ああ、無常!
<41>〜<45>
 
 
 
 

 

「シロッ!シロ〜ッ!」

 周瑜くんの悲痛な叫び声で、正気に返る。

 張コウは得物を付けたまま、周瑜くんに飛びついた。

「バカッ! 周公瑾、死にたいんですか!」

「やーっ! 放してよ〜ッ! シロがッ! シロ〜〜〜っ!」

「周瑜ッ」

 周瑜くんが白猫をのみ込んだ大蛇に向かって、斬りかかろうとしているのだ。だが小山ほどもある蠎蛇はただの蛇ではない。

 その皮膚は石のように固いキチン質なのだ。力任せに斬りつけて倒せる相手ではない。

「周公瑾ッ! 落ち着きなさいッ」

 張コウは怒鳴った。

「やぁ〜〜ッ! 放してったら〜っ!」

 ゲ.....ゲギャギャギャ.....ッ

 ガボォォォ〜〜〜ッ!

 突如、大蛇が身をくねらせた。

 もんどりうって、大地に巨躯を叩きつけ、カッと開いた口腔から、ガボガボと泡を吹きだす。

 グギャァァ.....ギゲゲゲゲッ.....

「な.....なに? どうしたというのです.....」

 二股に分かれた長い舌が、だらりとこぼれ、白い泡がいつの間にか青紫に変わっている。それは鼻の曲がるような異臭を放ち、大蛇は断末魔の様相を呈していた。

 鋭い牙で、苦し紛れに自らの身をかみ砕き、何度も半転する。巨大な化物の奇妙なダンスは、まさしく燃えしきる大地を揺るがした。

「しゅ.....周瑜ッ! 今のうちです、さぁ、立って!」

「ちょ.....張コウ.....」

「なにをしているんです! はやく!」

「シロが.....だって.....シロが.....」

「しっかりしなさい! あの猫の死を無駄にするつもりですかっ!」

「.....シロ.....」

「さぁっ!」

 張コウは周瑜くんの腕を取ると、ぐいと引っぱり上げた。

「小川に飛び込むんですッ なんとか、この火をやりすごさねば.....」

 張コウは、長い髪を振り乱して叫んだ。いつの間にか髪を結わえていた組み紐が引きちぎられ、黒髪が背に広がってしまっている。

「張コウ.....も、もう間に合わないよ.....」

「なッ.....なんですって?」

 一難去ってまた一難とは、このことである。

 彼らが大蛇と小川を挟んでにらみ合いをしている間に、炎は森を焼き尽くさんばかりの火勢になり、取り残されたふたりに肉迫していた。

「.....くっ.....」

「張コウ.....」

「この火勢では、酸素が.....」

「小川のお水も干上がっちゃうよ.....」

 周瑜くんの言うことは、大袈裟でも誇張でもなかった。猛火はたやすく生木を焼き尽くし、舐めるように、草を灰燼にかえてしまう。

 張コウの白い額に、じわりじわりと脂汗が浮く。

「.....周瑜.....逃げ道はありませんか」

「.....ダメだよ.....囲まれちゃってる。下の方も燃えてるよ.....ゲホゲホゲホッ!」

「腰を低くして! とにかく水の中に入りなさい。煙を吸わないで」

「.....う、うん」

 周瑜くんが小川に足を踏み入れた。

 底は頼りないほどに浅い。いかに周瑜くんが長身とは言え、膝丈にすら届かないのだ。

「ちょ.....張コウも入って.....あ、あんまりお水、ないけど.....」

「...............」

「張コウ?」

「.....ダメです。この程度の水では」

 自らも小川にたたずむと、低くつぶやいた。

「.....死んじゃうの?」

「周公瑾ッ 武人ならば最期まであきらめるんじゃありません!」

 上手下手を眺めやる。だが狂獣のごとき炎は衰えを知らず、小川の水を蒸気に換え、蒼い草を塵に帰した。

「.....! そうだっ!」

 張コウはハッと顔を上げた。

 思いだしたのだ。数日前、司馬懿から預かった霊符のことを。まちがえても落としたり無くしたりせぬよう、しっかりと服の内側に挟んである。

「こ、これですッ! .....で、でも、使い方がよくわかりませんね、この御札.....」

「張コウ、それは.....」

「司馬懿殿からの愛の贈り物ですよ」

「.....伏犠の霊符でしょ」

「おだまり。.....ええい、ままよ! 蒼の霊符よ! この猛火を消し去り、活路をひらけ! 私たちはまだ死ぬわけにはいかないのですッ 命を.....命を助けてください!」

 張コウは霊符を胸元から取りだすと、そのまま天を仰いで放り投げた。手の内におさまる程度の小さな札。

 それは紅く焼けた空を、ヒラヒラと舞い、溶けるように姿を消した.....

