ああ、無常!
<16>〜<20>
 
 
 
 

 

「.....司馬懿殿.....怒ってますよね.....すっごく怒ってましたよね.....」

 張コウが低くつぶやいた。

 手にした匙がふるふると震え、スープ皿にあたって、ちりりと鳴った。

「はぁまぁ.....まだあまりお具合がよろしくないのでしょう」

 陸遜は差し障りの無い相づちを打った。

「それだけではないはずです。さきほどの私の物言いが、いくらなんでも激しすぎたのです.....まるで罪人を糾弾するような.....」

「はぁ.....」

「愛しい人の言葉をまったく耳にも入れずに、一方的に詰問してしまいました.....」

「はぁ.....そうですねぇ.....」

「ぜったいに.....お怒りになっているに違いありません.....室から出ていくとき、私のほうを見もしてくれませんでした.....この美しい私のことを.....!」

「はぁ.....そうですか.....]

「ねぇっ? 陸遜殿っ! 司馬懿殿は、絶対に絶対に不快に思ってらっしゃいますよねッ? 私のことを.....この張コウのことを嫌いになってしまったに違いありませんよねーっ!うわぁぁんっ!」

「.....いや.....そんな.....」

「その場しのぎのおためごかしはおっしゃらないでーっ!よけいに悲しくなってしまいますぅ〜っ! もう二度と司馬懿殿は、この私の愛を受け入れてはくれないのですーっ! ああああーっ!!」

 張コウはひとりで盛り上がり、わっとばかりに机に泣き伏した。ほとほと困惑の溜息をつく陸遜を横目に、周瑜くんは終始マイペースであった。

「これ、おいちー。りょもー、おかわりー」

「はいはい。これ周瑜殿。お口のまわりに、おつゆがくっついておりますぞ。杏仁豆腐のおつゆは甘いから、虫に食われてしまいますぞ」

「りょもー、拭いて〜、ん〜〜」

「はいはい、ん〜」

「おのれ、周公瑾ーっ!」

 張コウは椅子を蹴倒して、ダン!と立ち上がった。

「私の幸福を破壊する悪魔めーッ! よくもよくも私の大切な司馬懿殿に、その魔手をのばしてくれましたね〜〜ッ!」

 涙と鼻水で、ぐずぐずに濡れた頬を、ぐいとぬぐいあげると、張コウは杏仁豆腐をほおばる周瑜くんを怒鳴りつけた。

「つーん。そんなこと知らないもん。なんにもしてないもん!」

「そのとりすました物言いが気に入らないのですッ! 司馬懿殿は簡単にお布団の中に入れてくれるような御方ではないのですッ! この私だとて、まだ両の手で数えられるほどしか入ったことはありませんッ! あなたはいったいどんな手管を使ったのですかっ?」

「張コウ! 人聞きの悪いこと言わないでッ! ひとりぼっちで寂しかったから、司馬懿殿に一緒にねんねしてってお願いしたんだもんッ!そしたら司馬懿殿がいいよって言ってくれたの〜」

「おのれ!憎いヤツめ! このこのこの〜ッ!」

「やっ! さわんないでよ! 張コウがイジワルだからいけないんだよっ!」

「なんですって?」

「張コウがイジワルだからいけないの! 司馬懿殿に嫌われちゃうんだよーッ!」

 痛いところを思い切りえぐる周瑜くんであった。そこに至って、さすがに陸遜は口を挟んだ。

「周大都督。言葉が過ぎますよ」

「りくそ〜ん.....だって張コウがいじめるんだもん」

「なっ.....」

 いきり立つ張コウを、まぁまぁとなだめ、陸遜は穏やかに語りかけた。

「張コウ将軍、周大都督の非礼、私からお詫び申し上げます。たいそうご心痛のようですが、それほど心配はいらないと思いますよ。あなたと司馬懿殿は、強い絆で結ばれた戦友同志でもあるのですから」

