ああ、無常!
<21>〜<25>
 
 
 
 

 

「うっそ〜〜〜〜っ!!」

「うそうそーッ!」

「し、周瑜殿ッ! 張コウ将軍ッ! 前と後ろでおっきな声をあげないでください! あ、あぶなッ.....」

 ビョウ!と吹きつける突風に、陸遜は岩壁にへばりついた。冷たい風に、もはや指には感覚がない。

「うわぁん〜、こわいよ〜、さぶいよ〜、りょも〜〜」

 上の方から周瑜くんの泣き声が聞こえる。ちっと舌打ちする陸遜であったが、この状況ではいかんともしがたかった。

 崑崙の地は摩訶不思議な場所。

 だいたい「崑崙山」が実在し、仙人や蓮花の女神が棲みつき人界を眺め回しているなど、子どものころの伝え聞いた神話の物語だ。

 だが目の前に迫る狭隘な岩壁は本物であったし、ひっきりなしに吹きつける突風の恐怖はまさしく現実のものであった。

「周大都督! ゆっくりゆっくりでよろしいのです! この呂蒙がお尻をささえておりますぞ!」

「ふぇ〜ん」

「よいしょ! 軍師殿〜ッ! そちらはいかがか!」

 頭上からの声に、陸遜は何とか返事をした。

「だっ.....だいじょうぶです! 大都督を頼みます、呂将軍! うわっ!」

「軍師殿ッ?」

「だいじょうぶっ.....少し滑っただけ.....」

 ガララと音を立て、陸遜の立っている岩壁が、微かにくずれ残骸が下に落ちてゆく。思わず足元に視線を移した彼は、軽い眩暈におそわれた。

 えんえんと登ってきた時間を考えれば、かなりの高度であろうことは想像がつく。だが頭で理解するのと目で見るのは異なるのだ。

 まるで果ての無い谷底を思わせる暗黒色の山すそに、霧のようなうす雲がまばらに漂っている風景は、心胆寒からしめられるのに十分なシチュエーションであった。落ちたらまず命はない。

「.....い、いのちどころか.....身体もバラバラに砕け散ってしまいそうですね.....あとかたもないとはこのことです.....」

 陸遜はぼそりとつぶやいた。

「陸伯言殿、手を」

 間近からの声に、陸遜はハッと我に返った。

「だいじょうぶですか、陸伯言殿」

「ちょ、張コウ将軍.....」

 陸遜は素直に手を預けた。軽く引っぱり上げてもらえるだけで、かなり危険な難所をも軽く登れることに瞠目する。

「すみません.....張コウ将軍」

 

