街亭演義
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 ザザザザッ.....

 街亭の隘路に突風が吹き上げる。

 大斧で切り出したような山肌は、土色というより灰黒色で、鋭利にせり上がったそれは、見る者に畏怖の念を抱かせる。

 そう、まるで何かの拍子に、崖のてっぺんがへし折れて、下をゆく人間どもに突き刺さるのではないかというような、本能的な不安感だ。

 時は後漢末期、西暦228年。

 魏、蜀の名軍師がそれぞれ総大将をつとめ、矛を交わした、名高い街亭の戦いである。

 

「南道より伝令でございます!司馬大将軍にお目通りを!」

「東の方よりも参じておりまする! 現在の戦況につきましては.....!」

「物見より! 物見より、申し奉りまする!」

 魏軍総大将の前に、続々と伝令がやってくる。司馬懿は休息もとることなくすべてに耳をかたむけ、策を錬る。たびたび軍司令官総大将を担う機会のあった司馬懿であるが、蜀漢の鬼才、諸葛亮と直接的に対峙するのは、此の度がはじめてであった。

 戦況は五分と五分。やや自軍が有利というところだ。しかし、蜀の総大将は白羽扇の天才軍師だ。一瞬の気の緩みは命取りだ。

 孔明、司馬懿、双方一歩も譲らず、街亭の隘路で、希代の才がぶつかりあったのである。

「総大将殿! 朗報でござりまするぞ! 中央より東の方! 曹仁将軍率いる一千が、陳登軍を殲滅いたしました! 中央の守りが容易になりまする!」

「まことか! よくやった。.....ご苦労だが、曹仁殿にはそのまま北方へ迂回していただくよう申し伝えよ。予定通り山頂の馬謖を、張コウ軍と挟み撃ちにする!」

 表情の変わらぬ司馬懿も、今は言葉に力が入っている。遊軍を押さえた曹仁軍を北方に回り込ませ、西方に陣をしく、張コウ軍と向かい合わせに攻め上る。成功すれば馬謖率いる本陣を壊滅させ、南方奥にて、動静を見つめ続けている諸葛亮を誘き出すことができるだろう。

 そう、いつでも本当の敵は一番奥に潜んでいる。馬謖など、ただの前菜のようなものだ。

.....諸葛亮.....貴様の目の前で、暗愚な弟子を葬ってやろう。いつまで知らぬふりを決め込んでいられるか見物だな」

 低くつぶやくと、司馬懿は、数本の朱墨の走った地図を手に取った。

.....あとは張コウ将軍が、東砦を持ちこたえつつ、兵を分ちて山頂に詰められれば.....

「総大将殿、東の廖化隊は大軍でござりましたが、張コウ将軍の火矢にて、大恐慌に陥り、壊滅寸前と報告が入っております。風向きも安定しておりますし、おそらくは.....

 老齢の文官が、言い添えた。

.....さようでござるな。だが、少数精鋭とはいうものの、張コウ軍は小隊だ。思いのほか、敵の抵抗が長引いたゆえ、消耗が激しかろう」

「はっ.....確かに膠着状態が続きますと、所詮は軍勢の差.....馬謖の布陣は、張コウ殿と曹仁殿の軍を足しても、その倍以上の軍勢ですからな」

.....そうだな」

 そのとき、

 ウオォォォォォ.....

 という大勢の人間の、山河を砕くがごとき怒声、地を蹴り飛ばす、馬のひずめが鳴り響いた。

.....西だな.....始まったか.....

...............は」

「物見より! ただいま、曹仁将軍、張コウ将軍が、軍を動かされました!」

「今後、逐一報告を入れよ!決して怠るでないぞ!」

「ははっ!」

 司馬懿の厳しい物言いに、若い兵士は叫ぶように返事をした。

「黄権、孫礼! ただちに軍を整えよ!」

「はっ!」

「ははっ!」

「軍師殿.....いえ、総大将殿! まさか、本陣の守りを動かされるおつもりですかっ?」

 おたおたと寄ってくる老文官を一瞥し、司馬懿は冷ややかに言った。

「全軍というわけではない。一部を西道に割く。.....念のためだ」

 ドドドドドドッ!

