王子様はだれだ!
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「あ〜あ……あ〜……ふぅぅぅ……はぁあぁぁぁ〜」

 一転して、曹魏の殿堂は、重苦しいため息に包まれている。……とは言っても発しているのは若干一名なのであるが。

「あ〜あ……ふぅぅぅ……はぁあぁぁぁ〜」

「……張コウ将軍、いいかげんにされよ」

 会議資料を片づけながら、目線も動かさずに司馬懿は言った。

「だってもぅ……ため息もつきたくなるというものです。なぜにわざわざ江東の田舎まで周公瑾のアホ顔を見に行かなきゃならないのか……」

「………………」

「だいたい、あやつらがウチから帰って、三ヶ月程度しか経ってないんですよ〜。ようやく静かになったと思ったのに……今度はこちらのほうから出向かなければならないなんてねぇ……」

 女性のような仕草で、髪をかきあげ、まっぴらごめんといったジェスチャーをとる。具体的には、両の手をひょいと持ち上げて、緩慢に頭を振るのだ。ご丁寧に眉間に皺まで寄せている。

「張コウ将軍……何度も説明であろう。此度のことは若殿に呉を見知ってもらう必要があるのだ。正式に太子として立ったからには、どのような形にせよ、江東の虎とは相対してもらわねばならぬ。即位した今、挨拶と見聞のためという名目ならば、少なくとも表立って怪しまれることはなかろう」

「はいはい、わかってますよ、それは」

「ならば文句を言わぬ事だ。だいたい、貴公は最初から一行に名を連ねていたわけではなかろう。無理やり立候補したくせに愚痴を言うな」

「愚痴グチぐち愚痴グチぐち……」

「張コウ将軍ッ」

「だって!司馬懿殿が行くって言うんですものっ、私が行かないわけにはいきませんでしょ!」

「だから何故そうなるッ? 私が同行するのはあたりまえのことだろう。私は曹丕殿の教育役を仰せつかっていたのだからな!」

「あーもー、それですよ、それッ! 若殿若殿ってッ! そんなに曹丕殿が大切なんですかッ?」

「何を言っているのだ貴公は……」

 心底うんざりとした様子で司馬懿はため息をついた。

「大切だの何だのという問題では無かろう。殿の御子なのだぞ、しかも太子になられた。この国にとって間違いなく大切なお方だ」

「この国だのなんだのってのはどうでもいいんですよ!」

「どうでもいいって……」

「司馬懿殿が、あまりにも曹丕殿をかまわれるのが嫌なんですッ」

 ぷいっと子どものように顔を背ける張コウ。

「貴公という人は……ハァ、もう好きにするがよい。一行に加わるおつもりなら、自重されよ、ではな」

 そういうと、司馬懿はさっさと立ち上がった。

「ちょっ、司馬懿殿、どこに行かれるのです? 昼食は……」

「すまぬが、子桓様に誘われているのだ」

「えーッ! うっそ、そんな〜ッ! ずるいですよ! 私のほうが先約だったのにーッ」

「……昨日も貴公と一緒だったと思うのだが?」

「今日も一緒がいいんですッ。曹丕様も子どもじゃないんだからワガママな!」

「やれやれ我が儘はどっちだか。……子桓様がわざわざ私を呼ばわれるというのは、何やら話がおありになるということ。おそらく此度の行脚のことだろう」

「それならさっきの会議でも議題になったでしょ!」

「詳細は太子と軍師の私が詰めねばならぬ。ではな」

「あ、司馬……」

 あっさりと扉を閉め、遠ざかる足音。

 気の毒な張コウはがっくりと肩を落としたのであった。

 

 

                                 ★

 

 