.....すると.....である。

 するとどうであろうか。

 突如、耳を劈くような雷鳴がとどろいたかと思いきや、地を穿つ豪雨がふりだす。それは瞬く間に川に流れ込み、今や小川は濁流となってうねり、干上がった土くれをさらっていった。

「きゃあ〜〜」

「バカッ! こっちです、周公瑾!」

「張コウっ!」

「泣いている暇があったら水から上がりなさい! せっかく火を消して、溺れ死んだら、ただの大バカモノですよ!」

 張コウは、涙のかわかぬままに、ぼんやりと突っ立っている周瑜くんの腕を、ぐいと力任せに引っ張った。

「さぁっ! 行きますよ。グズグズしていたら流れにさらわれてしまいます!」

「う、うん」

 カッと空が光った。

 暗雲の中から、眩いばかりの閃光が走り、目の前の大樹を黒焦げに焼いた。

「きゃ〜〜〜」

「ああっ!  .....ったく伏犠め! なんというとんでもない効き目のものをよこすんでしょうか! 私たちを炭焼きにするつもりなんですかね!」

 張コウは、身を打ち付ける大雨の中で、天を仰いで舌打ちした。

「.....張コウ.....」

「まぁ、文句を言ってても始まりません。ここはとにかく逃げますよ。あの猫のためにも、こんなところで死ぬわけにはいかないでしょう!」

「.....シロ.....」

 周瑜くんが思いだしたようにぽつりとつぶやいた。

「.....シロ.....シロ.....ごめんね、周瑜くんが守ってあげるって言ったのに.....ごめんね、シロ.....」

 色素の薄い大きな瞳に、一杯に涙をためてささやく。

「.....周公瑾、さぁ!」

「張コウ.....」

「悲しいのはわかります。あなたはあの小動物を可愛がっていましたからね。ですが、今は気を取り直して頑張りなさい。まずは生きて山頂に到着すること。でなければ、夏侯惇殿まで死ぬことになるんですよ?」

 張コウは安全な場所に周瑜くんを引っぱり上げると、少しおだやかに語りかけた。周瑜くんの切れ長の双眸は紅く潤んでいる。大粒の涙を目じりからぽろりとこぼれ落とすと、彼はこくんと頷いた。

「走りますよ、周公瑾」

「.....うん!」

 こうしている間にも、水量はどんどん増してゆく。

 張コウと周瑜くんは、大樹の根を足場に、枝に飛び移り、濁流を避けて山頂に向かった。これ以上ないくらいの、最悪な状況の中で、不思議と張コウは力がみなぎるのを感じる。

 逆境を切り抜けて前へ進んでゆく。彼は当代きっての粋人でもあったが、生粋の武人であった。

 

 薄墨を流したような空に、気の早い星々が瞬いている。

 焚き火にかざしておいた服が乾くくらいの時刻には、すっかりと夕闇の支配する世界に変わっていた。激しい雷雨の後のせいか、今宵は常よりも、輝く星の数が多いように感じられる。