 馬のひずめ、兵の怒号、今まさに命絶えようという人間の悲鳴が入り交じり、山岳に共鳴する。

「黄権! 一軍を率いて西の方へまわりこめ! 張コウ軍と合流せよ!」

「はっ、ただちに!」

 ごつごつとした、妙に犀に似た武将が、打たれたように飛び出していった。

 .....そして、「その事件」は、間髪入れずに起こったのである。旗色が、にわかに曹魏に色めき立った、この時に.....

 

「急報ーっ! 急報にござりまするーッ!」

 そう叫んで転がり込んできた兵卒は、血と土にまみれ、壮絶なありさまであった。彼は司馬懿に尋ねられる前に、咳き込んでしゃべりだした。

「に.....西の方、綿竹より、蜀将.....きょ.....姜維軍が出現いたしました!」

「なんだとっ!」

「ちょ.....張コウ将軍はすでに逆落としにかかっております!このままだと背後を.....

「軍勢は?」

「二千余りかと.....

「二千.....! どういうことだっ? 綿竹の出口には、曹真殿の軍の配備しておいたはず.....!」

「そ、それが.....敵の車のような.....虎を模した戦車が、瞬く間に.....

...............

.....総大将殿.....総大将殿?」

..........おのれ.....おのれ.....諸葛亮.....!」

 司馬懿は黒羽扇をぎりぎりと握りしめた。

「孫礼、曹洪! 残りの兵をすべて率いて出陣せよ、急げ! 黄権の軍に追いつき、すぐさま張コウ将軍の救援に向かえッ!」

「はっ!」

「ははっ!」

 ガガガガガッ! ドドドドドッ!

 篝火の炎が揺れる。それに呼応するかのように響き渡る怒声.....

「そ.....総大将殿.....

 苦鳴のような文官の呼びかけに、司馬懿は振り向きもしなかった。そのおもては、氷のごとく怜悧で、いっそ美しい。色みの薄い双眸に動揺は見られない。常と変わらぬ冷ややかな光りを点している。

 幾百もの修羅場をくぐり抜けてきた凄みが、その端と静まった立ち姿から見て取れた。

 幕内に沈黙が降りた。ことさらに戦場での喧騒が耳につく。次の伝令が飛び込んできたのは、それからまもなくのことであった。

「総大将殿に申し上げまするーッ!」

 その男はがっしと拱手して、膝まづいた。

 戦況の激しさを物語るかのように、傷だらけで頭から血を流している。背にも折れた矢が二、三本突き刺さっており、生きているのが不思議であった。

 悪鬼のごとき形相で男は叫んだ。

「た.....たった今、張コウ軍により、山頂、馬謖の陣が崩壊いたしました。きゃつらはほぼ全滅、曹仁殿の遊撃軍が、残党を狩っております!」

 おおおッ!

 と幕内に歓喜の声が沸いた。

「馬謖は行方知れず。蜀軍はいっせいに陣を捨て、撤退を開始いたしました! 我が軍の勝利にございます!」

「おおおっ! 総大将殿ーっ!」

「おおう、冷や汗をかいたわい! さすがに負け知らずの総大将殿じゃ!」

「殿への土産話に困りませぬな!」

 さきほどまで通夜のようであった本陣が一挙に沸き返った。司馬懿もようやく安堵の吐息をつこうとしたところである。

 朗報を告げにきた男が、未だ何か言いたげに、機を窺っているようすだ。なにやら泣き笑いのような困惑した表情である。

 戦勝に沸き返った幕内でも、唯一平静を保っている司馬懿である。その様はたいそう気にかかった。引き続き報告を促そうと口を開いたとき、耐えきれなくなった男が、倒れ込み、泣き叫んだ。

.....ひ、引き続き報告がありまする! 此度の一の戦功者、張儁乂将軍が.....張将軍が.....戦死なされたとのことでございますッ!」

 し.....んとあたりが静まり返った。溢れ出た、勝利の歓声も、ピタリと止む。

.....張コウ将軍が戦死.....?」

 ゆっくりと、脳裏に刻み込むように、司馬懿がくり返した。

「ははっ! 勇敢にも先陣を切って馬謖軍を蹴散らした直後、賊に襲われたとのこと! 背に矢を受け、後方より斬りかかられたということですっ! 現在、戸板にお乗せして軍医が付き従っておりますが、もはや.....もはや時間の問題であると.....ッ」

.....時間の問題.....

