ああ、無常!
<6>〜<10>
 
 
 
 

 
 夏侯惇に張コウ、そして呂蒙、周瑜くんの四人は歩き出した。

 

 不安は山積みではあるものの、とにかく今置かれている現状を把握せねばならない。そして行く方知れずの者らの探索.....陸遜、司馬懿、他、あの城にいたはずの人々の姿が、一瞬にして掻き消えてしまったのは、あまりにも面妖であった。

 

「あ〜〜〜」

 間延びした声をあげたのは、もちろん周瑜くんである。こんな声を出せるのは彼をおいていない。

「いかがなさいましたか、周大都督! お具合でも.....?」

 呂蒙があわてて片ひざをついた。張コウがそれに「過保護.....」とつぶやく。

「ううん、ちがうの〜。あのね〜、りくそんのにおいがする〜。りくそん、近くにいるよー」

「えええっ?」

 これには、さすがの夏侯惇と呂蒙も大声を上げた。歩き出してしばらく経ったが、たいして景色は変わっていない。先の場所よりは少し草木の背が低くなり、歩きやすくはなった。だが人家が見えるわけではないし、人っ子ひとり、いやしない。

 

「りくそん、いるよ〜。近くだよ〜」

「本当にっ? 拙者にはよくわからぬ! むむむー」

「りょもー、変なお顔〜」

「いや、失敬」

「.....いいから。確かなのですか? 周瑜殿」

「うん、夏侯惇将軍〜。りくそんのにおい、するの」

「あんたはドーブツですか?」

 ふんと、張コウが鼻で笑った。

「張コウは黙っててよ! ホントだよ、りくそん、近くにいる。.....怖いけど、司馬懿殿も一緒だといいねぇ」

「怖いけど? コワイですって? 失礼なっ! 司馬懿殿はとても整ったお顔立ちをしているんですよっ!」

「そんなこと知らないもん! 司馬懿殿、怖いもん!」

 周瑜くんはぐいと背伸びをした。彼もかなりの長身だが、張コウはそれをゆうに上回るのだ。

「司馬懿殿、いっつも怖かったもん!」

「まだ言いますかっ!周公瑾! あの人の寝顔を見たことがありますかっ? それはそれは美しく、おぼろげで、思わず抱きしめて薄い唇に吸いつきたくなるくらい、蠱惑的な表情をなさるのですよ! わたくしの司馬懿どのはっ!!」

 『どうだ、参ったか!』とばかりに、張コウは手を腰に添え、仁王立ちになった。

 ザザザ!とばかりに、夏侯惇と呂蒙が後ろに引いたが、張コウは一顧だにしなかった。

「.....怖いもん.....司馬懿殿.....じろって見るんだもん.....」

 周瑜くんはうつむきかげんで、まだブツブツと口答えした。

「そりゃそーでしょーよ。司馬懿殿は、あなたのようなタイプが、最もお嫌いでしょうからね!」

「よさぬか、張コウ。うちわもめしている場合ではないと申しているであろう」

 ふたたび夏侯惇がふたりの言い争いを止めた。大活躍である。

「ふん!」

「フーンだっ!」

「.....やれやれ.....さて、周瑜殿、先だっての話.....陸伯言殿の気配を感じるというのは.....」

「うん。においがするの〜、りくそんのにおい〜」

「なにやらよくわからぬが.....まぁ、他に当てもない。周瑜殿、我らを案内してくれるか。ケガをして動けないでおられるのかもしれぬ」

 夏侯惇が言った。

 

「こっち〜〜〜」

 周瑜くんはてろてろと歩き出した。散歩に行くような足取りに、緊張感は皆無である。

「こっち〜、こっちからするの〜」

 くんくんと鼻をならして、周瑜くんは歩いた。

「.....あの、周大都督。陸遜殿の薫りというのはどういったものなのでしょうか? 衣に、決まった香りでも焚きしめておられましたっけ? 拙者、不調法者ゆえ、まったく気づきませなんだが.....」