 張コウは焚き火に、静かに木の枝をくべた。生木には火が移りにくく、パチパチと音を立てたが、それも少しの間だけだ。ぽうと炎が大きくなり、辺りが明るくなる。

 しかし、張コウの傍らに横たわる周瑜くんは、身じろぎひとつせずに眠り込んでいた。張コウは起こさぬように、彼の白い頬に張り付いた長い髪を、静かに撫で付けてやった。

「シロ.....」

 寝言なのだろう。周瑜くんが小さくつぶやいた。閉じ合わされたまぶたにはうっすらと朱がはかれている。

 安全なこの場所に避難して、眠りにつく寸前まで、どれほど張コウがなだめすかしても、わんわんと声を上げて泣きじゃくっていたのだ。

 周瑜くんは両の足をぎゅっと折り曲げて、小さく小さく丸まって眠っていた。張コウは毛布代わりの藁くずと、周瑜くんの服を掛け直してやった。

「シロ.....シロ.....」

 周瑜くんはぽそぽそとつぶやいた。琥珀色の瞳をした、不思議な猫の夢を見ているのだろう。

「.....やれやれ.....困った人ですね」

 張コウは山頂を見上げてひとりごちた。

「.....この景色がまやかしでなければ、まもなく頂上に着きますね。急がなければ」

「.....ふえ〜〜」

「..........?」

「ふぇぇぇん、シロ〜シロ〜 うえぇぇん」

「.....周公瑾?」

 うなされて盛大に泣きだす周瑜くんの肩をゆさぶる。周瑜くんはびくんびくんと身震いした。

「周公瑾、起きなさい。夢ですよ」

「うえぇぇん〜、シロ〜〜」

「周公瑾!」

 周瑜くんは涙を一杯に溜め込んだ、眠気まなこを、ごしごしとこすりつけながら身を起こした。

「ふぇ〜、ふぇ〜」

「だいじょうぶですか? ひどくうなされていましたね」

「ふぇ〜ふぇ〜、シロ〜、シロ〜」

 周瑜くんはべそべそと泣きだした。張コウはややうんざりとして、肩を落とした。

「周公瑾。もうさんざん泣いたでしょう。いくら悲しんでも、亡くなった者は還らないのです」

「.....わかってるもん.....わかってるもん.....でもシロ.....あんなふうに死んじゃうなんて」

「周公瑾.....」

「あのふにゃふにゃしたお身体に、ヘビの牙が突き刺さったんだよ? きっとすんごく痛かったよ.....」

「...............」

「シロ、泣かなかったけど.....きっと、すっごくすっごく痛い思いをして死んじゃったんだよ.....周瑜くんのせいだよ……」

「.....周公瑾.....もう.....」

「ねぇ、張コウ、どんなカンジなんだろうね、生きたまま身体をえぐられるのって。どんなふうに痛いんだろう。剣で貫かれるのとどっちが痛いのかなぁ.....おんなじくらいなのかなぁ。それともシロは、そんなこと何も考えないで死んじゃったのかしら」

「もうよしなさい、周公瑾。今はこれからのことだけ考えるんです。此度のことが、無事に済んだら、あの猫の墓を作ってやりましょう」

「.....張コウ」

「そして、あなたの気の済むまで、謝って、祈ってやればよろしいでしょう」

 張コウは噛んで含めるように周瑜くんを説得した。それでもしばらくの間、ぐずぐずと鼻水をすすっていた周瑜くんであったが、ふたたびころりと転がり、二度目の眠りにつく。

 それを見届けると、張コウは少し弱まった焚き火に、小枝をくべた。

「さて.....私も少し眠っておかないとね」

 掻き集めた藁の中に、身を埋めてはみるが、なかなか安らかな眠りは訪れない。身体はクタクタに疲れ切っているにもかかわらず、頭のなかを目まぐるしく映像がよぎってゆく。

 ついさっきまで、泣きじゃくっていた周瑜くんの赤い顔、暗黒の積雲、雷鳴.....自ら大蛇にのみ込まれていった不思議な猫のこと.....そして想い人のこと。

「.....司馬懿殿はきちんと食事をとって眠っているでしょうかねぇ.....」

 だれにともなくささやく

「あの人は気力だけで無理をする人ですから.....」

 思い浮かぶ司馬懿の面影は、見慣れた無表情の軍師殿ではなく、少し困ったような、なにかを思案しているような、苦しげな横顔であった。

「無事にあなたと再会しましたら、いくらでもあやまりますから.....そんな悲しそうなお顔をなさらないでください.....」

 ささやきかけても、物思いの中のその人は、眉をひそめたまま、微笑んではくれなかった。

 長い旅の終焉を予期しつつ、張コウは双眸を閉じ合わせた。

 

 

