ああ、無常!
<11>〜<15>
 
 
 
 

 

「というわけでね。短気は損気。いけませんよねぇ」

 湯気の立つ粥を、うるしぬりの木杓にとり、張コウは、ふぅふぅと息を吹きかけた。

「あっつっつ。ふーふー。さ、どうぞ司馬懿殿。熱いですからヤケドしないように気をつけてください。はい、あーん」

「...............張コウ将軍」

「いかがなさいました? ああ、これ? ゴボウと卵の味付け粥ですよ〜。とっても温まりますよ〜 なんせ私の愛をこめた花形にんじんも入ってますからね〜 ほら、これなんの花かわかりますか?」

「いや、その.....」

「なんのお花だと思います? ふふ」

「.....うめ」

「んもう、司馬懿どの! よーっく見てください」

「.....ぼたん?」

「司馬懿殿ったら! ご冗談がお好きなんだから! だれがどうみても椿でしょう?」

「...............ああ、そう」

「そうなんですよ〜 あ、お粥より、スープが先ですか?」

「いや.....だから.....」

「こちらはニラと干しエビのスープです。いいにおいでしょ? 本当にこの邸には食材が豊富でありがたいです」

 にっこりと笑って、張コウが言った。

 湯をもらってから、早々に室に戻った司馬懿を待ち受けていたのは、張コウ自ら給仕を行う、心尽くしの夕餉であった。

 ありがたいことに、この邸の風呂は、この時代特有の蒸し風呂ではなく、天然の温泉をひいた岩風呂、つまり湯風呂である。

 その心地よさは筆舌に尽くしがたく、今朝方から凝り固まった頭痛の芯をすっかりと蕩かし、砂袋を詰めたような肉体の疲労を洗い流してくれた。

 大変良い気分で室に戻った司馬懿であったが、満面の笑みをたたえた張コウの歓待は予定外であった。

「はい、どーぞ。遠慮なさらず、司馬懿殿! あーん!」

 あーんと口の開けられるキャラクターなら、悩みはしない。司馬懿はそういった人物からは最も遠い位置に居るのだ。

「いや.....だから、そうではなくて。.....重篤というわけではないのだ。食事は自分でいたすゆえ.....」

 ようやく司馬懿はそれだけを言った。いつもの調子でピシャリと撥ね付けるには、目の前の男にかけた心痛が大きすぎた。

「そんな、司馬懿殿。先ほどまで横になってらしたくらいなのですから、ご無理はいけませんよ」

「いや、本当に案ぜられるな。湯に浸かったら、だいぶ疲れがとれたようだ」

「ですが.....」

「貴公も早々に湯をもらい、ゆっくり休まれたほうがよい。疲れていないはずはないのだからな」

「ま、司馬懿殿がそうおっしゃるなら」

 思いのほか、張コウはあっさりと引っ込んだ。

「では司馬懿殿。お食事が終わるまで、お側に居てもよろしいでしょうか?」

「.....張コウ将軍? 特に手伝ってもらう必要はないのだが」

「そういうことではなくて。.....ただ、お側にお付きしていたいのです。その方が、安心してよく眠れそうですから」

「.....好きにされるがよい」

 司馬懿はそう答えた。

 その物言いが、我ながらたいそう無愛想に聞こえ、ふと張コウの表情を盗み見る。だが彼は、終始やわらかな微笑をたたえて司馬懿を見ていた。

 心の中でホッと安堵の吐息をつき、彼は一口スープをすすった。やや味付けの濃いそれは、司馬懿の食欲を誘った。

 

「いやぁ、お疲れでござった! ささ、軍師殿! 湯をもらってきてはいかがか!」

 夜も更けつつあるが、やはり呂蒙の声は大きかった。

 なんやかやで、食事を終えたのが夜の十一時前あたり。それでも家人はひとりとして戻ってはこなかった。いよいよ妖しいと考えるべきであろうが、今はそれを追及する精神力も体力も、一行にはなかった。

 これさいわいと湯殿が整っているのに目をつけ、まっさきに湯に飛び込んだのは、「戦場の華、地上に落ちた月の精」と自称する張コウであった。そしてすぐさま司馬懿に湯浴みを勧めたのである。

