ああ、無常!
<31>〜<35>
 
 
 
 

 

「う.....くッ.....」

 司馬懿は口もとにあてた、右手の甲を噛みしめた。

 高まった熱の中心に、濡れた感触がまとわりつき、思わず声を上げそうになったからだ。乱れてゆくおのれの痴態が脳裏に浮ぶ。内臓がちぎれるほどの羞恥と嫌悪が襲ってくる。

 張コウはいつでもやさしい。不慣れなおのれの手をとって、先にすすめてくれる。

 だがなけなしの矜恃を残酷に奪ってゆく甘い陶酔と、胸の奥底で、実はそれを渇望している、肉のあさましさに直面することは、何度くり返しても慣れることのできない苦痛であった。

「くっ.....うっ.....」

 押し寄せる波に逆らうように、司馬懿は大きく頭を振った。

「司馬懿殿、いけませんよ。手に傷がついてしまいます」

 愛撫の手をやすめず、張コウがささやいた。

「声をこらえないで.....男がこれを気持ちいいのはあたりまえなんですから」

「..........ッ.....」

「強情な人ですねぇ.....」

 あきらめたような声とともに、大きな溜息をつく張コウ。それさえもが下肢の刺激になる。

 呼吸をととのえるまもなく、ふたたび熱の中心を口腔に含まれる。説得をあきらめた張コウは、はやく欲望を吐きださせようとしているのだろう。

 これまでのもどかしい愛撫とは異なり、性急においたてられる。司馬懿は腕をのばし、下肢でうごめく張コウの髪をつかみしめた。

「張.....コウッ! 張コ.....ウッ 放せ.....!」

 渾身の力をこめて引きはがそうとているのに、微動だにしない。こんなときに、腕力の差を白々と見せつけられる。

「ダメだ.....っ! も.....よせッ」

 司馬懿の黒髪が汗ばんだ頬と首筋にはりつく。唯一動かすことの出きる頭を否とばかりに振ることしか、今の彼にはできなかった。

「う.....あ.....あっ.....あっ.....!」

 司馬懿の白い身体が大きくのけぞる。

 それは月明かりとともに、水面に溶けてゆくかに見えた。

「は.....はっ.....は.....ぁ.....」

 張コウは残滓の残る口元を片手でぬぐうと、激しく上下する司馬懿のうすい胸を撫でた。

「だいじょうぶですか? .....そんなにこらえることはないでしょう」

「は.....ぁ.....は.....ぁ.....」

「司馬懿殿.....我慢しないで.....声を聞かせて下さい」

 張コウの柔らかな口唇が目じりに吸いつき、つと耳元にすべった。そのしぐさを、涙を吸い取ったのでなければよいと、司馬懿は思った。

 もはや力なく投げ出したばかりの両の脚。その間に手がすべりこむ。

 押し広げられるように力を込められ、反射的にびくりと身がすくんだ。なだめるように内股を撫でられ、司馬懿は目を閉じ合わせた。

 最奥をさぐられる不安と羞恥で、知らず知らずのうちに、眉間に深いしわが刻まれる。

 しかし一度気をやった肉体は、異物の侵入をたやすく受付けてしまう。

 張コウの行為はやさしい。

 肌を重ねるのは、これが初めてではなかったが、乱暴に扱われたことなど一度もなかった。

 例えば、今このときも、彼自身堪えに堪えた熱の高まりは、はち切れんばかりであろう。だが決して逸るようなことはしない。行為に慣れぬ司馬懿の身体が、受け止められるようになるまで、ゆっくりと導いてくれる。

