桜花流水
<6>〜<10>
 
 
 
 

 

 

 .....次の瞬間である。

 ガッキィィィン.....ッ! 

...............っ!!」

 周泰の目には、信じられない光景が映っていた。張コウの朱雀虹から、銀のきらめきが散った。爪の一本が折れて吹き飛んだのだ。

「何者ッ!」

 張コウが、キッと暗やみの闖入者をにらみつけた。

「人ン領地で好きほーだいやってて、何者はねーだろうがよ。あんちゃん」

 ビュンッ!

 声のした方向から、小刀が飛んだ。足元を狙ったそれを、張コウは後方宙返りで避けた。

「名を名乗りなさい、無礼者! この私を張儁乂と知っての狼藉ですか?」

「へぇ。あんたがあの張コウ将軍? 袁紹んとこから寝返った張コウさんかい?」

「おだまりっ!」

 シャキーン!朱雀虹が空を切る。

「おおっと、危ねぇ!」

 その男は張コウの痛烈な一打を、横飛びに避けた。

「おおっと!おっとっと! こっちはぬかるみになってやがる!」

 身のこなしの軽い男である。周泰の立ち位置からは、暗がりになってよく見えないが、その男は足場の悪い湿地でありながらも、ひょいひょいと張コウの連撃を避け、その場のみの踏み込みで前方に飛びだしてきた。

「おまえは.....ッ!」

 張コウが叫んだ。双眸が大きく見開かれている。周泰は目を凝らして、招かれざる武人の顔を見つめた。

「あるときは長江の釣り人、またあるときは呉郡の山賊、その実体は.....江東の虎、孫堅が長子、孫伯符ッ! またの名を江東の小霸王たぁ、この俺サマのことよッ! さぁ楽しもうぜーッ!」

.....バカ丸出しの名セリフですね、孫策」

 張コウが冷ややかに言った。

.....孫策! 呉の孫伯符か!」

「おう! おめーが誰だかは知んねーが助太刀すんぜ。俺サマの縄張りで魏のクソヤロー共に好き勝手はさせねー」

 孫策が得意の得物を構えた。彼はトンファーを使う。リーチは短いがスピードとパワーのある武器だ。

.....言ってくれますねぇ、孫伯符。その正義感は悪くありませんが、多勢に無勢.....あなたおひとりが加わったところで、たいして戦況は変わらないと思いますが?」

「ってことらしーぜ。てめーら、出てこいよ」

 孫策は、張コウから視線をそらさずに叫んだ。

「ぐぉわ!」

「ぎゃあっ!」

「うあぁぁ!」

 鋭い悲鳴があちこちであがる。ドサドサという人の倒れる音。ぞろりと草やぶの中から身を起こしたのは、そのまま山賊とでも呼べそうな男たちである。

「ちょっと人相悪りぃけどな。俺の直属部隊、呉軍の精鋭だからよ。甘く見ねぇほうがいいぜ、張コウさんよ」

.....くっ!」

「ことの成り行きは知らねぇが、ちょっとタチが悪過ぎンじゃねーのか?」

「なんですって?」

「だってそーだろーが。魏の将軍ともあろう人間がよ。逃げ惑ってるヤツらは、みんな怪我人だし、船ン中にゃあ女子供もいるらしいじゃねーか。圧倒的に武力で勝っている正規軍が、シロートさん相手に.....最低だぜ」

「おのれ言わせておけば.....ッ!」

 張コウが跳んだ。夜目の利く周泰でさえ、見失うほどのスピードだ。孫策が迎撃のかまえをみせる。

 ガキィィン!

 ふたつの武器がぶつかりあって、青白い火花が散った。

「ひょう!速ぇーッ!」

「無駄口を叩いている暇はないでしょう、孫伯符!」

「おう、いくぜ! てめぇら、手ェ出すんじゃねぇぞっ!」

 孫策が護衛兵とおぼしき者たちに声をかけた。

「度胸だけは買って差し上げますよ!孫策!!」

.....そこまでだ、張コウ将軍」

 冷ややかな声が、場の熱気をはらった。周泰は背筋の強ばるのを感じた。聞くものの心胆を凍らせるような、冷たい声。

「司馬懿殿!」

「貴公にあずけた兵は、鼠狩りにちょうどよい人数だ。何もこの場で虎を狩る必要はなかろう」

 いつの間にか川べりには、一艘の巨船が浮んでいた。黒い帆に「曹」の旗印。そしてそこにたたずむひとつの影。

「司馬懿殿、ですが.....