 小さな邸とはいえ、各部屋に夜具の用意もある。腹ごしらえの後は、湯に浸かって疲れを洗い流し、ゆっくりと睡眠をとれば、また新たなひらめきもあろう。

「ええ、いえ、呂将軍もまだでしょう? どうぞお先に」

「いやいや、軍師殿にはたいそうお疲れのご様子。どうぞお先にお使いください」

「そうですか.....周瑜殿は?」

「ああ、大都督殿はすでにお休みです。風呂から上がってきたら、もうおねむで」

 はっはっはっと呂蒙が笑った。陸遜は、周瑜くんのたくましさ、ずぶとさに嘆息した。

「.....湯殿はけっこう広かったですね。ここはすべてのものが贅沢に作ってあるような気がいたします」

「ええ、そうですな! 部屋数が少ないからこじんまりとした印象を受けますが、なかなかどうして立派なものです。台所もたいそう物がそろっておりましたし、拙者にわりあてられた部屋も、ずいぶんと整っております」

「ええ.....家人が戻っていらっしゃらなければ、どなたの邸宅なのか見当もつきませんが」

 ため息交じりに陸遜は言った。呂蒙は気を引き立てるように、あえて明るい物言いをする。

「いやいや、いずれにせよ、身分卑しからぬ御仁の邸宅なのでしょう。しかし、我々はついておりますな、軍師殿!」

「.....は?」

「あの大地震でひどいケガをした者もいない。別世界に吹き飛ばされたとはいうものの、こうして屋根のある場所に身を寄せ、あたたかな夕餉やぜいたくな湯風呂にありつけたのですから!」

「.....そうですか.....そういう考え方もありますね」

「そうですとも! これぞ日頃の行いの為せる技! さぁ、湯を浴びてさっぱりとしておいでなさい」

「よければご一緒に、呂将軍。あの湯殿ならば大のおとな三人でも余裕がありましょう」

 陸遜はそう言った。先ほどまでの鬱々とした気分が、少し晴れてきたのだ。

「いやぁ、でもお邪魔じゃ.....」

「そんなことはありませんよ。かえってお待たせしている方がいないほうが、ゆっくりと浸かれそうです」

「そうですか! ではお言葉に甘えて.....」

「ご遠慮なく。では先に行ってますね。どうぞ後からでもおいでください」

 陸遜はそう言って、笊に入れた夜着と拭布をかかえた。

 彼は、すぐに室から出たため、「いやぁ、興覇に悪いなぁ〜」などという、呂蒙のつぶやきを耳にすることはなかった。幸いである。

 

 なにがあっても日が暮れる、とは誰の言葉であったろうか。

 見知らぬ土地、夢うつつのなかで、最初の夜が更ける。

 夜の闇は、人々の不安も焦燥も強引に押しつぶし、一時の休息へ促すのであった。

 

.....深夜。

 そう、まさに丑三つ時といったころ、司馬懿は一人、湯殿に居た。風呂場でやることといえばただひとつ。湯に浸かっていたのだ。

 遅めの夕餉をとった後、すぐさま心地よい眠気に誘われた。給仕をつとめてくれた張コウも、それが終わると早々に室に引き上げていった。さすがの彼も疲れたのだと見える。

 一度は眠りについた司馬懿であったが、手水に起きたのが運の尽き、まったく眠気が吹き飛んでしまったのだ。

 無理もない。具合が悪かったとはいえ、まだ陽の高いうちにこの家にたどり着き、夜更けまでひたすら眠り続けていたのである。

 

 しばらくの間、司馬懿は座臥の上で天井をにらみつけていたが、期待していた眠気は訪れず、むしろいっそう気が冴えていくように感じられた。

「.....どうせ眠れぬのなら、湯に浸かるか.....」

 司馬懿はだれにともなくひとりつぶやいた。

 天然の湧き湯は、ややぬるめの温泉で、長く浸かっていても、のぼせない。さきに一度入浴をすませた司馬懿であったが、その思いつきに少なからず心浮き立つようであった。

 だが、彼の怜悧で酷薄な面ざしは、いっこうに常と変わらないのが、司馬懿の司馬懿たる所以なのである。

 

 

