王子様はだれだ!
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  あてがわれた客室につくと、曹丕はくたりと寝椅子に腰掛けた。

「ふう……」

 深いため息をつく。

「曹丕さま、だいじょうぶ? お水、飲む?」

 それをどう取ったのか、周瑜くんが心配そうに声をかけてきた。

「いや、気にするな……すまない、もらおうか」

「うん。お水、はい」

「ありがとう」

 そう言って、曹丕は小さく笑った。

 思えば、「ありがとう」などという率直な言葉、ついぞ口にしてはいなかった。

「どうかしたの?」

「え……ああ、いや」

「だいじょーぶ? 曹丕さま」

「ああ、すまぬ。……少し酔ったようだ。具合が悪いわけではないから案ぜられるな」

 曹丕はつぶやいた。声が小さかったのか、周瑜くんが小首をかしげて側に寄ってくる。

「曹丕さまのお声、小さいのね。そんで低いの」

「ああ、そうか」

「また、笑うのね。もっと怖い人かと思った。よかった〜」

 周瑜くんが一緒になって微笑む。

 孫呉での曹丕の風評が知られるというものである。

「……私は父ほど怖い男ではないと思うぞ」

「曹操様?」

「……ああ」

「曹操さま、怖くないよ? ってゆーか、周瑜くんにはやさしかったよ?」

 色素の薄い瞳が見開かれる。

 曹丕はまた口唇をゆがめた。笑ったのだ。

「……周大都督、宴席に戻られよ。お主が居らぬと場がしらけよう」

 独り言のように曹丕はつぶやいた。

「えっ? 今日の主役は曹丕さまだよ? 曹丕さまが戻んないなら、別に周瑜くんもいいよ」

「……そうか」

「……あの……邪魔?」

「……え?」

 つい聞き返す。周瑜くんのしゃべり方は、曹丕には耳慣れない物の言い方だ。呉の人間だって、相手の出来る者は限られている。曹丕が受け答えに苦慮するのも当然のことであった。

「ううん、ここに居たら邪魔なのかなって。あのね、周瑜くんね、よく言われんの、邪魔だって」

「……ふっ……これはいい。大都督にそのようなことを口にする輩がおるのか」 

「よくないよ。みんな言うんだよ。りくそんとかすんごく言うの。かんねーも。言わないのりょもーだけだもん」

「ふっ……はははッ」

 曹丕は声を立てて笑った。

「いや、失敬。……仲達に見られたら何を言われるやら」

「司馬懿殿がどうしたの?」

「ふ、いや……ああ、では少し話をしないか、周大都督」

「え? いいの?」

「ああ、かまわぬ。そちらがよければ、のことだが」

「うん、いいよ! なんのお話するの?」

 周瑜くんは少し興奮した様子でそう言った。

 曹丕には、機会があればくわしく訊ねてみたいと思っていた事柄があった。

 もちろん、夏侯惇と張コウ、そして側仕の司馬懿が呉の面々と、ともに体験したあの不可思議な出来事についてであった。

 その話は当事者であった司馬懿から、機会あるごとに聞き出そうとしているのだが、どうもあまり口にしたい内容ではなかったらしく、ことごとく要領を得ない。

 張コウも巻き込まれた人物であるが、曹丕は張コウというキャラクターと、口を聞くのが面倒なのだ。

 

「……以前、江陵で会合が行われた折り、お主を含め不可思議な経験をしたとか……」

「ああ、あの話ね!」

 得たりとばかりに、周瑜くんは頷いた。その様子から、かつての体験は、それほど周瑜くんにとって不快なものではなかったらしい。

「うむ……よければ聞いてみたい。なかなかめずらしい体験だったようだが」

「うん、わかった!」

 周瑜くんはこっくりと頷いた。おもむろに曹丕の室の卓を見つめると、

「お菓子、食べていい?」

 と首をかしげた。


   

             ★
 
 
 

 

