王子様はだれだ!
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「へぇ、そーなんだぁ。おめでたいねぇ」

 

 ゆっくり、のんびりと周瑜くんは言った。

 五月の末、あたたかな江東の地は、日によっては、初夏のように汗ばむことさえある。今日、この日の昼下がりも、ちょうどそんな陽気で、中庭で遊んでいた周瑜くんは、うっすらと汗をかいていた。

 

 この人、名を周瑜、あざなを公瑾という。

 

 孫呉の周瑜公瑾といえば、知らぬ人はいないだろう。今は亡き、江東の小覇王孫策の親友にして、呉王孫権の義兄、そして赤壁の戦いで水軍総司令官をつとめた若き俊才である。

 曹魏十万の怒濤のごとき進軍を、わずか二万の水軍を率い、猛虎のごとき軍略で、曹操をあわやというところまで追いつめた鬼才であった。

 だが、そんな彼の来歴を知らぬ者なら、ひとめみて、この人物が、周瑜その人なのだと判別がつかぬであろう。

 この土地にはめずらしい色合いの、背の半ばを越す、栗色の髪。ほっそりとした卵形の白い面に、バランスよくそれぞれのパーツが配置されている。

 切れ長の双眸とそれを縁取る、うるさいほどの睫。まさに柳眉といった美しい弧を描く、細めの眉。鼻梁ははすっと通っているが、それほど高いわけではないので、とげとげしい印象は皆無だ。

 だが、なによりも軍師将軍というイメージを打ち砕くのが、彼が纏っている雰囲気そのものだろう。おっとりとした、のんびりとした、だが、どこかが決定的に欠落した不可思議な雰囲気。おおよそ地上の「人間」いう括りでは、説明しがたい彼自身の有り様であった。

 彼の後輩に当たる軍師、陸遜が急報を告げに来たときでさえ、周瑜くんはおっとり、のんびりと受け応えるのであった。

 

「周瑜殿! おめでたいとか、そんなことではありませんよッ! どうするんです? もう、後十日ほどしかありませんよ? ご遠慮いただくよう連絡するなら今ですッ! 今しかありませんよ! ああッ、でも、ここで来訪を拒めばどんな報復が……」

 いったい何事か、気の毒な陸遜は頭を抱えんばかりであった。

 後輩の軍師とはいっても、陸遜は二十歳にも届かぬ若さで、筆頭軍師を勤めている俊才である。知略においては、周瑜くんに引けをとらぬ力をもつ。

 もともと身体が丈夫でなかった周瑜くんの後任のもとに、軍師の筆頭としてこの年若い少年が選ばれたのだ。彼が推挙されたとき、だれひとりとして異を唱える者がいなかったということからも、陸遜の人並みはずれた才と人望を推し量ることが出来よう。

 

「ご遠慮〜? ごエンリョって、来ないでってゆーコト? そんなの冷たいんじゃない? せっかくごあいさつにって言ってくれてんのに」

 周瑜くんは、大切な親友である猫のシロを膝にのせたまま、そう言った。抗議の言葉もおっとりのんびりとしている。

「ただのご挨拶の顔ぶれに、わざわざ司馬懿殿を入れると思いますかッ?」

 怒濤のごとくつめよる陸遜であった。どうにもこの先輩軍師とはペースが合わないようだ。もっとも周瑜くんと合わせられる人間は、数が限られているであろうが。

「えー、だって、司馬懿殿って、曹丕さまのお世話係で教育係なんでしょ? そしたら一緒に来るよ。教え子のご挨拶なんだもん」

「そんな単純な話ではないはずですッ!」

 陸遜は言い切った。

「ここのところ、曹魏とは良好な関係が築けていると思ったのに……いったいどこでヘマをしたのでしょうか……いや、そういうことではなく、いよいよ曹操が中華全域への覇権を……」

「えー、陸遜、そんなふうに思ってんの? 考えすぎだよ〜。曹操様、そんなことしないよ。天子になる気はないって言ってたもん。曹操様が周瑜くんにウソつくわけないじゃん」

