王子様はだれだ!
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「あー、疲れたッ! もう、ホンット疲れましたねー、司馬懿殿!」

 どすんと座臥に腰掛けて、文句を言うのは張コウである。こざっぱりと風呂までもらってきたのに、言いたい放題だ。

「何を言っている。貴公はずいぶんと楽しんでいたようではないか。わざわざ得意の剣舞まで披露して……よくも言う」

「だって、ほら座興ですよ、座興! 美しい私の舞は、呉の田舎侍の心をとろかしたことでしょう」

「……周大都督と張り合ったのではなかろうな」

「バカバカしい! あんなものと勝負するだけ無駄ですよ。私のほうがずっとずっと綺麗です!」

「ああ、そうか……はいはい」

 煩わしげにそう言うと、司馬懿は未だ水気を含んだ髪を、組紐で結びなおした。

 

「張コウ将軍、私はそろそろ休みたいのだが……」

「そーですね、疲れましたものね」

 パンパンと掛け布を整え、枕の位置を直す張コウ。念のために言い添えておくが、ここは司馬懿の室である。

「……張コウ将軍の部屋はこの向かいのはずだが……」

「ま、別にいいじゃないですか。せっかくの夜なんだし」

「せっかくの夜とは何だ? 夜は毎日やってくるぞ」

「んも〜、いけず〜、この照れ屋さん!」

 恋愛感情と自己の欲求を隠さない張コウであった。

 

 そのときである。

 

 やや横柄なノックの音がすると、司馬懿が返事を返す前に、名を呼びかけられた。

「仲達、居るか?」

「し、子桓様?」

「若殿?」

「あ、はい。今、お開けいたします」

「……何なんですかね、こんな時間に」

 不満そうな張コウ。

「貴公のほうこそ、はやく自室へ戻れ」

 そう言い置いて、司馬懿は扉を開けに歩き出す。曹魏の貴人に割り当てられた客室は、十分に広く贅沢なものだ。

 

「入らせてもらうぞ」

 ズカズカと曹丕が入り込む。当然、張コウの姿が目に入るはずだが、一顧だにしない。

「子桓様、いかがなされました? すでにお休みかと……」

「別に。おまえと話したくなったから、少し寄ったまでだ」

「は……。明日の視察のことでございましょうか? それとも今日の祝宴でなにか気になることでも……」

「そうではない……ああ、張コウ」

 この時点で、初めて気づいたかのように、張コウに声をかける曹丕。

「はい、若殿」

「私は仲達に用がある。おまえはもう引き取れ」

「……なにか内緒のお話でも?」

「おまえには関係ない」

「し、子桓様? なにか……」

「仲達はそのまま待て」

 冷ややかな声音でそう命じる曹丕。

「……わかりました。司馬懿殿を困らせるのは本意ではありませんから」

 さすがにあからさまな邪魔者扱いに、張コウも不快だったのだろう。鼻息荒く、立ち上がると、ざくざくと足音を立てて出て行った。

 冷たく閉ざされた扉を、司馬懿は複雑な面持ちで眺める。

 