「お遊びは終りだ、張コウ将軍。.....参ろう」

 孫策がぎろりと船上の人影をにらみつけた。

.....おめー、知ってんぜ。水鳥の黒い羽扇に、ズルズルの裾引きの朝服」

...............

「へへぇっ! 司馬懿殿にお目にかかれるとはね!」

 ビュオン!

 孫策のトンファーが風を切る。鉄製のそれは、するどい音を立てた。トンファーに仕込んだ小刀が放たれたのだ。

「あぶない、司馬懿殿!」

 張コウが叫んだ。

....................

 司馬懿は無言のまま、手にした黒羽扇をすっと前方にかざした。ただそれだけの動作であった。少なくとも、周泰の目に司馬懿がなにか特別なことをしたようには見えなかった。

 だが、風を切って跳ぶ小刀が、急激に失速し、司馬懿の扇に当たる前にボトリと河に落ちた。炎にとりまかれた戦場が、一瞬凍りついたように固まる。

「す.....すんげぇ〜っ! すげーっ! 手品みてー! な、今の見た?見た?」

「え.....あ、ああ」

 いきなり声をかけられ、周泰はぎこちなく頷いた。司馬懿は孫策をじろりとにらみつけると、ゆっくりときびすをかえした。周泰には一瞥もくれなかった。色素の薄い瞳を、暗い虚空に向け、低くくり返した。

.....張コウ将軍.....早くされよ」

 次に響いた声は、この場にいた誰のものでもなかった。

 

「策〜策〜、どこにいんの〜? 策〜策〜、見えないよぅ〜」

「おーう!周瑜! こっちだぜーっ! こっちーっ! そっから見えっかーっ?」

「もう、策! ひとりで勝手に行かないでよ! 霧が深くてお船の上からじゃよくわかんないよ!」

「いーよ、その辺に停めとけよ! そこからなら歩いてこられるって!」

 孫策がやや乱暴にそう言った。船上の人は頭に来たようだ。

「策っ! すんごいワガママだよ! もお!暗いトコきらいなのに〜っ!」

 張コウがちっと舌打ちをする。

.....周泰!」

 張コウが周泰を呼ぶ。気を失った蒋欽を抱きかかえたまま、周泰は顔を上げた。

「悪運の強い人ですね。そちらのお友だちも.....運が良ければ助かるかもしれませんね。.....さて、孫伯符」

 今度は孫策のほうをふり返る。

「勝負はおあずけのようです。いずれ我々にふさわしい舞台が整うでしょう。そのときまで.....

 折れた朱雀虹をつきつけ、張コウは最後まで、艶やかに華やかにそう宣った。疾風のごとくきびすを返した張コウの背に、周泰は渾身の力で叫んだ。

「張コウ.....ッ! 覚えておけ! そしてあの黒羽扇の軍師にも伝えろッ! いつか必ず.....貴様らをこの手で殺すとな.....ッ!」

「ふん.....ええ、そんな陳腐なセリフを、私が覚えていられたらね」

 張コウは背を向けたまま、ひょいと肩をすくめてみせた。彼は素早い身のこなしで船に飛び乗ると、一度も周泰をふり返ることなく姿を消した。

 張コウにとっては.....いや、曹魏の大軍にとっては、たった今の暴虐など、何の意味もないことなのだ。取るに足らぬ瑣末な出来事.....黒羽扇の軍師ならば、そう言って皮肉げに口唇を歪めるだろう。

.....くそッ.....!」

 周泰は吐き捨てた。完敗であった。多勢に無勢であるとか、不意打ちであったとか、そういうことは関係ない。戦は勝つか負けるか、だ。どれほど健闘しようと、敗北すれば殺される。周泰だけではない。女も子供も一族郎党皆殺しにされるのだ。それが戦だ。

 周泰は込み上げてくる吐き気を、必死にこらえた。

.....うかつだった.....俺のせいだ.....

