桜花流水
<1>〜<5>
 
 
 
 

 

 

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 桜花のほころぶ季節が来る。

 江南の土地は、春の訪れがはやい。

 沃野を駆ける風は、ふくよかな新芽の薫りを抱き、ここ建業の地をも吹き抜けてゆく。

 頃は三月、早春。

 梅花も盛りを過ぎた頃合いといえども、まだまだ夜は冷える。

 

 周泰は、読みかけの書を麻紐で括り直すと、羽織ものを取りに立ちあがった。彼の動きに合わせて、ゆらりと蝋燭の灯火が揺れる。

 簡素で、ものの少ない室。手入れの行き届いた武具が、壁の支えに立て掛けられている。武器の中では、長剣の扱いを得意とする周泰である。特に居合斬りを得手とする彼の剣は、ゆるやかに弧を描いた刀身の長いものだ。

 その一振り一振りに、瀟洒な細工が施されていて、芸術品としてもかなりの値打ち物であろう。もっとも、そういったことにはまるきり疎い持ち主のおかげで、それらは戦でしか活躍する場はなかったが。

 周泰が一枚きりの上掛けを手に取り、椅子に座りなおしたとき、廊下を走るパタパタという音が耳に入った。そしてすぐに扉をたたく音。普段から無口な周泰の室に、来訪者は極端に少ない。しかも食事も風呂も終えた、この時間帯にはなおさらである。

.....だれだ?」

 彼はたずねた。しかしいらえはない。周泰の声が小さすぎて扉の向う側の人間には聞こえなかったのだろう。彼は再び、わずらわしげに立ち上がった。2メートルになんなんとする長身だ。扉を開けようと歩き出したところで、重い引き戸がギイと音を立てた。

「うんしょ! あ、周泰〜」

 おずおずと顔を出したのは、周瑜くんであった。

「周大都督.....

「あ、あのね、ごめんね、夜に! お昼に来ようと思ってたんだけど、ミルク飲んだら眠くなっちゃって、りょ、りょもーも起こしてくんなくて、おめめが覚めたら、もう夕ご飯の時間で.....お風呂入って、髪の毛洗ったら、もうこんな時間に.....

.....それは別にかまわぬが.....なにか御用か?」

「う、うん!あのね、明日ね、策のお墓参りに行くのね。で、でも、黄蓋がぎっくりごしになっちゃってね。あ、あの、もし、よかったら、周泰、いっしょに行ってくれないかなって.....

 周瑜くんは薄手の夜着一枚であった。きっと湯からあがって、大慌てで周泰の室にやってきたのだろう。

「は、はっくちん!」

.....どうぞ、入られよ」

 周泰はぼそりとつぶやいた。半開きの重い扉を、ぐいと片手で押し開いてやる。すると周瑜くんが嬉しそうに微笑みながら入ってきた。いつもほわほわと笑っている周瑜くんを、彼は不思議な人間としか理解できなかった。

「えへえへ、ありがと。ごめんね、急に来て」

 周瑜くんの行動に、急でないことなどひとつもないのに、彼はそう言って首をかしげた。白くて細い首である。巨躯の周泰ならば、片手でへし折れそうだ。

「もう、寝るトコだった?」

「いや.....

「あ、お話のつづき、ね。明日ね、みんなと策のお墓参りに行く予定だったの」

.....聞いている。陸伯言殿はもちろん、呂蒙に甘寧、それに太史慈殿も同行されるとうかがっておるが.....

「うん。それと女の人たちもね。でね、あのね、周泰、策と仲良しだったじゃない? りょもーやかんねーは、それほど長く、一緒にいられたわけじゃなかったし.....周泰が来てくれたら、策も喜ぶんじゃないかなって.....はくちっ!」

 周瑜くんは、肩を揺らせて、盛大なくしゃみをした。

.....周大都督.....これを」

「え? いいよ〜。しゅーたい、寒くなっちゃうよ〜」

「俺は頑丈に出来ているゆえ.....

「う、うん。ありがと。じゃ、別のを借りるから.....