「見えてきましたよ、司馬懿殿! はぁっ!はぁ、はぁ!」

 肩で荒い呼吸をくり返しながら、陸遜が叫んだ。

 山頂は視界に入っている。後は伏犠の言う、崑崙の女神の居場所を見つけ出すのみだ。

「軍師どのーっ! 司馬懿殿ーっ! 大丈夫でござるかぁ〜っ!」

 先頭を行く呂蒙が声をあげた。安全な足場を見つけ出し、後から続くふたりのために道筋を示しているのだ。しかし、陸遜はともかく、司馬懿にとっては明らかにオーバーペースであった。

「司馬懿殿、大丈夫ですか?」

 傍らの陸遜に声をかけられ、ただうなずく。

 実際、肉体は、声ひとつ上げるのも、難儀なほどに疲労している。だが、今は何も考えずに、言われた通り歩を進めることだけはできた。

 心のないロボットのように足を踏みだす。『思考せずに動く』それは司馬懿にとって、初めての経験であった。

「さ、司馬懿殿、手を!」

 頭上から呼びかけられて、顔をあげる。気付いていないわけではなかったが、少し前から大分足場が悪くなってきているのだ。すでに山頂付近に到達しているため、空気も薄い。軽い眩暈を感じ、司馬懿は額を押さえた。

