ああ、無常!
<31>〜<35>
 
 
 
 

 

.....ピチョン.....

 耳元で、水の滴る音がする。

 最期に見た映像.....炎の紅を思い出し、司馬懿の記憶はゆっくりと引き戻された。

「...............」

「.....司馬懿殿?」

「.....う.....?」

「司馬懿殿っ.....気がつきましたか?」

「.....張コウ.....」

 司馬懿はうわごとのようにつぶやいた。声を出したとたん、おぼろげな映像が一気に極彩色に甦る。

 耳障りなあの音.....それは衣を引き裂かれた音ではなかったか。

「.....っ! うわっ.....み、見るなッ!」

 条件反射で飛び起きる司馬懿。

 だがその瞬間、全身に電流が走るような痛みを感じた。

「あうっ.....痛ッ.....!」

「司馬懿殿! だめですよ、急に動いては!」

 慌てて張コウが腕を差し出す。

「よ、よい! いいから、私に触れ.....」

 そこまで言って、ハタと我に返る。バラバラに引きちぎられたはずの朝服。それが元のままにしっかりと着付けられているのだ。

 絹の引き裂かれる高い音が、今でもはっきりと耳に残っている。それにもかかわらず、司馬懿の服には鉤裂きひとつなかった。

「..........」

「だいじょうぶ、だいじょうぶですよ、司馬懿殿! あなたの玉肌は、この張コウが死守いたしました!」

「.....そ、そうではなくて.....」

「ご安心を! 周公瑾には指一本触れさせておりません!」

「い、いや、だから、そういうことではなく.....」

「もう、司馬懿殿のいけずー★ 私だって安全な部分を、ほんのちょっと触っただけですよ! ほんのちょこーっとだけです!」

「そうではなくて! 一体何が起こったというのだ? 服を引き裂かれて、襲われたところまでは覚えているのだが.....」

 司馬懿は思わずおのれの言葉に赤面してしまった。

 だが、「幸運だった」ですませるには、あまりにも腑に落ちないことが多すぎる。だが張コウの返答は、司馬懿の思いもかけない内容であった。

「.....は? なにをおっしゃっているのですか?」

「いや、だから、あの状態で、どうやって助かったのかと.....」

「.....炎を放って、我々を救って下さったのは、司馬懿殿でしょう?」

「なんだと? 炎.....?」

 ふたりのやりとりに、孫呉のふたりもやってくる。周瑜くんだけは、眠り込んでしまって呂蒙の背中でまるまっている。

「はい、とっさのことで我々の攻撃は間に合いませんでしたから.....ねぇ、陸伯言殿」

「ええ、張コウ将軍のおっしゃるとおりです。私の方こそ、もう間に合わないと思いました」

 横合いから、陸遜が会話に加わった。

「...............」

「いかがなさいました? .....本当に覚えがないのですか?」

「.....ああ.....記憶がはっきりとしない」

 不本意ながら、張コウに身体を支えられ、司馬懿は半身を起こした。

「..........? 司馬懿殿、その朱い紙は?」

 背後からの声に、司馬懿はハッといて、胸元を探った。張コウは袷からわずかに顔をのぞかせた朱色の紙を見ている。

「..........つッ」

 ビリビリとしびれる腕を庇いながら、指先でそれをつまみ、引っ張った。

 .....するとどうであろう。

 朱の紙は、司馬懿の指から、もろもろと崩れ落ち、ただの塵芥に帰した。

「.....これが我らを救ってくれたのか.....」

「は? どういうことなのですか、司馬懿殿」

「その朱い紙、見覚えがあります.....それではまさか.....」

 陸遜と張コウに頷く司馬懿。

「.....ああ、張コウ将軍がご存知だな。伏犠から預かったものだ」

「伏犠? あの時の方ですか?」

「そうだ、さすが神様、便利なものを持っている」

 茶化すように司馬懿は言った。ちっともおもしろくもなさそうに。

「.....残る色は、蒼と黄の二枚だけですね。慎重に行かなくては」