「どういたしまして。あなたはいい方ですからお助けいたします。これが周公瑾ならば、これ幸いとばかりに蹴落としてやるのですが。いよっと!」

「あ、ありがとう.....ございました.....はぁ、冷や汗をかきました」

「怪我はありませんか、陸遜殿」

「だいじょうぶです。さすがは張コウ将軍。身のこなしにおいて右に出るものはおりませんね」

「ええ、まぁ、うふふふ」

「とても助かりました。では行きましょうか。我らがしんがりになってしまったようです」

 陸遜は言った。

「そうですね、行きますか。司馬懿殿の後ろについておらねば」

「ああ、司馬懿殿もこういった状況は苦手でしょうね」

 裾引きの朝服に、垂れのついた冠り物、手には常に黒羽扇をたずさえ、端然と立たずむ司馬懿の姿を想像する。緊張感の無いことだが、思わず笑みを誘われる陸遜であった。

「張コウ将軍、こう申し上げるとご不快に思われるかもしれませんが、司馬懿殿と蜀の諸葛亮先生は似てますよね」

「と、おっしゃいますと?」

「いえ、軍師の類型って二通りあると感じるのですよ」

「ふむふむ」

「諸葛亮先生や司馬懿殿のように、あくまでも参謀司令官として、陣中奥の間で采配を振るうタイプの方、それから私や周大都督もそうですが、前線に出て自ら剣をとるタイプ」

「ああ、なるほど。そう言われてみれば確かに」

 張コウがうなずいた。

「ええ、私などはまだしも、明らかに前者のタイプとお見受けする司馬懿殿には、このようなサバイバルはきついでしょうね」

「うあっ!」

 陸遜が言うのと同時に、狙ったように司馬懿の叫び声が聞こえた。がらがらと石礫がこぼれ落ちる音。

「司馬懿殿ッ! 無理をなさらないで登って下さい! 今、行きますからッ!」

「張コウ将軍ッ! 早くせよッ」

「はいはい。行きましょう、陸伯言殿。ゆっくり後ろからおいでなさい」

 張コウにうながされ、陸遜はふたたび足を前にすすめた。

「おぅ〜い! 皆、がんばれぃ! もう少し行ったところに横穴があるぞーッ!」

 呂蒙の怒鳴り声に、一行はバッと顔を上げた。

「呂将軍! そこから道なりに進めそうですか? 行き止まりですかッ?」

 陸遜が声を返した。大声は岸壁にぶつかってこだまし、幾重にも折りかさなって響き渡る。

 

 司馬懿はもはや声も出なかった。

 情けないといわれるかも知れないが、張コウや呂蒙らとは基礎体力が違うのだ。張コウが一時たりとも気を抜かず、側近くに付いていてくれたおかげで、なんとかここまで登ってこられたのだ。

「司馬懿殿、とりあえず休めそうですよ! だいじょうぶですか?」

 乱れた吐息を整えもせず、司馬懿はただ頷いた。

「司馬懿殿、さぁ、手を!もう少しですから!」

 張コウの言葉に、緩慢な動作で右の手を差し出す。がっしと掴まえ、引き上げてくれる強い力に身を委ね、司馬懿は一歩を踏みだした。

 薄墨色の空に、気の早い星が瞬き始めたことにさえ、気づく余裕はなかった。

 

「よかった、けっこう暖かいです。枯れ草を集めて布をかければ、今夜はゆっくりと身体を休められますよ」

 そう言ったのは陸遜であろう。ここ数日で聞きなれた声だ。

 司馬懿は、ぐったりと張コウに身をもたれかけ、ぼんやりと皆の会話を聞いていた。

 なんやかやと騒ぎ立て、人が入れ替わり立ち替わり、おのれの側を行き来している。そんな気配は伝わってくる。

 だが、この日の強行軍が、司馬懿の身体に与えたダメージは存外に大きく、もはや尋常の思考に耐えうる状態ではなかった。それに加えて、もともとここ数日具合が良くなかったのだ。