 漏れた声はほとんど苦鳴であった。おのれに対する怒りで、息が詰まり、冷や汗が背を伝う。

 

.....あの.....だいじょうぶ?」

..........ッ」

 周泰はビクリと身震いし顔を上げた。物思いに沈んでいたせいで、人が側近くまで寄ってきたことに気づかなかったのだ。そう、今は悠長に考え事などしている場合ではなかった。

「ねぇ、だいじょうぶ.....? 立てる?」

 その人はひどく不安げに.....いや、むしろ恐々と、周泰に声を掛けてきた。無理もなかろう。二メートルにとどこうという巨躯のせいで、ただでさえ近寄りがたく見られるのだ。それに加えて激戦の傷痕が凄まじい。今の周泰の姿は、悪鬼羅刹そのものであったろう。

 だが、周泰は目の前に立つ人間を見留めたとき、呼吸をするのも忘れ、ただぼうと両の瞳を瞠るだけであった。

 背の半ばまである栗色の髪。まるで女のように煩い睫毛に、切れ長の双眸。そこにはいっぱいに涙が盛り上がっていて、今にもこぼれ落ちそうになっている。

 語彙の少ない周泰は、その人を何と形容していいかわからなかった。「美しい」といってしまえば、そのとおりだろう。だが、周泰が彼に目を奪われたのは、表に現れた部分ではない。その容貌もさることながら、彼のまとう不可思議な空気に、心を捕らわれたといったほうが正解だ。やっとのことで、周泰は口を開いた。

.....大丈夫だ.....あなたは?」

「あ、あのね、私ね.....

「おーい、周瑜〜ッ! なーに、ちんたらやってんだよ、その怪我人が最後だぜーッ! 早くしろよ!」

「あ、うん、今行くよ、策!」

 『美女』はそう応えた。

.....しゅう..........?」

 周泰はその名にも聞き覚えがあった。

「うん、しゅーゆってゆーの。周瑜くんだよ〜。さ、歩ける? ウチのお船にお薬あるから!」

.....しゅうゆ.....周公瑾? 孫呉の大都督の.....?」

「そーだよ。ね、早くして。火が回ってきちゃうよ。あっついよ。ほら、お肩につかまっていーよ! ほらほら!」

 周瑜くんはずいずいと、周泰に身体を押し付けてきた。

「あ.....いや、自分で歩ける.....それより、蒋欽を.....! うぐッ!」

「ほら〜、言わんこっちゃないでしょ! だいじょうぶ。お友だちは、さっき策がおんぶして連れてったから。ウチのお船で手当てしてるはずだよ。さぁ、行こっ!」

 孫呉の周瑜くんは強引であった。どう見ても、周泰の怪我は肩口の傷がもっともひどかった。だが傷ついた戦士に肩を貸すという構図が気に入ったのだろう。周瑜くんはぐいぐいと周泰の二の腕を引っ張るのだ。

「か、かたじけない.....

 周泰は周瑜くんの為すがままに身を委ねた。痛くないとはいえなかったが、がまんできないほどではない。とにかく、彼が大変な好意をもって接してくれているのは、誰の目にも明らかであったろう。そしてなにより、もはや何かを思考することさえ、今の周泰には苦痛であった。

「さっ行こ! お船に火がついちゃうと大変だよ! 痛いかもしんないけど、ちょっとだけがまんしてね!」

.....ああ」

「よいしょ! 策〜!みんな〜! お船出す用意して〜〜」

 周瑜くんが叫んだ。

 妙に語尾の間延びしたしゃべり方だなと、周泰は思った。

 

 

 目覚めると、頭の上に天井があった。木目の、まだ新しいものだ。

.....うっ.....

 身を起こそうと、力を入れ、周泰は低く呻いた。

「よ、お目覚めかい?」

「おぬしはさっきの.....