「司馬懿殿、がんばってください。もう少しですから」

 陸遜が言った。目的地が見えてくるにしたがって、この若い軍師は俄然元気になっていった。

「ああ、すまぬ.....」

 司馬懿は素直に手を差し出した。虚勢をはる気も起こらなかった。今はただ為すべき事柄のために、木偶人形のように動いているだけだ。

「軍師殿、軍師殿! あのでっぱりの上の方で水音がしますぞ!」

 呂蒙が叫んだ。陸遜も気付いていたのだろう。すぐに返事をする。

「ええ、呂将軍! なんとか、あの崖の上に登りたいですね! おそらくあそこには、何か手がかりがあると思われますッ」

「よし! 迷っている暇はない。行きましょうぞ、軍師殿! まずは拙者が先を行くゆえ、御二方は後についてきてくだされ!」

「承知いたしました!お気を付けて、呂将軍!」

 陸遜の声はよく通った。

「.....水音が.....するのか?」

 司馬懿はかすれた声でたずねた。

「はい、司馬懿殿!もうすぐ.....もうすぐ目的地ですよ」

「...............」

「さ、参りましょう。ご心配なく。私が傍らについております。足場がひどく悪いですから慎重に.....」

「ああ、わかっている。.....だいじょうぶだ。先に行かれよ、ゆっくりとついて行くゆえ」

 少しでも笑ってみせようとして、司馬懿は失敗した。なおも陸遜は何か言いたげにしていたが、先導するために、あわてて登り始めた。

 この日の天候は悪くなかった。

 山頂に近づくにつれ、気温が下がり、霧が深くなる。それでも合間合間から澄んだ青い空が見えた。

 司馬懿の遥か頭上を、大鳥が飛んでいる。鷹なのか、鷲なのか、判別はつかないが、それはかなりの大きさに思われた。

 ケェェェン

 という、音にしにくい鳴き声が、妙に耳につくのだった。

「陸伯言.....ずいぶんと大きな鳥だと思わぬか.....?」

 司馬懿の問い掛けに、陸遜は不思議そうにふり返った。ここ数日、まともに口を聞かぬ司馬懿の様子を見慣れていたせいだろう。

「.....え、ええ、そうですね。鷹.....でしょうか」

「ここからではよくわからぬが.....」

「崑崙山にはお似合いの化け鳥かもしれませんよ」

 少しおどけたように陸遜が言った。

「.....鳥葬」

 なぜかそんな言葉がこぼれ落ちる。

「.....は?」

 陸遜が問い返す。頭に浮んだ言葉を口に出すつもりはなかたが、知らずのうちにつぶやいていたのだ。

「.....鳥葬というのを知っているか? 陸伯言.....」

「え、ええ。高山地方の民族に多い風習ですね」

「.....崑崙にそんな仕来りがあるのかは知らぬが.....頭上を飛ぶあれらは、ちょうどそれによさそうだな」

 司馬懿がそう言うと、陸遜はふたたび上空を仰いだ。そしてぞっとしたように身をすくめる。

「.....どうした、陸伯言。そのように思わぬか」

 口が勝手に動く。司馬懿は自らがしゃべっているのを、遥か彼方から見下ろしているような心持ちであった。

「.....司馬懿殿.....私はあまりその風習は好きではありません。いえ、否定する気は毛頭ありませんが.....やはり苦手です」

「そうか? .....地中に埋もれて、虫に食われるよりよいかもしれぬぞ.....」

 司馬懿は笑った。こんな話をするならば、自然に微笑むことのできる己がおかしかった。

「.....司馬懿殿」

「.....いずれにせよ、死した後のことなのだから、鳥の餌にされようが、地中で分解されようが、どちらでもかまわぬがな」

「もう、おやめください.....今は死後のことなど、思い描いている場合ではないでしょう」

「.....独り言だ.....気にするな」

 困ったような陸遜の言葉に、司馬懿はどうでもよさそうに、そう応えた。

 クアァァァーッ! ケェェェン!

 つきぬけるような怪鳥の鳴き声が耳を貫く。

 空気がさらに薄くなってきたようだ。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く呼吸をくり返す。人間は生き延びるために、無意識のうちに環境に順応しようとするものなのだ。司馬懿はそんな自身に苦笑した。

「さぁっ! もう一息ですぞ、軍師殿方! この辺りは足場が狭いです。おひとりずつ、ゆっくりとお登りください。拙者が今、上に参りますゆえ」

 呂蒙が上から、声をかけた。

「お願いします、呂将軍。では司馬懿殿、私が先に参ります」

「.....ああ」

 ふたたび、うつろな眼差しに戻った司馬懿を、陸遜は心もとなげに見遣った。

 

 

それに気付いたのは、前をゆく張コウの方が先であった。

「.....あれ?.....あれは? まさ.....か?.....」

「え?なになに? どしたの張コウ?」

「呂将軍.....まさか.....呂将軍ですかッ?」

「えええ〜ッうそっ!呂蒙がいるの? りょもーっ!りょもーっ!」

 後からついてくる周瑜くんが騒ぎだす。周瑜くんの声は大きい。とてつもなく響き渡るのだ。

 ガキガキと張りだした岩場から、見慣れたもじゃもじゃ頭が動くのを、張コウは確かに見た。

「呂将軍ーッ!」

「りょも〜!りょも〜ッ!」

「.....そ、そのお声は.....! 周大都督に張コウ将軍ーッ!」

 ものすごい勢いでザクザクと絶壁を登ってくる様が、張コウ将軍の立ち位置からはよく見える。途中の道程はどうであれ、山頂近辺のルートは、張コウと周瑜くんの方がまだマシなようであった。

「呂将軍ッ!はやく!」

 やや高めの声が、こもったように聞こえる。呂蒙の後ろに陸遜がいるのだろう。

「張コウ将軍、周瑜殿!」

 赤い服を着た、陸遜の姿が目に入った。しかしなぜか彼はすぐさま後方に取って返し、身体を低くするのが見えた。

 .....陸遜に手を引かれ、這うように登って来る人.....

 昨夜、夢寐のうちに、うつむきがちにたたずんでいたその人.....何度語りかけても、けっして笑みを浮かべてはくれなかった.....

「司馬懿殿ッ!」

 張コウは叫んだ。それに応えるように、陸遜に支えられながらも、顔を上げる司馬懿。乱れた黒髪の間から、張コウを見る。どこかで壊してしまったのであろうか、司馬懿は冠をかぶってはいなかった。