 ふぅ.....と三度、大きな息を吐く。これはいわゆる「ため息」ではないのだ。予測不可能な未来に対する嘆息でも、不安定な現状における困惑の嘆息でもない。

 ここ一月近くに及ぶ会談で、ギガバイト級にフル回転していた頭を休めているのである。

 司馬懿の吐息は、頭を休めているときに、こぼれ落ちるのだ。

 今、彼は、人肌より、やや熱めの湯に浸かって、しばしの休息をとっているのである。こんなとき、人並外れた頭脳の状態は、まさしく「虚」、のひと言。からっぽなのである。

 真摯な瞳で、その身を案じ、愛をささやく張コウの面影ですら、片鱗さえも思い浮かべない朴念仁の司馬懿であった。

「.....ああ、あまり長湯もよくないな。本調子ではないのだし.....」

 そうつぶやくと、彼は岩湯から上がり、手早く洗い髪をぬぐった。

 深い冠のせいで、外からは見えぬことが多いが、司馬懿の髪は女人のように細くしなやかである。

 周瑜くんの長い髪も、やわらかくしっとりと露を含むようであるが、色合いが明るい栗色だ。それに比べ、司馬懿の髪は、まさに烏の濡れ羽のごとく漆黒で、深みのある色みであった。

 女人であれば、「珠のごとき黒髪」と溜息を誘うであろうそれを、司馬懿は無造作に肩先で切りそろえ、組み紐で結い上げているのだ。

 てきぱきと身繕いを整えると、司馬懿は湯殿を後にした。

 足音を立てぬよう、そっと渡殿をすすむ。室の前を通りすぎるときにはなおのことだ。いくつかある室のどこに誰が寝すんでいるのか、彼は知らなかったが、疲れ切って眠っている人々を起こすのは気が引けたのだ。

 司馬懿が、ちょうど厨房のあたりを通りすぎたときである。

 .....ふわりと、火の玉が空をきり、人の泣き声が耳に入った.....

 「.....だれだ?」

 司馬懿は小声でたずねた。

 だが、静まり返った夜の邸では、まるで食器を叩きつけたくらいの音に聞こえたのかも知れない。その人影は、びくりと身をふるわせると、息を呑んだ。おぼろげにうかぶ影は、司馬懿と背丈が変わらなかった。

「..........」

「..........だれか、おられるのか?」

 司馬懿は再び声を掛けた。

 今度はすぐに返事がかえってきた。だがその声は、こんな状況において、あまり耳にしたい声ではなかった。すくなくとも司馬懿にとっては。

 

「いるの〜。ここにいるの〜」

「...............?」

「司馬懿どの〜。司馬懿どの〜」

「.....周大都督か?」

 

「司馬懿どの〜。みんな寝ちゃってるの〜。開けてくんないの〜」

 こんな口の聞き方をする人間はひとりしかいない。確認するまでもなかった。周瑜くんはいつもの習性で、司馬懿の側近くに、タカタカと走り寄ってくると、その服をぎゅうっとばかりに握りしめた。

「開けてくんないの〜、司馬懿どの〜」

「周大都督? いかがなされた.....なにゆえ、こんな時間に.....」

 すり寄ってくる周瑜くんを持て余しつつ、司馬懿はたずねた。当たり前の問いである。

「さっき、目、さめたの〜。知らないお部屋だったの〜。いつもの白いお部屋じゃなかったの〜」

「.....なにを.....知らぬ場所は先刻承知の上であろう? この地は我らのあずかりしらぬ世界なのだから」

 ひどくまっとうな答えを、司馬懿は口にした。

「目、さめたら、知らないトコにひとりっきりだったの〜。怖いよ、みんな、どっかに行っちゃった〜」

「室に引き上げて眠っておられるのだろう。真夜中なのだからな」

「えっえっえっ」

「.....男が軽々しく泣かれるな」

「うぇ〜ん!」

 周瑜くんは大きくしゃくり上げた。不思議の国の美青年は、司馬懿の理解の範疇外であった。

「しっ! 静かにせよ。皆、休んでいるのだから」

「だれか起きてきてくれるかもしれないもん。そしたら一緒にいるんだもん!」

「大人げないことを言われるな! みな疲れ切っておるのだ!少しは他人の状況を.....」

 そこまで言って、司馬懿はハタと口をつぐんだ。周瑜くんの色素の薄い瞳に、大粒の涙が盛り上がってきたからだ。

「.....だって、ここ知らないトコなんだもん.....ひとりなんだもん.....ヤなんだもん.....」

「.....周瑜殿。不安な気持ちはわかるが、少なくともひとつ屋根の下に、これだけの人数がおるのだ。怯える必要はなかろう。そもそも貴公は大都督であり、軍師将軍であろう?」