「陸伯言殿.....」

「気になるとおっしゃるのなら、後ほど打ち合わせに室へうかがいますので、それとなくご機嫌を伺っておきましょう」

「うっうっ.....陸伯言殿.....」

「さぁ、張コウ将軍も気を取り直して探索にお出かけ下さい。一刻もはやく現状の打開をしなければなりませんから。私もこれから司馬懿殿のところへ伺おうと思います」

 にっこりと陸遜は微笑んだ。

「陸伯言殿.....あなた.....いい方ですね.....」

「ええ、張コウ将軍。よく言われま.....でなくて、ふふ、それほどでも。そちらの成果も期待しておりますよ。さ、周瑜殿。ご飯は済みましたね」

「はーい」

 周瑜くんがちょいんと椅子から降りて、トコトコと食器をかたずけに行った。

「では、周瑜殿も呂将軍らと一緒に周辺をあたってみて下さい。あまり無理をせず、人にメーワクを.....いえ、怪我をしたりせぬようお気を付けていってらっしゃい」

「はぁーい。すいとうにジャスミン茶入れて持ってこ〜、お菓子も持ってこ〜、ね、りょもー」

 周瑜くんは、かさかさと、月餅の菓子袋をリュックにつめた。

「はいはい。どーでもいいですから、どうぞお気を付けて。張コウ将軍も無理をなさいませぬよう」

 それだけ言い残すと、陸遜は早々に立ち上がった。

 張コウと周瑜くんのくだらぬ諍いごとに、いちいち苛立っていては、この先、とうてい神経がもたない。

 かしこい軍師さんはそう判断したのだ。

 陸遜は、二三本の竹簡を小脇にかかえ、司馬懿の室へと急いだ。

 