 張コウが思慮深げにつぶやいた。

「.....うむ。ああ、もう日が暮れかけているな。だいぶ時間を無駄にしたようだ。うかつだった」

「司馬懿殿! なにをおっしゃいます! 命があるだけ幸いですよ。あの状況から全員生還できたのですから」

 声を励ます張コウに苦笑しつつ、司馬懿は陸遜を見た。

「陸伯言。今少し進めるのではないか。暗くなってきたとはいえ、道がわからぬほどではないし.....」

「いいえ、司馬懿殿」

 陸遜はにっこりと笑った。

「今は、無理に先を急ぐべきではないと考えます。少し行ったところに、古屋敷を見つけました。今宵はそこに身を落ち着けましょう」

「だが.....」

「休息と行動のバランスをとることが肝要です。だれかひとりでも倒れることがあれば、夏侯惇殿を助けるどころの話ではありませんよ」

 司馬懿の反論を予期していたのだろう。それ以上の不服申し立てなど出来ぬほど、論理的に陸遜は言い返した。

「.....わかった」

「さ、それでは私たちも参りましょう。呂蒙殿たちが屋敷のなかを、片づけて下さっていますから」

 張コウが言った。

「ああ。.....くっ.....!」

 立ち上がろうとして、司馬懿は低く呻いた。おのれの受けたダメージをまざまざと思い知らされる。まるで油の切れた鋼のように、ギシギシトきしむ肉体は、おのれのものではないようであった。

 神がよこしたありがたい霊符は、衣服は元通りにしてくれても、身体の傷までは治してくれないらしい。

「痛ッ.....」

「司馬懿殿っ! だいじょうぶですか? さぁ、私につかまってください」

 張コウが慌てて腕を差し出した。

「いや.....いい。深手ではないのだ。ひとりで歩ける」

「いけませんよ。身体の傷よりもショック症状のほうが心配です」

「.....ショック? あの程度のことで.....」

「いいから、さぁ!」

 やや強引に張コウが司馬懿の腕をとって肩に回した。上腕をつかまれた瞬間、電流が流れるような疼痛を感じたが、司馬懿は歯を食いしばり、声を出さなかった。
 
 
結果的に、陸遜の言に従ったのは正しかった。

 司馬懿の負傷した身体では、あばらやにたどり着くまで、かなりの時間がかかったのだ。

 深手ではないので、明日になって腫れが引いてくれれば、不自由はなかろうが、今は服地にこすれるだけでぴりぴりと痛む。

 簡単な夕食を終え、陽がとっぷりと暮れるころには、司馬懿はショックと疲労で早々に寝入ってしまった。最期の記憶は、誰かが近寄ってきて、そっと毛布をかけてくれたことであった。

 

 彼が再び目を覚したのは、深夜.....それも明け方近い頃合いである。

 

 パシャン.....という水の跳ねる音。

 遠く、おぼろげに響く、その音に誘われるように、司馬懿は静かに起き出した。身体の傷は、もう痛まないといえば、ウソになるが、ほてりも抜け、昨夜とは比べ物にならぬほど、楽になっている。

 

「.....私としたことが、服も替えずに寝入ってしまったのか.....」

 襟口をひっぱり、顔をしかめる司馬懿。やはりサバイバル向きの男ではないのである。

 昨夜たどり着いた古屋敷は、まるで幽霊屋敷と呼べそうな代物であったが、野宿に比べれば幾分マシである。

 雨露はしのげるし、風も防いでくれる。

 幸い暖かな気候であったため、火もそれほど必要とはしない。

 

 くされかけた床板を踏み抜かぬよう気を配り、司馬懿は屋敷の扉口に向かった。くずれかけた門の近くで篝火の残骸がくすぶっている。おそらく、陸遜の指示で、用心のため火を灯していたのだろう。

「.....少し歩いたところに、小川が流れていたな.....身を浄めるか」

 まだ陽も昇る前なのに、空気が生暖かい。今日は昨日よりも暑い日になるのかも知れない。

 司馬懿は目的地へと足を速めた。

 

 

 



 

 

 

 

 果たしてそこには先客がいた。

 消えかかる満月が、最期の光を白々と落とす。

 

