ああ、無常!
<36>〜<40>
 
 
 
 

 

「司馬懿殿.....」

 陸遜は傍らに片ひざをつくと、静かに口を開いた。

「.....司馬懿殿、張コウ将軍の判断は正しかったと思います」

「なんだとッ」

 はじめて司馬懿が顔を上げた。ギッと音が聞こえるような眼差しでにらみつけられ、一瞬陸遜はたじろいだ。

「司馬懿殿、張コウ将軍の判断は正しかったのですよ。あのままでしたら、間違いなく二人一緒に地割れの溝に落ちていたでしょう。あの体勢、揺れの中で、あなたがご自分よりも長身の張コウ殿を引き上げるのは不可能です」

「.....わかって.....おる」

 呻くように司馬懿が応えた。そのときだ。

「軍師殿! おお、司馬懿殿もご無事かッ!」

 呂蒙の声が近かった。こんなときでさえ、耳にすると不思議に元気が出る。周瑜くんがたいそうなついているのも、陸遜なりになんとなく理解できるのだ。

 陸遜は言った。

「さぁ、参りましょう。私たちが彼らに遅れを取るわけには参りません」

「なに.....?」

「どうなさいました。そんなお顔をなさって」

 死人のような顔色の司馬懿が、ぼう然とこちらを見つめている。

「陸伯言.....貴公は.....」

「司馬懿殿、まさか張コウ将軍たちが、あの程度のことで死んでしまったと思っておられるわけではないでしょう?」

「なにを.....あの程度のことだと? 地割れに落ちたのだぞ? 果ても定かではない、谷底に!」

「彼らは必ず生きています。そして目的地の山頂に向かっている。張コウ将軍があなたの手を振り払ったのは、『ひとりで落ちること』に勝算があったのではないかと考えています」

 陸遜はきっぱりとそう言った。なぜか口が勝手に動く。消沈している司馬懿を見ていると、果たすべき役割が明らかになってゆくような気がするのだ。

「.....どういうことだ?」

 司馬懿が独り言のようにつぶやいた。

「言葉通りですよ。私よりも司馬懿殿のほうが、張コウ将軍のことはよくご存知でしょう」

「.....陸伯言」

「彼の身体能力を考えれば、あの状況からでも生還することは可能だったでしょう。しかしあなたを連れてとなれば勝手が違います。」

「..........」

「『もうひとり』を救い出す自信がなかったのでしょう。だからひとりを選んだのですよ」

「...............」

「司馬懿殿.....?」

 

「..........ああ」

「司馬懿殿は.....張コウ将軍のことをとても大切に思っておられるのですね」

 陸遜はささやいた。自分にも覚えのある感情だった。

「.....そう.....」

 司馬懿はかすれた声で司馬懿はつぶやいた。誰もいない虚空を眺めながら」

「ああ.....そうだな.....いつも.....もらってばかり.....で.....」

「...............」

「私は.....一度も.....」

 割れてしまった冠から、司馬懿の黒髪がこぼれ落ちる。さやかな風になぶられ、さらりと空に舞った。それは司馬懿の白い横顔を隠し、陸遜からは彼の口元しか見えなくなってしまった。

「軍師殿!司馬懿殿! おおよかった、見つけましたぞ!」

 地割れで出来た段差の上から、なつかしいヒゲ面がのぞいている。

「呂蒙殿! よくぞご無事で!」

 陸遜は応えた。

「よかった!そのあたりならば縄がとどきまする! 一方を樹に括って参りますので、しばしお待ちあれ!」

 ドタドタと派手な足音が、ふたたび遠ざかっていき、すぐさま戻ってくる。

「陸遜殿!」

 放り投げられた荒縄は、先だっての古屋から拝借してきた戦利品だ。

「やれやれ.....日頃の行いがものを言いますね.....」

 陸遜は自らをなぐさめるよう、ひっそりとそう言った。

 

 