 いっぽう、司馬懿の室である。

 彼は座臥の乱れをなおし、衣服を整え、筆と竹簡をそろえて陸遜を待った。もちろん室に備え付けてあったものを拝借したのだ。

 できたばかりの擦り傷、切り傷を、瞬く間に治すのは不可能であっても、それ以外を、極力日常のあり方に近付けたのである。

 着たきりの朝服は、水をとおし、汚れを取り去ってある。司馬懿は、それを身に付け、トレードマークの黒羽扇を片手に鎮座していた。

 軽く扉を叩く音が聞こえると同時に、待人がやってきた。このタイミングの良さも、司馬懿の好むところであった。

「遅くなりました、司馬懿殿。みな、散策にお出かけになりました」

「そうか。.....掛けられよ、陸伯言殿」

 司馬懿は促した。

「はい。さっそくですが本題に移りましょう」

 腰をおろしながら、陸遜は言った。手に持った竹簡をジャッと開く。そこにはやや細めの筆跡がおどっていた。慌てて書付けたせいか、いささか乱れている。

「読みにくくてすいません」

「.....それは?」

 司馬懿は短く訊ねた。

「はい。空の竹簡を失敬して、これまでに気が付いたことを書付けておいたのです。実際、なにかの役に立つような情報はありませんが」

「ふっ.....お互い似たようなことをしていたようだな。まぁ、私と貴公の立場を思えば不思議はないのだが」

 そう言うと、司馬懿は脇机に置いていた竹簡を開いてみせた。司馬懿もわずかながら書き付けをしていたのだ。

「さすがは司馬懿殿ですね。体調を崩されていたにもかかわらず.....御立派です」

「特に誉められるようなことではない。残念ながら、私はそれほど多くのことを記せたわけではないからな」

「私も同様ですよ。ではまず交換して、互いのものに目を通しましょうか」

「うむ」

 そういうと、司馬懿と陸遜は竹簡を交換しあった。

 端から、一言一句もらさずに、読みすすめる二人であったが、特に目新しい記録はなかった。致し方のないことである。

「.....まぁ、共通認識はなされているということでしょうか、司馬懿殿」

「そうは言えるであろうな。.....やはり現状ではわからぬことだらけだな」

 司馬懿はぼつりとつぶやいた。その表情は常と全く変わらなかった。

 ふたりの書き付けをつきあわせると、こういうことになる。

 まず、この見知らぬ世界へ飛ばされた契機は、どうやらあの大地震にあるらしい。

 そしてこの世界の特徴は、気候は涼やかで、到底南国のものとは考えられないということ。

 また生息する植物も、孫呉では見たこともないような種ばかりであるということ。

 そして、現在、一行が滞在しているこの邸の不思議である。丸一日過ぎるのに、家人はだれひとりとして戻ってこない。使用人さえもいる様子がない。

 そして邸それ自体が、このような奥深い地に建っているのは解せない瀟洒な建物である。

「.....この邸の住人が戻ってきてくれれば、いろいろと聞き出すこともできると思うのですがい」

 陸遜が吐息まじりにつぶやいた。

「.....陸伯言.....おかしいとは思わぬか?」

 やや唐突に、司馬懿が言った。

「何がでしょう、司馬懿殿」

「.....すべてだ」

「どういう意味合いで?」

「すべてが、としか言い様がない。あの地震が何であったか.....それはわからぬ。だがな.....それ以外のことは、妙に符号が合い過ぎる.....都合が良すぎるとは思わぬか」

「..........それは?」

「あの大地震にもかかわらず、ここに我ら六名はほとんどが怪我らしい怪我をしたわけではない。まるきりの見知らぬ場所、ひなびた奥地にしか見えぬのに、おあつらえむきにこのような邸が建っている。そして我らはすぐさま、この邸に辿り着いた。そして衣食住に困るどころか、ありあまるほどに豊かな食材、清潔な室に、あたたかな湯風呂」

「...............」

「まるでいつ我らが来てもいいように.....いや来るのが分かっていて、あらかじめ準備されているような.....」

「.....なるほど、言われてみれば、そういうふうにも考えられますね。ですが、その理由は.....」

「ああ。『何のために?』と問われても答えようがないがな」

「.....感覚として感じるということですか。なんらかの意図が働いていると.....そうですね、ですが率直に言って.....」

 陸遜がそこまで言った時である。

 

 ガタタタンッ!!

 

 と、なにかを蹴倒すような、派手な音が響いた。

 玄関口のほうであった。思わず顔を見合わせる二人の軍師。

「うえ〜ん、うえ〜ん」

 すぐに聞こえてきたのは、周瑜くんの泣き声である。

「周大都督?.....何なんでしょう。また張コウ将軍とケンカでもしたんでしょうか。やれやれ手間のかかる.....」

 陸遜はうんざりとこぼした。

「いや.....待て、陸伯言。本当に何かあったようだぞ」

 司馬懿はずいと立ち上がった。周瑜くんの泣き声にかき消されがちであったが、呂蒙の叫び声や張コウの怒鳴り声が聞こえてくるのだ。それは決してケンカなどという、つまらなぬ事柄ではない気配である。

「行くぞ、陸伯言。.....嫌な予感がする」

 司馬懿はつぶやいた。

 嫌な予感ほど、彼の予感はよく当たるのだ。

「ああッ、司馬懿殿!」

 司馬懿と陸遜が姿を見せると、張コウはそれこそ抱きつかんばかりに瞳をうるませた。

「張コウ将軍? 何事だ.....か、夏侯惇将軍っ?」

 司馬懿は思わず声をあげていた。

「うぇ〜んうぇ〜ん、夏侯惇将軍が死んじゃうよぉ〜〜。死んじゃう〜〜。うえーっ!びぃぃぃぃーッ!」

「周大都督!呂蒙殿!」

「おお、軍師殿〜! 拙者がついていながら.....」

「そんなことはどうでもいいのですっ!状況を説明して下さい!いったいなにがあったのですかっ?」

 夏侯惇の巨躯は、玄関口に靴も脱がせぬまま、横たえられていた。騒々しく騒ぎ立てる周囲をあずかり知らぬままに、眉一筋動かさない。石像のように固まった、彼の薄い口唇には、色みがほとんどなくなっていた。