「ははっ!」

.....そうか.....わかった」

 司馬懿の声は不気味なほど静かで、穏やかであった。戦勝の歓びと、同胞の訃報に浮き足立った武将らも、平静に戻る。

「此度の遠征、戦果は充分と見る。全軍、隊列を整え、陽のあるうちに撤収する。.....牛金、幹浩、陳震軍は、この先の地に布陣し万一に備えよ」

「ははっ!」

「はっ!」

.....夏侯惇将軍、行軍のしんがりを頼む」

.....心得た」

 司馬懿は、合流したばかりの夏侯惇に、そう言った。

 街亭の隘路に陽が沈む。赤い赤い夕日は、累々たる兵士の屍から滲みだす、血潮よりも尚、赤黒かった。

 

 

 墨を含んだ筆が、幾足もの紙のうえを滑る。やや神経質な、右上がりの文字。それは、よどみなく流れる細筆から、紡がれていた。

 司馬懿は端座したまま、文机に向かっていた。戦の恩賞、昇進、あらゆる賞罰の決済、および次の行軍の編成という仕事が、筆頭軍師である彼のところに回ってくる。

 街亭の戦から、都に戻って、ようやく一週間。しかし、司馬懿は一月分の案件を片づけるがごとき、仕事ぶりであった。

.....失礼いたします、父上」

 ひっそりと、扉を開けてやってきたのは、司馬昭、司馬懿の次子だ。彼は月明かりの中、昼と変わらぬ姿のままに、書類に取り組む父に眉をひそめた。

「父上、お身体に触ります。家に戻ったときくらい、どうかお休みになって下さい」

.....案ずるな.....多忙なのだ」

「それは.....それはよくわかっておりますが.....これでは身体を壊してしまいます」

....................

「もし、父上がお倒れになるようなことがあれば.....私は.....いえ、もし張コウ将軍がお気づきになられましたら、どれほど心配なさることか.....

.....昭」

「は、はい」

.....いや.....張コウ将軍はまだ目覚めぬか.....

.....はい。容態に変化がありましたら、時を置かず宮中より遣いが来ることになっております」

.....そうだな」

.....父上.....

「何だ」

.....いえ、なんでも.....ありません.....

.....夜も更けた。そなたももう休め。.....私もそろそろ眠ることにする」

 終わりの言葉は、ほんの付け足しのように昭には聞こえた。

.....はい。おやすみなさいませ、父上」

 昭が室を出てゆく。辺りにふたたび静寂が戻る。夜鳥の羽ばたきも、虫の声も聞こえぬ夜の闇.....それは司馬懿に、深い湖底に居るような錯覚を起こさせた。

 

 いつのまにか、司馬懿は本当に眠っていたらしい。意識を手放した、というほうが、正解であろうが、少なくとも寝椅子に横になり、毛布を被っていた。きっと心配して様子を見に来た彼の息子が掛けたものであろう。

 司馬懿の中途半端な眠りは、朝方、未だ陽の低い頃に、唐突に破られたのであった。 

「ちっ.....父上ッ!父上ッ! お休み中ご無礼いたしますっ! 父上ッ!お目覚め下さい!」

「う.....む?」

「父上ッ! 朗報にございますっ! 張コウ将軍が気を取り戻されました!一週間ぶりに気を取り戻されたということでございますっ!」

..........に?」

 扉を隔てた外からの昭の言葉が、なにやら他人事のように、妙によそよそしく聞こえる。まるで自らの書いた台本のとおりに、下手くそな役者が演技しているようだ。

 だが、それは司馬懿にとって、待って待って、気が違うほどに待ち望んだはずの瞬間.....無彩色の世界が、ふたたび色彩を取り戻す、その『時』であった。

 司馬懿は扉を、恐る恐る開いた。

.....父上ッ!」

 涙もろい息子はもう泣いていた。

「父上ッ!.....ようございました.....