「張コウ! ほら、キノコとってきたよ、キノコ!」

「ご苦労様。.....ちょっと、周公瑾。そのやけに色鮮やかなキノコ.....毒きのこじゃないでしょうね.....」

「ちがうもん!食べられるもん! 1コ味見してみたもんね〜。シロが見つけたんだよ〜」

 場面変わって、張コウ&周瑜くんペアのほうである。

「へぇ、ずいぶんと役に立つ猫ですねぇ。人間以上に」

「なぁに、そのトゲのある言い方」

「いいえ、別に。私の方は、ほら果物です」

「わー、よく果物なんて見つけたじゃない、張コウ」

「まぁね、美の使徒ですから」

「なんか関係あんの?」

「果物はお肌にとてもいいのですよ。決まってんでしょ。さぁ、とりあえずはキノコのお雑炊を食べましょ。そしてデザートに果物です」

「うん。ねぇ、もうお星サマ、出てんね」

 周瑜くんが焚き火の近くに腰を下ろして、天を仰いだ。

「ええ、けっこう歩きましたからね、いい時間です。夜間はむやみに突き進むと、道を失う危険があります」

「そ〜だよね〜。ここ樹が多いし」

「ええ。きちんと休息をとって明日に備えるほうが賢明ですね」

「うん。周瑜くん疲れちゃった〜。ふわぁ〜、眠いね〜、シロ〜」

「お待ち、しっかり食べてから眠んなさい。力がつきませんよ」

 張コウが言った。彼は基本的に面倒見のいい男であった。

「うん.....食べるよ〜。お腹、すいたし」

 周瑜くんが言った。

 そこらで見つけた鐵鎌で、飯を焚いたのだ。山菜の雑炊はあたたかな湯気を立て、たいそう美味そうに見える。

 張コウは十分に煮立った粥を、手製の碗に掬った。

「はい。お食べなさい」

「ん、いただきま〜す。.....うん、おいしーじゃない、張コウ!」

「この私が手づから作ったのですからね。あたりまえです」

 張コウはえらそうに言って退け、自らの碗にも汁を注いだ。

「ふむ。このキノコ、いい味ですね」

「でしょ〜。ねぇ、張コウ。明日はどーすんの?」

 周瑜くんが汁を啜りながらたずねた。

「もちろん、山を登り続けますよ。当然でしょ」

「それはわかってるよ。でも道らしい道がないじゃない」

「.....そうですね。ですが獣道らしきものは、そこはかとなくわかりますし、極力最短距離を進むよう心がけましょう」

「うん、そーだね。時間、ないもんね」

「.....夏侯惇殿の命がかかってますからね。間に合いませんでしたじゃすみません」

「うん.....あっちっち!」

「ゆっくり食べなさい。まだたっぷり残ってますよ」

 張コウは言った。そして大きく吐息する。

「.....率直に言って運動量的に勝っているのは、我らふたりの方だと思います。陸伯言殿、呂将軍ならば強行軍も可能でしょうが、司馬懿殿が彼らについて行けないでしょう。そうなると必然的に皆、歩みのペースを落とさざるを得ない」