「.....だって怖いもん.....ひとりでいるの、ヤなんだもん.....」

「こんなことより、もっともっと恐ろしい、凄絶な場面に遭遇したことだとてあるはずだ」

「えっえっえっ」

 司馬懿は理をもって説いた。だが周瑜くんは未だぐずぐずとしゃくりあげている。

 見目麗しい孫呉の大都督の扱いは、彼に慣れ親しんだ人間でさえ、戸惑うことが多いのだ。司馬懿に適当な対応ができようはずはなかった。

「えっえっえっ.....」

「泣くなと言っているだろう、みっともない! 他人に迷惑が.....」

「うっ、うぇ〜〜〜」

「..........ッ! 声を立てるなっ!」

「うぇ〜、ふぇぇ〜〜」

「静かにせぬかっ! .....こちらへこい」

 

 ちっと舌打ちすると、司馬懿は苦いものでも噛みしめるような口調でそうつぶやいた。この状況を、もっとも穏便に切り抜ける方法を、彼の頭脳がはじきだしたのだ。

「うっ、うぇ〜ん、司馬懿どの〜、司馬懿どの〜」

 周瑜くんはぎゅうぎゅうと、司馬懿の夜着を掴んだ。下着のたもとである。

「静かにせよというのがわからぬかっ! しがみつくなっ、歩きにくい!」

 そっぽを向いたまま、司馬懿はおのれにあてがわれた室に向かって歩き出した。周瑜くんは、ずりずりとついてくる。

 そんな周瑜くんのことを、人によっては、その綺羅々しい美貌とあいまって、たいそう愛おしい愛らしいと感じるのかも知れない。

 だが司馬懿は、ただひたすらに、うっとうしく煩わしいだけであった。

 

「.....入られよ」

 無愛想に黒羽扇の軍師は促した。

 周瑜くんの泣き濡れた瞳が、ぱぁっと輝いたのを見て、司馬懿は付け加えた。

「.....誤解されるな。別に貴公を思いやってのことではない。あんな場所で泣かれては、疲れて休んでいる同輩をたたき起こすことになる。それすらも私にとってはどうでもよいことだが、明日以降の行動に支障が出るのは本意ではない」

 文書を読み上げるように、司馬懿は言った。

 惚けたように口をあけたまま、じっと顔を見つめてくる周瑜くんを、司馬懿は心の底から疎ましく感じた。

「.....こんな状況なのだ。明日はみな早くに目覚めよう。我らも早々に寝すむぞ」

 周瑜くんのほうを見もせずに、司馬懿は言った。

「はーい」

 周瑜くんは素直であった。司馬懿の物言いはとうてい友好的とは言い難かったが、周瑜くんはあまり気にならないようだ。おそらく言葉遣いや口調よりも、自室に招き入れてくれたこと、それ自体がものすごくうれしかったのだろう。

 この上なく大きな溜息をつき、司馬懿は座臥に身を横たえた。周瑜くんは、しばらく彼の枕元に突っ立っていたが、白い頬を桃色に上気させ、もそもそと司馬懿のとなりにもぐりこんだ。