.....昭、すぐに出る。供をしろ」

「はいっ!」

 寝不足なのは同じだろうに、若い身体はもう走り出していた。

 

 

「おおっ!.....軍師殿ッ!」

 宮中の門前で最初に出会ったのは徐晃である。早朝にもかかわらず、きっちりと衣装をととのえ、扉のすぐ近くに仁王立ちにしていた。

 司馬懿が到着したときには、張コウの病室に隣接された、大きめの控えの間には、すでに主だった面々が顔を突き合わせていた。意外なことに、丞相曹操までもが足を運んでいる。

「殿、おはようござります」

 司馬懿は拱手し、礼をとった。息子の昭は、文官の執務室に控えさせている。

「司馬懿か。ぬしの方が病人のようだな」

 ここ数日、まともに睡眠さえとっていない青白い顔を見て、曹操は言った。あながち冗談とも聞こえぬふうに。

.....おたわむれを.....張コウ将軍は?」

「うむ。医師は気がついたと申しておったが.....会うのは今少し待ってくれと言ってきたのだ」

.....どういうことなのです?」

「さぁな。怪我人相手ゆえ、無理強いするのも気が引ける。それゆえ、ここでこうして待っておるのよ」

「そのような.....丞相にも会わせられぬとは.....医師どもはいったいなにを考えて.....

 いらいらと司馬懿はつぶやいた。すぐさま顔を見て安否を確認するために駆けつけてきたのに、肩透かしをくらったような気分である。だれよりも張コウの無事な姿を見たかったのは、他ならぬ司馬懿自身であろう。

「まぁよい。まだ早い時間だしな。しばし待つことにしよう。座って茶でも飲もう、司馬懿」

.....ええ」

 司馬懿はすすめられた椅子に、静かに腰をおろした。気を抜いたら、そのまま頽れてしまいそうになったからだ。両の足が鉛のように重く、だるかった。夏侯惇も張遼も、その場に居合わせた誰もが、ぐっとヘの字に口をひんまげたまま、黙りこくっている。

 机の上の茶器には、もう湯が干上がり、縁に黄色い跡の残っているものもある。もともと今宵は宮中につめていて、数刻も前から、ここでこうしていた人間もいたのだろう。

 .....いたたまれない沈黙.....

 一分が十分にも.....一時間が半日にも感じられる、重い重い静寂。

 ぎぃと鈍い音を立て、病室の扉がひらかれたとき、反射的に司馬懿は腰を浮かせていた。

「医師よ! どうしたのだ? 張コウは気付いているのであろう? なにかあったのか?」

 たたみかけるように詰問したのは曹操であった。

「は、はい、お目覚めになられました.....傷の痛みも大分楽になられているご様子です」

「なんだなんだ! ならばさっさと会わせぬか! 心配してこうして足を運んできたのだからな!」

「ははっ!丞相閣下.....

 代表で司馬懿らの方に伝達にやってきた医師が、背後に並ぶ同輩らと視線をかわしている。さらに何か.....決定的な何かを告げようとしたが、誰も口火をきることができない.....といったような雰囲気だ。

.....患者の容態が芳しくないようなら、すぐに退出するゆえ、まずは室に通してくださらぬか?」

 夏侯惇が辛抱強く言った。

.....はい、わかりました。では、みなさま、こちらへ。ただし、大きな声をあげたり、張コウ殿を興奮させるような言動はお控え下さいますよう」

「もちろんだ」

 言下に曹操は頷くと、先頭をきってざくざくと歩き出した。残りの医師も、あきらめたように道をゆずった。司馬懿は黙したまま、一行の最後に着いた.....