「おう。孫伯符ってんだ。あーあ、ザンネン。もうちょい気絶してりゃ、痛てーの終わったんだけどな。なぁ、周瑜」

「しゃべってないで、ちゃんと押さえててあげてよ、策。もうちょいなんだから」

.....呉主、孫策と.....大都督周瑜.....

 そこまでつぶやいて、周泰はぐっと息をつめた。徐々に覚醒する身体に激痛が甦ってきた。

「痛い? 痛いよね。ごめんね、もうちょいだから。泣かないでね、がまんしてね。うっうっうっえっえっえっ.....

 周瑜くんは涙と鼻水を垂らしながら、周泰の肩の傷を縫合していた。彼には医術の心得があるのだ。

「うっうっうっえっえっえっ、痛いよ.....こんなに血が出て.....うっうぇ〜ん ふぇぇぇぇ〜」

 強い酒を含まされただけで、傷口を縫いあわされているのだ。周瑜くんの手が動かされるたび、絶え間ない疼痛が肩を襲う。だが周泰の胆力を持ってすれば、泣き叫んだり、悲鳴をあげるほどの痛みではなかった。

「おう、兄ちゃん。おめぇ、強ぇ上に根性あんな。この傷に声もあげないとは驚きだぜ」

「ぶえぇぇ〜〜、うえぇぇ〜〜」

「周瑜、おめーが泣いてどうすんだよ。はやく終わらせてやれよ」

「わかってるよ! 急いでるもん! うっうっ.....うぐうぐ.....

.....俺のことは気にせずに.....周大都督。.....孫伯符殿.....俺は強くなど無い。俺が判断を誤ったせいで、多くの仲間が死に傷を負った。

「どしてよ! あなたが悪いんじゃないでしょ! 仲間の人に聞いたよ。司馬懿殿に魏においでって誘われたんでしょ? それにヤだって言っただけなのに! 勝手だよ!」

「おいおい、周瑜。そりゃ、十分攻撃の対象になんだろうがよ。あの司馬懿の勧誘を断ったってんじゃ」

 やや大袈裟に肩をすくめて、孫策が言った。周泰が動かないとわかってもう押さえる手を外していたのだ。

「どしてよっ! そんなの勝手じゃない! なによ、策! わかったような言い方してッ、お兄さんぶんないでよっ!」

 周瑜くんは鼻を垂らしながら、シャーッ!と逆毛を立てた。周泰からはまるで山猫が怒る様に見えたのだ。

「い、いや、別にそんなんじゃねぇけどよ」

「なにさ、だいたい策がひとりで先に行っちゃうから、お船着けんのに時間がかかちゃったんだよっ! 策はいつも自分勝手なんだよーッ! ふえぇぇぇぇ〜ッ!」

「ああ、わかった、わかった、悪かったから! 泣くなよ、周瑜。な? おめーがぐずぐずしてると、こっちの兄ちゃんがよけいに痛てぇだろ?」

「ひっくひっく.....わかってるよ、わかってるもん.....うっうっ、えっえっ.....はい、おわり。痛かったでしょ、ごめんね、時間かかっちゃって」

 ずびずびと鼻水をすすりながら、周瑜くんがつぶやいた。

.....かたじけない.....それよりもここは.....? あれからどうなったのだ?」

 周泰はたずねた。だが一番聞きたかったことは、あえて口にしなかった。

「うん、ここはね、呉のお船だよ。ちょうど視察に出てるトコだったの」

「おう、最近、魏の連中がうるさくてな。長江越えてなにかやろうってんなら、俺もほっとけねーしよ」

.....そうであったか」

「ああ、そんで、これから建業に戻ろうってところで、あの場面に遭遇したんだよ」

「あ、ねぇ、まだ名前きいてなかったよね。なんて呼んでいーかわかんないから、お名前教えて」

 なつこくたずねてきたのは周瑜くんであった。とうてい大都督などという仰々しい身分の男らしからぬ風情であった。

.....周泰、字を幼平と申す」

「おんなじ『周』だね〜。仲良くしてね、えへえへ」

 まだ涙の渇かぬ大きな瞳を細めて、孫呉の大都督はにこにこと笑った。

.....他にもまだお訊ねしたいことがござる」

 周泰は神妙に言を紡いだ。

「なんだい、大将?」

「あれから.....まだ二、三時間ほどしか経っておらぬと思うが.....