「あいにく、これ一枚しか見当たらぬ」

「えっ! そーなの? ごめんね.....あの、ごめんね」

 周瑜くんはオロオロと謝った。周泰は問答無用で、周瑜くんをばっさりと上掛けで覆ってやった。丈も横幅も長い、周泰の上着はすっぽりと周瑜くんを包み込んだ。

「わっ、おっき〜。それにあったかい。ありがと、周泰.....あの、ごめんね、とっちゃって」

.....別にかまわぬ。周大都督が風邪をひかれるほうが困る」

「う、うん。気を付けるね。あ、そんでね、周泰に一緒に策のお墓、行ってほしーの。陸遜も周泰が来るなら、安心って言ってたし。.....周泰と一緒に行きたいの〜」

..........

「ね、だめ? みんなといっしょは、嫌? めんどくさくて、嫌?」

.....わかり申した。ご同行いたす」

 周泰は応じた。そもそも、大都督という身分の人が、直接室に赴いてきた時点で、周泰の選択できる回答はひとつしかなかった。だが周瑜くんは決して横柄な物言いはしない。いつでも誰に対してでも、対応は同じなのだ。彼が亡き孫策の義兄弟であり、呉王・孫権に次ぐ身分ということを考えれば、やはり奇特な人と言わねばならぬようだ。

 夢見心地に外界を眺め、白い霧の世界にたゆたうように生きる周瑜くん。周泰にとっては、不可思議で実体を掴めぬ危うさを感じるものの、嫌いな人間ではなかった。

「よかったぁ〜。策、周泰と仲良かったもんね〜。きっと喜ぶよ〜。えへえへ。へっくち!」

 周瑜くんは、へらへら笑いながら、また大きなくしゃみをした。もともと丈夫でない彼である。周泰は、すっくと立ち上がると、炉にかけておいた鉄瓶を取り上げた。

.....今、茶を淹れる。不調法者ゆえ、味の保証はござらぬが」

「ありがとー。今日のしゅーたい、やさしいのね。あ、いつもやさしーけど、今日は、もっともっと、ね」

.....周大都督の座られておる左手に、菓子がある。茶受けにされるとよい」

 周瑜くんの瞳がパァァと輝いた。夕食を終えていようとも、お菓子の入りどころは別なのであろう。盆の中には、もち米を甘く煮付け、砂糖をまぶした練り物が入っていた。城では毎朝、侍婢が茶受けの菓子を、各室に用意する。食べようと食べまいと、翌朝には別の菓子が配られるのだ。もちろん、周瑜くんは毎日毎日、きっちりその日の分を食べ尽くし、いい子に翌朝を待つ。ちょっと足りないなと思えば、呂蒙や陸遜の室を訪ね回ればよいのだ。

「あー、今日のお菓子、お花のおモチだ〜。しゅーたい、食べなかったの?」

 周瑜くんがたずねた。

.....甘いものは得意ではない」

「そぉなの〜。あれあれ?月餅も残ってるよ? これ、昨日のお菓子だよね?」

.....よければどうぞ」

「うわ〜い!」

 周瑜くんは子リスのように、むぐむぐと食べだした。先だっての、周泰を訪ねてきたときのような、おどおどとした雰囲気はなくなっている。周瑜くんはその場になじみやすいのだ。

.....ゆっくり食べればいい。今、茶が入る」

「うん! おいち〜。月餅大好き〜。おモチ、大好き〜。あま〜い」

 ものを食べているときの周瑜くんは、たいそう幸せそうである。周泰は我知らず、低く笑みをこぼすと、小さめの器に、湯気の立つうぐいす色の茶を注いだ。それは日本の煎茶のようなもので、新芽を摘んで、日影に干すのだ。すると甘味のつよい、美しい色合いの茶葉ができる。

「周大都督.....

「あっ、ありがと〜。お茶ーお茶ー。お菓子と合うよね、お茶ーお茶ー」

 周瑜くんは両の手で茶器をとり、美味しそうに飲み干した。周泰が小さめの碗を選んだのは、猫舌の周瑜くんがヤケドをしないようにとの心遣いだ。

.....前にも.....こんな場面があったな.....

 周泰は、ふと思い起こした。最近、過ぎ去った昔を、思いだすことが増えていた。特に何かが引っ掛かっているというわけではない。ただとりとめもなく、遠い日の思い出がつらつらと甦るのだ。

.....若殿の命日が近いせいだろか.....

「なぁに? どーしたの、周泰?」

 むぐむぐと忙しげに口を動かしつつ、周瑜くんがたずねた。

.....いや.....なんでも.....