 おずおずと口を出したのは、呂蒙であった。

「うーうん。お香の薫りとかじゃなくてね〜。あのね〜、りくそんはね〜、牛乳カンテンの匂いがするの〜」

「ぎゅ.....牛乳かんてん?」

 呂蒙のみならず、夏侯惇までもが、口をそろえてその単語を復唱した。

「そう、牛乳カンテン〜」

「牛乳カンテンって、杏仁豆腐に入っているあれですか?」

 と、呂蒙。

「そう、杏仁豆腐の牛乳カンテン〜。だいすき〜」

 てろてろと歩きながら周瑜くんは言った。その歩調に迷いはなかった。だが周瑜くんに先導されている皆は、一挙に不安になった。顔色がひどく悪い。

「杏仁豆腐も牛乳カンテンも同じでしょ」

「張コウ! ちがうもん! 杏仁ドーフは杏仁ドーフのにおい、牛乳カンテンは牛乳カンテンのにおいだもん!」

「ワケのわからない人ですねっ! けっきょく牛乳カンテンは杏仁豆腐でしょ? トーフが牛乳カンテンなんですからっ!」

「ちがうもん!ちがうんもん! 杏仁豆腐は果物のにおいとサトウ水のにおいが混じってるの! 牛乳カンテンはミルクの匂いなの〜」

「そのミルクのにおいのもとを、さとう水にぶち込んで、杏仁豆腐なんでしょ!」

 

「.....騒々しいですよ、貴方がた.....」

 聞き覚えのあるその声に、呂蒙と周瑜くんは、ぱっと顔を上げた。

「おおおっ! 軍師殿っ! 御無事でしたか!」

「あ〜、りくそ〜ん。よかった〜。心配したんだよ〜」

 呂蒙と周瑜くんは、それぞれに安堵の言葉を口にした。そろそろ陽が暮れてきたのだ。このまま彼らを発見できねば、捜索は翌日に持ち越す他なかった。

「ご心配お掛けして申し訳ございませんでした」

 陸遜は丁寧に頭を下げた。こめかみの傷は自分で手当てをしたのか、朱い筋を一条残すのみで、血はとうに止まっていた。

「お怪我はないのか? お具合はよろしいか? 幸い我ら四人は歩くことに難儀はないのだが」

「夏侯惇殿.....恐れ入ります」

 にこりと陸遜は微笑み、言葉を続けた。

「私はこめかみを少し切った程度です。血も止まりましたし、問題はありません。ですが.....」

 陸遜の返答を、いらいらと遮ったのは張コウであった。

「陸遜殿! あなた、おひとりなのですか? 司馬懿殿は? 司馬懿殿はご一緒でないのですかっ?」

 掴み掛からんばかりの勢いでつめよる張コウ。夏侯惇は性急な問い掛けをいなそうとしたが、陸遜は眉をひそめもせず、おだやかに応えた。

「ご安心ください、張コウ将軍。司馬懿殿も一緒です。ですがかなりショックが強かったのか、ひどくお疲れのようで、今、眠っておられます」

「ど、どちらにおられるのですっ!」

「少し行ったところに人家があるのです。そこで休まれています」

「.....人家っ!」

 三人の目がパァァ!と輝いた。周瑜くんは陸遜のにおいをかいで、こくこく頷いている。

「人家.....! 人家があったのですか、軍師殿!」

 と、呂蒙。

「ええ、小さいですが、かなりしっかりとした造りの建物です。.....ただかれこれそこに、四、五時間も居させてもらっているのですが、未だにどなたも帰ってこないのですよ。.....ああ、こちらです。ご案内しましょう」

 陸遜の先導にしたがって、皆歩き出した。つい早足になるのは仕方のないことであった。

 

 その小ぶりな家は、ものの五分と歩かないうちに見つかった。遠目では、濃い霧のせいで、その造りはうかがえなかったが、間近までやってくると、かなり手をこらした意匠であることに気づかされる。

 入り口は木造りのありふれた引き戸だが、把手の部分に透かし彫りの装飾が施されている。壁を覆う石も、寸のとられた切り出しの石で、色合いも上品な乳白色であった。

 その気取った、妙に整った印象は、家の内部に入って、なおのこと強まる。

 玄関には鳳凰を刺繍した屏風が立て掛けられており、廊下には足が冷えないよう、獣の毛皮が敷いてある。履物を脱ぐのが礼儀であろうと言わんばかりに。

 