「くっ.....あッ.....あっあっ!」

 内部に入り込まれたわけでもないのに、貪欲な肉体の渇きが、次の快楽を期して高ぶってゆく。最奥に押し当てられ、司馬懿はびくりと身震いした。

「力を.....抜いていてください.....お願いしますから.....」

 張コウの声にもさすがに先ほどまでの余裕はない。

 男の肉体は受け入れるようにはできていない。片手を口にあて、ぐっと力を込め、息をとめる。

 それは無意識のうちの、司馬懿のくせなのだ。声を上げまいという。

「ぐ.....う.....うっ.....」

「司馬懿殿.....どうか.....楽にしてください.....」

 困ったような張コウの物言い。

 司馬懿だとて理屈ではわかっている。ただでさえ、無理のある行為にガチガチに緊張してのぞめば、苦痛はいっそう大きくなるのだと。

 張コウは必ず言う。

『力を抜いて私に任せて下さい。身体を楽にして下さい』と。

 だが司馬懿は、いつでもそれに抗うかのように、歯を食いしばり、気持ちの糸を張りつめる。

 この行為に苦痛が伴うのは、むしろありがたかった。それを堪えている間だけは、気絶しそうな羞恥心さえも、いっとき忘れてしまうことができた。

 そんな司馬懿の物思いを知ってか、張コウの大きな手がなだめるようにわき腹をすべる。早鐘のように脈打つ左胸をさすり、腰骨から背に回され、抱きしめられた。

 最奥にたぎった熱の高まりを感じる。ぐぐぐと迫り、狭い肉壁をかき分けてくる。

「うっ.....」

 張コウのかみ殺した苦鳴が、司馬懿の耳元にこぼれ落ちた。

「し.....司馬懿殿.....力を.....入れないで.....拒まないでください.....」

「うっ.....ッ.....」

「お願いですから.....傷つけたくないんです.....」

「う.....は.....はぁッ.....はぁッ!」

 痛みと高まりの予兆が入り交じり、内が熱で火照る。冷たい空気を求めて、司馬懿は喘いだ。

 何度くり返しても、その瞬間の感覚には慣れられない。

 

 苦痛はもっと後からやってくる。ましてや今は快楽など感じはしない。ただ自らの肉体の最奥を押し広げられ、そこに凝縮された熱の固まりが入り込んでくる。それだけだ。

 絵物語で読むような、めくるめく快感も、交わり感動など、いっさい感じはしない。

 ただいつも同じ光景が浮ぶ。

 最初は一本の線だ。

 それが徐々に大きくなり、パァッと稲妻のごとく弾け跳ぶのだ。それは恐怖でも快楽でもない。不可解な感覚であった。

「うっ.....くッ.....」

「司馬懿殿.....痛いですか.....?」

 余裕のない張コウの声音。ほんの少し気が紛れる。司馬懿はただ首を横に振った。

「.....動き.....ますよ..... 怖ければ.....私につかまっていて下さい」

 普段ならばそう言われて、素直に縋れる性格ではない。だがこの時ばかりは腕をのばし、白い背を抱きしめる。

 覆いかぶさる張コウにしがみつくことは、狂いそうな羞恥心、本能の告げる恐怖、そして先ほどまでの眩暈のするような快楽.....それらに押し流されてゆくことの免罪符になるような気がするのだ。

「あっ.....ああッ.....張コウ.....張コウッ!」

 そして彼の名を呼ばう。

 刻まれる律動が激しくなる。原色の世界が無彩色に変わり、一条の輝きが現れる。それが徐々に太くなり、パァッと発光した。

 ドクンドクンと脈打つ鼓動を身のうちに感じながら、司馬懿は意識を手放した。

 徐々に薄れてゆく視界。

 まぶたの裏側に映った張コウの顔は、やはり美しいと、司馬懿はそう思った.....

 

 

「おはよ〜、司馬懿どの〜」

 次に目の前にあらわれた人も、たいそう整った顔立ちをしていた。

 茶味がかった明るい色合いの瞳、女のような長い睫毛、まさに柳眉、といったふうの一筆書きの眉。鼻梁は張コウほど高くはないが、すっと通っていて紅を指しているわけでもないのに、その人の口唇はつややかな桜色をしていた。

 もちろん、周瑜くんである。

 薄く目をあけた司馬懿の双眸に、桃色の頬をした周瑜くんの笑顔が飛び込んできた。朝日のまぶしさと相まって、思わず目を細める。

「おハヨ〜、司馬懿どの〜、ゴハンだよ〜、おっきできる〜?」

「周大都督.....? ここは.....」

 司馬懿はつぶやいた。霞がかった脳裏に、断片的な記憶が甦ってくる。

「.....私は.....」

「司馬懿殿、昨日、おケガしたでしょう? お手当てしてもまだ痛い?」

 周瑜くんが大きな瞳をパチパチとしばたかせて、司馬懿を見つめた。

(.....おケガ? 手当て.....?)

 その言葉が頭をかけめぐる。

「司馬懿どの〜、司馬懿どの〜、だいじょうぶ〜? ぼんやりして〜」

「いや.....」

「あ、もしかしてゴハンじゃなくてお菓子の方がいいんでしょ。周瑜くんの月餅半分コしてあげてもい〜よ」

「ケガ.....手当て.....?」

(あああッ! 張コウッ!!)