 その裸体は、小川からつづく、小さな湖に立ちとどまり、月光浴を楽しんでいるかに見られた。

「....................」

 司馬懿は大木に手を添え、言葉を出さず、しばしその姿に見入った。

 こちらに背を向けているせいで顔は見えない。ただ長い黒髪が、しっとりと露を含み、腰の辺りを覆っていた。

 月の光に映し出される肌は、絖のように照り輝き、白くおぼろげに見える。

 

「.....そこに誰か居るのですか?」

 そう問い掛けられ、司馬懿はハッと我に返った。

 

「.....張コウ.....?」

「おや、司馬懿殿でしたか」

 張コウがこちらをふり返り、にっこりと笑った。いつもと変わらぬ笑顔のはずが、銀の光に蠱惑的に浮ぶ。

「いかがなさいましたか? まだ早すぎる時間ですのに。目が覚めてしまわれましたか?」

「いや.....ああ、貴公のほうこそ」

 司馬懿はぼそりと言葉を返した。

「ええ、なんとなく起きだしてしまいました。夜中とは言え、この気温ですし、水浴びには最適です」

 バシャリと水しぶきをあげて、張コウが立ち上がった。すらりとした細身は性別を感じさせず、整った面立ちが、寓話の中の神姫に重なる。

 だが、目を凝らして見つめれば、すんなりとした裸体には、無駄なく筋肉がつき、しなやかではあっても脆弱な印象はない。

 これまで感じたことが無かったわけではないが、司馬懿はあらためて張コウを美しい人間だと思った。

 

「.....司馬懿殿? どうしましたか、だまったままで」

「え.....あ、いや.....その、いつまでもそんな格好でおられるな。早くなにか羽織らぬか」

「うふふ、んもー、司馬懿殿ったら照れちゃって〜」

「バカなことを申すな! 風邪をひくと言っておるのだ!」

「はいはい。しーっ、あまり大きな声を出すと、みんな起きてきてしまいますよ」

 前かがみになって人さし指を立てる張コウ。子どものようなしぐさだ。

「それに、風邪を引くって.....この気候ですよ? ちょうどよいくらいです」

 長い長い黒髪が、水を含んで白い肌に張り付いている。普段、ひとつに結わえてある髪を、そうして背に流すだけで大分雰囲気が変わるものである。

 ごく自然に、司馬懿は触れてみたいと感じた。深い意味合いではなく、ただキラキラと輝く、つややかなそれの手触りに興味を覚えたまでである。

「司馬懿殿も水浴びにいらしたのでしょう?」

「え.....ああ」

 片方の手に、しっかりと笊を抱えこみ、布と薄衣を腕にひっかけたいでだちを見れば、一目瞭然である。

「おいでなさい、髪を洗うのを手伝いましょう」

「いや.....自分で.....」

「くすすッ。いやですねぇ、そんなに照れることはないでしょ、司馬懿殿。早くいらっしゃい。..........身体の傷を、見せて下さい」

 ほんの少しつらそうに、張コウがささやいた。

司馬懿は何も応えずに、上着を脱いだ。

 冠を取り外し、上襲の帯を解く。下衣一枚の姿になり、そっと流れに足を浸した。

 重厚な朝服の上からはうかがい知れぬが、司馬懿の身体には適度に筋肉がつき、色白とはいえ惰弱な印象は受けない。むしろ、やや細く、骨張った腕や足は、机上で戦略をこねくり回す、軍師というイメージよりも剄直な印象であった。

 下着から透ける白い肌に、未だ痛々しく、紅の筋が走っている。

 張コウは、それを見ると、形のよい眉を、悲しげにひそめた。

 