「……来たか、入れ、仲達」

「失礼いたします、子桓様」

 司馬懿が、瀟洒な装飾の施された扉を開く。曹操の嫡子であり太子という身分にふさわしいきらびやかで重厚な室。中も司馬懿の私室の倍くらいの広さはありそうだ。

 すでに仕人にいいつけてあったのだろう。中央の円卓に、次々と料理が並べられている。「座れ、仲達」

「はい」

 促されるままに、席に着く。

 給仕をしていた男が完全に室を辞し、小者が二人分の好みの茶を注ぎ終えてから、ようやく曹丕は口を開いた。

「まもなく出立の期日だな」

 そういいながら箸をとり、司馬懿にも食事をすすめた。

「いただきます。……はい、孫将軍からは、祝辞と祝いの品が届いております」

「そうか……まずは孫呉だな」

「……はい。ですが、あくまでも此度の目的は、太子立位を知らしめることにございます。さらなる事柄は、もっと後に送ってよろしいかと」

 注意深く司馬懿は言った。

「ふん……慎重なおまえらしい物言いだ」

「恐れ入ります」

「ときに仲達、同行者の名簿を見せてもらったのだが……」

「はい? なにか問題でも」

「人選は誰に任せた」

 茶器を手に取りながら曹丕が訊ねた。剣を扱うにしては、白くて長い、形のよい指をしている。多少関節が骨ばっているのは、男性の手としては珍しくない。

「基本的には大殿の指示に従っております。お身内が多くなりましたので、多少の調整は私が行いましたが」

「そうか」

「……なにか、子桓様」

 箸を休めて、司馬懿は問うた。

「いや、張コウ将軍の名は、最初にもらった資料には入っていなかったのでな。なにか意図があってかのことと思ったのだが」

「あ、ああ、それは……」

「別にどうでもかまわぬことだ。いちいち理由を述べてもらう必要はない」

 司馬懿の言を遮って、あっさりと曹丕はそう言った。

 わずかな間隙の後、ふたたび曹丕が口を開く。
 

「仲達、食事の時くらい機嫌良くしたらどうだ。それとも私と二人きりというのは気詰まりか?」

「そのようなことはございません。この顔は生来のもの、どうぞお許しください」

「咎めているわけではないのだがな。孫呉に行ってまで、そのような不機嫌な顔をしていたら嫌われるぞ」

 からかうように曹丕が言った。

「孫呉の主立った連中とは、すでに何度も相まみえておりますので。……私がこういう人間だというのは、十二分に理解されていることと思われます」

「ふふ、そうかもしれぬな。先の大戦、叙位の式典……そして、異世界への不可思議な旅か」

「……なぜ、それを?」

 司馬懿は思わず問い返していた。最後の話は曹丕にしていないはずだ。

「伯父貴に聞いた」

「夏侯惇将軍が……ええ、そうですね、もし、信じていただけるなら」

「おまえがそういうのなら、きっとそうだったのだろう」

 どうでもよさそうに曹丕は言った。ふたたび長箸をとり、料理を摘む。

 すっと通った高い鼻梁、曹操譲りの意志的な眉と調和する、冷徹な光をともす双眸。すでに十代で父を超えた長身に、まるで黒豹のしなやかな筋肉がついている。

 曹丕、字を子桓。

 曹操の長男にして嫡子、まさに貴公子の中の貴公子といった堂々たる風情をもっている。
 

「仲達……少し、孫呉の主要人物の話を聞いておきたい」

 ゆっくりと茶をすすりながら、曹丕が言った。

「はい、子桓様。……まず、孫権、若いながらに肝の据わった大器です。ですが、彼が呉王になったのは、ここ最近のことともいえる。孫呉は肥沃な大地に豊かな実りを誇っていますが、孫家三代、次々と主君が変わっている弱みもあると思われます」

「未だ地盤が固まっておらぬと……?」

「はい。為政者階層はともかく、人心が収まるのには時を要しましょう」

「ふむ……孫権か……」

「……それから、亡き孫策の親友にして義兄弟、今は大都督という地位にあるのが周瑜、字を公瑾」

「赤壁の水軍総司令だった男だな」

「はい」

「立場は軍師になるのか」

「……ええ、ただ陸遜や魯粛のような一介の軍師ではございませんが」

「それはそうであろうな。大都督で孫権の義兄ともなれば。……どのような男なのだ。おまえは面識があるのだろう」

「……はい。なんともうしますか……」

 困惑する司馬懿。無理もない。周瑜くんを知っている、読者の皆様なら重々承知のであろう。

「仲達?」

「あ、はい。頭は本当はとても切れるのだと思います。おそらく非常時などにおいては……ですが、普段はあまりそのようには見受けられません」

「ふん……能ある鷹は爪を隠す……か」

「……はぁ、良心的に解釈すればそのようになるのでしょうか」

「どうした? ずいぶんと口ごもるな、おまえにしてはめずらしい」

「私の理解の範疇外の人物……とだけ、今は申し上げておきます」

「ふ……孫呉行きが少しばかり楽しみになったな」

冷ややかな眼差しを、楽しげに細めて曹丕は言った。

時を置いて、司馬懿は再び口を開いた。

「……続いて陸遜……字を伯言と申しますが、実質的に現在は彼が孫呉の筆頭軍師ということになろうかと思います……」 

  順送りに、陸遜、呂蒙、甘寧らを簡単に口上し、司馬懿はかすかに吐息するのであった。

 一行に張コウも加わると言うこと、曹丕自身がなかなかの難物であるということ、そして行き先が孫呉であること……

 ……それらを考えると、ため息のひとつもつきたくなるというものであった。