「.....ずいぶんと手の込んだ邸宅だな。小作りではあるが.....」

 思わずといった様子で夏侯惇がつぶやいた。

「ええ、そうなんです。手入れも行き届いているし。人がいないはずはないのですが.....」

「外出しているのだろう」

「ええ、そうだろうとは思います。.....使用人の一人も居ないのが解せませんが」

「ふむ。まぁ、確かにな.....」

「.....いずれにせよ、こちらは非常時ですので、申し訳ないとは思いましたが、勝手に中に入らせていただきました」

「陸遜殿! そんなことより、司馬懿殿は? 司馬懿殿はどちらです!?」

 張コウがたずねた。彼の頭には、もはや司馬懿のこと以外の気掛かりなど思いつかないように。陸遜がすぐに答えねば、片っ端から、室の扉を叩きつけかねないいきおいである。

 

「こちらです、張コウ将軍。.....お静かにね。横になってらっしゃいますから」

「まさか、ひどいお怪我を? ああ、私がお付きしていなかったばっかりに.....!」

「違いますよ、張コウ将軍」

 大げさな反応に、思わず吹きだしそうになったのか、陸遜は笑みを浮かべたまま、咳払いをすると、すぐさま言葉を続けた。

「見たところ、お怪我をなさったようではありません。まぁ、軽い打ち身くらいはありましょうが。ただ、たいそうお疲れになってらして、眠っているのです。幸い室に夜具も調っていましたので」

「.....かたじけない、陸伯言殿。.....あなたはたいそう公正な方だ」

 そう言ったのは夏侯惇であった。陸遜はそれに、

「お言葉、そっくりお返しいたします」とこたえて微笑を浮かべた。

 甘寧が居れば、嫉妬心を爆発させかねないくらいに、やさしく可愛らしい笑顔であった。

 

 

 司馬懿は泥のように眠っていた。

 彼の肉体は、まるで土くれのように、ぐたりと横たわっていた。

 不思議なことに、司馬懿はそんな自己の状態を、客観的に観察し、正確に知覚していた。彼の意識は半ば混濁していたが、正気も五分ほど残されていたのである。

 その、残された理性が叫ぶ。

 今は眠っているときではない。一刻も早く、現状を把握し、姿の見えなくなった、張コウと夏侯惇を捜しださねばならない、と。こんなところで寝こけている場合ではないのだ。

 

 .....張コウ将軍.....

 不意に、司馬懿の脳裏に、その人の面影が浮んだ。ほっそりとした白いおもてに、ややキツめの目鼻立ち。それぞれのパーツは女のように繊細で、形が整っているにも関わらず、派手やかな立ち居振る舞い、個性的な言動が、その端正な顔立ちを、アクが強すぎる印象に見せるのだ。

『ご安心なさって、司馬懿殿。この張コウがいつもお側に居りますよ。お守り申し上げます』

 長くしなやかな腕にからめとられ、耳朶に滴る、存外に落ち着いた優しい声。

「.....なにが守ってやるだ.....肝心な時に、側にいないではないか.....口だけのバカモノめ!」

 司馬懿は、霞がかかった意識の最奥で、勝手な悪態をついた。それがいかに理不尽な物言いなのかは分かっている。だがそうせずにはいられないほどの寂寥感が、胸中を支配する。

「.....バカめが.....」

 司馬懿は、そうくり返した。

『.....司馬懿殿.....?』

「...............」

『司馬懿殿? .....司馬懿殿?』

「...............?』

『司馬懿殿? 私です、おわかりになりませんか? .....司馬懿殿?』

 