 周泰はそう応えた。しかし言葉とはうらはらに、彼の思考は、とうに忘却の彼方へ押しやった、追憶の糸を手繰ってゆくのであった。

 

 

.....周泰.....あざなを幼平といったな。ふふたび尋ねる。.....長江を捨て、私と共に参れ」

 冷えた声が、周泰を招いた。その声の主は、やわらかな物言いをしているつもりであろうが、その奥にひそむ、鋭利な刃のような気を、隠し遂せることはできなかった。

.....断る」

 周泰は言った。二度目の返答だ。声の主は、フッと嗤った。鼻にかかった皮肉な笑い声であった。

.....我らはこの長江を終の住み処と定めし者共。ぬしらと交わるつもりはない」

.....愚かな」

 周泰の言葉に、呼びかけの主.....場違いにも正装を身に付け、黒い羽扇を携えた、魏の軍師はつぶやいた。

「おのが才を、このまま地に埋もれさせるつもりか.....周泰よ」

 白い、能面顔の、口の部分だけが、クッと持ち上げられた。女のような繊細なつくりにも関わらず、いっこう脆弱に見えないのは、ひとえにその眼光によるものだろう。

 黒羽扇の闇軍師と異名をとった魏の軍師将軍、司馬懿。あざなを仲達。その名は、中原はおろか、大河を隔てた江南の地にまで及んでいる。川賊をなりわいとしている周泰の耳にも届いているくらいだ。

 その司馬懿が、今、周泰の目の前に立っている。にわかには信じられない光景であった。

.....お引き取り願いたい。俺は何にも属さぬ。何者にもなれぬ。この長江の流れと、生涯を共にするだけの人間だ」

.....気は変わらぬか?」

 司馬懿が言った。抑揚のない物言いであった。

「くどい!」

 ガッ!と周泰の長刀が音を立てた。

「司馬懿殿!」

 それに呼応するかのように、ザシャッ!と金属音がすると、さきほどまで軍師の後ろに控えていた、長身の男が前に出た。司馬懿を隠すように後ろ手に庇う。

.....大事ない、張コウ将軍」

「ですが.....

「案ぜられるな。この男は手出しができる人間と、そうでない人間を見誤るほど愚鈍ではないはずだ」

 司馬懿が言った。張コウと呼ばれた若い青年将校は、まだなにやら言い足りぬ風であったが、しぶしぶと引き下がった。

.....周幼平。どうあっても、我ら曹魏に与する気にはならぬか」

「答えはすでに、何度も口にしている」

.....終わりの見えぬ長き生涯を、民草よりも劣る川賊という卑賎な身のままでやり過ごそうというのか?」

.....そうだな。俺たちは民草以下だ。.....だが、貴様らを貴人だと、俺は思っていない」

 周泰の物言いが怒気を孕んだ。

「地を耕し、米をつくる農耕の民。山野で動物を狩る猟の民。そして海の幸を得る漁の民。.....貴様らは彼らの上前をはねる、盗っ人のようなものだろう。司馬仲達よ」

.....何?」

「くされた漢王朝に、腐敗しきった文武百官.....寄生虫以下よ!」

「周泰!口を慎みなさい!」

「よい、張コウ」

 張コウが、黙っておれぬとばかりに口を出した。だがその彼を止めたのは、やはり黒羽扇の軍師であった。

.....周幼平。この私を前に、それだけの口がきける男もめずらしい。胆の座った男よ」

 司馬懿が笑った。背筋の冷えるような微笑であった。周泰は黙したまま、羽扇をもてあそぶ、若年の軍師をにらみつけた。

「どうあっても、我が軍に降らぬというのなら.....後顧の憂いを断っておくは、軍師たる者のつとめ.....