「司馬懿殿ッ! 司馬懿殿〜ッ!」

 司馬懿はこちらを見つめ続けている。微かに口元が動いたが、声にはなっていなかった。陸遜が司馬懿を正気づかせるように耳元に言葉を掛ける。

「周大都督ーッ!」

 ダガダガと駆け出してくる呂蒙に向かって、こちらから周瑜くんが走り出した。それにつられるように張コウも駆ける。

「うえぇぇぇん!りょも〜ッ!」

「うわぁぁぁん!司馬懿どのーッ!」

 周瑜くんは出っ張った岩の上を蹴り飛ばし、呂蒙の巨体に飛びついた。

「うえぇぇん!うぇぇぇん! りょもーッ! りょもー、りょも〜〜ッ!」

 ふところにぐりぐりと鼻水まみれの顔を押し付け、周瑜くんは泣きじゃくった。

「だいじょうぶっ! もう大丈夫ですぞ! 周瑜殿!」

「うぇぇぇん!」

「ご安心召されよ! もう怖いことはございませぬ! 拙者も陸遜殿もおりますゆえ!」

「りょもぉ〜〜〜! うわぁぁぁん!」

 豪快に泣き叫ぶ、周瑜くんの背を、呂蒙がなだめるように撫でている。そんなふたりの側に、後からやってきた陸遜は、苦笑しつつも周瑜くんに手布を渡していた。

 そんな周瑜くんを真似たわけではなかったが、張コウも司馬懿の胸に飛び込んでみた。もっとも体格差は如何ともしがたいため、端から見ると、逆に抱きすくめるような光景であったが。

「うわぁぁん! 司馬懿殿ーッ! 司馬懿殿〜〜!」

 自らよりも少し小柄なその人の身体を、両の腕でぎゅぎゅぎゅ〜っ!と抱きしめる。

 しかし次に起こった現象は、張コウの予測外のものであった。

「.....こっの.....大バカモノめがっ!」

 ガツンと火花の飛ぶ勢いで、軍師さんのゲンコツが、脳天に直撃した。

「いったぁ〜い! なにをなさるんです、司馬懿殿! せっかく.....」

「ふざけるなっ!」

 張コウの言葉を遮る司馬懿。

「貴公は.....貴公は.....どこまで自分勝手な男なのだッ! この私がどれほど心配したと思っているのだッ! いつもいつも好き勝手に私を振り回して.....」

「し、司馬懿どの.....あの.....ごめんなさ.....」

「うるさいっ! そなたのことなどもう知らぬッ! そなたなど.....そなたなど.....」

 司馬懿はギリギリと歯がみし、肩をふるわせて叫び続けた。

 竜の逆鱗のごときありさまに、張コウはもちろんのこと、陸遜、呂蒙もぼう然と見守るだけである。泣きじゃくっていた周瑜くんも、ぽかりと口を開けて、その様を見つめていた。

 言いたいことを言い終えたのか、司馬懿は、張コウから顔を背けると、すっと足を踏みだした。慌てて後を追う張コウ。

「あ、あの.....お待ちください、司馬懿殿! ご、ご心配かけてしまって.....そ、その.....」

「さわるなっ!」

 オロオロと差し延ばした手を、思いきりはたかれる。

「ま、まぁまぁ、落ち着いてください。司馬懿殿はお疲れなのですよ」

 聡い陸遜が助け舟を出した。

「陸伯言.....」

 うめきのような司馬懿の声。

「今朝方から、ずっと歩き通しですからね。もう数刻もがんばれば、目的地に着けるでしょう。少し休みませんか?」

 陸遜が提案した。なるほど、大岩に囲まれたこの場所は、外気を遮断する窪地のようになっている。わずかながらも高山植物の緑も点在し、風も直接には吹きつけてこない。休息を取るには格好の場所であった。

 呂蒙が大きく頷いた。

「そうですな! もうひとがんばりですからな。いざというときのために、少しでも体力を温存しておきましょう」

「りょもー、りょもー、抱っこ〜」

「はいはい、周大都督!」

 周瑜くんが顔をこすりながら、呂蒙の大きな膝の上に、にじりあがった。陸遜も適当な場所に腰を下ろす。

 司馬懿は無言のまま、きびすを返すと、大岩で区切られた、空間の裏側へ歩いていった。張コウがその後を追う。

 苦労性の陸遜は、心配そうに、曹魏の二人組を見遣っていたが、大きく吐息すると視線を戻した。ここは自分の出る幕ではないと考えたのだろう。

 陽はすでに高い。正午を過ぎたわりには、温度が上がらないように感じられた。

 