「そ、それが、なんといえばいいのか.....」

「うえ〜ん、びえ〜ん」

「周大都督っ!泣いていてはわからないでしょうッ! 呂将軍も落ち着いて事情を話して下さい!」

 陸遜が叫んだ。

 周瑜くんはともかく、あの呂蒙も相当に動揺している。こういった不可思議な現象は、もともと武骨で硬派な呂蒙には、最も苦手な分野であった。

「うわーん、うぇーん、りくそ〜ん」

 びぃびぃと泣きついてくる周瑜くんを、陸遜が軽く抱きしめ、背を叩いてやっている。

 司馬懿は蒼ざめた張コウに向き直り、いつもの口調で、事の顛末を訊ねた。

「張コウ将軍、なにがあったか、詳細に申されよ。病にせよ、怪我にせよ、状態がわからねば、手の施しようが無い」

「し、司馬懿殿.....」

 張コウはおのれを落ち着かせるように、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐きだした。

「司馬懿殿、この下です.....この下の沢で人を見かけたのです」

「.....人.....」

「はい。それで見失う前に、急いで声をかけようとしたところ.....」

「.....蛇ッ?」

 司馬懿と陸遜の声が重なった。

「蛇.....毒蛇か? すぐに血は吸いだしたのかッ?」

「張コウ将軍、どんな蛇でした? 色とか.....大きさとか.....」

 矢継ぎ早に、ふたりの軍師は問いただした。

「白い.....白い蛇なのです。白くて.....まるで竜のような長い毛.....ヒゲがあって.....」

「ヒゲですって.....? そんな種がいましたか.....」

「下の沢で逢った女が連れていたのですっ! い、いえ、そんなふうに見えただけですけど.....男と女がいて.....」

 がちがちと歯の根を打ち鳴らしながら、呂蒙が叫んだ。

「女が蛇を連れ歩いていたというのか? なにをわけのわからぬことを.....」

「ほ、本当なのです。司馬懿殿!その蛇は夏侯惇殿に噛み付くと、すぐにその女の腕にからみついたのですから.....」

「...............」

「ただ声をかけようとしただけなのに.....まさかこんなことになるとは.....!」

 要領を得ない、彼らの話をまとめると、こういうことになる。

 昼食を終えると、一行は午前の道のりとは逆に、傾斜を下っていった。その方角は屋敷の建っている草深い平地よりも、さらに長い草木の生い茂る場所である。

 とうてい民家や、ましてや人がいるとは思えなかったが、他に徒歩で行ける場所は、すべてまわりつくしてしまったのだ。

 念の為に、という思いで沢を降りると、あろうことかそこに人影を見留めたのである。

「男性と女性.....? そして女の方が蛇をけしかけたというのですか?」

 陸遜がたずねた。

「.....いや そういうわけではござらん、軍師殿。.....ただ我らが大慌てで声を掛けに走ったら、いきなり夏侯惇殿が倒れられて.....女は驚いたようにその様子を見ておった」

「故意に.....というわけではなかったと、そうおっしゃるのですね」

「拙者にはそう見え申した。だが.....」

「だが、なんだというのだ、呂子明殿。その男と女はどうしたのだ? なにも言葉を交わさなかったというわけではないのだろう」

 いらいらと司馬懿は尋ねた。

「うわ〜ん、うえ〜ん、夏侯惇しょうぐ〜ん、おっきして〜、死なないでよう〜」

 周瑜くんはまだ泣いていた。彼はたいそう夏侯惇を慕っているのだ。

「周瑜殿、落ち着いて下さい。血は吸いだしたのでしょう?」

 なだめるように陸遜が言った。

「うん、ちゅーちゅーしたの。でも夏侯惇将軍、おっきしないの〜。ねぇ、りくそん、夏侯惇将軍、このままおっきしないの?死んじゃうの?ねぇ? う、う、うぇ〜〜」

「おだまり、周公瑾ッ! バカをお言いでない! 夏侯惇殿が.....曹魏の隻眼将軍が.....こんなことで死ぬわけないでしょう! こんな.....こんな.....」