 果たしてその人は、巨大な座臥の上に居た。横たわっていたわけではなく、上体を起こして肩に淡い色合いの被物を羽織って。

 一週間近く人事不省に陥っていたわりには、それほどやつれたふうでもなく、白磁の肌が冷たく冴えていた。いつもは組み紐で高く括っている長い髪を、今は背に流し、絹の細布で中ほどを蝶結びにしていた。

「おう、張コウ! 元気そうではないか! 心配かけおって!」

 すぐさま曹操が、遠慮もなく座臥に歩み寄った。それを合図にしたように、夏侯惇以下数名の武将が、わっとばかりに彼のまわりに集まった。

 張コウはすぐに返事をしない。困ったようにからわらの医師を見遣る。先ほど別室にやってきた白ヒゲの老人だ。山羊を思わせるその翁は、重たげに口を開いた。

.....丞相閣下.....それに御方々.....よく聞いて下され.....

 その言葉はうめき声のようであった。

.....張儁乂将軍は、どうやら記憶を無くされているようなのでございます」

「な.....

「なんだとッ?」

 曹操が声をあげた。

「ご医師、どういうことなのだ、これは!」

「張コウ、わしがわからんのか! おい、張コウッ!」

「落ち着け、孟徳!」

.....張コウ.....将軍ッ.....

 司馬懿が初めて口を開いた。ひたりと辺りが静まる。寝台に腰掛ける長い髪をした美貌の青年が、ゆっくりと司馬懿に視線を移した。

.....張コウ将軍.....本当に.....わからぬのか.....?」

 美人が困惑したようにまゆをひそめ、

「申し訳ございません.....

 とかすれた声でつぶやいた。

「いやはや.....致し方ないことでござりまする.....記憶を無くされたのはお辛いことでしょうが、外傷がこの程度で済んだのは、まだ不幸中の幸いでござりまする」

....................

 重苦しい沈黙が落ちる。その中で、ふたたび口を開いたのは、司馬懿であった。

.....ご医師の言う通りだな。これ以上、ここに居ても張コウ将軍を疲れさせてしまう。ご医師よ、話の続きは外でいたそう。皆、一度、こちらを退出いたしましょうぞ」

 司馬懿は言った。冷静な物言いであった。それに促され、ぞろぞろと将軍達は病室をあとにした。充分に広い部屋だが、大柄な武将連中がいなくなると、そこは妙に閑散として、よそよそしい雰囲気になった。

 司馬懿は、張コウが、医師に促され、ふたたび座臥に横たわったの見取ると、足音をたてずに病室を辞した。室の外に出た途端、いつもは冷静な徐晃が口火を切った。

「ご医師よ! これは.....いったいどうしたことなのだっ! どうすれば張コウ将軍はもとに戻られるのだッ!」

「落ち着け、徐晃」

「夏侯惇将軍! だが.....だが、このままでは.....それがしは.....

.....ここで我らが騒いでも仕方がない。医師の話を聞こう」

「そうだな.....今後あやつと接してゆくうえで、皆が気を付けねばならぬことや.....なにかよい方法があるのなら聞かせてくれ」

 丞相曹操は、困惑した面持ちで縮こまっている医師を促した。小さな老医師は、むにゃむにゃと白いヒゲをうごめかせると、ゆっくりとしゃべりだした。

.....さようでござりまするな.....張コウ将軍にむりやり思いださせようとはせぬこと.....ご本人が一番不安のはずでございますからのぅ.....なるべくいつもどおりに、変に気を使ったりせず、ふつうに接されますよう.....遠巻きにされたり、避けるような素振りはみせてはなりませぬぞ」

「ふむ、それはもちろんだ」

 力強く曹操が言った。武将連は皆一様に頷く。

「身体の傷が完治されるのには、今少し時が必要でしょうが、疲れさせぬ程度に会話をするのはよいことです。ここへの刺激になりますからの」

 そういって、老医師は枯れ木のような指で、頭をとんとんと叩いてみせた。

「ふたたび良き友となられるように、受け入れ、接して差し上げて下さい」

 一同をぐるりと見回し、医師は恭しく拱手した。

 事の一連の経過は、すぐさま丞相府より下位機関に伝達された。混乱を招かぬよう十分な配慮がなされた。伝えるべき点と伝えぬべき点.....十二分に吟味したその上で。

 張コウの身柄は、外傷の癒えるまで、最低三ヶ月の間は、医師連が常駐している宮中に留め置かれることとなった。その間の治療費も俸禄もすべて国家が持つ.....それだけ先の戦いにおける張コウの武勲は、素晴らしいものであったのだ。

 

 そして早くも一ヶ月の時が流れたのであった.....