 フラッシュバックは唐突である。

 口に出してつぶやいた瞬間、怒濤のごとく記憶が甦る。昨夜の痴態をありありと思い起こし、あやうく司馬懿は悲鳴を上げかけた。

「司馬懿どの〜? お顔、真っ赤で真っ青〜? どしたの? 気分、悪いの〜?」

 周瑜くんはにょにょにょと顔を突きだしてきた。

 そのときである。

「おどき、周公瑾」

「あ、張コウッ!」

 周瑜くんが大きな声をあげた。はじかれたように顔をあげる司馬懿。

「おどきと言っているのですよ。白痴美の分際で、私の司馬懿殿のお布団に、なれなれしく寄りかかるんじゃありませんよ」

 張コウが厳しく言った。

 周瑜くんはお布団があると、猫のように身を押し付け、くっつく習性があるのだ。今も、司馬懿と話している間に、にじにじとお布団のやわらかい部分にひっついていたのだ。

「なにさ! 張コウだってお寝坊さんしたくせに! エラそーに言わないでよ!」

「美形に睡眠時間はとても大切なのですよ。さ、おどき、周公瑾。私は司馬懿殿のご機嫌伺いに参ったのです」

 つんと顎を上げて張コウが言い放った。手は腰である。彼の様子はいつもと変わりがないようであった。

「周瑜くんのほうが先に来たんだもん! 司馬懿殿のご様子を見に来たんだもん!」

 周瑜くんはムキになって背伸びをした。周瑜くんよりも張コウのほうが背が高いのだ。

 最初は司馬懿を怖がっていた彼であったが、一度でもやさしくしてもらうと、まるで子猫のようになついてしまう周瑜くんであった。

「私には司馬懿殿の御身を守る使命があるのです! おまえは自分のことだけきちんとしていればよろしい。そうでなくても足手まといなんですからね!」

「きーッ! 張コウのイジワル! 周瑜くんだって司馬懿殿のこと守るもん!心配してるんだもん! 後から来て、割って入ってこないでよッ!」

「おだまり、このッ!」

「張コウ!このこのーッ!」

「ふ、ふたりとも.....」

 司馬懿がほとんど独り言のように、つぶやいたとき、穏やかな声が彼を正気に戻した。

「なにを騒いでおられるのです。周大都督、張コウ将軍」

 炎を吹きだしそうに煮詰まった頭の中身が徐々に静まってゆく。困惑顔でやってきたのは、陸遜であった。

「ほら、周大都督も張コウ将軍も、お下がりください。司馬懿殿はまだ本調子ではないのでしょうから」

「り、陸伯言.....私は大丈夫だ.....」

 なんとかそれだけを言う。

「いえ、化物に襲撃された昨日の今日ですからね。まだお疲れなのでしょう。夜具には気を使ったつもりなのですが、傷の具合はいかがですか?」

 そう問われて、司馬懿は反射的に襟の袷を押さえた。陸遜は不思議そうな面持ちをしたが、特に気に留めたふうでもなかった。

「あ.....ああ、痛みはない」

 司馬懿は応えた。吸血花に襲われた傷はもうほとんどよくなっていた。もともと引っ掻き傷ばかりで深手はなかったのだ。それより下肢の付け根に残る、鈍い痛みのほうが生々しく感じる。

 室に入ってきたときから、司馬懿のこころもとなげな風情が気にかかっているのだろう。表向きはいつもと変わらぬ高飛車な態度で、周瑜くんと張りあっているように見える張コウであったが、司馬懿の一挙一動を見逃さない。

 鈍痛に眉をひそめると、張コウは何かを言いかけるように身を乗り出した。それを目線で押さえて、司馬懿はあえて背を正した。

「すまぬ。皆に迷惑をかける。傷の心配は無用だ。ほとんど痛みはなくなった」

「本当ですか?」

 張コウと陸遜の声がそろう。周瑜くんは指をくわえたまま、首をかしげている。

「うむ。だが出発はもう少し、後にしてもらえるか。これまでのことを書きつけておくことと.....まだ少し.....眠り足りない」

 司馬懿は言った。

 めずらしい彼の本音であった。

 十分後、張コウと周瑜くんは強制的に室から追いだされ、書きかけの竹簡を放り出して寝コケる司馬懿の傍らには、孫呉の軍師さんが付き添っていた.....