「そのような顔をするな。.....痛みはもうほとんどない」

 司馬懿は先にそう言った。そして言葉を続ける。

「.....水が心地よい。だが、思ったほど冷ややかではないのだな」

「ええ、昼間の陽気で大分あたためられたのでしょう。水浴びには、このくらいがちょうどよいと思います」

「うむ.....」

「さ、こちらへおいでなさい。少し深くなっているから、お気をつけて」

「ああ」

「.....傷に染みますか?」

 司馬懿の一挙一動を、張コウは見逃さなかった。まるで母鳥のような気遣いようである。

「.....いや.....むしろ気持ちがいい。身体の熱が引いていくようで.....」

「そうですか.....それはよかった。その辺の石に腰掛けて、下を向いてください。髪を洗ってあげますから」

 司馬懿は促されるままに、浅瀬の岩に腰を下ろし、髪をくくる紐を外すと、素直に下を向いた。黒髪がばらりと前に広がる。

 もはや身体の傷は、なんともなかったが、気遣いに甘えたほうが、張コウも安心すると考えたのだ。

「少し髪が伸びましたね。肩口を大分超えました」

 張コウが言った。

「久しく整えていなかったからな。見苦しいかもしれぬ」

「そんなことはありませんよ。しっとりしていて、艶やかで.....とても綺麗な御髪です」

 ザザザ.....と耳元で水音がする。張コウが手にした柄杓で、川の水をかけてくれているのだ。司馬懿の髪は、肩より少し長いところで、ふっつりと切りそろえられている。

 許昌を出てから今日まで、ほとんど手入れをする余裕がなかったが、司馬懿のそれは、いつでも神経質なまでに、清潔にととのえられていた。

「気持ちがよろしいでしょう」

「ああ.....心地よい」

「もうすぐ、済みますからね」

「うむ.....」

 数度、柄杓の水を流し、軽く絞った後、張コウは持参してきた竹櫛で、静かに髪を梳いてくれた。

 すうと鼻先に、清涼な芳香を感じ、司馬懿は下を向いたまま問うた。

「何なのだ、それは.....」

「香草を揉んだものですよ。最後にこれを塗り付けて、もう一度水を流せば、髪が元気になりますから」

「ふ.....」

「おや、バカにしてはいけませんよ。これは膏薬としても使われている薬草なのです。.....せっかくの綺麗な髪、大切にしませんとね。.....はい、けっこうです」

「.....手間をかけた」

「どういたしまして。すっきりしたでしょう?」

 張コウが笑った。月明かりに照らし出された、細い瀟洒な顔立ちが、ぼうと朧げに輝いていた。

「ああ.....久方ぶりに.....快い.....」

 司馬懿は満足げに吐息した。

 張コウが髪に擦込んだのは、今でいうハーブの一種だろう。鼻先にぬける、涼やかで、ややくせのある芳香が、司馬懿には心地よかった。

「少し時間がかかってしまいましたね。司馬懿殿、身体の傷は痛んできませんか?」

 張コウがたずねた。

 いったい、何度目の問い掛けであろう。司馬懿は密かに笑みを堪えた。

 張コウという人間は、自己中心的で唯我独尊タイプの将軍と思われている。戦であっても、自己の興味の在りようによって、その戦略を組み立てるところがある。

 彼が纏う、派手で奇抜な雰囲気のせいで、周囲の人々はなかなか気づかぬが、張コウは自己の価値観を行動規範の中心に据えながらも、戦場において、彼の選択する行為は、常に合理性があるのだ。そしてこの上なく、冷静沈着で部下からの信望も篤いことを、司馬懿は知っていた。

 

 会話が途切れたところ、張コウが困ったように問い掛けてきた。

「.....なんです? いかがなさいました? また、急に黙り込んで。本当は深手なのではありませんか? 痛むところがあるのではないですか? それとも夜風にあたってしまったのではないでしょうね?」

「いや.....そうではないというのに」

 張コウが、唯一自分以外の人間に、ここまで興味を寄せ、心を傾けるのは司馬懿にのみであった。

 彼はたびたび、その唇に、「愛している」という言葉をのせる。冷たい司馬懿の手を、両の手のひらで押し包み、やさしく語りかける。思いを顔に出すことにさえ、はばかりはない

『ずっと側におりますよ。お守り申し上げます。私の愛しい人.....』

 

 頭の片隅に、くり返し告げられる言葉が、強く焼き付けられている。司馬懿は、時折それを、胸の奥に引っ張り込み、そっと転がしてみることがある。

 するとその部分だけが、陽の光に照らされたように、ぽうっと暖かくなるのだ。それが、何なのか、何故なのかはわからない。司馬懿はそれを、あえて知ろうとは思わなかった。深く踏み込んで、分析し、自己の判断を下そうとは考えなかった。

 

『.....私の愛しい人.....』

 いつでも、欲しいときに、彼の言葉を思い出すことができるのなら、それはただ、それだけのままでよかったのだ。

 