 あたたかな枯れ草と毛布の寝床は、あっという間に彼を、泥のような睡眠に誘った。

 夜半、笛の音のような風の音で、司馬懿は目を覚ました。狭隘な地形を吹きつける風は、高い音を放つ。

 かすむ目で周囲を見回すが、あたりは真っ暗である。

 たよりは少し離れたところに見える、小さな焚き火だけだ。番をしていたらしい呂蒙が、こっくりこっくりと舟をこいでいるのを見て、司馬懿はそっと起きだした。

 気づかれぬよう、寝床を抜けだし、薪の山から数本を手に取り、静かに火にくべた。薪は、司馬懿の知らぬ間に、皆で集めてきたのであろう。

 火は、パチパチと音を立て、ぽうっと明るく燃え立った。

「.....何刻であろうか.....ずいぶんと遅いであろうが.....」

 誰にともなく司馬懿はぼそりとつぶやいた。

 もちろん返事など期待せずに。

「.....丑三つ時といったところでしょうか。司馬懿殿、少しはお楽になられましたか?」

 周囲をはばかる小声に、司馬懿はハッと振り向いた。

「張コウ将軍.....」

「まだ、遅い時間ですよ。眠りましょう、司馬懿殿」

「.....ああ、すまぬ。ここに着いてからの記憶が無い。どうやらまたお荷物になってしまったようだ」

「そんなことはありませんよ。元気になられたのならそれでよいのです」

「.....すまぬ」

「やれやれ。此方にいらしてから、司馬懿殿にはあやまり癖がつかれましたか?そんなことより、はやくこちらへいらっしゃい」

 少しおかしそうに張コウが言った。

「うむ.....」

「抱き枕がないとどうにもいけません。さぁ.....」

「なっ.....!」

「さきほどまで、ずっと私のふところでおやすみだったではありませんか。ご存知なかったのですか? ふふふ」

 からかうような物言いの張コウを、じろりとにらみつけると、司馬懿は仏頂面のまま寝床に戻った。もちろん、かたわらに張コウの横たわる枯れ草の寝台である。

「おやまぁ、めずらしいこと。素直な司馬懿殿というのは、あまりに意外でとまどってしまいます」

 くすくすと笑う張コウに、まるで策の伝達をするように、司馬懿は言った。

「誤解されるな。今日は特別だ。貴公にはいろいろと迷惑をかけたゆえ」

「うふふ。では遠慮なく」

 長くしなやかな腕がからみついてくる。しっかりと背を抱き込むその腕は、確かな熱と強さを持ち、司馬懿に深い安心感をもたらした。

 月が冲天を過ぎる。

 二度目の眠りに誘われるのに、それほど時を必要とはしなかった。

「.....何と.....このような場所に出ようとは.....」

 思わず司馬懿はそうつぶやいた。

「ええ、私たちも驚きました。さすが神の苑。一筋縄ではいかないようです」

 応えたのは陸遜であった。その声にもさすがに疲れが混じっている。

 皆が疲れを感じるのは、身体の疲労ではない。精神的な疲労なのである。

 先日、陽が暮れるまで断崖絶壁を登っていたのは、読者諸氏には周知であろう。絶えず行く手を遮るように突風が吹き、慣れぬ登山者の体温を奪っていった。

 だが、今、一行の立つこの場所はどうであろう?

 青々とした緑が息づき、一面に淡い色合いの花が咲き乱れている。木漏れ日はおだやかであたたかく、琥珀色に染まっていた。

「昨日は陽が落ちてからここに来ましたので、周囲の状況はよくわからなかったのですが」

 陸遜が付け加えた。

「うむ、呂将軍が岸壁にあの横穴を見つけたのも、日暮れ近かったしな.....」

「はい、司馬懿殿。それにしても.....まったく解せませんね。凍風吹きすさぶ断崖をよじのぼってみれば、一転して小春日和の花畑とは.....」

「考えても致し方あるまい、陸伯言。ここは『そういうところ』なのだろう。利点のみを前向きにとらえよう」

「ええ、そうですね。この状況は大変ありがたいです」

「ああ。今日は進めるだけ、先に行こう。この土地柄なら苦にならぬ」

 司馬懿は言った。

 温暖な気候と、起伏の少ないなだらかな山道。先日来に比べれば、涙が出るほどありがたい道のりだ。

「そうですね。どんどん進みましょう。山頂まではまだかなりありますから」

 陸遜が言った。今は何を心配するよりも先に進むことだ。そして気を張りつめすぎないこと。

「わ〜、お花〜。キレイ〜、キレイ、ね〜」

 悲壮感とは縁遠い周瑜くんが、大きな声を上げた。のどかな山道には、あちらこちらに見たこともない可愛らしい花が咲きこぼれているのだ。花好きの周瑜くんには、この上なく楽しい風景なのであろう。