 

「よう、張コウ」

「なんだ、今日も起き出しているのですかな。かまわぬのか?」

「まだ酒はダメなのか? 大分顔色も良いようだが」

 石造りの回廊の、ずっと先.....そこには日当たりのよい東屋がひっそりとたたずんでいる。

 張コウの病室は、四六時中、人の張り付いている主殿から移され、この離れに移されていた。少し歩けば容易に中庭に出てくることができる、小作りの.....だが充分に瀟洒な建物であった。

 彼は、今日もそこの長椅子に腰掛けて、うつらうつらと微睡んでいた。

 まだ長時間動き回ったり、酒を飲んだりすることは禁じられていたが、見違えるほどに回復している。日頃、第一線の武将として鍛練を怠らぬ成果でもあるのだろう。

「夏侯惇将軍、徐晃殿.....張遼殿.....こんにちわ」

 張コウはすぐに覚えてしまった三人の武人の名を口にした。離れに移されてから、もっとも頻繁に張コウのもとをたずねてきてくれるのが、この三人なのだ。

.....御三方ともお忙しいでしょうに.....お気遣い恐れ入ります」

 張コウは静かに言った。

「いやいや何の!ただのサボリじゃ! たまには息抜きも必要だからな」

 と張遼。

「それがし、この場所が気に入っているのでござる。木も花も美しい」

 まじめくさっていったのは徐晃である。

「これで一緒に酒が飲めればなぁ」

「なんだ、張遼殿はそればかりだな」

「なかなか医師が許してくれないんですよ。もう大分いいんですがね」

 張コウは苦笑しつつそう言った。その物言いはごく普通の青年将校のものだ。

「いや、きちんと鍛えておられた証だろう。だが医師のいうことは聞かねばならぬぞ。癒えてきたといって油断してはいかん」

 しかめつらしい言葉はもちろん夏侯惇である。それに「ええ」と応えて、張コウは笑みの色を濃くした。張コウは前合わせの、綿の一重のものに、打ち掛けのように長めの衣をひっかけている。腰の辺りを覆う黒髪は、きちんと手入れをしているらしく、つやつやと輝き、まったく見苦しくはなかった。

「ま、酒はいかんのだろうがな。食い物をもってきた。果物は身体にいいというからな。今、切らせている」

「ふふん、手柄をとるなよ、張遼。殿からの見舞いの品だ。我々も相伴させてもらってよいかな」

 夏侯惇がそう言うと同時に、着飾った女官達が、恭しく盆を運んできた。桃と梨、そして淡い色合いの茶である。

 彼女たちは盆をおいて立ち去るときに、皆、ちらりちらりと張コウを見遣るのだ。それに気付いてか、彼は世話係の彼女たちに「ありがとう」とささやいた。年ごろの娘たちは一様に桜のように頬を染めると、照れ隠しのように小走りにさがった。

 どうやら今の張コウは、宮中の女性たちの関心の的になっているらしい。それももっとものことであった。

 張家は資産家でもあるし、張コウ自身の宮中での地位も、若手の武将の中では相当のものだ。そしていわずもがな、彼はたいそう美しい青年なのである。傷病を負った現在は、やややつれてはいるものの、細身でしなやかな肉体には適度に筋肉がつき、背もすらりと高い。女人顔負けの長く艶やかな黒髪に白磁の肌。面ざしについては諸氏ご存知の通りである。すっと通った鼻梁、切れ長の双眸、細く意志的な眉、つややかな形の良い口唇.....