 

 

 陽はすでに高かった。

 司馬懿の目覚めを待ってくれたせいであろう。あばらやで昼の食事を採り、ようやく出発するころには午後の柔らかな日差しが降り注いでいた。

「司馬懿殿.....」

 うしろから声を掛けられ、ハッと顔を上げる。

 ぼんやりと物思いにふけっている様子を、この男にだけは見られたくなかった。

「.....張コウ将軍.....なにか?」

 いたって平静に、司馬懿はこたえた。

「.....身体はだいじょうぶですか? .....その.....すみません.....つい.....」

「張コウ将軍!」

「え、あ、は、はいッ!」

「.....私のことは心配ない。それより、これを.....」

 張コウの言葉をさえぎり、司馬懿は朝服の胸元をさぐった。

「司馬懿殿.....これは?」

「そう、伏犠からあずかった霊符とやらだ」

「..........ええ、そうでしたよね」

「.....残りは二枚。.....私一人がもっているべきではないだろう」

「それで.....一枚を私に?」

 なにをどうカンチガイしたのか、張コウはポッと頬を染めると、恭しくそれを受け取った。

「司馬懿殿、あなたの思い、この張コウ、しかと受け取りました!」

「...............?」

「お気遣いは嬉しいですが、このようなお心づかいをいただかなくても、この張コウはあなたを置いていったりはしませんから」

「.....は?」

「またまた、この照れ屋さん★  はいはい。ありがたくお預かりいたしますよ」

「.....張コウ将軍.....なにか誤解.....」

「はいはい★」

 楽しそうに両の手を持ち上げ、張コウは歩いていってしまった。

 ひどい虚脱感を感じる司馬懿。しかしここで落ち込んでいる時間はない。伏犠の口にしたタイムリミットは刻々と近づいている。

 司馬懿は大きな溜息をついた。

 

「司馬懿殿」

 次に声をかけてきたのは、孫呉の若き軍師であった。

「今日もいいお天気ですね。昨日ほど暑くはありませんが」

「そうだな」

「.....司馬懿殿.....具合は.....」

「陸伯言.....私はだいじょうぶだ」

 たずねられる前に、司馬懿はそう応えていた。

「.....そうですか」

「ああ」

「.....もはや約束の期限の、折り返し地点も近いですね」

「...............」

「本当に.....私たちは崑崙の中心までたどり着くことができるのでしょうか.....」

 陸遜がつぶやいた。声がかすかに震えている。

「弱気になるな」

「司馬懿殿.....」

「陸伯言、弱気になるな。ここまで来て弱気になってどうする」

「は、はい」

「.....ここはいつもの戦場ではない。慣れ親しんだ自分の国でもない。なによりこの世界自体が、我らのあずかり知らぬ次元なのだ。.....ああだこうだと細密な対策の練りようが無い」

「そうですね.....」

「ならば『いつも通りに』動くべきだ」

 司馬懿は言った。陸遜の顔も見ずに歩きながら。裾引きの朝服がやや重たげだ。

「司馬懿殿.....あの.....」

 陸遜は不思議そうに司馬懿を振り返る。

「『いつも通りにやること』と言ったのだ。常と変わらぬ心持ちで、その場その場で発生した事件に、『いつも通り』にあたることだ」

「...............」

「動揺するな。恐慌に陥るな。我らの唯一にして最大の優位点は、こんな摩訶不思議な状況にあっても、だれひとり悲鳴をあげて騒ぎ立てたりせぬ、『常ならざる』人間ばかりというところだ」

「.....はぁ」

「まぁ、もっとも一番『ふつう』の陸伯言殿が、まっさきに参りそうではあるがな」

 ひょいと片手を持ち上げ、司馬懿はからかうように言った。

「ベ、別に私はッ.....! ご心配なくッ 私は大丈夫です!この程度のことでへこたれていたら.....」

「そうそう。この程度のことでへこたれていたら、軍師なんぞ勤まらんだろう」

「.....ええ、特に孫呉の筆頭軍師なんて.....勤まるはずがありません」

 その物言いが、とうてい冗談には聞こえず、思わず司馬懿は吹きだした。

「司馬懿殿だとて、いろいろ大変でございましょう。御国の方々も、かなり個性的だとお見受けいたします」

 目の前を、かろやかに歩いてゆく張コウを見つめながら言われては、返す言葉もない司馬懿であった。

 そんなときである。

 

「あ〜ッ! ネコさ〜んッ! かわいい〜!」

 周瑜くんが大きな声をあげた。すぐさま呂蒙が走り寄る。

「おお、まさしく猫ですな〜。愛らしいものですな! 周大都督のように!]