 大岩と細い木の影になった、薄暗い場所に、司馬懿は腰を下ろした。終始無言のままに。

「え、えーと、あの、司馬懿殿?」

「...............」

「あの.....その.....」

「...............」

「ねぇ、司馬懿殿ったら.....そんなにお怒りにならずともよろしいではないですか。お互い無事だったんですから」

 張コウが気を取り直すように、明るい口調でそう言った。

「.....話しかけるな」

「そんな冷たいことをおっしゃらないでくださいよ〜。司馬懿殿と再び逢える日だけを夢見て、登ってきたんですから〜」

「.....ふん」

「司馬懿殿だって、私と再会できて、嬉しく思ってくださるでしょう?」

 張コウは、不愉快げに眉をひそめる司馬懿の態度にもめげず、にっこりと微笑みかけ、側に近寄る。

「...............」

 司馬懿は敢えてそれに目を反らせた。

「だからね、ご機嫌を直してくださいな。もう、ずっとずっと、お側に居りますから。ね?」

「.....貴公の言うことは信用できぬ」

「んも〜、スネちゃって〜。このこの〜」

「張コウ将軍!」

「はいはい。ごめんなさい。ふざけているわけではないんですよ。今度こそは、ずっと最期までお側から離れませんから、ね?」

「...............」

「ねぇ、司馬懿殿ってば〜。ご機嫌を直してくださいよ〜」

「...............わかっている」

 司馬懿はぼそりとつぶやいた。低い声はひどく聞き取りにくかった。

「え?」

 と、張コウが聞き返す。

「.....わかっていると言ったのだ。あの時.....貴公はああするしかなかったというのだろう。手を放さなければ、私まで巻き添えにすると.....そう考えたのだろう」

 張コウの方を見ずに、司馬懿は言った。

「え.....ええ.....まぁ.....」

 困ったように頷く張コウ。言葉通りといえば、そのままなのだ。

「だから貴公は私の手を振りほどいたのだ。この私を助けるために、あえて、な」

「...............」

「結局、私は、貴公に救われてばかりで、なにひとつ返すことは出来ぬということだ」

「は? ちょ、ちょっと、司馬懿殿。出し抜けに何をおっしゃるのです。 私は一度もそんなふうに考えたことなどございませんよ?」

「事実であろう」

 断定的に、司馬懿は言った。

「んもー、本当に困った方ですねぇ。あなたは、ただそこに居てくださるだけでいいんですよ。それだけで、十分命を掛けてお守りする理由になるのです」

「そんな科白は婦人に向かって言うのだな。私は女ではない」

「そういうことを申し上げているのではありませんよ。まったくあなたという方は、妙に聞き分け無いときがあるのですねぇ」

 やれやれとばかりに溜息をつく張コウに、司馬懿は形のよい眉を吊り上げた。

「いいですか、司馬懿殿は軍師さんでしょう? あなたと私では人の守り方が違うのですよ」

「.....どういうことだ」

「私は戦場で、いつもあなたに守られていると感じますよ」

「.....なに?」

「それは確かに、直接手を差し伸べて、窮地を救ってくれるような形ではないですが、いつだってあなたは、勝利するための策を考え出して下さるではありませんか」

「.....私は曹魏の軍師なのだから、あたりまえだ」

「ですから、そういうことですよ。私は司馬懿殿が指揮をとった戦場で、何度命びろいをしたかわかりません。あなたの策は、いつでも私を守って下さいます。あなたの守護の在り方とは、そういう形なのですよ。あなたにしかできない、人の守り方なのだと思います」

「.....張コウ」

「そして、直接この両の腕で、あなたの身の安全を守るのは私の役目です。.....今回もそのつもりでした。でも、ずいぶんと不安にさせてしまったようですね。.....すみません」

「.....別に。結果的に貴公は私を助けてくれたのだから。謝罪される必要はなかろう」

 ばつが悪そうに司馬懿は顔を背けた。

「いつもよかれと思ってしていることが、結局あなたを傷つけてしまう.....ごめんなさい」

 消沈した様子で、張コウは再び謝った。さすがに居心地の悪くなる司馬懿である。

 張コウの無事な姿を目にした途端、吐息の震えるほどの安心感と、眩暈を感じるくらいの憤りが込み上げてきたのだ。激情に任せて叩きつけた言葉は、命の恩人に対していうべき内容ではなかった。ましてやこぶしで殴りつけるなど。