 おどろいたのは司馬懿である。

「なにをしている! 周大都督!」

 寝首をかかれたごとき勢いで、彼は飛び起きた。その拍子に夜着の下がはだけたが、そんなことにかまっている余裕はなかった。

「えー、寝るの〜。司馬懿殿、寝ろっていったじゃないのー」

 周瑜くんは、何の迷いもなくそう言ってのけた。すでにきっちりと夜具におさまっている。

「あったかーい、きもちいい〜」

 満足げに微笑む周瑜くん。先刻まで司馬懿が寝んでいた寝床は、ほんのりと暖かみが残っているのだ。

「周大都督ッ!」

「なぁに〜、せっかく眠くなってきたのに〜、司馬懿殿もはやくおやすみしてよー」

 周瑜くんの大きな瞳は、とろとろととろけてしまうようで、今にもまぶたがくっつきそうになっていた。

「周大都督ッ、起きよっ! 周大都督ッ!」

「みゅ〜〜〜〜〜」

「私が一緒に寝てやると言ったのは、同じ室でという意味だ! だれがひとつ布団でと言ったッ? そこに長椅子があるだろう! 貴公はあちらだっ!」

 司馬懿はビシリと寝椅子を指さした。

「.....だってあそこ寒いもん。おふとん、ないもん.....」

 周瑜くんは、むぐむぐと布団にもぐり、子どものようにつぶやいた。

「室に戻って、掛け布団なりをとってくればよいだろう! それほど離れているわけではないのだから!」

「.....こわいもん」

「男だろうッ!」

「.....こわいもん! 男の人だって、怖いものは怖いもん!」

「..........ちっ!」

「司馬懿殿.....だめ? いっしょに寝るの、だめ? 静かにしても.....だめ?」

「.....そんな目で私を見るな」

 司馬懿は煩わしげに顔を背けた。どんなに突き放すような言葉を吐いても、周瑜くんの大きな薄茶色の瞳は、じっと司馬懿を見つめ続けているのだ。

「.....わからぬならば、はっきり言おうか。私は夏侯惇とはちがう。貴公のような人間はもっとも苦手とする人種だ。側近く慕い寄ってくるな」

「.....めいわく.....?」

 周瑜くんは悲しげにぽつりとつぶやいた。そっぽを向いていても、その沈んだ物言いで、彼がどんな表情をしているのか見て取れるようであった。

「.....めいわく.....? 司馬懿殿.....」

 司馬懿は横を向いたまま、静かに深呼吸をくり返した。せりあがってくる憤りをおさめるように。そしてくるりと周瑜くんに向き直ると、その身体をぐいと後ろに押しやった。

「ひゃ」

 周瑜くんは驚いて声を上げたが、司馬懿は一顧だにしなかった。

 座臥の真ん中に、あまっていた枕を押し付け、指でざざざと跡をつける。それを不思議そうに見ている周瑜くんに向かって、彼は居丈高にのたまった。

「よいか、周大都督! これが境界線だ。貴公はここから向こう。私はこちら。越境行為は許さぬぞ!」

「え.....じゃあ、ここにいっしょに居ていいの?」

「特に許す! もうこのような時間だし、いつまでもぐずられていてはかなわぬ!」

 司馬懿にとって精いっぱいの譲歩であった。

「うわぁい! 司馬懿どの、ありがとありがと。司馬懿殿、やっぱやさしいんだ〜」

「誤解するな! それ以上くだらぬことを言うのなら、室から叩きだすぞ! さっさと寝ろッ 冷えて風邪でもひかれてはかなわぬ!」

 司馬懿は、綿入れの、絹の掛け布団をぐいと持ち上げた。もちろん、となりにおさまっている周瑜くんの肩口まで、すっぽりとおおわれる。周瑜くんはりんごのように紅くなって、えへえへと笑った。

「うれしー、司馬懿殿、ありがとー。あ、しゃべってゴメンね。もう寝るね」

「..........」

「おやすみなさーい。くーくー」

 周瑜くんは素直な青年であった。おやすみのあいさつをすませると、言われた通り、すぐに口をつぐみ、眠りについた。司馬懿は、周瑜くんに背を向け、目を閉じた。

 なかなか消えないイライラに、何度も身じろぎしたが、疲労した身体がふたたび眠りの淵に引き込まれるのに、そう時間はかからなかった。

 二度目の眠りは、たいそう深く、陽が高く昇るまで、司馬懿は一度も目を覚さなかった。

 そんな彼は、明け方に、少し寒くなった周瑜くんが、ぴっとりと背中にくっついてきたことなど、まるであずかりしらなかったのである。

 

 

「どーいうことなのか説明してくださいッ! 司馬懿殿! この美しい私よりも、そちらの幼児化白痴美男のほうがいいとゆーのですかっ? そーなのですかッ?」

「いや.....だから.....」

「ちゃんとわかるようにおっしゃってくださいッ! でなければ、もう私はなにを信じて生きていけばよいのかわかりませんっ!」

「いや.....落ち着かれよ、張コウ将軍.....」

「これが落ち着いていられますかっ? そんなあられもないかっこうで.....ひとつ布団で.....ああっ、フケツですっ!」

「.....あられもないって.....ただの夜着なのだが.....」

「もめんの肌着一枚でしょーッ? 私だってそうそうおがんだことはないのに.....何ゆえ、にっくき孫呉の周公瑾などに先を越されねばならぬのですーッ!」

 .....翌朝、司馬懿を取り巻く状況は、最悪以外のなにものでもなかった。眠りについた時刻が遅かったせいか、もともと血圧の低い彼は、陽が高々と昇っても目覚めることが無かったのだ。