 張コウの言葉は語尾が震え、最後まで聞き取ることは出来なかった。

「周大都督も張コウ将軍も落ち着かれよ。今は騒ぎ立ててもなんの解決にもならぬであろう。.....それで、その男と女はどうしたのだ」

「き、消えてしまったのです、司馬懿殿」

「.....消えただと?」

「ホントなの〜、司馬懿どの〜、ふたりとも消えちゃったの〜」

「消えたって.....沢にいたのだろう?沐浴していたのではないのか?どうやって姿を消すというのだ。白昼堂々と.....」

「わかんないの。わかんないけど、消えちゃったんだもん〜」

 周瑜くんは、ひっくひっくとしゃくりあげながらも声を強めた。

「.....それではまるで物の怪ではないですか.....湖の中で姿を消すなど.....」

「.....埒が明かぬ。話は後だ。夏侯惇を看るぞ、陸伯言。毒は吸いだしたというが、目を覚さぬのは解せぬ」

 司馬懿はそう言った。

 すぐさま張コウと呂蒙が夏侯惇の身を起こし、ふたりがかりで抱え上げる。それでも隻眼将軍は微動だにせず、深い眠りに閉じこめられたままであった。

「とりあえず、夏侯惇の使っていた室に戻そう。陸伯言、周大都督、先に行って座臥の上を片づけておいてくれ。張コウ将軍、運び終えたら、すぐに甲冑を外してやれ」

「はい! 脱がせるのは大得意ですッ!」

「いや、どーでもいいが。呂将軍。すまぬが履物を。噛まれた部分がよくわからぬゆえ、慎重にお願いする」

「承知いたした!」

 司馬懿はテキパキと指示を出した。こういう状況においては、ただ様子を見守っているよりも、何か役割を与えられ、それを遂行しているほうが、人は落ち着いていられるものなのだ。また司馬懿自身、頭を働かせ、動き回っている間は、正気を保っていられるような気がした。

「そっと.....そっとですよ。呂将軍」

「ううむ、張コウ殿、まずは上半身を.....」

 