 正気に戻った司馬懿は、おのれの行動に、目の前がくらくらと回り始めるのを感じた。

「.....司馬懿殿、まだ怒ってらっしゃる?」

 側近くにすり寄ってきて、張コウが小首をかしげた。

「.....いや」

 司馬懿はつぶやいた。『こちらのほうこそ、すまなかった』、その言葉がどうしても言えない司馬懿であった。

「.....飾り櫛が.....」

 司馬懿はやや強引に話題をそらせた。

「飾り櫛が無くなっている.....どこかで落としたのか?」

「え、ええ、まぁ、いろいろとありましたから」

「.....お互い、ひどい有り様だな」

「ええ、でも髪を下ろした司馬懿殿は、とってもステキですよ! ドキドキしちゃいます★」

「.....貴公はのんきな男だ」

 司馬懿は苦笑した。

「なんとでも。ここまできたら、ピリピリしても仕方ありませんからね。ところで、司馬懿殿。冠をなくしただけですか?他に怪我などしてらっしゃらないでしょうね?」

「.....なんともない。多少、疲れてはいるがな」

「そうですか?無理をしているのではありませんか?」

「だいじょうぶだと言っていよう。.....それより貴公の方がひどい有り様だぞ」

 司馬懿は言った。誇張ではない。

 張コウの髪はばさりと背に下ろしっぱなしで、蝶の飾り櫛がなくなり、組み紐も千切れてしまっている。鎧のあちこちが焼け焦げ、瀟洒な装飾の長靴も、見る影無く泥にまみれていた。

「いやですねぇ。せっかくの美貌が。お恥ずかしい」

 張コウはおどけたように応じたが、司馬懿は笑って済ませる気にはならなかった。

「.....なにがあったのだ、本当に。負傷しているのではないのか」

「いえいえ、それは心配ないですよ。ああ、そうだ。もう一度、司馬懿殿にはお礼を申し上げねば」

「なんのことだ?」

「ええ、実は.....」

 張コウは、大蠎蛇に襲われたことから、山火事をくぐり抜けた顛末を、掻い摘んで司馬懿に説明した。

「そうか.....あれは役に立ったか。渡しておいてよかったな」

「ええ、司馬懿殿からの愛の贈り物は、またもや私の命を救ってくれましたよ。ああ、ついでに周公瑾もね」

「.....伏犠の霊符だろう」

「いえ、愛の為せる技です」

「.....まぁ、どうでもいいが。そうなると残る札は、これ一枚か.....」

 

 司馬懿は胸元をさぐると、黄土色の紙片を引っ張り出した。

「私のいただいた霊符は、雷鳴と大水を喚んだのです。その前の紅いのは、炎を放ったのでしたよね」

「ああ.....」

「この黄色いお札は、どんな霊力があるんでしょうね」

 まじまじと、小さな紙片を眺め、張コウがつぶやいた。

「さぁな。できることならば、使わないで済めばいいが」

「そうですね。でも持っているだけで心強いですから」

「うむ.....」

「やはり、司馬懿殿のお手元にあると思うと、安心できます」

「...............」

「さて、そろそろ出発のようですよ。参りましょうか」

 張コウが立ち上がった。呂蒙たちが出てきたのだろう。表の方がにぎやかになった。

「.....無事に戻れたら.....」

 独り言のように司馬懿はつぶやいた。何故、自分がそんなことを口にしたのかもわからぬままに。

「はい?」

 張コウが司馬懿をふり返る。

「.....無事に戻ることができたのなら、私が櫛を見立てよう」

「え.....?」

「.....飾り櫛を見立てようと言っただけだ」

「.....あ、あの、私の?」

「他に誰がいる。飾り櫛など身に付けるのは、貴公くらいのものだろう」

 張コウの顔がみるみるうちに、桜色に染まって輝いてゆく。その様子を見取り、遅ればせながら、おのれの発言に赤面する司馬懿である。

「うっそ〜〜っ! ホントに? 司馬懿殿? 私に飾り櫛を贈ってくださるというのですか? 司馬懿殿のお見立てで?」

「.....大声を出すなッ 他の人間に言うな!」

「これが言わずにいられますか! うっそ〜ん!うれしい〜〜ッ! ああー、生きててよかった!」

「大袈裟だ!みっともない!」

「なにをおっしゃいます! 花火を打ち上げたい心境ですよ!」

「そんなもの打ち上げるな!」

「ええ、私の心の中だけで打ち上げることに致します! うれしい〜★」

「.....無事に戻れたらと言っていよう」

「もう、なにが何でも戻りますからね! 速攻で!」

 鼻息も荒く、張コウ将軍はそう言って退けたのであった。