「俺を斬るか.....軍師・司馬懿よ」

 周泰はつぶやいた。空間が、緊迫に冷えた。周泰を取り巻く、凶暴な面構えの仲間達が、それぞれの得物に手をかける。

「曹操の知恵袋だかなんだか知らぬがな。今、この場においては、そちらの方が不利なのではないのか、司馬懿よ」

.....さぁ、それはどうかな。私は勝算のない策は用いぬのだよ」

 司馬懿が喉の奥でクッと笑った。天幕の向う側.....川べりの方面から、一味の廬まで、無数のきらめきが見える。少し目を凝らせば、数えきれぬほどの切っ先.....槍の先端の白刃だと見留められよう。

 先だって、司馬懿と張コウ、そして彼らは数名の護衛兵を引きつけれ、周泰一味の隠れ家へやってきた。それも昼間の意図せぬ小競り合いで、怪我をさせてしまった者たちへの見舞いと言ってきたのだ。

 もちろん周泰が、その言葉をそっくり信じて通したわけではない。だが日中の長江上流での小競り合いは、周泰ら一味を、略奪を働く川賊と見なしてのことであったし、実際、司馬懿らは好戦的ではなかった。むしろ軍船を守るために攻撃を仕掛けてきたという感じであった。

 それゆえ、誤解がとけるとそのまま魏の船団は対岸に引き上げていき、その折、小舟を出し、河に落ちた者どもに与えてくれたのも、また事実であった。

.....与せぬと言うのなら、俺を斬るか.....だが、司馬懿よ。相打ちは覚悟しろ。俺はただでは死なぬ。果てるのは貴様ののど笛を掻切ってからだ」

.....負傷したぬしの仲間も道連れだぞ」

 やや鼻白んだ様子で司馬懿が言った。

.....もとより.....覚悟の上.....

 とぎれとぎれのかすれた声は、周泰の座した背後の衝立より聞こえた。その奥には布きれ一枚が、仕切りとして天井より垂れ下がっており、奥には負傷した親友、蒋欽が身を横たわらせている。

.....興ざめだ」

 司馬懿が吐き捨てた。

「ぬしはもっとかしこい男だと思っていた。.....くだらぬ、じつにくだらぬな」

....................

「わざわざこの私が手を下す価値もないわ。.....誤解するな。貴様ら一味を闇に葬ることなど、赤子の手をひねるがごときたやすいこと。だがそんな余興のために、戦を控えた兵を消耗するわけにはいかぬ」

...............

「今度は黙するか。周幼平よ」

「もう用がないのなら早々にでてゆけ。こちらには重傷人もある」

...............ふん」

 司馬懿はあっけなく身を翻した。周泰をふり返りもせず歩いてゆく。外は霧雨になったらしく、草を踏み分ける司馬懿の足音も、周泰の耳には入らなかった。

 だが廬から去る道すがらに、司馬懿が張コウに耳打ちした言葉を聞いたならば、周泰はあの場で司馬懿に斬りかかっていただろう。

.....雨が上がったら火をかけよ』

 転じて禍の芽と目せば、容赦のない軍師司馬懿であった。

 

 

「火にはかまうな! とにかく河辺に逃げろ!長江に向かえ!」

 周泰の声は、吹きすさぶ風に掻き消された。悪夢のごとき光景であった。炎は深紅の大蛇と化し、一味の廬を舐め尽す。霧のような小雨は気休め程度にはなったが、とうていそれでおさまる火勢ではなかった。

 建物のみならず、背にした山林の入り口にも油をまかれたらしく、周泰ら一行は退路を断たれた形となった。残るは水のある方角.....数百メートルも走れば、長江の川べりに出る。

 軽傷者は重傷者を支え、無傷の者は動くことすら出来ぬ者ふたりをかかえあげた。昼間の小競り合いは、大軍勢の魏軍とってはともかく、周泰ら川賊一味には、まざまざと傷痕を残したのであった。

「周泰.....ッ!」

「蒋欽.....痛むか」

「私のことはいいのです.....まだ.....まだ中に.....ぐッ!」

「しゃべるな。女子供は連れ出した。心配するな」

.....そう.....ですか。すみません、私が足手まといになるとは.....

「いいから口をきくな! 煙を吸うぞ!]

「うっ..........げほっ! ごほっ!」

「しっかりしろ! おまえで最後だ」

 周泰はぐいと蒋欽の身を抱え直した。彼は周泰とは対照的な男であった。けっして小柄というわけではなかったが、色が白くほっそりとした柔和な顔だちに、肉付きの薄い身体。白面の書生風と評したらよかろうか。

 周泰ら一行において、いわゆる軍師的な役割を果たしていたのが、彼の人、蒋欽であった。不幸なことに魏の軍船の最も側近くに停泊していたのが、蒋欽の乗る船であったのだ。周泰はたまたま船室に居り難を逃れたが、司令官然と甲板に立っていた蒋欽が、敵軍の格好の的になってしまった。

「蒋欽!じき河辺に出る!船で近くの都市へ行くぞ!」

.....無理を.....言ってはいけません.....昼の損傷で動く船は少ない.....

