」

 揺れはおさまらない。

 ガクンガクンと、跳ねるように、足が地から離れる。

 想像を絶する激しい縦揺れに、司馬懿らは、それが「揺れているのだ」という事実ですら、認識しがたかった。

「きゃーっ! いやーっ! まだ死にたくなーい! せめてもう一度、司馬懿殿と××××するまではーッ!」

「こんなときに伏せ字で叫ぶなーッ!」

「さわぐなっ! 室の真ん中でふせろ! 家具の側に寄るな! 張コウ、司馬懿! こっちだ!」

 くくりつけの、巨大な飾り棚が、オモチャのように跳ね上がる。それは勢いよく床に叩きつけられ、木片の山と化した。

「くっ!」

「あぶない、司馬懿殿っ!」

 空で半転するような、不思議な感覚が司馬懿を襲った。

 次に来る強烈な衝撃を覚悟した直後、司馬懿は意識を失ったのである.....

 

 

 「.....つっ.....」

 陸遜は小さく呻いた。

 なにかが頬に当たったような気がして、ぼんやりと目が覚めたのだ。

「.....ここは.....?」

 ゆっくりと身を起こし、半覚醒の頭を片手で支える。こめかみの、ぬるりとした嫌な感触。

 倒れた拍子にどこかに擦り付けたのかもしれない。深手ではないが、ビリリとしびれるような痛みを感じた。

「.....一体.....なにがどうなって.....あっ!.....」

 陸遜は息を呑んだ。

「.....周瑜殿!.....呂将軍!」

 大慌てで立ち上がる。いきおいにまかせて直立できたということは、それほどひどいケガはなかったのだろう。あの衝撃を考えれば、不幸中の幸いと言うべきである。

 徐々に覚醒してくる脳裏に、さきほどまで席を共にしていたふたりの顔が浮んだ。

「周瑜殿! 呂蒙殿.....!」

 陸遜はあたりを見回した。だがふたりの姿は視界にない。それどころか、たった今、陸遜自身が目覚めた「この場所」.....見知った江陵の城にいたはずなのに、そこはまるで見たことのない異国の地に変わっていた。

 草や木は、南方特有の青々とした常葉樹ではなく、淡い緑色をしている。側近くに泉と、そこから続く小さな沢がある。そしてなにより不安をかき立てられるのは、一寸先もおぼつかない、この濃密な霧だ。

 息を大きく吸い込むと、喉の奥にみっしりと水滴がはりつき、白い霧が胸の奥にまで入り込むような気がする。

 陸遜は無意識のうちに、口元を覆い、おぼつかぬ足取りで、周瑜くんと呂蒙をさがした。

「いったい.....なんだというのです.....こんなバカなことが.....だいたいあの城には百という数の人間がいたはずなのですよ.....これではまるで.....まるで.....」

 陸遜が現代の少年ならば、「テレポート」という単語を使ったかもしれない。今の状況はそうとしか表現の仕様がないのだ。

「周瑜殿〜っ! 呂将軍ーっ!」

 丈の長い草をかきわけ、なんとか前に進む。

「周瑜殿ーっ! 呂蒙殿〜!」

 身体を引きずるように、陸遜は歩いた。どこかしこが痛むというわけではなかったが、理解できない状況と、姿のみえない同僚ふたりの状態に、暗澹たる思いが彼の足取りを重くしているのであろう。

「周瑜殿ーっ! どこですかーっ! 呂蒙どの〜っ! 周瑜.....」

 十五分も歩いたところであろうか。

 不意に視界に飛び込んできたのは、人間の足であった。

 ほうりだされた両の足と、そこから脱げて転がったらしき靴。それは濃紺と藤色の生地でできた、瀟洒な細工の靴であった。

「.....っ!」

 陸遜は息を呑み込み、すぐさま駆け寄った。

 

 

 司馬懿は相変わらず、気分が悪かった。

 目覚めも悪ければ、寝つきもよくない。いや、今は寝入ってしまってはいけないときである。このまま意識を手放してしまえば、二度とこれまでの世界に還ってはこれない、司馬懿はそんな気がしていた。

『司馬懿殿! 司馬懿殿っ!』

 聞きなれない高めの声が、耳元に響く。

 頭のてっぺんから、足指の先まで、鉛を詰めたように、冷たく重い。目を見開くことなど、想像だに難儀そうで、とうていできないと感じていたが、彼は何度か暗いまぶたに力を入れてみた。

 何度目であろうか。かすむ瞳に、緋色の衣を見たのは.....まだ若い男の顔。澄んだ大きな瞳が印象的だ。

「.....陸.....伯言.....?」

 司馬懿は消え入りそうな声音で、そうささやいた.....