「司馬懿殿! しっかりなさって! どうか、どうかお声だけでもきかせてください」

「張コウ将軍、無理に揺さぶってはなりません。眠り続けているということは、司馬懿殿の身体が、睡眠を欲しておられるのです。じきお目覚めになりましょう」

「陸遜殿っ! あれからもう六時間も経つのですよ? この御方は今日一日、なにも口にされていないのです! このままではお身体が.....あっ?」

「いかがなさいました?」

「司馬懿殿のお目が.....まぶたが揺れたような.....」

「.....! 手布を濡らしてきてください」

 そういったのは、陸遜であったと思われる。司馬懿は終始、目をつむったままであったが、まだ終わらぬ長い一日の間に、彼の声は聞き覚えたのであった。

 不意にひやりとした心地の良い感触。倦んだ脳の熱が、すっと冷めてゆく。司馬懿はごく軽く両の瞳に力を入れたが、それは思いのほかあっけなく見開かれた。

「.....う.....」

 からからに干上がった口腔から漏れたのは、低いうめき声であった。

「.....司馬懿殿?」

「...............」

「司馬懿殿、司馬懿殿? お気を確かに!」

「...............」

「司馬懿殿! お気を確かに! 私です、張コウです! お分かりになりますか?」

 司馬懿はひとつ頷いた。本当は声を出して返事をしたかったが、舌が喉にはりついて、上手く声が出なかったのだ。

「司馬懿殿、これをお飲みください。発熱なさったせいで身体から水分が失われたのでしょう」

 陸遜が手渡した茶器には、甘い薫りの茶が入っていた。冷たい甜茶である。司馬懿はそれこそ貪るように呑みつくした。二杯目を注いでもらってから、ようやく彼は口を開いた。

「.....ここは.....」

 目覚めた瞬間、先ほどまでの記憶はすぐさま甦ったが、おのれの口からこぼれた声は、なんとも頼りなげなものであった。

「司馬懿殿! 司馬懿殿っ!」

「張コウ将軍.....?」

「ああ、よかった! もう夜の九時にもなろうという時間なのですよ! ずっとお目覚めにならないから.....私はついつい万一のことばかり考えてしまって.....」

「.....ああ.....そんなに経ったのか.....」

 ぼそりと司馬懿はつぶやいた。

「いずれにせよ、本当によかったです。みなさまにお知らせして参ります」

 そういうと陸遜は立ち上がり、席を外した。室にふたりきりで残された司馬懿と張コウであったが、くったりと座臥によりかかった司馬懿よりも、張コウの方が居心地悪げで落ち着きが無かった。

「司馬懿殿? どこか痛いところはありませんか? お具合は悪くないのですか?」

「.....大事無い」

 司馬懿はそれだけを答えた。低い、力ない物言いが、いっそう張コウの不安をかき立てていることには気づかない。

「司馬懿殿、なにも無理に起き上がっている必要はありませんよ。皆が様子を見に参るでしょうから、横になってらっしゃい」

「...............」

「さ、私につかまって」

「.....大事無いと言っている。気遣いは無用だ、張コウ将軍」

 いかに夢寐のうちとはいえ、さんざんに悪態をついた手前、心配そうな張コウの顔を、正面から見るのは、なんとも気が引けるのであった。

「.....一人でもだいじょうぶゆえ、貴公はもう引き取られよ」

 気を使ったつもりの言葉であろうが、抑揚のない物言いはひどく無愛想で、いかに楽天家の張コウであろうとも、好意的に解釈するのは難しかったようだ。

「あ、あの、司馬懿殿.....なにかお怒りですか? 私、お気にさわるようなことを.....」

 たいそう不安げに問い掛けられる。

「ちがう.....そうではない.....」

「では何故、そのようにつれなくなさるのです?」

 上目遣いに顔をのぞき込まれ、放り出したままの片手を、両の掌でしっかと包まれる。あまりにもストレートな張コウの言葉と態度に、司馬懿も、虚勢を張り続ける気がなくなった。

「.....違う.....少し気恥ずかしいのだ.....夢現つのうちに、貴公がよく口にする言葉を思いだした.....」

「.....司馬懿殿.....」

「この大変なときに、なぜ側に居らぬと.....我ながら、ひどく勝手なことを考えていたのだ。それゆえ、かように心配してもらうと、気がとがめる」

「.....司馬懿殿.....あなたは.....」

「ただそれだけのことだ。.....私はもう大事無い。迷惑をかけたな」

 そういうと司馬懿は張コウに微笑みかけた。せめてもの謝罪の意を込めてのことなのだろう。その笑みは、本当に微かで、長く司馬懿とともに居る者くらいにしかわからなかった。

 

「....................」

「.....張コウ将軍?」

 司馬懿は声をあらためた。椅子にかけた長身がぶるぶると震え、ただならぬ気配を醸し出していたからだ。俯いた張コウの表情はうかがい知れない。

「.....張コウ将軍? いかがなされた.....お怒りになられたか?」

「司馬懿殿.....」

「あいすまなかった。気を悪くされるな」

「司馬懿殿.....司馬懿殿〜〜〜〜〜っ!!!」

 張コウが叫んだ。

 間髪入れず、一九四センチもの長身が、ガバリとばかりに飛びかかってくる。

「司馬懿殿〜〜っ! だいすきーっ! 大好き〜〜〜っ!!」

「うわぁぁぁっ!」

 もんどり打って、座臥にすっ転がる成人男子二名。

 憐れな座臥は、ギイギイとものすごい悲鳴を上げたのであった。

 