 わけのわからない賛辞を述べる呂蒙であった。

「うん、かわい〜。まっしろ〜。かわいい〜。おなまえ、シロにしよ〜」

 周瑜くんは白猫を抱き上げると、ぐりぐりと頬ずりした。張コウが興味なさそうに眺めている。

「りくそ〜ん、見て〜、りくそ〜ん、見て〜」

 周瑜くんが、猫を抱きしめながら、タカタカとこちらへやってきた。

 司馬懿の目からしても、その猫はたいそう美しく、道端を歩く野良猫には見えなかった。短毛の真っ白い猫。尾は背丈ほども長い。瞳にはほとんど色みがなく、淡い黄緑色をしていた。

「ここに来てからも動物は目にしたが.....確かにこの猫はめずらしいものだな。野生のものには見えぬ」

「ね?ね?司馬懿殿もそう思うでしょ〜? キレイなネコちゃんでしょ〜? シロっていうのよ」

 周瑜くんが嬉しそうに言った。

「司馬懿殿にも抱っこさせてあげる〜。気持ちいいよ、シロふかふかでふにゅふにゅだよ!」

「いや、私は.....」

「遠慮しなくていいの!司馬懿殿、はい!はい!」

 そういうと、周瑜くんはネコを司馬懿に、ぐいぐいと押し付けてきた。

「いや.....別に私は.....」

 困惑する司馬懿の後ろで、陸遜が笑っている。さきほどの仕返しとでもいうように。

「はい!はい!かわいいよ!」

 司馬懿は仕方なく猫を受け取った。かすかに香の薫りがする。周瑜くんの移り香なのであろう。

「にゃあん.....」

 猫が鳴いた。抱く、というよりも、組んだ腕に乗せているだけの司馬懿。猫は後ろ足立ちになって、司馬懿の頬に、顔を寄せてくる。

「うっ.....」

「にゃあん」

 あろうことか、白く愛らしい動物は、ペロペロと司馬懿の顔を舐めだしたのだ。

「うわッ!」

 ぐん!と腕をつっぱり、猫を引きはがす司馬懿。可愛らしいそれは、ガラスの瞳を見開いたまま、小首をかしげた。司馬懿の悲鳴を聞きつけて、疾風のごとく張コウが駆け寄ってくる。

「おのれ、この畜生!ずうずうしくも司馬懿殿のお顔を舐めるなんて! 私だってまだ.....」

「よけいなことを言うな、張コウ将軍! さ、さぁ、お返しする周大都督」

「えー、もういいの? この子、司馬懿殿のこと気に入ったみたいなのにね」

「私は.....あまり.....猫は好きではない」

「しっしっ! 早くその畜生を連れて向こうへ.....」

 張コウの文句が終わらぬうちに、その怒声を掻消す轟音が鳴り響いた。

 間髪を入れずに激しい縦揺れの地震。

 竜が炎を吐くごとき地鳴りが辺り一面を包む。

 

 ガガガガガガッ!ベキベキベキッ!

 バラバラと木片、石片が降り注ぐ。

 落ち着いて地面を見ることが出来れば、そこかしこに、深い縦割れの溝ができていることに気づいただろう。

「きゃあぁぁ〜っ! シロっ!シロっ!」

 

 周瑜くんが猫をぎゅっと抱きしめた。

「いかん! 周大都督! 頭をかばうのですッ! 軍師どのっ!こちらへ!」

「呂将軍! 周大都督!」

「あぶない! 皆伏せろ! 樹木の側に寄るな!」

「司馬懿殿っ! あなたもこっちへ!身を起こさないで.....うわぁぁ!」

「きゃあーっ!」

 ベキベキベキッ!

 耳元のとどろく何かの割れ裂ける音。

 それは木々の倒れる音とは異なっていた。

「ひゃあぁぁ! 地面がぁ〜! シロ、シロ、シロ〜ッ!」

 周瑜くんが叫んだ。彼の座り込んだ周囲に亀裂が走ったのだ。

「うわぁん!りょも〜りょも〜りょも〜!」

「周瑜どの〜ッ!」

「あぶないっ! 動いてはいけない、呂将軍!」

「放してくだされ、陸遜どのっ! 周大都督が周大都督がーッ!」

 バキッ! ベキベキベキッ!