 知ってのとおり、これまでの張コウは、はっきりと女嫌いを表明していたし、目下、最大に好意を寄せている相手を、軍師・司馬懿であると本人の迷惑に関わらず、言ってまわるのに何の躊躇もない男だったのだ。

 派手やかというよりも奇抜ないでだち、その言動は、いかに外見が美しく素敵な青年であったとしても、女性を遠ざけるのには十二分の効果があったのだ。だが、皮肉なことに現在は、それらの障害がすべてとりはらわれ、女性に好まれる部分のみがあらわになっている。

「さて、あれからもう一ヶ月か.....どうですかな、具合は」

 徐晃が切り出した。

「ええ、大分いいです。こうして動けるようになりましたし。.....寝ているのも退屈で.....

「その.....なにか思いだしたことはござらぬか?」

「おい、張遼.....

 夏侯惇がたしなめた。

「いえ、いいんです。お気遣いなく.....自分のことですから。.....ですが残念ながら記憶のほうはいっこうに.....

「そうでござるか。いやなに、医師もあせらずゆっくりと言っておったしな。まずは身体の傷を完治させてからじゃ」

「ええ.....ですが、やはり早く思い出さねばと感じます。.....私に与えられたこの待遇を考えれば.....おのれの果たしてきた役割がそれほど小さなものであったとは思いにくいです。戦場の傷ということは、この身は一線の武人であったのだろうし」

...............

.....さしつかえなければ、先の戦のことや.....私自身のことをお聞かせ願えませんか? なにか少しでも思いだすきっかけになれば.....

 内心の焦燥をおさえこむように、少し早口に張コウは言った。

.....う、うむ.....だが.....

 夏侯惇が口ごもる。

「だいじょうぶです。私は武人です。この程度のことで我を忘れるような動揺はいたしません」

 張コウはきっぱりと言った。夏侯惇はごほんとひとつ咳払いをしてから、あとのふたりを促すように、ゆっくりと口を開いた。

.....貴公がその大傷を負ったのは、先の街亭の戦いだ。お主の立場は斥候部隊の指揮官.....そう言ったことについてはもう聞いておるな?」

「ええ、地位や身分などおおまかなことについては」

.....うむ。先の戦の総大将は、我方では軍師・司馬懿、敵方はかの諸葛孔明であった」

.....孔明.....

 張コウはその名を味わうように、舌の上で転がした。

「うむ.....そしてぬしは軍師殿の.....総大将司馬懿の策通り、逆落としを成功させ、蜀軍の要、馬謖の陣を壊滅させたのだ。曹仁の軍も北側から迂回して、山頂につめるつもりであったようだが、お主の方が早かった」

.....そうですか」

「けっきょく、馬謖の軍は総崩れとなり、すぐさま孔明の指示で蜀軍は撤退していった。.....我が軍の勝ちだ」

「貴公の働きは素晴らしかった! 拮抗していた戦況はそれで一気に決着がついたと聞いておるぞ!」

 張遼がやや興奮気味に口を挟んだ。

.....戦功を上げたといっても、このありさまでは.....とても誉れに思うことなど出来ませんよ、張遼殿」

.....いや、そんなことはない。たしかに貴公がこれほどの大傷を負うことになるとは思わなかったが.....だが」

 夏侯惇は続けた。

「だが、あの戦の戦果は大きかった.....あそこで諸葛亮の愛弟子馬謖の陣を壊滅させたのは、戦で勝つこと.....それ以上の戦果だ、と軍師殿が言っていた。あの男がそう口にしたということは、それは真実なのだ」

 淡々とした口調に気負いはなかった。

「軍師殿.....司馬仲達様でしたね」

「あ、ああ」

 鼻白んだように張遼がどもった。徐晃は神妙な顔付きで沈黙を守っていた。

.....司馬仲達様.....か。おぬしと司馬懿とはとても仲が良かったのだぞ。おぬしは好意を隠すような人間ではなかったし、皆良く知っていることだ。司馬懿は気難しく無愛想な男だが.....それでもお主のことは気に入っていたのだろう。とても.....お主を大切に思っていた.....

 隻眼将軍の言葉は、いっそつぶやきのように低く.....ひっそりとしていた.....