「少なくとも使える船はあるのだ!弱音を吐くな、貴様らしくもない!」

 周泰は鋭く言った。

.....ふっ.....強引な人ですね.....そういうことを言っているのではありません.....わかるでしょう? あの小船ひとつに、すべての人数を乗せられるはずがない」

 蒋欽がつぶやいた。白い顔は、もはや透き通るように蒼い。わき腹からは、じくじくと新しい血がにじみだしている。

.....だから! 怪我人と女、子供を優先だ! 動ける男たちは応戦する」

.....この人数でまともにやりあって、あの男に.....軍師司馬懿に勝てると思いますか.....周泰.....生き延びる可能性があるのは.....ぐうっ.....!」

「蒋欽、無理にしゃべるな!」

.....生き延びられるのは.....船に乗った人たち.....だけです.....君はその船に乗らなければならない」

「勝手なことを言うな!」

.....だれが弱い女性や子供を守るのですか? 力ないものを守るのが.....君の.....大将の役目でしょう.....!」

「蒋欽!」

.....さぁっ! 川べりが見えてきました.....行って下さい!」

「おまえをおいて行けるか!」

「周泰! 君は私の話を.....ッ」

「魏の木っ端兵どもをすべて打ち倒す! そして俺たちは船に乗るのだ」

「周泰ッ!」

 ザシャッ!

 周泰は間髪入れずに長刀を引き抜いた。居合斬りである。音もなく背後に迫っていた黒い影は、声を出さずに崩れ落ちた。

 司馬懿の打つ手は、恐ろしいほどに早かった。

 背後の山林を焼き払い、おのずと退路を河岸に取るよう仕向け、船に乗り込むその場には、一重二重の包囲網だ。けっして大軍を差し向けるわけではなかったが、周泰ら一味を取り巻くには、十分な人数であった。

 火をかけられたと気づいたときからここまで、周泰の予想通りの展開であった。そしておそらく蒋欽も予測していた状況だろう。しかしいかに予測が可能であろうとも、選択肢を次々に消されてしまえば、敵の罠とわかってはいても、必然的に長江に逃げるしかない。

「軍師司馬懿.....敵ながらさすがです.....抜け穴がありませんよ、周泰.....

「敵をほめるな蒋欽。.....ここにいるすべてを斬り殺してでも、俺たちは生き延びるのだ」

 夜目の利く周泰は、じっと目をこらした。百.....二百.....いや、それ以上か。キラキラと白い光を放つのは敵兵の長い得物であろう。戦闘慣れした精鋭軍団をよこしたのか、彼らは息をつめ、じりじりと包囲を狭め肉迫してくる。うかつに斬りかかってくる兵は、もういなかった。

 だが渦巻く敵意の中に、司馬懿の気配は感じられなかった。鋭利な刃を思わせる、しんと冷えた氷のような『気』。感情の読み取れぬ白い能面顔を思いだし、周泰は微かに身震いした。

.....ふん.....軍師自ら出てくるまでもないということか。癪にさわるが.....今はやっかいごとが少ないほうがありがたい」

 ピュルン!

 空気が動いた。虚空が切り裂かれ、白い刃が周泰の背を襲った。無言のまま身を滑らし、漆黒の影を斬り捨てる。

 二人.....三人.....四人.........................

 つかまきが血と汗ですべり、周泰は低く舌打ちした。

 .....そのときである。

「おみごと。さすがは司馬懿殿が目をつけただけの御仁です」

 涼やかな声は彼の真正面の闇から聞こえた。ザザと人垣が割れる。

 あらわれたのは、夜目にもきらびやかな男であった.....