「うわぁ! な、なにを.....!張コウ将軍!」

「司馬懿殿、司馬懿殿、司馬懿どのーっ!」

「よっ.....よさぬかっ! 何をする気だ、こんなときに.....っ!」

 胸元の合わせ目に強引に忍び込んでくる細い指を、必死に撃退しながら、司馬懿は叫んだ。

 大声を出せないのが、つらいところである。ここで大騒ぎをすれば、さきほど退出した陸遜もすぐさま戻ってこようし、他の者まで駆けつけてくるかも知れない。

「やめよ.....! 放せというのにっ!」

「司馬懿どの〜っ! 大好き〜っ」

「重いっ! 退け!」

 小振りながらもしっかりとしたつくりの座臥が、ギシギシと不穏な音を立てる。無理もない。健康な男子二名がじゃれあっているのだから。

「愛してます、愛してます、愛してますーっ! もう止まらないほどにお慕い申し上げております〜っ!」

「わかった! わかったから、今は退かぬか! 人が来るっ!」

「そんなこと、私はまったく気にしません!」

「私が気になるのだ! いいから退けーっ!」

 渾身の力で、司馬懿が張コウを撥ねつけたとき、飾り扉が音を立てた。

 

 コンコン。

「司馬懿、張コウ、入るぞ」

 夏侯惇を先頭に、呉のメンツもそろえたのだろう。複数の気配がする。

「あ、ああ! 開いておる、入られよ!」

 司馬懿は声を返した。そしてその声音が、常と変わりなかったことを祈った。

 夏侯惇は入ってくるなり、すぐさま座臥の枕元に腰を据えた。

「.....司馬懿、気がついたのか。よかった。具合はいかがか?」

 隻眼将軍は、不満げにむっつりと口をとがらせている張コウにも、頬が上気して、わずかに息の早い司馬懿の様子にも、気づいたようではなかった。気がせいていたのだろう。

「ああ、夏侯惇将軍.....孫呉の御方がたにも迷惑をかけたようだ。申し訳ない」

 司馬懿は努めて平静にそう言った。

「いやー、よかったのう! お目覚めになられて。うちの大都督殿も、たいそうご心配申し上げておったのですぞ!」

 率直に呂蒙が言った。複雑な人間関係や、それに附帯する個々の思惑など、まるきり考えつかない、真っ正直な男である。

「いやはや、ようございましたな、周瑜殿! これでご安心なされましたでしょう!」

 その言葉を受けて、司馬懿はちらりと周瑜くんに視線を移した。周瑜くんはビクビクと、呂蒙の背に隠れてしまった。色素の薄い、茶味がかった双眸には、おびえと親しみの色が混在していた。

 

「.....周大都督」

 司馬懿は周瑜くんに声を掛けた。周瑜くんはびくんと身をふるわせ、ぎゅっと呂蒙の袖布をにぎりしめた。

「.....周大都督」

「.....は、はい?」

「貴公にもご心配をおかけしたようだ。かたじけない」

 司馬懿はそう言った。神経質なこの男は、筋を通したのだ。

 此度の会合に参列した孫呉の諸侯は数名いたし、直接的な交渉は陸遜が行っていた。だがあくまでも大権大使は大都督の周公瑾なのである。

 会談相手国の最高責任者に、ひと言のあいさつも無しですませるのは、彼の常識が許さなかったのだ。好悪の問題ではない。

 だが、周瑜くんは周瑜くん流の解釈をした。つまり、これまで司馬懿から、たいそう冷ややかな対応をなされてきたと感じていたが、それはちょっとした誤りで、彼だとて決して周瑜くんを嫌っているわけではなかったのだ。ただ司馬懿は自分の感情をあからさまにするのが苦手なのである。それゆえ、誤解を受けるような言動があったかもしれない、という解釈だ。