「……うん、そんでね、かこーとん将軍が倒れちゃってからが大変だったの!」

「ふむ……伏犠に女堝か……」

「うん、神さまって言ってた! そんでね、かこーとん将軍を助けるために、こんろん山に行かなきゃなんなくってね」

「こんろん……ああ、崑崙山だな」

「曹丕さま知ってるんだ〜。さすが司馬懿の教え子さんだね」

 周瑜くん的にはかなりの誉め言葉なんだろう。ほぅとばかりに感嘆の息を吐いて、曹丕の顔をマジマジと見る。こんな振る舞いが出来る人間など、魏国に居はしない。

「ふ……そう『教え子さん』なのに、仲達はほとんど話をしてはくれなかったぞ」

「え? そうなの? なんでだろう。かこーとん将軍はみんなに迷惑かけちゃったって、気に病んでたみたいだけど、司馬懿殿が気にすることなんて……」

「……夏侯惇らしいな」

「そうだよね、すごく真面目なんだもん。別に全然悪くなんてないのに」

「無事に目的を果たせたから、こうして現世に帰ってこられたんだろう?」

「うん。いろいろ大変だったけどね〜。あ、そうだ!」

 周瑜くんが声をあげた。おのれの思いつきに心躍るのか、色白の頬が朱に染まる。

「……どうした?」

「さっきさ、曹丕さま、司馬懿どのが教えてくんなかったって気にしてたでしょう?」

「……気にしていたというか……まぁ、言葉を濁す理由がわからなかったからな」

「んふふふ〜、周瑜くん、気がついたことがある!」
 
 周瑜くんはおのれの考えにひどく満足した風に胸を張った。

「なんだ?」

「きっとね、司馬懿殿は照れちゃったんだよ!」

「……は?」

 周瑜くんの言葉は、曹丕にとってまるでパズルの断片だ。それでもこうしてなんとか会話になっているのだから、比較的ふたりの相性はいいのだろう。

「司馬懿殿と張コウって、こいびと同士なの? おつきあいしてんの?」

「……は?」

「たぶんね、ふたりは好き同士なんだよ。張コウははっきり好きって言ってたよ。周瑜くんの目に狂いはないよ!」

「…………」

「司馬懿殿は照れ屋さんだからな〜。きっと旅の間に何かあったんだよッ!」

「……何かって?」

「え〜と、なんかよくわかんないけど、何かだよ!」

 興奮して周瑜くんが言う。

「…………」

「だから曹丕さまにお話すんの、困っちゃったんだよ。ホント、司馬懿殿って照れ屋さんだよね〜」

「そうなのか……」

「あ、でもね、やさしいよね、司馬懿殿」

「仲達をやさしいという輩はめずらしいが……」

「そうなの? 周瑜くんにはやさしかったよ? 夜、ひとりぼっちで眠れなかったとき、一緒にお布団に入れてくれたの」

「…………」

「曹丕さま? どしたの?」

「……いや、仲達がか?」

「うん! ひとりぼっちで怖いって言ったら、いいよって。でも、翌朝、張コウがすんごい剣幕で周瑜くんに掴みかかってきてね! ひどいんだよッ!」

 その時のことを思い出したのか、周瑜くんが訴えるように言う。

「…………」

「あ、でもね、別に曹丕さまに言いつけ口するつもりじゃないから。周瑜くんはそんな人じゃないから」

 少しばかりツンとすまして周瑜くんはそう言った。

「……そうか……」
 
「そだよ、ゴカイしないでね」
 
「ああ……ふぅ……」

「曹丕さま? だいじょうぶ? やっぱ疲れてんだよ」

 あわてたように、周瑜くんが椅子から立ち上がった。

「ごめんなさい、長居して。また陸遜に怒られちゃう」

「いや、そのようなことはない。……明日、予定に視察が入っていたな」

 曹丕は独り言のようにつぶやいた。

「うん。陸遜がそう言ってた」

「よければ同行してもらえぬか。私はお主を気に入ったらしい」

「うんッ! じゃ、今日はもう周瑜くんも自分のお部屋に帰るね」

「ああ、付き合わせてすまなかった」

「ううん。曹丕さまとお話できてよかった。みんながすごく脅かすから、ドキドキしてたの」

「……ふふ」

「嫌われなくってよかった! おやすみなさい」

「……ああ」

 周瑜くんは、にこりと笑みを浮かべると、室から出て行った。パタパタと軽い足音はやがて遠ざかり聞こえなくなった。

 

「ふぅ……だいぶ時間が経っていたのだな……」

 窓から夜空を望む。

 周瑜くんの香の薫りが、霧散して淡く散る。

「……異国には不思議な生き物がいるのだな……」

 明るい色合いの長い髪、色素の薄い大きな瞳に形よく整った鼻梁……そしてなにより、その人自身が醸し出す、不思議な空気……

 

 皮肉げに口唇をゆがめて、曹丕は笑った。