「.....お気の毒に、やはり噛まれてしまったのですね.....」

 その声は、聞きなれた、だれのものでもなかった。軽やかな女性の声音であったのだから。

「不運といえば不運だが、我らがけしかけたものではない」

 続く声は、重々しい男のものであった。

 張コウ、呂蒙、そして司馬懿は、はじかれたように声のしたほうを振り向いた。そのふたつの声は、司馬懿の真後ろから聞こえてきたのである。

 思い掛けない闖入者に、その場に居合わせた者らは、いっせいに浮き足立った。なんら現状の打開が出来ないばかりか、頼みであった夏侯惇までも倒れてしまったのだ。

「.....まずは名を尋ねようか」

 温度の上がった室内を、司馬懿の冷静な声が沈めた。張コウが音のない声で、「司馬懿殿」とつぶやいた。まるで祈りにも似たように。

「人に名をたずねるときには、まず自らが名乗るのが妥当と考えるが」

 男の方が言った。

「挨拶ひとつない、招かざる客人に、名を名乗るいわれはない」

 司馬懿は素っ気無く、そう言った。

「道理だな」

 意外にも、男は軽く笑みを浮かべた。

「我が名は伏犠。ヒトという種族の父だ」

 司馬懿がさらに質問を突きつけようとする前に、女の方が、つと前に歩み出た。その眼前に、細く白い右の手を差し出す。

「私は女堝、すべてのヒトの母.....」

 彼女はささやいた。その手の上には土くれがのっている。

「何の真似だ」

 司馬懿は怪訝な表情でぼそりとつぶやく。他の者らは、ふたりのやり取りを見守っているだけだ。

 女堝と名乗った女の右手が動いた。リズミカルに土をこねる。

 一同が珍妙なまなざしで見守る中、女堝は何も答えず、ただ緩慢に右の手だけを動かし続けていた。

 やがて、その土くれは、徐々に人の形を成してくる。

「あー!」

 周瑜くんが声を上げた。さもあろう。女堝の掌には、まさに小人と呼ぶべき大きさの、赤子がちょこりと乗っていた。それはもはや土くれなどではない。

 人の肌、髪、目、鼻、口をもつ、なんら普通の人間と変わりのない.....いや、ごくあたりまえの人の子であった。

 赤子は、指しゃぶりをしたまま、だぁだぁとひとしきり笑うと、シンと静まり返った一同に、気を悪くしたのか、大きくしゃくり上げ、激しく泣きだした。

 掌に乗るほどの乳飲み子とはいえ、泣き声は甲高い赤子のそれである。女堝は眉をひそめた。子どもの泣き声が、耳障りだったのだろう。

 彼女は、手をぐいと握り込んだ。もちろん子どもを乗せたままに。

 あわれな赤子の、その顔は、ぐしゃりとゆがみ、ウズラの卵のような両の瞳が飛びだした。右後ろに控えていた張コウが、ぐぅと喉を鳴らせた。吐き気を堪えているのだろう。だが女堝は何の躊躇もなく二度三度と手を動かす。数秒後、もはやその小さなものは、ただの肉塊に過ぎなかった。