「司馬懿殿.....?」

「ああ、いや、すまぬ。少し考え事をしていた。身体の傷はもう何ともない。腫れも引いたし、もともと浅い引っ掻き傷ばかりだからな」

「そうですか.....」

「ああ、まだ見苦しかろうが」

「そんなことはありませんよ。あなたはいつでも綺麗です」

 冗談とも思えぬ口調で、張コウが言い返した。

 わずかな間隙の後、再び口を開いたのは張コウのほうであった。

「.....司馬懿殿.....すみません」

「何だ? なにをあやまる、張コウ将軍」

「.....また、お守りできませんでした。あなたのことを想う気持ちは、これほどまでに強いのに.....少し自分が情けなくなってきました」

 ふぅと大きなため息をつき、細い指先が、濡れた前髪を払う。水しぶきが頬に飛び、司馬懿には、彼が涙を流しているかのように見えた。

「そのように言われるな。ここは我らの見知った世界ではないのだ。妖怪変化の襲撃など、誰がまともに対応しきれるというのだ。.....今、我らがこうして生きているだけでも儲けものだ」

「ええ.....」

「この怪我は貴公のせいではない。私が不覚をとったまでだ」

「司馬懿殿.....ふふ、ありがとう。.....この不安だらけの世界も、嫌なところばかりではありませんね」

「.....なにがだ?」

「ふふ、何だか司馬懿殿は、こちらにいらしてから、ずいぶんとやさしくなられましたね。まぁ、私はどんな司馬懿殿でも大好きですが」

 ふふんと得意げに、張コウは言って退けた。何の迷いもなく、言い淀みもなく、むしろ自信あり気に。

 司馬懿は、すぅ.....と気づかれぬよう息を吸い込んだ。これまで、まともに彼に問うことが出来なかった問いを、なぜか今、口にしてみたくなった。

 理由は彼にもわからない。

 あえていうのならば、見知らぬ世界、蒼い月に、清かな流水.....種の知れぬ花の、ふくよかな芳香。

 そして白々と浮かび上がる彼の人の常ならぬ姿が、闇軍師の鉄腸をわずかに蕩かしたのかもしれない。

「.....張コウ」

「はい? なんでしょう、司馬懿殿」

「.....少しだけ、訊ねたいことがある」

「はいはい、なんなりと」

 少し面白げに張コウが応えた。

 司馬懿は両の足を流水に浸したまま、低く言を紡ぎ始めた.....