「司馬懿殿! お気を確かにっ!」

「..........」

「司馬懿殿? 私がわかりますか? 司馬懿殿っ?」

「.....ああ」

「これ、何本ですか?」

 陸遜が三本指を立てるのに、司馬懿は煩わしげに首を振った。

「.....大事無い。だが.....これはなんとしたことだ、陸伯言.....?」

「私にも分かりません。.....だいじょうぶですか? 真っ青ですよ?」

「.....だいじょうぶでないほうが、貴公にとっては、ありがたいのではないのか?」

「皮肉が言えるようなら、心配はいりませんね」

 陸遜はひどくまじめな口調でそう言った。それを聞いて司馬懿は小さく吹きだした。

「.....さて、私にはこの事態がどういったことなのか、理解しかねているのですが.....司馬懿殿?」

「.....私だとて同様だ。いきなり大地震が起こったと思えば、このざまだ。.....ひどいケガをしなかったことだけが、まだマシと言えるな」

 吐き捨てるように司馬懿は言った。

「.....同感です。ですが、あれは地震といった類いのものだったのでしょうか?」

「わからぬ。まぁこのありさまをみると、どうにも我らには度し難い状況ではあるがな」

 あたりをぐるりと見回すと、ため息交じりに司馬懿はつぶやいた。

「.....こうしていても仕方がありません。他の方々をさがさねば。それとどなたか、土地の人を.....情報がなければ、なにも出来ません」

 陸遜は力強くそう言った。

 前向きなその姿勢を、司馬懿は年の差のせいだと考えることにした。

 

 

「うわぁ〜ん、うぁ〜ん、痛いよぉ〜」

 周瑜くんは泣いていた。喉が痛くなるほどに、泣いていた。

「うわぁ〜ん、痛いよぉ〜」

「だいじょうぶ! 大事無いですぞ、周大都督! ほら、もう血も止まったではありませんか!」

「うわぁ〜ん、ああ〜ん!」

「はいっ! 痛いの痛いの飛んでいけ〜っ! きえーいっ!」

 周瑜くんの、小指の先の切り傷に、しっかりと布きれをまきつけてやり、呂蒙はとっておきのまじないを叫んだ。それはにぎやかな呪文であった。

「うあーん、あーん、痛いよ〜〜っ!」

「しゅ、周瑜殿.....」

「えっえっえっ.....痛いのは呂蒙だよ〜、りょも〜、血がだくだく〜」

 周瑜くんは泣きながら呂蒙を指さした。あろうことか、頭からだくだくと吹きだしている血のせいで、呂蒙の顔面は真っ赤であった。

「ぬおーっ! これはしたり〜!」

 呂蒙は、ガシガシと乱暴に、袖口で額をぬぐった。しかしそれはあまりに早計で、さらに凄惨な状態となり、周瑜くんを盛大に泣かせてしまったのであった。

 そんなときである。

「そこにだれかおられるのか? その声は.....!」

 ザザザと茂みが割れ、あらわれたのは、見知った人々。

 魏の武将、夏侯惇と張コウであった。

「.....周瑜殿.....? それに呂将軍かっ!」

「うわぁ〜ん、夏侯惇将軍〜っ!」

 タカタカと走り出すと、周瑜くんは夏侯惇に飛びついた。

「しゅ、周瑜殿!」

「夏侯惇将軍〜っ! 怖いよ〜、痛いよ〜、りょもーが!りょもーが死んじゃう〜〜」

「ちょっ.....! 周公瑾! どさくさまぎれに夏侯惇将軍に抱きつくんじゃありませんよっ! どきなさい、この.....っ!」

「よさんか! 騒いでいる場合ではないだろう!周瑜殿、失礼する」

 そういうと、夏侯惇は周瑜くんの腕を引き離して、呂蒙の方へ歩み寄った。

「呂将軍、傷を見せて下され。至らぬが、簡単な処置ならば施せよう」

 夏侯惇将軍は言った。今は敵国の将軍だの、なんだのと言っている場合ではないのだ。

「う、うむ。これはかたじけない。くっ.....不覚じゃ」

「この状況ではなんとも致し方あるまい、呂将軍。では動かずにな」

「痛みはそれほどないのだ」

「ああ、傷口は浅いようだな。だが当て布をしたほうがよいだろう。血が早く止まるゆえ」

 激戦場に慣れているせいか、夏侯惇の手当ては迅速で的確であった。

「ふわー、すごーい、夏侯惇将軍〜」

「ふふん、あたりまえでしょう、周公瑾。我らが夏侯惇殿なのですからねっ!」

「なんで張コウがエラそうに言うのよ!」

「おだまんなさい!本当に不快な人ですねっ!」

「こっちだって不愉快だもん!」

「なんですって、この.....」

「これ、いいかげんにされよ、ふたりとも。怪我人がいるというのに」

 やれやれといった様子で、夏侯惇はため息交じりにつぶやいた。視界に入ってきた周瑜くんと張コウは、たいそうつやつやとして元気いっぱいであった。

「はぁ〜〜〜」

 夏侯惇は、この上なく深い息を吐きだした.....