 そこを、現場を押さえた張コウの悲鳴で、たたき起こされたのである。これぞ踏んだり蹴ったりというのだろう。

「くやしーッ! うわぁぁんっ!」

「先をなどと.....くだらぬことを言うな! それではまるで、私と周大都督の間に、なにかあったようではないかっ!」

 さすがにいらついた司馬懿は、きつい口調で反論した。それにキッと顔をあげる張コウ。

「何のいきさつもなく同衾されるというのですかっ? ますます問題ではありませんかーっ! うわーん! 司馬懿殿のバカバカバカーっ!」

「いいかげんにしろ! あげ足を取るような物言いをするな!」

「とられる足があるほうが悪いんですよ! こらっ! 周瑜!周公瑾! いつまでくっついて寝こけているのですっ さっさと起きなさい!」

 腹立ち紛れに張コウが怒鳴った。この大騒ぎに他のメンバーが駆けつけてこないのは、司馬懿にとって不幸中の大ラッキーだ。朝食を終えたあと、残りのメンツは近辺の探索に出かけてしまっていたのである。

「周公瑾! この爪で切り刻まれたくなくば、さっさと司馬懿殿の寝室から出ていきなさい!」

 張コウの怒りゲージは、際限なく高まってゆくのであった。しかし周瑜くんは未だにうとうとと夢見心地で微睡んでいた。ある意味、相当に肝が据わっているといえる。

「周公瑾ッ」

「ん〜、みゅ〜〜〜〜。眠いの〜。まだ寝てるの〜〜」

「周公瑾っ! この面の皮の厚さ! やはりおまえとは早々に決着をつけておくべきでしたね.....このような取り返しのつかない事態に陥る前に.....」

「だから何もしていないと言っているだろうっ! まぎらわしい物言いをされるな、張コウ将軍!」

「ならば、この忌まわしいものを、即刻目の前から撤去して下さい! かような無礼者、生かしておかずともよいでしょう!」

 張コウはきぃーっ!とばかりにいきり立って叫んだ。この男にとって、愛の暴走はまったく恥ずべきことではないらしい。

「張コウ将軍! 思慮無きことを言われるな。今は戦時下ではないのだぞ。不本意とは言え、味方がひとりでも多く必要なのだ」

「あなたのことなら、この私が守ってあげますーっ! うわぁぁぁんっ!」

「泣くなーっ!」

「ん〜、みゅ〜〜。眠いの〜〜。あったかいの動かないで〜〜」

「周大都督ッ! 貴公もいいかげんに目覚めよーっ!」

 

 司馬懿が朝食兼昼食を口にしたのは、正午をも回りきろうという時刻であった。

「おう、司馬懿よ、起きたか。気分だどうだ?」

 夏侯惇らが、昼を過ぎていったん屋敷に戻ってきた。そうたずねる隻眼将軍に、しばしの間隙の後、司馬懿はぼそりと、

「悪い.....」

 とだけ、こたえた。夏侯惇は、司馬懿の首筋から頬のあたりにかけての、細かな引っ掻き傷を見て取ると、そのまま沈黙を守った。

 壮絶なバトルを彷彿とさせるべく、張コウ将軍の右頬は腫れ上がり、白い湿布薬で覆われていた。いっぽう周瑜くんのおでこには、バッテン印に膏薬が貼り付けられている。

 鋭敏な陸遜は、それについてひと言もつっこまなかった。

「ええと、あー、では気分のすぐれんところ申し訳ないがな、司馬懿よ。とりあえず今後の動きを決めてもらわねばならぬ。わしらは小難しいことは分からぬゆえ、孫呉の軍師殿と計らってもらいたい」

 ごほんと咳払いをして、夏侯惇が言った。苦労の多い男である。

「.....承知」

 

「ああ、具合がよくないのなら、回復してからででもかまわぬのだ。焦って動き回っても益は少なかろうからな。わしらも昼をすませたら、また辺りを見回ってくるゆえ、たのむぞ!」

「.....気をつかわれるな、夏侯惇将軍。大事無い。陸伯言殿、ではのちほどお運び願えるか」

 手早く食事をすませると、司馬懿はさっさと立ち上がった。

 張コウと周瑜くんのほうを、見もせずに。