.....確か.....張コウ将軍といったか」

「まぁ、光栄ですね。この私の名を覚えて下さっているとは」

 張コウは、西洋の騎士のような、大げさな礼をとった。艶やかな口唇が、くうっと半月を描く。紅を落としているわけでもないのに、それは女のように紅い。長い髪をひとつに括り、蝶の形をした髪飾りで留めている。

 光沢のある紫色の甲冑の中央にも、金色の蝶の図柄が刻まれ、腰から下肢にかかる直垂も、鉄糸の編み込まれた同系色の衣であった。そして動きやすいブーツ型の長靴を履いている。

 さきほど、あらわれたときと、唯一異なるのは.....張コウの両の手に仕込まれた武器、長い鉤爪のような得物が、幾足りもの人間の血を吸って、鈍い光を放っていた。

.....めずらしい武器を使う」

 周泰は低くつぶやいた。

「ええ、そうでしょう。この私にふさわしい、華やかな武具です。名を朱雀虹」

.....ほう」

「あなたも美しい長刀をお持ちですね。では美しきもの同士、心ゆくまで闘いましょうか」

 .....フシュン!

 張コウの朱雀虹が閃いた。周泰の目には、彼がその場から動いたようには、まるで見えなかった。

 右頬に鋭い痛みが走った。つーっと血の伝う、生温かい嫌な寒色。それを手の甲でぬぐうと、周泰は前方をにらみ据えた。

(この優男.....できる.....

 張コウは妖艶ともいえるような、艶めかしい微笑を浮かべ、周泰を見つめる。目が合うと、愛おしげに目を細め、声を出さずにささやきかけた。

(さぁ.....いらっしゃい)と。

 周泰は深い呼吸をくり返した。高ぶった精神を落ち着け、張コウの気を捕える。

 .....フシュン!

 気が動き、澱んだ空気が掻き乱された。

 ガシュンッ!

 ふたりの得物がぶつかり合った。青白い火花を散らす。

 ガキィン! ギィン! ギィン!

 早抜きを得意とする周泰の剣が、ここまでみごとにかわされたのは、彼にとって初めての経験であった。

(張コウ.....! この男.....早いッ!)

 ギィン! .....ガキッ! ガキィン! ガッ.....

(攻撃の手が早いだけじゃない.....身のこなし、それ自体が恐ろしく速いのだ.....ッ!)

「どうしました、周泰! 考え事をしている暇はありませんよ」

 ガキィン!

 右手の鉤爪が、周泰の肩をかすめた。赤銅の肩当てが音をてて、砕け飛ぶ。

.....くそっ!」

「さすがにお疲れですか、大将さん? うふふふ」

.....だまれっ!」

 ビュオ! ガッキーンッ!

 周泰の長刀が下方から、円を描いて張コウを襲う。それは両の手を組みあわせてガードした朱雀虹にせきとめられ、バチバチと火花を散らした。

「ぐぅ.....! まったく.....重い剣ですね! まぁその巨躯に力でかなうとは思っておりませんが」

「戯れ言はよい。来い.....!」

「ええ、いきますよ!]

 張コウの全身が、カッと白銀に輝いた。周泰は、そこから無数の蝶が飛び立つ様を、見たような気がした。

.....なんだこれは.....何が起こる?)

 ビョオォォ.....

 張コウと周泰のふたりを取り巻いて、突風が起こる。ギュルギュルととぐろを巻き、天に向かって立ち上る竜巻に、周泰は為す術が無かった。

「覚悟なさい!」

 シャオンッ! シュオ.....シュオンッ!.....ザシャッ!

「ぐっ.....

 周泰は呻いた。今度は周泰の左肩の、肩当てが砕けた。

 とんでもない速さであった。先ほど攻撃を仕掛けられたとき以上だ。瞳をこらしても、張コウの動きを捕えることが出来ない。

 それでも周泰は、くり返される斬撃を、武人の直感で動き、寸でのところでその切っ先を避けた。

「くそッ.....!」

 そのときだった。周泰の背後が留守になった。得物のふり下ろされる音と、それを回避する、人間の倒れる音。

「蒋欽ッ!」

.....周泰.....あぶなっ.....

「愚か者め! だれかをかばいつつ、この私と闘えるかッ!」

 張コウの痩身が虚空を舞った。

 

 ザッシャアアアァァ..........ッ!

「ぐあぁぁぁーッ!」

「周泰ーッ!」

 周泰の利き腕から吹きだした血は、周囲の草を深紅に染めた.....