「お花〜。ほら〜、りくそん、しばいどの〜」

「おどきなさい、周公瑾。高雅な紫紅の花には、あなたのような白痴美より、私の気高い美貌の方がよく似合います」

 ドンと張コウが、周瑜くんを突き飛ばした。強い力ではなかったが、つま先立ちでかがみこんでいた周瑜くんは、起き上がり小法師のように、ころりんと転がった。

「きーッ! なにすんの、張コウ! このこのーッ!」

「痛たっ! かみつくんじゃありませんよ、周公瑾!このドーブツ! ころころ転がって、あなた最近太ったんじゃありません?」

「太ってないもん!変わらないもん!」

「白痴美でブタさんになったら、白豚さんですかねー」

「張コウ、だいっきらい! どしてそうイジワルなのよ! このこのーっ!」

「ああ、もう、こらこら、およしなさい、おふたりとも」

 分けて入る陸遜の口調も、どこかおっとりとしていて、いつものトゲがない。環境が人間に与える影響は想像以上に大きいのだ。

 つまらぬことで争うふたりを横目に見ながら、司馬懿は短い休息の時を、ゆっくりと味わった。

「ふぅーっ! 大分進んだのではないかな、軍師殿方! 食もとらずに日の出とともに歩き出しましたからのぅ! さすがに腹が減りもうした!」

 呂蒙が言った。そうなのだ、食事も後回しに、一行は歩き出したのである。

「お腹すいたー、お腹すいたよぅ、りくそーん」

 思いだしたように周瑜くんがぐずった。

「そうですね、もう昼になりますね。.....司馬懿殿」

「...............」

「司馬懿殿? いかがなさいました?」

「.....あ、ああ」

 尻上がりに呼びかけられ、司馬懿はハッと顔をあげた。

「司馬懿殿、だいじょうぶですか?」

 心配そうな陸遜の顔が、間近にあった。

「.....いや、すまぬ。少し考え事をしていた」

「そう.....なのですか? すみません、司馬懿殿。病み上がりなのに、結局、皆、あなたを頼りにしてしまっているようで.....」

「.....そんなことはなかろう。体力面では私の方が、貴公らに迷惑をかけぬよう、気をつけねばならぬ」

「いえ.....」

 呉の軍師は思案げな面持ちで、次の言葉をさがしているようであった。さらに気遣いの言葉を掛けられる前に、司馬懿は話をもとに戻そうと口をあけた。だが陸遜の方がわずかに早かった。

「恥ずかしながら.....司馬懿殿が居て下さるだけで、気持ちが落ち着くのです。どんな状況にあっても、常に平静を保ったまま行動されるお姿を見ると.....私も自分の役割りが果たせるのです」

「...............」

「すみません、敵国の軍師の言うことではありませんよね」

 陸遜は少し照れくさそうにそう言った。司馬懿は陸遜の方を見ずに、言を紡いだ。

「.....貴公は私を過大評価している。陸伯言。.....私にもままならぬ不安は幾多もある。だが様々な局面に立たされたとき、より有用な断を下すためには、平常心を持ち続けることが肝要だ。それだけは心がけている」

「.....はい!」

 陸遜が深く頷いた。強い意志を感じさせる声音で。

 両の瞳に輝かしい光を宿した若年の軍師に、司馬懿は次の世代の台頭を感じずにはいられなかった。

「あ、すいません、司馬懿殿。そろそろ食事休憩を取りましょう。もう昼を過ぎますし、皆、お腹を空かせています」

 陸遜が言った。後ろからぎゃーぎゃーと騒々しいのは、またもや張コウと周瑜くんがケンカをしているのだろう。司馬懿はふぅと大きく息を吐きだし、気を取り直して応えた。

「そうだな、陸伯言。どこか良い場所を見つけよう」

「はい、ああ、前に見える樫の木の根元がよろしいでしょう。木陰になっておりますし。.....みなさん!」

 陸遜が皆を誘導しにかかった。

 