「うあぁぁッ!」

 今度の悲鳴は司馬懿の真後ろから聞こえた。

「張コウ将軍ッ?」

 粉雪のような石片をまき散らし、深い亀裂が張コウの周囲を取り巻く。

「あああッ!」

「張コウ将軍ッ! 張コウーッ!」

 司馬懿が走り出す。

「ダメですッ! こないでッ!」

「張コウッ、張コウーッ!」

「司馬懿殿、あぶないっ!」

 陸遜が叫んだ。

 土砂を踏み台にして、司馬懿は前に跳んだ。張コウの立つ地盤はもはや陥没し、崩れ始めている。

「張コウッ!」

 司馬懿は寸でのところで、張コウの手をつかみしめた。

 .....だが.....

「司馬懿殿ッ! すみません.....ッ!」

 信じられないことが起こった。

 危機一髪のところで、なんとかつかまえた張コウの手.....しかし、張コウは自らの意志で、司馬懿の手を振りほどいのだ。

「なっ.....! 張コウ.....ッ?」

「あぶない司馬懿殿、伏せてッ!」

 瓦礫の降り注ぐ中、陸遜が覆いかぶさり、司馬懿の身体を地に伏せた。

「張コウ.....張コウ〜〜〜ッ!」

 彼の名を呼ぶ。渾身の力で。だが張コウの身体は、瞬く間に深い溝に吸い込まれていった。

『愛してますよ、司馬懿殿。ずっとあなたのお側におりますから.....』

 聞き飽きたセリフが、司馬懿の脳裏に甦る。

「この嘘つきが〜〜〜〜〜ッ!」

 司馬懿は怒鳴った。

 彼が泣きながら叫んだのは、生まれて初めてのことであった。

 

 

 数刻後.....

「う.....う.....?」

 左の頬に、なにやらくすぐったい感触を覚えて、張コウは目を覚ました。

 パラパラと音が聞こえるのは、瓦礫のくずが降りかかってきているのだろう。

「う.....うっく.....」

 ひとりでにうめきがこぼれ落ちる。どこかに打ち付けたのか、腰のあたりににぶい痛みを感じた。

「あいたた.....私の美しい身体にアザが.....蒙古斑なんぞ出来ていたら立ち直れません.....」

 非常時であっても、こういうセリフが口をつくのが、張コウの普通ならざるところであった。

「ん.....特にひどいケガはないようですね.....助かった」

 ふぅと溜息を吐きだした。

「にゃあん〜」

 起き上がった張コウの目の前にあたわれたのは、あの白猫であった。

「.....おまえですか、私を目覚めさせてくれたのは。とりあえず礼を言っておきましょう」

「にゃあん〜」

 色素の薄い瞳が、じっと張コウを見つめる。なにやら言いたげに。

「.....なんです?」

「にゃあん〜にゃあん〜」

「.....なんです.....ついてこいとでも?」

「にゃあ〜ん」

 その言葉に応えるように鳴くと、白猫はくるりときびすをかえし、トコトコと歩き出した。張コウは黙ってその後に従う。

(.....司馬懿殿は無事です)

 確信があった。地盤の亀裂にのみ込まれる寸前、司馬懿の手を振り払ったことを覚えている。その反動で彼は後ろにころび、間一髪助かったはずだ。

(あの溝に吸い込まれさえしなければ、大怪我を負うはずはない.....)

 そっと目を閉じると、あの時の情景が浮んでくる。

『あぶないっ! 張コウっ!』 

『司馬懿殿! 来ないでッ!』 

『手をっ! 張コウっ!』

(....................) 

『張コウっ? 張コウっ! 張コウ〜〜ッ!』

 ズクン.....!と胸が痛んだ。ぐっと心臓のあたりを押さえる。

 手を振りほどいた瞬間の、司馬懿の驚愕.....そして悲痛な叫び声。彼の人のあんな声を耳にしたのは初めてだ。

「.....ごめんなさい.....司馬懿殿」

 張コウはひっそりとつぶやいた。

 腰の打撲は、たいしたことはないらしかった。普通に歩けるし、猫の進む早さに遅れをとらず、足を動かすことができる。出血している様子もなさそうだし、先の地震の激しさを思えば、万にひとつの幸運とさえ言えるであろう。

「ちょっと、ネコさん、まだ歩かせるのですか? 私だって一応ケガ人なんですけどね」

「にゃおん!」

 皮肉っぽく愚痴る張コウに、黙ってついてこいとでもいうように、白猫は高い声で鳴いた。

「やれやれ。いいかげんにしてくださいよ」

 張コウは言った。

 歩きやすい道である。

 .....よくよく考えてみれば不思議なことこの上ない。

 地震で陥没した地盤の溝に落ちたのだ。こんなになだらかな芝生道が続いているのは信じがたい。もっとも道幅は人二人が横並びになれば、すき間がなくなる程度に細くはあったが。

