王子様はだれだ!
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「……仲達、少し疲れた……」

 すっと周瑜くんから目線を反らせ、曹丕はつぶやいた。

「……若殿、具合でも?」

「いや……少し外したいだけだ」

 曹丕が言葉を重ねた。

 今日はいろいろなことがあった。はじめて長江を渡って、目の当たりにした江東の国。熱気をはらんだ南国の風、耳慣れない楽の音……

 そして、父曹操と肩を並べる大器孫権、ほとんど伝説になった赤壁での水軍総司令官・周瑜……

 

 わずかに視線が交差したとき、周瑜くんは微笑みかけてきた。なつこい性質は、おそらく天然のものなのだろうと、曹丕にも理解できる。だが、心身共に疲労しているこのときに、周瑜くんと親しく語り合うことは避けたかった。

 彼を不快に思ってのことではない。

 正常な思考を保てないまま、周瑜くんのような人間を相手にするのは、ひどく心許なく、おのれの内奥に滑り込んでこられそうな不安感を呼び起こすのだ。

「では、子桓様、こちらへ……あとは私が……」

 ついとさしのべられた手をとる。

 見た目のままに体温の低い司馬懿の手はひんやりとしていて、熱に浮かされたような肌に心地よい。

 司馬懿が陸遜に軽く会釈し、なにやら言葉をかけている。

 多くを語らずとも、幼少期から側近く使えてくれている司馬懿は、巧みに曹丕の気持ちをくみ取る。ここ最近、張コウと行動を共にすることが多いように見えるが、こうして気遣ってくれる態度は幼い頃から変わりはしない。

「曹子桓様。長旅でお疲れでございましたでしょうに、気の回らぬことで申し訳ございません」

 語りかけてきたのは陸遜だ。となりに司馬懿が控えている。

「いや……そのようなことはござらぬ。いささか酒を過ごしたようだ」

「すでに室の用意は整っております。ご案内申し上げますので、どうぞごゆるりと……」

 陸遜が一部の隙もなく丁寧な口上を述べる。

「さ、参りましょう」

 

「周瑜くんが案内する」

 突如、ズンと目の前に立ったのは、曹丕にとっては初対面の周瑜くんであった。

「ちょっ……し、周大都督ッ」

 なぜかあわてる陸遜。さきほどまでの落ち着き払った態度とは目に見えて異なる。心なしか周囲の人間にも緊張が走るのが見て取れる。しかし、曹丕はまだその理由が理解できなかった。

「し、周大都督ッ いえ、ここは私がいたしますので、周大都督はお席のほうに……」

 引きつった笑顔ですすめる陸遜だが、あきらかに彼の申し出に迷惑しているようだ。

「周瑜くんが案内するもん。ちゃんと場所、わかってるもんね〜」

 えへえへと孫呉の大都督は笑った。かたわらの司馬懿があきらめたような吐息をついているのが印象的だ。黒羽扇の軍師は、ふだん曹丕の前ですら、ほとんど感情をあらわにしない男なのである。

 曹丕は早々に室に戻って休みたかった。

「では周大都督、かたじけないが案内をたのむ」

「は〜い、じゃ、ついて来てね、えへえへ」

「仲達、おまえはよい。私のかわりに孫将軍にあいさつしておいてくれ」

「……はい、ですが、若殿……」

「……? 私のことはかまわぬ、ひとりで大丈夫だ」

「……はい」

 司馬懿らしくない歯切れの悪い応対に、首をかしげる曹丕。

 だが、いつまでも突っ立っているわけにはいかない。傍らで周瑜くんが待っているのだ。孫呉の大都督とはいえ、身分の上で曹丕に比するものではない。だが、ここは江東の国、いわば敵地だ。あえて気を逆撫でる必要もない。

「参ろうか、周大都督」

「だいじょうぶ? 曹丕さま、ふらふらしてるよ」

 形のよい眉を顰めて周瑜くんが顔をのぞき込んでくる。思わず後ろに引き下がる曹丕。周囲にこんな不躾な態度をとる者などいやしない。

「いや……気を使われるな」

「周瑜くんにつかまっていいよ」

 にこにこと微笑みながら、手を引かれる。なにか言葉を返せばよかったのであろうが、曹丕はされるがままに歩み出した。口を聞くのがおっくうだったからだ。

 

 長く続く回廊……それは許昌の城に似た石造りの道であったが、どことなく色味が異なる。やはり中原とはすべてのものの色合いが異なるらしい。吹き付ける夜風も寒々とした冷たいものではなく、どことなく陽気な南国の風だ。

「はい、こっち。ここが曹丕さまのお部屋〜」

 周瑜くんが手ずから扉を開いてくれる。

 ふわりと花の香りが鼻腔をかすめる。

 室に焚きしめられた香なのか、周瑜くんの香りなのか判別できなかった。

 曹丕の身体は、思いの外、疲労が蓄積されていたらしい……