「月餅、おいしー。陸遜にもいっこ分けてあげる〜」

 周瑜くんは元気であった。まっさきに弱ると予想されていた彼であったが、不思議の国の住人は最強である。

「りょも〜にも、いっこ〜」

「私にもよこしなさい、周公瑾」

「や! はい、司馬懿どの〜」

「おのれ、この小憎らしい輩めがーっ!」

「ゆらさないでよ、張コウ! お茶がこぼれちゃうじゃない!」

「.....周瑜殿。みなさんに均等にお分けして下さい。それよりあなたは、こちらの干し肉とおにぎりを食べてくれませんか」

「え〜、だってもうお腹いっぱいなんだもん〜」

「どうしてあなたの食事はそう栄養バランスが悪いのですッ?」

「そんなことないもん。タマゴ食べたもん! タマゴ!」

「卵一個食べたっきり、お茶にお菓子ばかりじゃないですか! 少しは健康に配慮して下さい!」

「だってオカシ好きなんだもん.....おにくあんまし好きじゃないんだもん.....」

「まぁまぁ、軍師殿。また夕食のときにでも.....」

「呂将軍! あなたがそーやって周大都督を甘やかしてばかりいるから.....ッ」

「りょも〜、だいすき〜」

「.....司馬懿殿」

 耳元での呼び声に、司馬懿はハッと顔を上げた。目の前で繰り広げられる、あまりにも日常的な場面に見入っていたのだ。

「.....司馬懿殿」

「張コウ将軍.....なにか?」

「あまり食がすすまぬようですが.....お具合が悪いのですか?」

 彼は心配そうにたずねた。

「ふっ.....誰も彼もこの私の容態を気にしてくれているようだな。先だって、陸伯言にも似たようなことを訊かれた」

「それは.....」

「具合が悪いわけではない。ただそれほど食欲がないだけだ。もともと多く食べるほうではないしな。心配されるな」

 司馬懿はややそっけなくそう応えた。

 周瑜くんから受け取った月餅はそのままに、さきほどから握り飯ひとつしか取っていない。それさえ、半分程度口をつけただけで、食べきっていないのだ。

 司馬懿が何と言ったところで、確かに成人男子の食事の量ではないだろう。

 張コウはまだ何か言いたげであったが、司馬懿は気づかぬふりをした。

「ふぁ〜、お腹いっぱい〜。眠くなっちゃったぁ〜」

 のんきな周瑜くんが大あくびをした。

「ダメですよ、周大都督。今日は進めるだけ進まなくては。あと六日しか猶予がないのですから」

「ふぇ〜、ちょっとお昼寝〜」

「あなたの大切な夏侯惇殿の、お命が懸かっているのですよ」

 おごそかに陸遜が言った。その言葉はわがまま周瑜くんにも効き目があったらしい。

「そっかー、そーだね。はやく夏侯惇将軍のところに戻らなくっちゃぁね」

 神妙な顔付きで、周瑜くんがつぶやいた。

「では参ろうか。陸伯言殿の言う通り、今日は行けるだけ足をすすめよう」

 司馬懿は早々に立ち上がった。皆、それにつづく。

 あたたかな日和、平らかな道。

 昨日の遅れを取り戻すには、願ってもない状況であった。

「あー、お花〜。キレイなお花が咲いてるよ〜、りくそ〜ん」

 またもやタカタカと周瑜くんが走り出した。

「見たこともないお花だよ! すっごくキレイ! まっしろなお花〜」

「.....周大都督はずいぶんとお元気であられるな」

 腕を大きく振り回し、皆を呼び集める周瑜くんを見て、司馬懿は思わず低くつぶやいた。

「あ.....はぁ、すいません」

 その言葉をどう取ったのか、陸遜は困ったように返事をした。

「ふ.....貴公が謝られる必要はなかろう。私は思ったままを口にしただけだ」

「はぁ.....悪い人ではないのですが、どうもあの御方は空気が読めないというか、緊張感がないというか.....」

「よいではないか、陸伯言。ただでさえ、皆、気を張りつめているのだ。ああいった風情の人間がいるだけで、大分紛れるというもの.....」

「ええ.....そう言っていただけますと.....」

 陸遜がそう返したときである。

「いったぁ〜いッ!」

 周瑜くんの悲鳴が、ふたりの軍師の会話を遮った。

「いたぁい! 痛いよう!お花のトゲが.....トゲが.....びぃぃぃぃ〜ッ!」

「これこれ、周瑜殿。ちょっと指先をつついただけでしょう。この呂蒙にお見せ下され」

「うぁ〜ん、りょも〜、トゲトゲ〜、抜いて〜」

「う、うむ〜、動かないで下され、周大都督」

「うぁぁぁん!痛いよう!早くしてよう!」

「.....どうなされた」

 司馬懿は泣きじゃくる周瑜くんに声をかけた。呉の大都督相手に、あまり無関心を決め込んでいるのもどうかと思われたのだ。

「司馬懿殿〜、お花のトゲトゲが.....」

 周瑜くんがトゲの刺さった右手を持ち上げて、トコトコと側に近寄ってきた。呂蒙の太い指では小さなトゲをつまみ取ることが出来なかったのだろう。

 周瑜くんの瞳は、ぐしゃぐしゃに濡れている。その茶色の大きな瞳で司馬懿をじっと見つめるのだ。眉間にしわが寄り、思いきり顔を背けたい衝動に駆られるが、司馬懿はぐっとこらえた。