「周泰ッ! 周泰ーッ!」

 蒋欽が友の名を呼ぶ。白布で縛り上げたわき腹からは、新しい血がじくじくと滲みだしている。今すぐに倒れ伏しても不思議はない状態にもかかわらず、蒋欽は崩れ落ちた友の身体をささえようとした。

「ぐっ.....馬鹿.....蒋欽、下がっていろ」

「ばか者はどちらですっ! 大将がひとりの人間をかばって倒れるなど、許されることだと思うのですか! 君には他にも守らねばならない人たちが、たくさんいるでしょう!」

 蒋欽が声を荒げた。目を吊り上げ、唾を吐き飛ばさんばかりに怒鳴りつける。そんな親友の顔を、周泰は初めて見た。

「しょう.....きん.....おまえ.....

「まだ走れるでしょう、周泰! 行きなさいッ」

「なんだと.....?」

「行きなさいッ! 逃げろと言ってるんです! 船に乗り込んだ人たちだけでも.....安全な場所に.....!」

 蒋欽は苦しげな息の下から、周泰を説得した。ザッと草を踏分ける音が近づいてくる。

.....この私の爪から、逃れられると思っているのですか?」

 張コウが言った。シャキンと長い得物が音をたてる。

.....そう、まともにやりあっては、到底勝ち目はないでしょう.....張コウ将軍といいましたね.....

.....あなたは?」

「我が名は蒋欽。周泰の友であり、学問の輩です」

.....小さくて、細い方ですね」

 張コウは、女のように艶やかな口唇を歪めて嘲笑した。

「あなたと私では勝負にならないでしょう。.....蒋欽殿」

.....こんな私でも足止めくらいにはなります。まったく武器が使えないわけではありません。.....むしろ、これなど得意なほうです」

 ビシュン!

「むっ!」

 蒋欽の放った矢が、張コウの頭部をかすめた。髪をひとつにくくっていた組み紐が、音を立ててぶつりとちぎれた。蒋欽は、側近くで倒れた兵卒の弓を拝借したのだ。

「蒋欽.....! 無茶をするな!」

「ぐずぐずしないで! はやく行けと言っているのがわからないのですかっ!」

 張コウの髪が、背に広がった。腰を覆うほどの長い黒髪は、その美貌と相まって、まるで彼を幽鬼のようにみせた。

.....やってくれますね、白面の書生さん」

 張コウが笑った。凄絶な微笑であった。

「行きなさい、周泰! 子どもたちを.....若い人たちを救うのです!」

.....蒋欽!」

「君は死んではいけない!.....君だけはッ ごほっ.....ごぼごぼッ!」

 激しく咳き込む蒋欽。唇から夥しい血がこぼれる。傷は深手で、内臓に達しているのだろう。

.....いい人ですねぇ、あなた.....蒋欽殿。自分の大切なもののために、命を投げ出す.....とても素敵です」

 なぶるように張コウがささやいた。いっそやさしげな声音で。

.....ぐっ.....ぐぅ! げ.....げほげほ.....ゴボッ.....

.....私も、私の愛しい人のためなら、どんなことでもいたします。何人を屠ってもいい。.....ですがね、蒋欽殿」

 張コウの声が改まった。

「私はその人より、けっして先には死なないでしょう。死んでしまっては、愛しい人を守ることも、幸せにしてさし上げることもできなくなってしまう。私は生きますよ、どんな激しい戦地でも.....どんな手を使ってでも生き抜いてみせます。この両の手が、敵の血で深紅に染まっても、私はその人を抱きしめ、最期の一瞬まで放しはしない」

 張コウが言った。その双眸は、蒋欽をすり抜け、何か他のものを見つめているふうにも思えた。

.....ちょ.....張コウ.....ごほっ.....ごぼごぼッ!」

「苦しそうですね。おしゃべりが過ぎましたか。.....今、楽にして差し上げます」

 張コウが言った。そして彼は静かに微笑んだ。その笑みは先ほどまでの凄みのある微笑ではなく、穏やかで慈しみにあふれていた。

「安心なさい、蒋欽殿。あなたの望みはかなえてあげられませんが、あの男もすぐに側に送ってあげますよ」

...............

 朱雀虹が閃いた。刃先が銀の光を放つ。周泰は、船に向かって走る途中、傷ついた肩越しに、その光景を見留めた。

 蒋欽は、美しい死神の前で、そっと両の瞳を閉じ合わせた.....