「司馬懿殿、すっごく軍師さんだもんね」

 周瑜くんなりに、司馬懿を評したのだろう。張コウは思わず吹きだし、付け足した。

「ええ、知謀で体力を補うのは難しいです。.....そうなると、機動力では我らの方に利があります」

「うん。なにごともなければね」

 周瑜くんがつぶやいた。それは張コウら二人に限らずの話だ。

「ここまできたら、行けると信じて突き進むしかありませんよ」

「そ.....だね。みんな大丈夫かな〜。りょも〜りょも〜」

「呂将軍? あなたはずいぶんと彼と親しいのですね」

「りょも〜、やさしいもん。いつでもゆーコト聞いてくれんの」

「.....気の毒にね、呂将軍.....」

「ふんだ! りょも〜と周瑜くんは仲良しなんだよ〜、ね〜、シロ〜」

 周瑜くんが白猫を抱き上げ、語りかけた。

「ま、別にいいですけど。他人事ですから」

 張コウは、周瑜くんの方を見もせずにそう言った。

「張コウだって、ずいぶん、司馬懿どのを信じてるんじゃない?」

「当然でしょう。あのお年で我が国の筆頭軍師殿なのですよ」

「周瑜くんも呉の軍師さん〜」

「おたくの軍師殿は、陸伯言殿では?」

「周瑜くんの後輩〜」

「ああ、そう。あの人も苦労の多い人間ですね」

 素っ気無く張コウが、そう言い返した。

「ねーねー、張コウは司馬懿殿が好きなんでしょ」

 ざっくりと核心に触れる問いを放つ、呉の軍師さんであった。

「ええ、そうですよ」

 これまた、何のてらいもなく、張コウもシンプルに返す。

「ふーん、どこが好き〜?」

「全部ですよ、全部」

「ゼンブ〜?」

「そう、ゼンブです」

「えー、でも一番好きなトコって言ったらどこ〜? えへえへ」

 膝に丸まった白描を抱きかかえたまま、周瑜くんはたずねた。

「一番ですか.....一番好きなところ.....ね。う〜ん、難しいですねぇ。なにしろ私の司馬懿殿は、どこをとっても素晴らしく素敵ですから.....」

 親ばかのような発言を、恥ずかしげもなくする張コウ。

「そこで、あえてって言ったらよ、張コウ。特にこーゆーところってトコ」

「ううん!むずかしいッ。ま、やっぱ月並ですけど、あのご気性が愛おしいですね。ああ、もちろん外見も大変好みですが」

「ふーん」

「なんです。自分から振ったくせに気のない返事ですねぇ!」

「べっつにー。ねぇ、張コウは奥さんいないの?」

「いませんよ、そんなもの」

 あっさりと張コウは応えた。

「じゃ、司馬懿殿には? 司馬懿殿にはいらっしゃるんでしょ」

「ええ、正室は亡くなられましたが、愛妾は数名おられますよ。お子様も」

「ふぅ〜ん」

「中でも、嫡子の昭ちゃんは私のお気に入りです」

 訊かれてもいないことを答える張コウであった。

「.....周瑜くんには奥さん、いんだよ」

「ああ、あなた結婚してるんでしたっけねぇ。こんな子供っぽい男を.....奇特な女性だ」

 意地悪く言う張コウに、ぷんと顔を背けると周瑜くんがつぶやいた。

「.....小喬.....どーしてるかなぁ〜。女の人ってかわいそうだよね〜。いつも待ってるしかできないんだもん。男の人だったら一緒に連れていけるのに.....」

「何を言ってるんですか、あなたは。そんなのあたりまえのことでしょう」

「うん.....まぁね。ふぁ〜、眠くなっちゃった、果物食べて寝よ〜」

 そういうと、周瑜くんは気を取り直したように、果実を剥きだした。

 

 

「はぁッ、はぁッ!.....なんだかずいぶんと道が急になってきましたね、 呂将軍!」

 陸遜は前を行く、広い背中に向かって声をかけた。

「まったくですね、軍師殿! しかしこれも徐々に山頂に近づいてる証拠でしょう! .....周瑜殿たちと途中で合流できるといいのですが」

 呂蒙が言った。

 彼は周瑜くんたちが無事であると信じて疑わない。もちろん陸遜の説得も手伝ってである。

「むむっ! またしてもこの段差! いささか危険でござるな! しばしお待ち下され、お二方! わしが上から縄を投げますゆえ!」

 そういうと呂蒙は勇ましくも、石垣を這い登っていった。しばらくして荒縄が放り投げられる。

「お二人ともよろしいですぞ! 片方は大樹に縛りつけ申した!」

「司馬懿殿、お先に!」

「.....いや、貴公の後でよい」

「いいえ、私が後ろに控えていたほうがよいかと思います。さぁ!」

「.....わかった」

 司馬懿が荒縄を掴み締める。ささくれ立った荒縄は、司馬懿の白い手を傷つけてしまいそうに見えた。

「お気をつけて、司馬懿殿」

「.....ああ」

 司馬懿は頷いた。生気のない虚ろな瞳。陸遜には掛ける言葉が見つからなかった。

「さ、参りましょう、司馬懿殿、呂将軍が待ってます!」

 陸遜は少しでも、気を引き立てるために強く促した。今の司馬懿を動かしているのは、魏の軍師としての使命感だけなのだろう。夏侯惇を救わねばならぬという、ただそれだけのために、重い足を引きずっているのだ。

 実際、張コウと周瑜くんの生死は不明だ。司馬懿を励ますため、ああ言った陸遜だが、現場の状況を考えれば、無傷ということはありえまい。

 だが、崖の上から彼らの骸を見たわけでもないのだ。一縷の望みを繋いで先に進むこと、今、しなければならないことが、陸遜には明確に見えていた。

 