「.....張コウ将軍.....」

「はいはい」

「貴公がよく口にする言葉があるだろう.....」

「.....は?」

 不思議そうに、張コウが司馬懿の顔を見た。

「.....だから.....その.....」

 思いも寄らず、言葉が詰まる。そんなおのれを、いささか情けなく感じたのか、司馬懿はやや語気を強めて続けた。

「.....だから! 貴公はよく.....私を守る.....とか、ずっと側に居るなどと言うであろう」

「ああ、そのことですか。ええ、何度も申し上げておりますよ。そう決めたことですから」

「.....何故だ」

 司馬懿は、張コウの顔を見ずに口を開いた。返事がなければ、いっそ問い掛けそれ自体を、無かったことにしてしまえるような気がして。

「.....いや.....その.....」

「司馬懿殿?」

「.....その.....なぜ.....何ゆえ.....この私を.....」

 目を反らせたまま、独り言のようにつぶやく司馬懿。

「私が、どうして司馬懿殿を特別に想っているのかと、そう問いたいのですか?」

 あっさりと、しかし核心を突いた問い返しに、司馬懿は言葉を失った。緊張のせいか、両の足を浸している小川の水も、まったく冷たくは感じない。

「.....そうだ。前から.....不思議に思っていた.....」

「まぁ、困った方。何が不思議だというのです?」

 やれやれといったように、肩をすくめ微笑する張コウ。その余裕にかすかに苛立ちを感じ、司馬懿はふたたび言葉を続けた。

「.....不思議だ。理解できぬ.....何故.....私なのだ.....」

「黒羽扇の闇軍師にも、わからぬことがおありなのですね。ふふ」

「張コウ!」

「ごめんなさい。あまりに愛おしくて、ついついからかってしまいました。.....司馬懿殿は本当にご自分の魅力にお気づきではないのですか?」

「.....魅力だと?」

「ええ、そうですよ」

「.....私のとりえは、軍略をひねり出す、この脳漿のみであろう」

 吐き捨てるように、司馬懿は言った。

「まぁ、本気でおっしゃっているのですか? ご自分を知らないというのは、罪なものですねぇ」

「からかうな!」

「からかっているのではありませんよ。本当にそう思うのです。あなたはご自身の在りように無関心すぎます」

 張コウが言った。その声音に揶揄の色は見えなかった。

「あなたがほんの少し微笑むだけで、いったいどれほどの人々が幸せになれるでしょう。心あたたかな気持ちになるでしょうか」

「な.....に? 言っている意味が.....」

「ねぇ、司馬懿殿」

 司馬懿のつぶやきを掻き消すように、張コウが彼の名を呼んだ。

「私はね、司馬懿殿。戦陣で采配を振るっている、怜悧なあなたの横顔が好きです。時には自ら剣を取り、総大将をもつとめる、勇敢な武人としてのあなたも大好きです」

「張コウ.....」

「いつでも、どんなときでも、曹魏のため、自らの目的のために、気を張り続け、幾多の敵をその手で葬り去ってきた.....そんなあなたを愛しています」

「....................」

「.....今も、そしてこれからも、終わり無い戦いの中に、身を置き、自らの道を切り開いてゆく司馬懿殿.....そんなあなたが愛おしい.....他の誰よりも」

「馬鹿な.....ことを.....」

「大好きですよ、司馬懿殿」

「.....この手は.....血にまみれているというのに?」

 司馬懿はつぶやいた。張コウを見ずに、まるで自身に問い掛けるように。

「ええ、愛していますよ、司馬懿殿」

「.....洗い流しても、決して消えることのない.....この穢れ」

「ええ」

「これからもまだ、幾足りもの人間を屠る、この両の手.....」

「ええ、司馬懿殿。あなたのすべてを愛しています」

 震える指先が、張コウの両の手のひらで押し包まれる。司馬懿の目線の少し下。見上げるように首を傾けて、張コウがささやいた。

「今、在るがままのあなたを、心から愛していますよ。ずっと側に居ります。お守り申し上げます」

「.....張コウ」

 目の前の白い顔が、不意にぼやける。

 

「.....司馬懿殿? いかがなさいました?」

 張コウの、心配そうな声。

 熱いものが頬を伝って、顎からこぼれ落ちる。それは小川の流れに吸い込まれ、跡形もなく消えていった。しかし、次から次へと、とめどなく流れ出す涙に、司馬懿は為す術が無かった。

「司馬懿殿.....どうなさいました?」

「.....なんでも.....ない」

「顔を背けないで.....私を見て下さい」

 張コウの手が、司馬懿の腕を掴んだ。乱暴な力ではなかったが、振りほどくのは容易ではなさそうだった。

「.....ダメだ.....今.....見苦し.....い.....」

「あなたに見苦しいところなど、ひとつもありませんよ」

「.....貴公は.....奇特な男だ.....」

 言葉が嗚咽にとってかわらぬよう、息をつめて司馬懿はささやいた。

「私はキレイですけど、ちっともキトクではありませんよ。.....んもう、ホントにお顔をみせて下さらないおつもりですか?」

「よせ.....だから.....見苦しいと.....」

「もう! 私の気持ちだけ聞きだしてずるいですよー! この照れ屋さん★」

 張コウは冗談交じりにそういうと、スックと立ち上がった。足元に座り込んでいた彼に顔を見られぬよう、司馬懿は上向きかげんに顔を背けていたのだ。

 勢いよく立ち上がった張コウは、期せずして、真っ正面から司馬懿のおもてを、のぞき込む形となった。

 不意を突かれた格好の司馬懿。微かに口を開け目を見張る。肩口よりも少し長い黒髪が、濡れて首筋にはりつき、月の光を跳ね返していた。たった今のやりとりのせいか、いつもの白蝋の頬がわずかに上気し、骨張った肩は、微かに上下していた。

 張コウはそんな司馬懿の姿を、しばし見つめ、ふと笑った。

 