「見せてみよ」

「うん.....」

「動かれるな」

「...............」

 司馬懿は、胸元から小刀を取りだすと、親指と小刀とでトゲを挟み、つっと抜き取った。わずか数秒である。

「ありがと〜。司馬懿殿〜、大好き〜」

 へらへらと慕い寄る周瑜くんに、今度こそ顔を背け、司馬懿は一群に咲き誇る花を見遣った。

 豪奢で美しいその花は、今ならば『薔薇』と呼ばれる品種だ。

「めずらしい花だな、陸伯言。中原でも見たことのない品種だ」

 司馬懿は言った。

「ええ、そうですねぇ。.....江東にも咲いていませんよ。しかし美しい花ですね。白絹のような.....あっ痛ッ!」

「気をつけよ!陸伯言。.....むっ?」

 司馬懿は息を飲んで白い花を見つめた。いやそれはもはや、「白くはなかった」。花弁の内から染み出るように朱が滲みだし、純白の花は徐々に血の色に、姿を変じつつあった。

「.....なんだ.....この花は.....うっ!」

 不意に足元をすくわれ、司馬懿は仰向けに転倒した。頭を打たぬよう受け身をとるのはさすがである。

 司馬懿の足首に、花の蔓がからまっている。ずるりずるりとうごめくそれは、確かな意志をもって人間を狙っているのだ。

 ここはあたりまえの世界ではない。何があってもおかしくない、混沌の地なのだから。

「司馬懿殿ッ!」

 叫ぶが早いか、張コウの朱雀虹がひらめき、長い蔓を掻き切っていた。根から切断されたそれは、なおもぐねぐねと蠢き、しまいにはシュウと焼けるような音を立て、干からびた土くれと化した。

「.....な、何なのだ.....」

 司馬懿はごくりと喉をならせた。

「うわぁぁっ!」

 次の高い悲鳴は陸遜のものであった。鞭のようにしなる枝が、ヒョウと風を切り、陸遜に向かって触手をのばした。それには無数のトゲがひっしりと生えている。

「あぶない!陸遜ッ!」

 周瑜くんの長刀が銀の軌跡を残した。陸遜の眼前一寸を払う。神業だ。

 寸でで切断されたそれは、ボトボトと地に落ち、触手はシュウと腐食して土に還った。

「.....陸遜.....こっちだよ」

「し、周大都督.....」

「軍師殿、大都督殿、この呂蒙の後ろへ!」

「.....不用意に動いてはいけません.....みなさん、囲まれていますよ」

 張コウが低くつぶやいた。

「バカな.....このありさまは一体.....」

 陸遜がつぶやいた。

 そこは先ほどまでの場所であり、またそうでなかった。

 蒼く澄み渡った空。あたたかな陽の光.....

 だが、それらを遮るように、薔薇の幹.....意志を持った触手が、一行を取り囲んでいた。

「考えている暇はなさそうですよ、陸遜殿!.....行きますよッ!」

 シャオッ!