 獣道を覆うように樹木が生い茂っている。耳をすますと水音が聞こえるのは近くに小川でも流れているのであろうか。

 一瞬、アフリカの奥地、赤道直下のアマゾンを思い浮かべる御仁もいようが、それは誤りである。なにより気温はそれほどには高くない。

 むしろ皆で歩いていた、先だっての道のほうが、ずっと高温であった。また樹木は密生しているが、それらはいわゆる熱帯系の植物とは異なる様相を呈していた。

「にゃーん!」

 猫が鳴いた。張コウはハッと我に返った。

「にゃあ〜ん! にゃあ〜ん!」

「なんです.....急にどうしまし.....」

「シロッ!」

「この声は.....」

 張コウはつぶやいた。

「シロッ! シロッ!」

 ガサガサとしげみが動く。

「.....周公瑾。そこにいるのですか?」

 張コウは言った。彼の声を聞き間違えるはずはなかった。

「周公瑾、どこです? 返事をしなさい」

「.....張コウ?」

「そうですよ。どこにいるんです」

「.....小川の方。お水.....飲んでたの」

 猫が早足で歩いてゆく。何の迷いもなく。

 しかし、すでにその後をつけてゆく必要はなかった。長身の張コウには、すぐに周瑜くんの姿を見つけ出すことができたのだ。

 ザクザクと草を踏分け、水音の方に進んでゆく。すると果たしてそこには周瑜くんがいた。真っ赤な衣装がたいそう目立っていた。

「.....周公瑾。あなたおひとりですか?」

「うん.....ひとりで落っこちゃったから」

「フン、ドジな人ですね」

「なにさーっ! 張コウだって落っこちゃった側の人のくせにーッ!」

「う.....わ、私はいいのです。こうして無事なのも計算済みです」

「周瑜くんも無事だもん! ケイサンだもん! ちゃんとケイサンしてたんだもん!」

「あー、はいはい。どうやらケガはなさそうですね、それだけ元気ならば」

 張コウは言った。それは間違いなさそうであった。

 周瑜くんの白い顔は、冷たい小川の水で洗ったせいか、桜色に染まってつやつやとしている。ほっぺは桃色だ。

 服は、ところどころ絹のほつれてしまった部分もあるようだが、たいしたことはない。

「うん。おケガ、ないよ。神サマが守ってくれたんだよ、きっと!」

 周瑜くんはちょっと誇らしげにそう言った。

「へー、神の施しって、日頃の行いは関係ないんですかねぇ、へぇ〜」

「イイコにしてたから、神サマが助けてくれたんだよ! 決まってんでしょ! 張コウのバカ!」

「なんですって、この.....!」

「なにさーっ!」

「.....ふぅ.....やめておきましょう。こんなころで無駄な体力をつかうべきではありません」

 張コウは深い溜息をついた。

 もっともな考えである。これから先、しなければならないことだけは明確であったのだから.....

「ぷん! なにさ、お兄さんぶっちゃって! さ、もう行こ! 汚れたお手ても洗ったし、お顔もぬぐったもん!」

 周瑜くんはすっくと立ち上がった。つられて傍らの白猫も顔を上げる。彼にケガは無いようであった。運のいい青年である。

「.....何処へ行くんです」

 張コウはたずねた。尋ねずにはいられなかった。この最悪の事態に直面して。

「決まってんでしょ。お山のてっぺんよ。そこに女神サマがいるって、あの人が言ってたじゃない」

「.....伏犠?」

「そー、ふっき!」

「.....そうですね、確かにそう申しておりましたね」

「うん。あの人、ウソ言ってないと思うし。もうあんまし時間無い。さー、行こ、シロ!」

「にゃお〜ん」

「だいじょうぶ。疲れたら、周瑜くんが抱っこしてあげるよ!」

 周瑜くんは白猫を元気づけている。

「山の頂上に向かうと.....そういうのですか」

「もちろんだよ。夏侯惇将軍助けなくっちゃ。この前は夏侯惇将軍に助けてもらったんだから。今度は恩返しする番!」

「...............」

「だからお山登んの。来たくないんなら待ってれば、張コウ。でも周瑜くんとシロは行くからね!」

 心細いのを吹き飛ばそうとしているのか、周瑜くんは大きな声で言い放った。

「.....だれも行かないとは言っていないでしょう。もちろん私も行きますよ。夏侯惇殿は大切な仲間です。他国の軍師であるあなたなどとは比べ物にならぬほど、私たちと夏侯惇将軍は強い絆で結ばれているのですよ」