「いい感覚だな。三時間弱ってところだ」

 孫策が応えた。

「ああ、さようか.....あのとき、俺の側に倒れていた男がいただろう」

 周泰は口を開いた。本当はまっさきに尋ねたかったことである。だが、どうしても口火を切れなかったのは、何を聞かされても取り乱さないという、覚悟ができていなかったからだ。

「あっ! 策が背負っていった人のことだよ!」

 はじかれたように周瑜くんが孫策を見た。周泰はひどく舌が渇いてゆくのを感じた。

.....ああ、あいつか。今、うちの見習い連中が看ているが.....

「い、生きているんだな!?」

 思わず咳き込む周泰。

「まぁまぁ落ち着けよ、兄ちゃん。.....周泰っていったか」

「蒋欽はどこにいるのだ? 様子を見に行きたい。あいつは俺を庇って.....

「落ち着けって。傷口が開くぞ。.....生きてるよ。とりあえず、だがな」

 溜息交じりに孫策が言う。周泰はどう話しを続けていいのかわからなかった。

「なに.....どういうことだ?」

「傷の場所が悪りぃーんだ。わき腹をざっくりやられてる」

...............

「止血はしたが.....あいにくこの船には新米医者と見習いしか乗ってなくてな。がんばっちゃいるようだが.....これ以上はなんともしようがないらしい」

「時間の.....問題だというのか.....

「本人の気力がもつか.....

「もう助からぬと.....?」

「そうは言わない。だが難しいのは確かだ」

.....そう.....か」

 あえぐように周泰がつぶやいた。

「ああ.....悪りぃ」

.....おぬしが.....あやまることでは.....ない」

 周泰の口腔は干上がり、そうつぶやいた言葉さえ、かすれて消えそうになっていた。

.....おい、だいじょうぶか、周泰?」

.....だいじょうぶだ.....迷惑を.....かける」

 やっとのことで、それだけを返した。

.....策ッ!」

 周瑜くんの高めの声が、重苦しい空気を切り裂いた。

「ねぇ、策! 華佗先生は? 華佗センセは、今どこにいんの?」

「え? なんだって? 華佗って.....

「華佗先生だよッ 何処に行くって言ってたっ?」

「なんだよ、突然.....ええと.....濡須ってったかな? 濡須の小城を使わせてもらうってオヤジに言ってたな。うちの医学生に教授してるはずだぜ。.....っておい、周瑜、まさか.....

「濡須! よかった! こっからなら近いよ! この対岸だもん。そっからお馬で行けば、半日かかんないよっ!」

「えええっ? おい、周瑜.....

「策、何もたもたしてんのよ。 舵を左方にとるように、お船の運転手さんに言ってきてッ」

「お、おい、おまえ、マジで言ってンのかよ? 確かに華佗は濡須の小城って言ってたけど、今ちゃんとその場所にいやがんのかわかんねーぜ? 何しろあのジジイは流しの医者とかほざいてやがんだから.....

「ごちゃごちゃうるさいよ、策ッ! ケガ人いっぱいいんだから、こっちから行くわけにはいかないでしょ!」

.....か、華佗とは.....以前、中原に居たという、あの.....

 周泰は思わず口を挟んでいた。

「そう、『神医』っていわれたお医者さんだよ。すっごい人なんだよ。ただのおじいちゃんに見えるけど〜。きっと華佗センセが来たら、お友だち、助かるよッ!」

.....周大都督.....