 それから三日が過ぎた。

 張コウと周瑜くんは、山頂を目指してなおも歩き続けていた。

「しっかし、この山はどうなってるんですかねッ! 登っても登っても、果てが見えないじゃないですかッ」

 いらいらと張コウが言った。

「うん、疲れたね〜。木の実や果物がとれんのはうれしいけど〜」

 周瑜くんが応える。その足元には白猫がぴったりと付き従っていた。

「これで食物の調達ができないとなれば、夏侯惇将軍の前に、私たちが先に逝っちゃいそうですよ!」

 思いだしたように顔をあげる張コウ。

「そういえば、あの人たち、ちゃんと夏侯惇将軍を看てくださっているんでしょうね? あー、心配ですッ、一度気になりだすと止まりません!」

「えー、だいじょうぶだよ〜。伏犠って人、エラそーだったけど、ウソつかなさそーだし。『我が子らよー』って言ってたじゃん」

「やめてください、誰の子だっていうんです。気味の悪い! だいたいあやつは司馬懿殿にくっつき過ぎなんですよッ! 私としては不愉快で仕方がありません」

 バサバサと丈の長い草を踏分けて、張コウが叫んだ。どうやら、こちらの二人組は相変わらず元気なようだ。

「ふにゅん」

 と、白猫が奇妙な鳴き声をあげた。

「どしたの、シロ〜? お風邪〜?」

 もちろん返事があるわけではない。しかし周瑜くんは、ごくあたりまえに話続けている。

「そっか〜、昨日の夜、ちょっと涼しかったもんね〜」

 そういうと、トロトロとしたしぐさで、猫を抱き上げた。

「この場所は昼と夜の寒暖の差が、けっこうあるようですから、気を付けないと」

「だいじょうぶ〜。周瑜くん、お風邪引いてない〜」

「誰があなたのことを心配しました? 何とかは風邪引かないっていうでしょ。私が言っているのは、繊細な司馬懿殿のことですよ」

 ひょいと両の手をあげて、張コウはいじわるく言った。周瑜くんはツンと顔をそむける。

 

「.....周公瑾」

「なにさ、意地悪なコト言っておいて、急にまじめな声だして」

「.....しッ」

「にゃあ〜。にゃあ〜」

「.....おまえもわかるんですね、ネコさん」

 低い声でつぶやく張コウ。

「嫌な予感はしていたんです.....ここは空気が乾燥していますからね」

「あー、昨日、おノド痛くなったんだよね〜」

「.....におい.....わかりませんか、周公瑾」

 張コウは息を潜めてそうささやいた。周瑜くんがひくひくと鼻をうごめかせる。

「...............?」

「まだ、遠いと思いますが.....」

「.....火.....?」

「.....たぶん.....」

「この森.....燃えてんの?」

「.....泣きっ面にハチとは.....まさにこのことですね」

 張コウがつぶやいた。別に彼は、泣いていたわけではなかったが.....

「.....火点がわかれば、避けていくことも可能でしょうが.....」

 思案顔で張コウは言った。モタモタしている時間はないのだ。

「においは下の方からじゃない?」

 と、周瑜くん。

「にゃお〜ん」

 それに同意するように、白猫が鳴いた。

「.....風がありますからね。うかうかしてはいられません。急ぎましょう、周公瑾」

「うん.....りょも〜たちは大丈夫かな.....」

 心細そうに周瑜くんが言う。

「彼らの進む道は、それほど樹が密生していたわけではありませんから。多分危険はないでしょう」

「.....うん。ねぇ、張コウ。小川の近くを歩こうよ」

「そうですね。山頂への道から大きく逸れないかぎり、川を辿って進みましょう」

 気のせいか空気が濁ってきたような気がする。張コウは不快げに眉をしかめた。

「.....張コウ、ぷちぷち音がすんね」

「パチパチのまちがえでしょ」

「周瑜くんには、ぷちぷちって聞こえるもん。ねー、シロ」

「猫に同意を求めずともけっこう。.....草木が燃える音でしょう」

「うん、急ご」

「ええ、行きますよ!」

 張コウと周瑜くんは、んずは小川の方向に小走りに動き出した。ふたりはもうそれ以上、口を聞かなかった。なにかいえば、かえって不安が増すような気がして。

 息苦しさに、張コウは喉元を押さえた。

 

 

「げほっげほっ」

「ね、張コウ。さっきより煙たくない? けほけほ」

「.....小川の方に行こうって言ったのは、あなたですよ」

「....................」

「.....煙たいですね。それに微妙に、あのパチパチ音が近づいているような気がするのですが.....」

「.....引き返す? 張コウ」

「まさか.....今来た急坂を戻るのは、並大抵ではありませんよ」

 ガサガサッ! バサバサッ!

 対岸からの不穏な物音に、ふたりはじっと目を凝らした。

「.....なんか来るよ、張コウ」

「.....樹の燃える音.....」

「ちがうよ!樹の燃える音はぷちぷちだよ! ガサガサっていってんじゃん!」

「それはパチパチですってば!.....ってそんなことはどうでもいいんです.....」

 ガサガサッ ベキベキッ!