「な、なにさーッ! なにさ、張コウのバカ!! しょげてたくせに〜ッ! もうあきらめようと思ってたくせに! わかんだからねッ!」

「.....バカおっしゃい。この張コウが途中であきらめるわけがないでしょう。司馬懿殿のためにもね。さてと!」

 張コウは立ち上がると、周瑜くんをぬかして歩き出した。もう腰の痛みはなくなっていた。

「あ、ちょっと、待ってよ、張コウ!」

「ぐずぐずしていると置いていきますよ、周公瑾。だいたい足の長さが違うんですからね」

「シツレーだよ! 張コウってシツレ〜ッ!」

「しゃべってる間に歩きなさい」

「歩いてるもん! シロ、シロ! さ、おいで、周瑜くんの肩に」

 周瑜くんはトコトコと歩く猫を抱き上げた。あからさまな早足で、ざくざくと進んでゆく。

「ちょっと周公瑾。あんまり張りきると途中でへたばりますよ。先は長いんですからね」

「周瑜くん、元気だもん!」

「自分に『くん』をつけるんじゃありませんよ、イイ年をして」

「別にいいでしょ。だれかにメーワクかけてるわけじゃないもん。張コウにはカンケーないもん!」

「ふん」

「ふ〜んだ!」

「....................」

「....................」

「にゃお〜ん」

 二人は黙り込んだ。そして、歩き続けた。

 

 

「司馬懿殿、司馬懿殿ッ! ご無事ですか!」

 陸遜ははじけるように飛び起きた。

 激しい縦揺れは過ぎ去ったが、地に触れるとビリビリと指先が震える。

 陸遜は、ひょいひょいと身軽に割れた地盤を飛び越えると、うずくまる司馬懿の傍らに駆け寄った。

 その場の安全を確認すると、声をはりあげる。

「呂将軍!呂将軍はどちらに!」

「軍師どの〜ッ! どこじゃーッ!」

「呂将軍! こっちです! 道の中央部です! まだ危険ですから、慎重に.....」

 陸遜の言葉は、当惑したように途切れた。

「今、お助けいたす! すぐに参りますゆえ、不用意に動かれるな!」

 呂蒙の怒鳴り声は林のほうから聞こえる。そちらは安全地帯だ。倒れかかった樹木もあったが、地面にひび割れはない。

 陸遜らの居る、道なかの場所は、亀の甲羅のごとき地割れが起こっているのだ。

「軍師殿!軍師殿ッ?」

「あ、は、はい! だいじょうぶです! 待っていますから!」

 陸遜は応えた。

 陸遜の戸惑いの原因は、司馬懿に触れた左の手のひらであった。庇うつもりで触った背が小刻みにふるえている。

 両の手をぐっと握りしめ、顔は陥没した目の前の大地に向けられていた。

「.....司馬懿殿.....」

 陸遜は静かに腰を下ろして、小さく声をかけた。

「.....司馬懿殿.....しっかりなさってください.....」

「...............」

 語りかけても返事がない。

「.....司馬懿殿.....司馬懿殿.....」

「....................」

「司馬懿殿、お気を確かに!」

「陸.....伯言.....?」

「.....はい。お怪我はありませんか?」

「.....私は.....なんともない.....」

 司馬懿の声がかすれて震えている。陸遜は司馬懿の表情を読み取るのをあきらめ、あえて事務的に言った。

「.....周大都督と張コウ将軍の姿が見えません。ここは危険です。呂将軍が道を示してくださるのを待ちましょう」

「...............」

「.....このまま動かずに。しばし.....」

「.....バカな.....」

 ひっそりと司馬懿がつぶやいた。

「バカ.....な.....こんな.....」

「司馬懿殿.....?」

「この手に.....触れたのに.....」

「....................」

「.....確かに.....つかんだのに.....ッ」

「司馬懿.....どの.....」

「.....いつも.....いつも.....勝手なことばかり.....ッ!」

 ガンッ!と司馬懿が地を叩いた。

 赤黒いシミは、握りしめた司馬懿の拳から流れ出たものだろう。

 陸遜は黙したまま、虚空をにらみつけることしかできなかった.....