「赤ちゃん.....」

 そうつぶやいた周瑜くんの声がかすれている。

 女堝の掌には、こねあわせる前の土くれと、同じものが乗っているだけであった。

「.....まやかしか? 奇妙な術を使うな、女」

 内心の動揺を悟られぬよう、あえて低い声で司馬懿は言った。

「まやかしか否か、おまえにはもうわかっているのではないのか?」

 そう応じたのは伏犠であった。背にした大剣に似付かわしくない、形の整った指が、つ.....と前髪をかきあげた。

「.....女堝、三皇のひとり。黄土からヒト型を作りだした、すべての生ある者の母。伏犠.....おなじく三皇のひとり.....人間の始祖。その神様が何用だ」

「し、司馬懿殿っ?」

 思わずといった様子で、陸遜が司馬懿を見た。だがそれには返事をせず、言葉を続けた。

「見ての通りこちらは取り込んでいる。助ける気がないのなら、早々にお引き取り願いたい」

「肝の据わった男だ。.....名は?」

 凶暴な視線が、司馬懿を捕えた。伏犠の目は、光のかげんで黄金色に輝く。

「.....我が名は司馬懿、あざなを仲達.....」

「.....昨今、人界がさわがしいな、司馬懿」

 世間話のように、伏犠が切りだした。

「そうか? 三十と幾足りしか生きておらぬこの身には、今の世が騒々しいのかそうでないのかは、判じがたい」

「ふ.....狭苦しい中華大陸ひとつをとってみても、三国が相食むがごときにぶつかり合うているではないか」

「....................」

「まこと、ヒト種は矮小でありながらも、けたたましくしぶといものよ」

「狭苦しいというのは、貴公ら神の視点であろう。地に足を付け、空を仰ぐ人々にとって、中華は果てなく広大だ。.....おぬしと人間談義をするつもりはない」

 司馬懿は、ひたりと伏犠を見据え、そう言ってのけた。わずかな間隙の後、司馬懿の言葉を鼻で笑うと、ヒトの始祖はまじめな口調で言った。

「騰蛇の毒は、神仙酒でなければ消せない。眠りが永ければ戻ってこられなくなるぞ」

「騰蛇っ? 騰蛇が実在するのですかッ?」

 叫んだのは陸遜であった。

「騰蛇.....あれはあくまでも神話の中の創造物で.....竜のごときに巨大な.....」

「我らが存在するのだ。ここにはなにが居てもおかしくはなかろう。そうは思わぬか、司馬懿」

 伏犠はふたたび視線を司馬懿に戻した。彼の反応を楽しむつもりだったのであろう。だが彼は石仮面のように表情を変えず、伏犠の期待を裏切った。

「さらにたずねる」

 そう司馬懿は続けた。

「神仙酒とやらはどこにある。そしてその男に残された時間はどれくらいなのだ」

 その男とは、もちろん夏侯惇のことである。

「神仙酒は崑崙山にしかない」

「崑崙山?」

「そうだ」

「漠然としすぎているな。なにより此処が何処で、ここから崑崙山とやらまで、どれくらいの距離があるのだ」

 司馬懿は冷静であった。

 彼は窮地に陥れば陥るほど、平静になってゆくようであった。

「これは異なことを聞く。おまえは崑崙を知らぬというのか、司馬懿?」

「...............」

 あざけるように伏犠が言った。だが彼はすぐに真顔に戻って、司馬懿の耳もとに滴るような声音でささやいた。司馬懿は何も応えなかった。

「何処だと.....? 此処が崑崙であろう。正確には崑崙の山すそといったところか」

「!!」

 司馬懿と陸遜は息を飲んだ。呂蒙もぼう然と突っ立っている。

「崑崙山」がなにやらわかっているのかいないのか、周瑜くんもぼんやりと陸遜の顔を眺めていた。

 

「.....もう.....なにがなにやらわかりません.....司馬懿殿.....」

 あえぐように陸遜が言った。彼はまだ二十歳にも満たぬ青年なのだ。

「落ち着け、陸伯言。新たな情報が次々と入ってきている。気を澄ませ、必要な事柄のみ刻み込め」

 抑揚のない、いつもの口調で司馬懿が言った。そしてあらためて伏犠に向き直る。

「.....『崑崙』についての学問的な知識ならば、この私にもある」

「さすが司馬懿」

 伏犠が茶化したが、司馬懿は相手にしなかった。女堝は仮面のような笑みをはりつけている。

「すべてが渾沌と入り交じり、世捨て人が仙人となって棲み着く霊峰。神々の惣姆、蓮王母がおさめる夢幻の地.....」

「いかにも」

 伏犠が頷いた。口もきかぬ女堝の笑みが、一段と濃くなった。その笑顔は、彼女をあどけない童女のようにも見せたし、禍々しい魔女の笑みにもみられた。

「蓮華座に座す女神は、霊峰の頂に居る。彼女の触れた蓮の花びらひとひらをもらってくればよい」

「.....蓮の花?」

「さよう。その花びらを擦った花汁を飲ませれば、眠りはすぐに覚める。二十日も日を過ぎればその保証はできぬがな」

「あいわかった。.....みな!すぐさま仕度にかかれ! 出発は一刻後だ!」

 一同をふり返りもせず、司馬懿は声を上げた。

「みなさん、行きましょう!」

 陸遜はおのれの為すべきことを心得ていた。冷静な司馬懿と居ることで、常の心持ちを取り戻したのだ。

 20日というタイムリミットがある。かなりの強行軍になる可能性が高い。

 武器と食、できれば身体を保護する布などあれば、持っていきたい。

「軍師殿!拙者、室を回って使えそうな武器を掻き集めて参りますぞ!家人には悪いが非常時じゃ!」

「りくそ〜ん、お弁当つくってくるね〜。台所のゴハン使っちゃお〜」

 呂蒙はドカドカと、周瑜くんはとろとろと、部屋の外に出ていった。陸遜もすぐさまその後に続く。

 