 周泰はぼう然と周瑜くんを見遣った。

「お船のスピードあげてよ、策ッ! 急いで対岸に着けて!」

 周瑜くんがイライラと声をあげて命令した。孫策がそれに何かを応えようとしたところを、無理に遮って、周泰は言った。

「かたじけない.....! 縁もない我らのために! .....駿馬を貸してもらえれば、必ず半日で.....いや、もっとはやくに戻ってくる! すぐにその神医のいる城とやらを教えて欲しい」

「おいおい、おめー何言ってンだ。そのケガで馬に乗れるかよ。大人しく待ってろよ。周瑜がそこまで言うなら仕方がねぇ。俺が行ってくるからよ」

 ややおおげさに肩をすくめて孫策が言った。

「ダメーッ! ダメダメッ! 策はダメだよ! 一応君主なんだから! お船を離れちゃダメだよッ!」

 またもや、カーッ!と逆毛を立てて、周瑜くんが牙をむいた。

「だって仕方ねぇだろうがよ。じゃないと、この兄ちゃん、てめぇで行くとか言い出すぜ?」

「それもダメだよ。私と白姫が行くの!」

「ええっ!」

 周泰が何か言う前に、孫策の素っ頓狂な叫び声が、それを遮った。

.....白姫とは.....?」

「周瑜の愛馬なんだけどよ.....ってそんなことじゃなくて! おい、おまえが行く気かよ、周瑜!」

「そうだよっ! 白姫、速いもん! きっと半日も待たせずに帰ってこれるよ。華佗先生が来てくれれば.....ぜったいぜったい、お友だちも、仲間のみんなもたすかるよ! 周泰どの!」

「周大都督.....何ゆえ.....

「さっ! 急ご、策!」

 周瑜くんはさっさと孫策を促した。一応、主君と臣下の関係なのではあろうが、断金の交わりと称された孫策の周瑜の力学関係は、一般の想像するそれとは大分隔たりがあった。ずばり臣下である周瑜くんのほうが、立場が強そうなのである。

「時間が無いよ、策ッ」

「ま、待たれよ、周大都督!」

 周泰は声を上げた。ぬいつけたばかりの傷口がずくんと痛んだ。

「なぁに? ああ、ダメだよ、周泰殿は寝てなくちゃ!」

「何ゆえ.....そうまでしてくれるのだ? 一体なんのために.....

 周泰は、目の前の人間離れした美しい人に、そう尋ね、問いたださずにはいられなかった。周瑜くんは、この上何を問うのか、といわんばかりの勢いで、周泰をふり返った。

「なんのため? 何言ってんのッ? 知んないよ、そんなコト! でもおケガしてる人たち、たくさんいんでしょ?死にたくない人ばっかなんでしょ? だったら、助けなくっちゃ! いなくなっちゃいたい人たちなら、そっとしといてあげっけど、生きたいってゆーんなら、助けなきゃでしょっ?」

 周瑜くんが少しイライラとした様子で言った。理解しきれずに、ぼうと突っ立っている周泰を置き去りに、長い髪の軍師殿は、孫策の袖をぐいぐいと引っ張った。

「さ、策、行こっ!」

「待てって、周瑜! だからッ!そこまで言うんなら俺が行くぜ! 半日で帰ってくるっていったって、かなりの強行軍だ」

「わかってるもん、そんなこと!だいじょうぶだもん!」

「おめーの体力じゃもたねーって言ってんだよ!」

 勝手に話しをすすめる周瑜くんに、いいかげん頭に来たのか、孫策が語気を荒げた。

「平気だって言ってんでしょ! 策は君主なんだから勝手な行動、とらないでよ!」

「でもだな!」

「もうっ! 軍師さんのいうことが聞けないの? 策はここにいなきゃダメーっ!」

「んじゃ、別に誰か若いヤツにでも.....

「白姫は私しか乗せないよっ! 周瑜くんと白姫は仲良しなんだからっ! それに華佗先生とも仲良しだもんっ! 策なんかよりずっとずっと仲良しなんだからッ!」

 周瑜くんは子供のようにだんだんと、地団駄を踏んだ。さすがに周泰もあぜんとして見守る他に術が無い。

「あ〜〜っ! もうわかった、わかったっ! このクソ頑固野郎!」

「乱暴な言い方しないでよ!策のバカ! デリカシーなさすぎっ!」

「うるさいッ! おら、そろそろ対岸に着くだろッ! 好きにしやがれッ!」

「するもん!好きにするんだもんッ! 策のバカッ! イ〜〜〜〜〜ッだ!」

 周瑜くんは綺麗な顔を思い切り歪めて、船室から飛び出していってしまった。周泰には声をかける暇もなかった。

.....よろしいのか.....孫策殿」

「しかたないだろ! キレイな顔して、クソ頑固な男なんだよっ! ほっとけ、あんなヤツ!」

 ふんと鼻息も荒く、孫策が応じた。

.....大都督が自ら出向くなど.....