「……子桓さま……ずいぶんとご気分が優れない様子……いかがなされました?」

 ふたたび、司馬懿はそう訊ねた。

「いや、別に……なんともないと言っているだろう」

「ですが……」

「仲達、私がここに居ると邪魔か?」

 曹丕が言った。抑揚のない声音。

「まさか……! そのようなことはございません。ただ、常ならざるご様子に心配しているだけでございます」

「……先ほど、呉の大都督と話をした」

「は、はぁ……」

「おもしろい男だな、あれは」

「左様でございますか」

「……おまえのことをやさしいと言っていたぞ」

 司馬懿は水がたまるほどに、眉間に皺を寄せた。

「くだらぬ……あの御方は一風変わった御仁ですからな。あまりまともに相手をせぬことです」

 めずらしくもズケズケと言う、司馬懿。

「ふふ……わかったわかった」

「子桓様もお疲れになるだけだと存じます」

「わかったわかった……ああ、明日は視察だったな」

「はい、今日はもうお休みになられたほうがよろしいかと。周大都督とお話になられたのならば、さぞかし疲労されたことと思います」

「ふ……仮にも大都督だぞ。ひどい言われようだな」

「残念ですが、事実でございます」

 司馬懿は、肩に引っかけただけの曹丕の上掛けを整えてやりながらそう言う。

 少し間をあけて、世間話のように、曹丕がつぶやいた。

「なぁ、仲達……私も周瑜のように、おまえの寝床に入れてくれぬか?」

「ゲホッ! ゴホッ!ゴホッ! し、子桓さまッ?」

 気の毒な司馬懿は、思い切り噎せてしまったようだ。

「ははは……愉快だな、おまえのそのような顔は初めて見る」

「ちがッ……違うのですッ!」

「声が大きいぞ。もうよい時間だ」

「子桓さまッ あ、あのときは非常時で、あの優男が迷惑にも……」

「ああ、別によい。だからどうというのではない。少しからかっただけだ」

「子桓さまッ」

 司馬懿の声がひっくり返っている。下手に張コウになど聞きつけられたら、扉を蹴破って飛び込んでこられそうだ。

「子桓様ッ 誤解無きよう! 私は決して敵国の軍師などと情を交わしたりは……」

「だから、そうではないというのに。私はおまえの取りすました顔を崩してやりたくなっただけだ」

「…………」

「……ただの悪戯だ。悪く思うな」

 ひらひらと手を振って、曹丕はつぶやいた。

「子桓様……この仲達の仕事は、次の魏の世を……子桓様の世を築き上げることだと思っております。わたくしが最も大切なのは、若殿さまでございます。ゆめ、お忘れ無きよう……」

「……なんだ、いきなり。怒ったのか?」

「いいえ」

「うそつけ、怒ってる。おまえは不愉快なとき、ことさら丁寧な物言いをする」

「…………」

「悪かった悪かった」

「…………」

「機嫌をなおさぬか」

「……い、いえ……」

 司馬懿の声はどことなく戸惑っているようだ。

 

「……さて、張コウは部屋に戻ったのか?」

 曹丕は訊ねた。

「はい、おそらく」

「ふん……あれはいつもおまえの側近くに居るな」

「え、いえ……左様でございましょうか?」

「人嫌いのおまえが、それほど鬱陶しがっていないというのも、不思議な話だ」

「……張コウ将軍とは、戦の折、一緒になることが多いので」

 司馬懿は答えたが、あまり説得力はないようだった。

「ああ、そうだったか?」

「先の街亭での一戦でも、充分な活躍をしてくださいました」

「ああ、そうだな……あの折りはおまえも大変だったな。ふふ……」

 ふぅと吐息すると、長い髪をかきあげる。日頃から鍛えているわりには、曹丕は肌の色が白い。そこに黒髪がこぼれるのは艶めかしい。

 

「子桓様。私はもう休みます。よろしければご一緒に」

 司馬懿は言った。

 この時代親しい者同士が、座臥を共にする風習があり、一緒に寝るのは、性的な意味を持たず、ごくあたりまえのことである。

「……いや、遠慮しておこう。私はもう子どもではないし……おまえも気疲れするだろう」

 曹丕は独り言のようにつぶやいた。

「明日は大都督も同行すると言っていた。私に下らぬ告げ口をしたと周瑜を叱るなよ」

「……は? あ、はい……」

「ふふ……ではな、仲達」

「……子桓さま」

 司馬懿が曹丕の歩みを引き留めた。

「ん……?」

「私は子桓様の御為ならば、如何様にでもするつもりでございます。呉が欲しいとおしゃれば、そのようにもいたしましょう。天子の御座がご所望であれば、どのようなことをしても……」

「……しゃべりすぎだ、仲達」

 曹丕は司馬懿の言葉を遮った。

 

「……おまえも疲れているようだ……ゆっくり休め」

 そう言い残すと、今度こそ、曹丕は司馬懿の客室を後にしたのであった。