「ちょ、張コウ.....」

「周公瑾.....」

「樹や草が倒れる音じゃないの.....?」

 周瑜くんが、白猫をぎゅっと抱きしめた時である。

 ザザザザッ!

 丈のある水草がなぎ倒されてゆく。まるで、いきおいよく丸太を引きずるような重い.....だが、速度のある音。

 シャー.....シャーッ シャーッ

「な、なに.....あの音? シロ.....」

「.....周瑜ッ!」

 張コウは、片腕で周瑜くんを抱きかかえると、横飛びに跳躍した。バランスを崩し、そのままふたりと一匹は川べりに倒れ込む。

 ジャーッ ジャーッ!

 金属をこすり合わせたような耳障りな音。

「きゃっ.....」

 小さな悲鳴は周瑜くんだ。張コウはぐっと息を飲んだ。声を出すのはすんでで堪えた。

 

 音の主.....

 体長20メートルはあろうかというほどの巨大な蛇が、今、森への闖入者たちの前に居た。

 その長さより縦の高さが恐ろしい。口をあければ、人ひとり丸のみしてしまうだろう。

「.....蠎蛇?」

「張コウ、おっきいよ、コイツ.....」

「見りゃわかりますよ.....会いたくもなかったけどね.....」

「シ、シロ.....」

「いけません、不用意に動かないでッ」

 張コウの押し殺した低い声。

「だ、だって、シロが.....」

 ジャーッ ジャーッ!

 巨蛇が牙を剥き、鎌首をもたげて威嚇する。洞窟を思わせる口腔から、二股に分かれた赤紫の舌がのぞいた。

「.....周公瑾、ゆっくり体勢を立て直しなさい。静かにです.....ヤツを刺激しないように」

「うん.....」

 張コウは血の色にも似た蠎蛇の双眸をにらみつけながら、両手に孔雀虹を嵌め込んだ。一瞬たりとも巨大な敵から目を離さない。

 ジャーッ ジャーッ!

「.....まるで瘴気ですね」

「いいよ、張コウ、こっちは準備おっけー.....」

「どーする気? 闘うの? 張コウ.....」

「.....相手の大きさを見てから言いなさい。縦幅すらゆうに我らの身長を越えているんですよ」

「う、うん.....そだね、そんじゃあ.....」

「もちろん、逃げますよッ」

 張コウが手の内にかくしもった小刀を、化物に投げつけた。

 大蛇はシャア!っと咆哮し、恐るべき俊敏さをもって、「二つの獲物」にせまった。キチン質のような鱗は、鋼さえも受付けないのだ。

 ジャアアアアアーッ!

「きゃああ〜ッ!」

「本物のバケモノですっ! 逃げますよッ」

「ひゃああああ〜、シロッ! シロッ!」

「にゃーん!」

「バカ!周公瑾ッ、とにかく走りなさいッ、全力疾走ですッ」

 張コウは叫んだ。

「シロッ、シロッ!」

 周瑜くんは白猫をすくい上げると、必死に走った。

 森の獣道は、決して足場がよいわけではない。

 しかしふたりの全力疾走のスピードは、平地のそれと大きな隔たりがあるようには見えなかった。

「はぁっ! はっ.....はっ! ちょ、ちょ〜こ〜、張コウ〜〜」

「走りなさい、とにかく逃げるんですッ」

 張コウは叫んだ。周瑜くんに言われずとも気づいている。さきほどよりも煙が濃くなってきているのだ。

 しかし、いまさら引き返すわけにはいかない。

 時間が、無い。

 現況において、陸遜らに期待をかけるのは難しい。目的地への到着は果たすであろうが、すでに事態は一刻を争っているのだ。

 張コウの考えはこうだ。

 まず、何をおいても、周瑜くんとおのれが、山頂へ到着する。目的を果たしたうえで、陸遜・司馬懿らの登ってくるであろうルートを、逆に降ってゆくのだ。そして道の途中で合流し、そのまま一挙に夏侯惇のもとへ駆けつける。

 いささか安易かとも思うのだが、できることならこの筋書きでいきたい。そのシナリオをこんなところで崩すわけにはいかないのだ。

 ジャーッ!