 周瑜くんは、笑った。へら〜っと音が聞こえてきそうな、満面の笑みであった。今度は司馬懿の方が、びくりと身をすくめる番であった。

「ううん。よかった〜、司馬懿殿がご無事で〜。でも今日はご飯食べて、お風呂入ったら、すぐ寝たほうがいいよ〜。きっととってもお疲れになられたんだよ〜」

 周瑜くんは一生懸命に言った。

「.....さようでござるな」

「司馬懿どの〜。そんな不安そうなお顔をなさらないで〜。みんないるから、だいじょうぶ〜」

「いや.....別に.....ああ、まぁ、そう、ですな.....」

 司馬懿は脱力して頷いた。

 その脱力の根源、周瑜くんは、この不安定な状況下においてでさえ、たいそうつやつやとして元気が有り余っている様子であった。

「.....周大都督には、ずいぶんとお元気そうにお見受けいたしますな」

 司馬懿はそう言った。やや皮肉をこめて。だがそんな微妙な心理攻撃の通用する周瑜くんではなかった。

「うん。元気〜」

 返ってきたのは、にこやかでさわやかな答えであった。

 そんな周瑜くんを後ろ手に押しやって、話をもとに戻したのは、軍師陸遜であった。

「司馬懿殿。なにか召し上がれそうですか? 幸い、こちらには食料の備蓄があります。粥など作ろうと思っておりますが」

「杏仁豆腐がいい〜」

「周大都督は少しお静かに」

 すかさず陸遜が、不要な発言をさえぎった。

「.....ああ、まだなにもうかがっていなかったな、陸伯言殿。.....ここはどう言った場所なのか?」

「司馬懿殿、この『世界』について、ということでしたら、まだ私にも分かりかねます。この場所ということでしたら、草原を歩き回っていたとき、我々ふたりで発見した家です。ここはその奥の室。見ておわかりのとおり、身分卑しからぬ人の邸宅といったところでしょうか」

「.....家人は?」

 と、司馬懿。

「いえ、どなたもおられないのです。かれこれ、我々がここにやってきてから、十時間近くが経ちますが、誰もお戻りになられません」

「.....面妖だな.....」

 独り言のように、司馬懿はつぶやいた。

「ええ、まったくです。ですが、今は他にできることがありません。この家に人が戻ってくるならそれでよし。でなければ自助しつつ、道を切り開くしかないでしょう。幸いこの家はかなり住環境がととのっています。まずは食と休息をとってから、次ぎの行動を考えましょう」

「.....陸伯言」

「なんでしょう、司馬懿殿」

 

「貴公の思考、物言いは、たいそう私の好むところである。これまで数度にわたり、論を闘わせたが、今、さらにその念を強くする」

 司馬懿にしてはめずらしく、率直に思うところを述べた。だが抑揚のない平坦な物言いは、我ながら面白みに欠けると感じた。

「それ、ホメられてるんですよね?」

 そういって、はにかんだ陸遜の愛らしさに、司馬懿はたいそうおどろかされた。

 

「おぅい、陸遜殿! 手が空いたら、ちょっと鍋を見てやってくれ! すまん、これでいいのやらなにやら.....やりつけなくてな」

「はい、夏侯惇殿! 取りあえず杓子で、ゆっくりとかき混ぜていてください。落とし卵がくっつかないように!」

「う、うむ! くっつかないようにだな!」

「はい! .....ちょっと、材料部隊! 周瑜殿、張コウ将軍! 早く切ったにんじんを持ってきてください! 炒め物は、まず固い野菜から始めなくては!」

 やはり調理場でも活躍せざるを得ないのは、有能な軍師殿であった。小ぶりな邸宅ながら、厨房設備は充実しており、材料の備蓄にも余念がなかった。

 つまり調理の道具、素材については、なんら問題はなかったのだ。そして最大の懸案事項は、ずばり料理人がいないことである。そこで司馬懿をのぞいた五名は、厨房に集合し、協力し合うほかはなかった。

 だが何と言っても男五人である。戦場での野営ならばまだしも、こうしてきちんと調理器具が整い、様々な素材が山積みになった状態には、対応しきれない輩ばかりだ。その悲惨な状況の中で、まだしも一般常識レベルの調理知識があるのは、陸遜だけである。おのずと彼に、リーダーのお鉢が回ってくるのは、致し方ないことであった。

「にんじん、急いでください! 油が煮立ってしまいます! 周瑜殿、張コウ将軍!」

 陸遜は巨大な調理机の方をふり返った。

 