「だから身分のことなんか言ったって、聞きやしねーって! それに白姫.....ああ、周瑜の愛馬なんだけどな。あいつはホントに周瑜しか乗せねーんだよ。このオレ様が乗ってやっても、まともに走りゃしねーんだぜ。主が主なら、馬まで聞き分けねぇし!」

 怒りの方向がやや反れてきたことにも気づかぬ様子で、孫策はぶつぶつとこぼし続けた。周瑜くんが、何がなんでも一人で行く.....白姫に乗ってゆくというのはそういうことになるらしい。彼女に追いつける馬はいないのだから。黙り込んだ周泰に、孫策が気を使ってくれた。

「ああ、兄ちゃん、おめーは気にしないで寝てろよ。仲間が心配なのはわかるけどよ。はっきりいってケガ人のおめーにできることはなにもねぇよ」

...............

「周瑜のことは、いいからほっとけって。あいつだって、ウチの大都督の看板背負ってんのは伊達じゃねぇ。見た目はぼーっとしてて頼りないけどな。勝算があんだろうよ」

.....貴殿もだが.....人のいい方だな.....あの、周大都督という人は」

 周泰はぼそりとつぶやいた。

「ああ、まぁ、いいっつーか、メーワクっつーか。フォローする俺の身にもなってくれってんだ」

 ぼりぼりと頭を掻きながら、やや大げさに孫策が言った。そして訊きもしないのに、怒濤のように続ける。

「周瑜とはこんなガキんちょのころからのダチだけどよ。女みてーな顔してるくせに、昔ッから気ィ強くてよ〜! んで気ぃ強いくせに、びーびー泣くんだぜ? でっかい涙ぼろぼろこぼして、鼻ちょうちん膨らませて」

 心底うんざりとした孫策の物言いに、周泰は笑みを隠せなかった。ぷっと小さく吹きだしてしまう。

「あのなー。おめー笑うけどなぁ〜。ちっと考えてみろよ。ケンカしたって、いつも悪役は俺だぜ? 感情が高ぶると泣けてくるらしくてな。周瑜のほうから殴りかかってきても、オヤジに怒鳴られるのは必ず俺。はー、やれやれ.....

.....そうは言っていても、貴殿はずいぶんと周瑜殿を気遣っておられる」

 周泰は言った。

「え? ああ、まぁ、そりゃーな。幼なじみだし。あんまし丈夫じゃねぇしよ。.....ああ、気にすんな」

 周泰は眉をひそめた。それをめざとく見つけて孫策が付け足した。

.....すまぬ。迷惑をかける.....本当に」

「いいって。周瑜の言葉じゃないが、おめーが悪いわけじゃないだろ。司馬懿に遭っちまったのが運の尽きだぜ」

 吐き捨てるように孫策が言った。

.....不愉快だが、恐ろしい男だった。乱世を切り裂くのは、ああいう氷の刃かもしれぬな」

「すいぶん詩的なこと言うじゃねーか、兄ちゃん。そーいや、あの男もキレイだったけど、おっかねーよな」

 しんと沈黙が落ちる。

 先に口を開いたのは周泰であった。繰り言のような言葉しか出てこないのを、もどかしく思いながらも。

「ふ.....貴殿も奇特な人だ。川賊ごときの為に自国の大都督を.....

「あいつの場合、大都督の前に義兄弟だけどな」

「ならばなおさら.....

「なおさら止められねーんだよ。あいつがそこまで言うんなら。.....もうこの話しはやめよーぜ。いくらいっても、とっくにあの鉄砲玉は飛び出しちまってんだからよ」

.....そうか.....そうだな.....すまぬ」

「だーかーら。おめーのせいじゃねーんだって。ほら、もう寝とけよ。悪化しやがったら、俺が周瑜に殴られる」

 冗談とも思えぬ口調でそういうと、孫策は今度こそ立ち上がった。