 風を切る刃が、まるでカミソリのように閃き、うねる触手の大群を、こそぎ落としてゆく。目にも止まらぬ早さで、異形の敵と渡り合うのは、孔雀虹をあやつる張コウだ。

 彼のしなやかな肢体が、空に踊り、鋭利な切っ先が降り下ろされるたび、悪意の化身はバラバラと枝を落とされていった。

「呂将軍! 我々も行きますよ!」

「はっ! 軍師殿!」

 陸遜の双剣、閃飛燕が弧を描いて空間を切り裂く。それは回転を激しくしつつ、手元へと戻っていった。

「ハッ!」

「どっせーいッ!」

 陸遜と呂蒙の激・無双乱舞だ。

 ふたりの武器が、雷撃を伴い、一行の周囲の薔薇を薙ぎ払った。そこに司馬懿が黒羽扇を投げつけると、たちまち緑の触手は土くれと化し、わずかな活路が見出せた。

「こちらだっ! まともに相手をしていては切りがないっ!」

 司馬懿は叫んだ。自ら盾となり、爆風と雷電を呼ぶ。彼の武器は黒羽扇だ。飛距離の長いそれは、広い範囲を一掃するのに最も適していた。

「周大都督、お早く!」

 執拗に絡みついてくる触手を切り払い、陸遜がわずかな活路に周瑜くんを呼んだ。

「りくそーんっ!」

「こっちですっ! うわっ!」

 周瑜くんに気を取られていた陸遜の腕に、細い蔓が巻き付いている。トゲの生えたそれは、服を引破り、生身の肉をぎゅうとばかりにしぼりたてた。

「うわあぁっ!」

「よそ見をしてはいけません、陸伯言殿! 周公瑾など放っておきなさい!」

 ザンと張コウが柄ものを振り回し、陸遜に絡みついた触手を断ち切った。

「痛たた.....あ、ありがとうございます、張コウ将軍」

「礼を言ってる場合じゃありませんよ! 司馬懿殿が無双乱舞を発動してくれている間に、敵の包囲を破って脱出ですよ!」

「はいっ!」

「うわぁん、陸遜、待ってよぉ〜。りょもーりょもー」

「わ、わしは大丈夫です! 走りますぞ、周大都督!」

 呂蒙が空いたほうの腕で、がっしと周瑜くんを抱きかかえた。

「早くしろッ! そう長くはもたぬ.....ッ!」

 司馬懿はぎりりと歯を食いしばった。口の中に苦い血の味がひろがる。

 気を集め、念を四方に飛ばす、この攻撃法は、精神の消耗が激しい。一瞬たりとも気を抜けば、力は霧散してしまうのだ。

「くっ.....うッ!」

「司馬懿殿ッ! 皆、脱出しました! もう、だいじょ.....」

 張コウの声が聞こえた。おのれに向けられた言葉であったにもかかわらず、司馬懿はまるで他人事のように聞いた。

「司馬懿殿.....! あぶなっ.....」

 

 バチバチバチ.....ッ!

 

「司馬懿殿、司馬懿どのーっ!」

「くっ.....あぁぁぁぁッ!」

 司馬懿の張った結界が破られた。丸腰同然の肉体に、触手がいっせいに襲いかかってくる。それらは鞭のようにしなり、司馬懿の身体をみっしりとからめとった。

「きゃあー、しばいどのぉ〜〜」

 周瑜くんの間抜けた悲鳴を、どこか遠くに感じる。

 司馬懿が気を取り直したのは、びりびりと絹の裂ける音を間近に聞いたときであった。

 このシチュエーションで、布の破ける音.....となれば、ひき裂かれているのはおのれの衣以外の何ものでもないだろう。

「うっあぁぁぁぁーっ!」

 無数のトゲが肌に刺さる痛みではなく、服をひん剥かれる恐怖に、司馬懿は悲鳴を上げた。

「おのれ、バケモノ! 私の司馬懿殿にーっ!」

「くおぉぉぉーっ!」

 期せずして、張コウと司馬懿の無双乱舞が重なった。それはきらめく紫電を伴い、激・無双乱舞を発動させる。

 瞬時にして、辺りは焼き尽くされ、化物触手は、一瞬ひるんだように見えた。

「くうぅぅ.....ッ」

 司馬懿は思わず片ひざをついた。

「司馬懿殿、司馬懿殿ッ! だいじょうぶですか? キャーッ!ピンチだけど、ラッキー★」

「張コウ! この非常時に、くだらぬことを言うなーッ! .....というか、私を見るなッ!」

「見てません見てません!」

 張コウは叫びつつ、両の手で顔を覆った。だが人さし指と中指の間が、微妙に開いている。

「ひゃあぁぁ〜、司馬懿殿〜。パンツ一枚、風邪ひいちゃうよぅ〜」

「おのれーっ! 周公瑾! どさくさまぎれに、司馬懿殿の玉の肌を見るんじゃありませんよッ! この無礼者ッ!」

「張コウだって見てたじゃない! ちゃんと知ってるんだからーっ!」

「私はいいのですっ! 私は司馬懿殿を愛しているのですからッ!」

「わたしだって、司馬懿殿のこと好きだもん!」

「好きの意味が違うのですよ! だいたい、あなたは.....」

「いいかげんにしろーっ! 何か羽織るものをよこせっ!」

 下帯だけは、命がけで死守した司馬懿は、渾身の力で怒鳴った。

「あぶない、司馬懿殿! まだ.....ッ!」

 予断を許さぬ状況では、一瞬の判断ミスが死を招く。

 衰えを知らぬ、悪意の化身は、なおも傷ついた獲物に襲いかかった。

 ジュウジュウと、肉の焦げる嫌な臭いを発しながらも、彼奴らの生命力は常識の範疇を越えていた。

 シュオォォォォ!

「司馬懿殿.....ッ! よけて.....っ!」

「張コウ将軍、やめ.....ッ!」

 司馬懿は目を閉じた。

 まぶたの裏に、燃え立つ炎の紅が映った。