「『ないじゃん』じゃありませんよッ! だ、だいたい、いつそんな話を丞相閣下としたというのですかッ! いいですか、周瑜殿!我ら呉と曹魏は、現在円滑な外交をおこなっておりますが、蜀も含めて仮想敵国である事実は覆せませんよ? 必ずや魏はふたたび我が国へ侵攻してくる時期が訪れるはずです。それが今日だの明日だのという差し迫ったものではないというだけのことです!」

 一息で長い反論を言い尽くすと、陸遜は大きく息を継ぎ続けた。

「だいたいなんですッ この同行者顔ぶれは! 魏王の重臣ばかりではありませんかッ」

「えー、そうなの? お手紙来てんの? ねぇねぇ、夏侯惇将軍は〜? 夏侯惇将軍は来んの〜?」

 動作ののろまな周瑜くんにしては、大急ぎで立ち上がり、陸遜に書状の内容を確認する。夏侯惇にひどくこだわるが、何か特別な意があってということではなく、単純に周瑜くんが夏侯惇になついているだけだ。

 魏王の縁戚関係にあり、従兄弟でもある夏侯惇の存在は、ありていにいえば、孫呉から見れば、要注意人物に認定されてもいたしかたないところである。だがこれまでの数奇な縁のせいか、夏侯惇に悪感情を抱く者は少なかった。なにより大都督という飛び抜けた身分である周瑜くんが、大の夏侯惇びいきとなれば、いたしかたないところであった。

 

「……ええ、いらっしゃいますよ。我々が見知っている人物が多いようですね。司馬懿殿、それから夏侯惇将軍に夏侯淵将軍、徐晃将軍、張コウ将軍……」

「……え〜、張コウ来んの? 張コウは来なくていいよ。いじわるなんだもん、あの人」

 『ね、シロ〜』などと膝の上の猫に話しかける周瑜くん。

「私に言われましてもね。……それから、文官は数が多いですが、司馬昭殿のお名前が入っておりますよ」

「ホントッ? 昭ちゃん、来るんだ〜。うれしー、昭ちゃん好き! そーだッ!一緒に町に行こ! 今度は周瑜くんが案内してあげるんだもんね〜」

 うきうきとした調子で周瑜くんは言った。かつて、孫権の名代の大使として、曹魏に赴いた際、司馬懿の嗣子、司馬昭とは懇意になっている。周瑜くんは、おだやかで親切で、思いやりのある彼のことを、殊のほか気に入ってしまったのだ。

「はいはい。ですが、ご迷惑をかけてはいけませんよ」

「わかってるもーん。陸遜だってウレシイくせに〜。りくそん、昭ちゃんと仲良かったもんね〜」

「ええ、まぁ……個人的には司馬昭殿には好意を持っております」

 陸遜は控えめに、そう認めた。

「それから、太子の曹丕様か〜 ……どんな御方なんだろーね。きっと曹操さまの御子様だから頭いいんだろーね」

「ああっといけない! つい話し込んでしまいました。私はあなたを呼びに来たんですよ、周大都督。皆様、広間でお待ちしています。これからすぐに会議ですよ!」

 ハッと我に返った様子で、陸遜は言った。

「え〜、会議〜、昨日もやったじゃないの〜」

「もちろん、今日の議題は太子一行の来訪についてですよ! 今朝方、懸案の文書が届いたんですから! なんせ日がありませんからね、早急に対処しませんと!」

「んも〜、陸遜ったら、本当に心配性なんだから〜。フツーにごあいさつしてお祝いしてあげればいーんだよ〜。そんなに警戒しなくていいじゃなーい」

「私にとっては、そんなにも平静でいられるあなたが不思議なんですけどね。さぁさぁ、行きますよ」                         

「んも〜、待ってよ〜、シロ、お部屋においてくるから」

「では私は先に広間に戻っています。大急ぎでおいで下さい。孫権様もすでにお見えですからね!」

「は〜い」

 そういうと、周瑜くんはテレテレと走っていった。走ってもテレテレなのが周瑜くんなのである。

 案の定、周瑜くんが広間に駆けつけてきたのは、それよりも十五分も後のことであった。途中で転んだのか、メソメソと頬を擦りながら、膝小僧を撫でていて、自称、周瑜くんの世話係・呂蒙に要らぬ心配をかけるのであった……