「どぉしたの〜、夏侯惇将軍〜。あっ、もしかして、どっかケガしたの〜?」

 脱力感に襲われ、がっくりとうなだれた夏侯惇に、周瑜くんがたずねた。彼なりに気を使っているのである。

「いや、そういうわけではないのだ.....」

「だって元気ないじゃない。無理しないで、なんでも相談して、ね? ホントにおケガ、ないの?」

 にこにこと微笑む周瑜くんを見ていると、夏侯惇の疲労感はさらに増してゆくのであった。

「.....案ぜられるな。わしは左腕を少し切った程度だ。どこかに擦りつけてしまったらしい。痛みはない」

「ええっ! じゃあ、すぐに手当てしなくっちゃ!」

「ふふん、御安心なさい、周公瑾! 夏侯惇将軍のケガは、この張コウがとっくの昔に、きっちりとお手当ていたしました!」

「きーっ!」

「痛っ! なにをするんです! ああっ! 私の美しい肌に爪の痕が.....! このーっ!」

「.....それだけ騒げる元気があるならば、おふたりは何の心配もいらぬな」

 ひとりつぶやく夏侯惇であった。

「.....夏侯惇殿.....」

「呂蒙殿、痛むか?」

「いや、もう血も止まったようじゃ。それほどの深手ではなかったし.....なぁ、夏侯惇殿.....」

 呂蒙の言葉は吐息とともに薄く途切れた。

「どうなされた?」

「.....これは.....この事態はいったいどうしたことなのであろうか?」

 ひどく不安げに呂蒙がつぶやいた。先ほどまで周瑜くんと話していた口調とはまるで異なっている。

 孫呉の猛将は、こと戦場においては勇猛果敢この上ない男であったが、夢見のような、不安定で不規則な世界では、無力に等しかった。

「.....わしにもわからぬよ、呂蒙殿。あの大きな地揺れがきて、気がついたらこの地へ.....まるきり見知らぬこの場所にいたのだからな」

「さようでござるか.....本当に.....なにがなにやら.....」

「落ち着かれよ、いたずらに不安がっていても道は開けぬ」

「.....しかし周瑜殿と陸遜殿になにかあったら、拙者、殿に申し訳が立たぬ.....このわしがついていながら.....このような.....」

 苦鳴のような呂蒙の言葉であった。

「呂将軍。ぬしの気持ちはようわかる。だが今は繰り言をつぶやいているときではあるまい。.....幸いここに居る者は、歩けぬほど、ひどいケガを負っているわけではない」

「.....夏侯惇殿.....」

「貴国の軍師殿と、こちらの司馬懿の姿が見えぬ。まずは何をおいてもこのおふたりをお探し申そう」

 夏侯惇が言った。力を落とした呂蒙を、励ましているのであろうが、抑揚のない低い声は、たいそう無愛想に聞こえた。だが夏侯惇の気遣いは呂蒙に伝わった。

「.....かたじけない、夏侯惇殿。おぬしの言う通りだ。.....情けない、武人ともあろうものがとりみだして.....」

「この状況下なのだ。無理もなかろう。.....どうもぬしは自分を責めるきらいがあるようだな」

 夏侯惇は微笑んだ。やさしい笑顔であった。

「陸遜殿は心配だが、もう御一方はありあまるほどにお元気な御様子」

 言われるがままに、呂蒙がふり返ると、張コウと周瑜くんが足の踏みつけあいをしていた。周瑜くんは、白い肌が上気して赤く染まり、まるで子どものような有り様である。

「.....周大都督.....」

 呂蒙は思わずその人の名をつぶやいた。

「やれやれでござるな。気を取り直して、いま、我らにできることをしよう」

「.....夏侯惇殿。おぬしとは一度、共に剣をとって、同じ敵に立ち向かってみたかったものだ.....すまぬ、つまらぬことを申し上げた」

「いや、光栄.....」

 と、返そうとした夏侯惇の声は、張コウらの甲高い声に掻き消された。

「このっ! 足をどけなさい、汚れるじゃないですか! だいたいこの私の美しい身体に.....」

「先に踏んだの、張コウだもん! 靴だってもともと汚れてるじゃない!」

「達者な口ですね、周公瑾! 二度とそんな口が聞けないようにしてあげましょうかっ?」

「いったーい! さわんないでよ! その爪、とんなよ! ひきょーじゃない!」

「卑怯? よくもまぁ、この私にそのようなことを.....」

「聞いて〜、夏侯惇将軍〜、張コウがね〜」

「夏侯惇殿に、なれなれしくするんじゃありませんっ!」

「ああ、もう、よさぬかっ! 御二人ともいいかげんにされよっ!」

 めずらしい隻眼将軍の怒鳴り声に、とりあえずシンと場が静まった。呂蒙が夏侯惇を尊敬のまなざしで見つめたことは、わざわざ記すまでもなかろう。