「.....ほら.....やっぱり.....こんなに綺麗ではありませんか.....」

 張コウが両の手で、司馬懿の頬をそっと包んだ。少し冷えて冷たくなった口唇に、彼の人の唇が降りてきても、司馬懿は逆らわなかった。

 ついばむような接吻がくり返され、司馬懿が空気を求めて、わずかに唇を開いたとき、張コウの舌がするりと入り込んできた。

 歯列を割られ、口腔を愛撫される不可思議な感覚に、司馬懿は下肢が疼くのを感じた。ゆるりと銀の弧を描いて、張コウの唇が去るのに、微かな胸の痛みさえ覚えた。

「.....司馬懿殿」

 張コウがまた彼の名を呼んだ。今日、自らの名を口にされるのは、何回目であろうか。そんなことを考えているうちに、張コウの細い指が、濡れて張り付いた胸元の合わせ目に滑り込んだ。

「..........ッあ」

 思わずこぼれ落ちた声に、司馬懿自身が驚いた。流水に浸され、冷えた身体に灯火が点る。

「.....張.....コウ.....?」

「司馬懿殿、好きですよ。こんなにもあなたのことを愛しています」

 ふたたび頬に手が添えられ、確認するようにくり返し口づけられる。

 張コウはいつでも饒舌だ。無口な司馬懿とは対照的に、何度も何度も「愛している」と口にする。まるでその想いを、司馬懿の脳裏に刻み込み、日々の記憶に彼の軌跡を残すために。

「愛してます.....私の司馬懿殿.....」

 張コウの口唇が喉元を滑り、鳩尾の辺りにたどり着く。肩が軽くなったのは、濡れた下衣の合わせ目を、彼がほどいたせいだろう。

 張コウの動きが一瞬だけ止まった。

『見られている』そう思うと、司馬懿はあわてて手を伸ばした。それをすいと受け止める、おのれのものよりも、一回り大きな張コウの手。

「.....本当に恥ずかしがり屋さんですね.....」

 張コウが小さくささやいた。愛おしげに目を細める。

「こんなに綺麗なのに、何を隠す必要があるのでしょう」

「よせ.....私は.....見苦しい.....のだから.....」

「やれやれ、本当に困った人ですね.....美神の使徒、張儁乂の言うことが信じられませんか? .....触れたいのに.....触れてしまうのがもったいないような気がしますよ」

「.....張.....コウ.....」

 ぼやける視界の中で、美神の使徒はやわらかく微笑んだ。

 しなやかな腕が背に回され、白い指が肌を伝う。心地が良いのに、なにかまどろっこしいような、泣けてくるほどの切なさが、甘い疼きとなって、司馬懿の脳裏を犯した。

 張コウの唇は、数えきれぬほど、何度も肌をすべり、そのたびに、背筋が痺れるような感覚が司馬懿を襲った。

 乱れる吐息を、必死にかみ殺していたとき、司馬懿の耳朶に張コウがつぶやいた。

 

「.....すみません.....司馬懿殿.....止められそうにありません.....」

 そのささやきは、ずいぶんと遠くから聞こえたような感じがした。

「司馬懿殿.....」

 おのれの名を呼ばう、張コウの声が熱くかすれている。

 額に頬に、鼻先に.....そして唇に、数えきれぬほどの口づけが降ってくる。

 今ならばまだ拒絶することは可能だろう。

 これから嫌でもさらけ出すことになる、おのれの醜態を思えば、力づくでも張コウの腕から逃げ出すべきだ。そうとさえ感じる。

 だがそれらの物思いは、すべて朧げで形を成しておらず、どこか虚ろであった。

 