「ほら〜、ウサギさん〜。上手〜〜」

「フッ! やはりにんじんの赤には、美しい桜の花でしょう! どうです、このガラス細工のような繊細さ! 緻密さ! この張コウの手にかかれば、ざっとこんなもんです!」

「見して〜。お花〜。これ、さくら? さっきのつばきとどうちがうの〜〜?」

「なっ! 失礼な人ですね、周公瑾! あなたの目は節穴ですか? ほら、椿の花弁はぽってりとふくらんだ丸形でしょう? 桜の方はいくぶん細めで繊細なイメージです!」

「わかんないもん〜。ウサギさんの方がかわい〜〜」

「これがウサギ? この物体のいったいどこがウサギだというのですっ? 端的に説明してごらんなさい! ふん!」

「ウサギさんだもん! お耳が長くて可愛いもん!」

 周瑜くんと張コウは、厨房のなかでまで、張りあっていたのである。

「いいかげんになさい、御二人とも! こんな状況のなかで下らぬ争いをしないでください! さぁ、はやく切れた分をこちらによこして!」

 さすがの陸遜も、いよいよ腹に据えかねたのか、キツイ口調で叱りつけた。

「.....切れた野菜はどこです?」

 そうたずねる若き軍師さんの物言いは、常にあらず低かった。

「えっ、えっ? あのね、りくそん.....まだこれしかできてないの.....」

 周瑜くんの机の上には、小さな三匹のウサギらしき物体が、ちょこんと乗っていた。つんとすました張コウのほうには、椿だか桜だかは知れぬが、やはりふたつ三つ、花形のくりぬきが転がっている。俯いた陸遜の首に、見る見る青筋が浮いた。

「あなた方.....」

「あ、あの、りくそん、怒ったの? ごめんね、もっといっぱいつくるから〜。一番可愛くできたのを、りくそんにあげるから。ね、ね、怒んないでね?」

 周瑜くんは一生懸命に取りなした。だが疲労がピークに達している陸遜には、もはや心の余裕がなかったのだ。

 ぷつりとなにかが弾け飛んだのか、陸遜は怒濤のごとくまくしたてた。

「周瑜殿! 張コウ将軍! あなた方は現状をどう認識しておられるのですっ?原因不明の大地震、そして見ず知らずのこの土地! なにより返る手段すらも分からない、この悲惨な状況! よくもまぁ、にんじんなどで遊べたものですッ!」

「うわ〜ん、りくそん〜、怒んないでよぉ〜」

「何も泣かなくてもいいでしょう、周瑜殿! もう少し、孫呉の最高司令官としての、自覚と誇りを持っていただきたい!」

「まぁまぁ、陸伯言殿。そうお怒りにならずとも。お肌の調子が悪くなりますよ」

 意外にも助け船を出したのは、張コウであった。こんなとき、まっさきに駆けつける呂蒙は、煮物の手が放せなかったのである。

「張コウ将軍っ! あなたも危機感がなさ過ぎます!」

「はいはい。まぁ、落ち着いてください。騒いだとてどうなるものでもないでしょう。にんじんならば、今すぐに切って差し上げます。大皿料理のにんじんなど、乱切りで十分! こちらの美しい花型にんじんは、司馬懿殿のお粥に〜★ うっふっふ、待っていてくださいね、私の司馬懿殿〜っ」

 踊るような足取りで、張コウは粥の釜に飛んでいった。陸遜がなにか言おうと口を開きかけたとき、間髪を入れず怒声が続く。

「陸伯言殿! 手が空いたらかまどの火をみてくれ〜。なにやら米のにおいが焦げ臭いような.....わしではようわからん」

 という度重なる夏侯惇の援軍要請。さらには、

「軍師殿ーっ! ちいと煮物の味を見て下され〜! せ、拙者、味見のしすぎで舌が麻痺して.....ひ〜、からい〜」

 と呂蒙が叫んだ。

「わぁぁ〜ん」

 と相変わらず泣き続けているのは、大都督の周瑜くんである。

 陸遜の脳裏で、なにかがぶちりとちぎれた。

「...............みなさん! 今後は自主自立! おのれのコトは自分で行うように! 団体行動においては、他者の足をひっぱることのないよう、自重なさってください! これはサバイバルにおける、最低限の個人の義務ですッ!」

「うわ〜ん!」

「陸伯言殿ーっ!」

「軍師殿〜、味見を〜」

「.....私の役目は果たしました。後の仕上げは御任せいたします」

 それを捨て科白に、陸遜はきびすを返した。