 大蛇の嘶きが、すぐ側に聞こえる。全身の毛穴がひらき、体毛がそそけ立つような恐怖だ。

「はぁっ! はぁっ! けほっ!.....げほげほっ!」

「はぁっ! はぁっ!は、がんばって、周公瑾ッ!」

「ちょ、張コウ.....シ、シロ〜〜」

 まさしく命を懸けて疾走するふたりの後を、ゾゾゾと、草木をかき分け、大蛇が追う。

「はぁっ!はぁっ! も、もう走れないよ〜」

「バカッ! 死にたいんですか、アンタは!」

「だって.....だって煙いし.....おのど痛い〜」

「私だって煙いですよッ はぁっ!はぁっ!」

「ちょ、張コウ!」

 ぎゅっと胸に猫を抱きかかえたまま、周瑜くんが声をあげた。

「な、なんですッ」

「た、闘おう! 蛇倒してから煙くないほうへ行こうよッ」

「た、闘う?」

「う、うん、おっきいけど.....ふたりなら、なんとかな.....」

 周瑜くんの言葉がそこで途切れた。

 ジャ〜〜〜〜ッ!

 するどい、威嚇が、ほとんど耳元で聞こえる。張コウと周瑜くんは、風を切る勢いでふり返った。

「ひゃ.....」

「あ.....ッ!」

 大蛇の動く早さは、チーターのそれと匹敵するという。身のこなしには自信のある張コウだが、それはあくまで同種族.....つまり敵が人間であれば、ということなのだ。

 渾身の力を振り絞って疾走したふたりであったが、森の主は、彼らの想像を超える生物であった。

 じりり、じりりと間合いをつめられる。

 張コウは吐息をとめた。冷たい、不快な汗が首筋から背へ流れ落ちる。

 バチバチ.....ベキベキッ!

「きゃ.....ッ!」

 周瑜くんがかたわらでするどい悲鳴をあげた。張コウはふり返らない。彼の、「火が.....」というささやきを、ほとんど死に瀕する絶望をもって聴いた。

 最悪の事態であった。

 幾多の戦場をくぐり抜けてきた自負が、張コウほどの武人ならば十分すぎるほどにある。だが、現在、直面している恐怖は、それと比較にならない。

 背後に森を焼き尽くす炎。そして眼前に、人ひとりを丸のみする大きさの蠎蛇である。

「.....死ぬわけにはいかないのです.....」

 張コウは、ほとんどうめきにも似た言葉をつぶやいた。

 今ここで先に死んでしまえば、司馬懿への誓いをすべて裏切ることになる。

「.....あの人を.....残して先に逝くわけにはいかないんですよ.....」

 朱雀虹をかまえる。

 もはや選択の余地はなかった。

 蠎蛇を倒して小川に飛び込む.....それしか、生還する方法はないのだ。大蛇の隙を突くべく、呼吸を調える。

 と、そのときである。

 周瑜くんのふところに抱かれていた白猫が、すとんとふたりの前に降り立ったのだ。

「なっ.....」

「シロッ!」

 予想外の行動に、張コウは攻撃の機を逸した。

「なにしてんの、シロッ! あぶないよ! おいで、おいでったら!」

 周瑜くんが泣きそうな声で語りかける。

 その間にも、蠎蛇がじりじりと間合いをつめてきているのだ。張コウは邪魔になる白猫を押しのけようと手をあげた。

 だが、不思議な琥珀色の瞳が、ひたりと張コウを見つめる。

「...............?」

 次に猫は、周瑜くんを見た。色みのない、ガラス玉のような瞳。

「シロッ! シロったら!」

 シロと呼びかけられた白猫は、じっと周瑜くんを見つめる。感情の見えない双眸が、きゅっと閉じ合わされた。

「シロ、シローッ!」

 それに、もう一度だけ、目をつむると、「にゃあ〜.....」と、一声鳴いた。

「シロッ、シローッ! なにすんのよ、戻っておいで!」

 周瑜くんがなおも叫ぶ。

 だが、白猫はすっときびすをかえした。それきり、周瑜くんをふり返りはしなかった。

「シロッ? シローッ! やだよ〜ッ! シローッ!シローッ!」

 ジャアーーッ! キシェ〜〜〜ッ!

 蠎蛇が牙をむく。鋭利な牙は、まるで氷の剣のように見えた。

「シャーッ!」

 白猫は背を丸め、威嚇の姿勢を取ると、後脚で思い切り跳躍した。洞穴のようにひらかれた、蠎蛇の口の中に滑り込む。

 それは、まさに一瞬の出来事で、張コウは声すら出せずにたたずんでいた。

 ただ、周瑜くんに向けて鳴いた、最後のひと声が、お別れの言葉であったのか、ありがとうと言ったのか.....

 そんなことを考える余裕などないはずなのに、張コウは、白い猫の琥珀色の瞳を思いだしていた.....