「司馬懿殿.....大好きです.....永遠に.....愛しておりますよ」

 低いささやきが耳朶に滴る。川べりの芝生の上に、張コウが夜着を敷いた。持ってきていた着替えであろう。

「.....張コウ.....?」

「すみません。気の利いたものがなくて」

 川の流れから抱き上げられ、壊れ物を扱うように、その上に横たえられる。さらりと乾いた布地の感触が、司馬懿には心地よかった。

「.....よせ.....汚れるではないか.....」

「何を気にしておられるのですかね、この可愛い人は」

 彼はくすりと小さく笑った。

 張コウの白い指が、つと延ばされる。

 水気だけで身体に張り付いた、一枚の下衣。帯はとうにほどかれているのに、司馬懿は片手だけでぎっちりと、合わせ目を押さえつけていたのだ。

「司馬懿殿.....そこを外して下さい」

 押さえていた手の甲に触れられ、やんわりと頼まれる。

 司馬懿は張コウをにらみつけたが、白い美しい顔は、始終笑みを湛えているばかりであった。その余裕が癇に障り、やや乱暴に手を振りほどいた。

「おや、めずらしくも素直ですねぇ」

「.....別にこんなこと.....どうということもない。貴公がそこまで求めるのならば.....それに応えるだけの準備は十二分にあるということだ」

「ぷっ.....フフフフ」

「なんだ! なにがおかしい」

「いえ.....」

「笑ったではないか!」

「ええ、そうですね.....つい、ね。.....ああ、本当に.....あなたはとても素敵です。この上なく愛おしい人ですよ、司馬懿殿.....」

 放り出したままの司馬懿の手をとり、甲にそっと口づける。張コウの仕草は、まるで西洋の青年貴族だ。

 

「さぁ、司馬懿殿.....楽になさって」

 声が近かった。

 張コウの薄い口唇が、額からこめかみ、こめかみから頬に、ゆっくりと滑ってゆく。唇にたどりついたあと、耳朶を噛み、喉を伝って胸元に消えた。そこには水気を含んだ下着が、すき間なく張り付いている。

 張コウの手が、肌と生地の間に巧みに忍び込み、それを大きくはだけさせた。

 下腹から下肢に夜の冷気を感じ、司馬懿はわずかに身じろぎした。

「.....お寒いですか?」

「.....別に」

「大丈夫ですよ.....すぐにあたたかくなりますから」

「張コウ.....ッ!」

 からかうような物言いに、異を唱えようと開けた口を、唇でふさがれる。怒鳴り声はくぐもった苦鳴に変わってしまった。

 先ほどまでの薄紅色の軌跡を、ふたたび唇と舌でなぞられる。耳の裏側に、彼の吐息が吹きかかり、くすぐったさに司馬懿は身をよじった。

 

 

 張コウの手は大きい。普段は気にも止めないが、こうして肌を滑る彼の手のひらを、直接身体に感じると、よけいにそう思う。

 司馬懿自身、決して小柄なほうではなかったが、魏軍の猛者どもに囲まれると、文官の彼は埋もれてしまう。しかし張コウは、そのような鬼神どものなかに紛れても、頭ひとつ抜け出ているのだ。

 女と見紛うほどの美貌と、独自の美意識に則って行動する彼に、普段は男としての猛々しさや、逞しさを感じることは少なかった。だが、なぜかこんなときにばかり、司馬懿は、彼の男性としての優位性を感じてしまう。

 白くしなやかな.....だが十分に大きな手のひら。無駄な肉付きの無い、鋼のような両の腕。痩身でありながらも、やすやす人ひとりの抵抗を封じ込める強じんな肉体.....

 

「.....ッ.....う.....」

 司馬懿は、ともするとたやすくこぼれ落ちてしまう吐息をこらえた。ゆるやかな愛撫が徐々に下方に降りてゆく。彼の口唇がついばんだ痕が、熱をもって疼いている。

「.....ッ.....張コウ.....ッ」

 思わず延ばした片方の手に、彼の濡れた髪がさわった。仰向けに横たわった司馬懿の瞳に、ぼんやりと白く輝くものが映る。

 月だ。

 今宵は雲が少なく、月光があざやかに降り注いでいるのであった。

「.....張コウ.....ッ


 跳ね上がる吐息を押し殺し、司馬懿は彼の名を呼んだ。

「張コウ.....!」

「.....いかがなさいました?」

 張コウがそれに、やわらかく応じた。

「.....張コウ.....月が.....」

「.....はい?」

「月が.....見て.....いる.....」

 司馬懿はようやくそれだけを言った。

「放っておきなさい.....ヤキモチを焼かせてやりましょう」

 吐息まじりのささやきが、とろりと闇に溶けた。