 夏侯惇の室には、横たわった彼自身と、司馬懿、張コウ、そして二神が残った。

「張コウ将軍、私は今少しこの者に尋ねなければならないことがある。気にせず貴公も準備に行かれよ」

 司馬懿はそう言った。常と変わらぬ、淡々とした物言いであった。

「いいえ、司馬懿殿。お話が終わるまでここで控えております」

 早口に張コウが応えた。

 この場を一歩も動くつもりはないという決意のうかがえる、重い声音であった。

「.....では後ろに控えよ。この身を守るように」

 司馬懿の口調はやはりいつも通りであった。

 だが、『この身を守れ』.....その命を下した相手は、数居る武人の中でも、張コウのみである。

「おまかせください、司馬懿殿!」

 張コウは力強く応えた。

「.....伏犠とかいったな」

 神の証を見せた後であっても、司馬懿は彼を「伏犠」と呼び捨てにした。

「まだ何かあるのか、司馬懿」

「ひとつ頼みがある」

「ほう?」

「その者を.....夏侯惇というが、それをここに残していかざるを得ない。我らが為すべきことを終え、ここに戻ってくるまで看ていてほしい」

 到底頼みごとをしているとは思えぬ、横柄に聞こえる言い方で、司馬懿は伏犠にそう告げた。さすがの張コウも目を瞠って軍師を見る。

「くっ.....はははは! ヒトにもおもしろいのがいるようだな、司馬懿よ。おまえはまことに興味深い男よ」

「面白いと評されたことはないのだがな。その反対のことなら何度も言われているが」

「よろしいではないの、伏犠」

 女堝が動いた。華奢な手が空を舞い、細い指をつっと開く。彼女は仰向けた夏侯惇の顔の上に、静かに手をかざした。

「女堝.....」

「私はこの男が気に入った」

 司馬懿は微かに瞠目した。

「隻眼の勇猛な男。武骨だが整った顔立ちをしておるではないか.....」

 彼女は滴るようにそうささやいた。

「ちょ.....ちょっと、そこのあなた! 夏侯惇将軍の身柄をいっとき預かってくれとお願いしているのですよ! 神様だか何だか知りませんが、それ以上のことは許しませんからね!」

 思わずといったようすで、張コウが叫んだ。

「あらあら、なにを心配されているのやら.....」

 女堝は、鳩が鳴くように、クククと笑った。

「伏犠、ここはうぬらを信用するしかない。後のことをよろしく頼む」

 女堝の笑いを遮るように、司馬懿は言った。

「よかろう、我はおまえが気に入った。この男の身柄、しばらく私が預かろう。.....だが忘れるな、猶予は二十日だ」

「わかっている。.....では」

「待て、よいものをやろう、司馬懿」

 伏犠が言った。司馬懿は眉をひそめる。もはや条件反射だ。

「なんだ、これは.....?」

「霊符だ」

 耳慣れぬ言葉を、伏犠が口にした。司馬懿の手には、朱、蒼、黄の三枚の紙片が握らされていた。

「霊符?」

「何かの役には立つだろう」

「.....よくわからぬが、持っていけというのならばそうさせてもらう」

 あくまでも素っ気無い司馬懿であった。

「ああ、そうするがよい」

「.....伏犠、ぬしはこの私を面白い男だと言ったが.....」

「...............?」

「何の関わりもない我らに、いろいろと世話をやく、おぬしのほうが、よほどものめずらしく奇特だと感じるがな」

「ふふん.....さぁ、我にできるのはここまでだぞ、人間。我が子らよ.....」

 そういうと、伏犠が司馬懿の腕をとり、僅かに腰をかがめると、彼になにかを耳打ちをした。

「初めて我に興味を抱かせた男よ、人の子よ。.....無事に此処に戻って参れ。我が.....我らが此処でおまえを待っていること、この男を預かっていること、忘れるな.....」

「もとより承知の上」

 司馬懿は最後にそう応えた。

 その物言いもやはり、何の感情も見出せぬ平坦なものであった。