中原青嵐ノ宴
<1>〜<5>
 
 
 
 

 

 

 この物語は一通の書簡から始まる。

 その文書が、呉主・孫権のもとに届けられたのは、折しも桜の咲き乱れる季節.....江東の地が、もっとも美しく色づく春先のことであった。

 

「み、帝からの書状ッ? 詔勅ですか!」

 頓狂な叫び声をあげたのは、まだ若い武将だ。身なりは文官のそれと知れる。

 ご存知、彼は陸遜、字を伯言といい、今では専ら軍師連の筆頭をつとめる若き俊英であった。聡明な光りを湛えた両の瞳が大きく見開かれ、それはそのまま並々ならぬ彼の驚愕の様子を伝えていた。

.....詔勅が.....

「え〜?お手紙〜? 孫権さまに〜? わーい、読も〜読も〜」

 こちらの御仁は対照的に緊張感が無い。彼は周瑜、字を公瑾いう。孫呉の誇る大都督であり、赤壁の戦いでの立役者である。

 その地において、蜀の天才軍師、諸葛亮と、手に策を書き記し、見せあったというエピソードは有名だ。

 鬼神のごとき彼の活躍を耳にしたものは、にこにこと微笑む、この柔和な人物を見ても「かの」周大都督だとは、なかなか信じられないのだ。

 明るい色みの双眸に、栗色の長い髪、細身だが決して小柄ではない周瑜くん。彼は、それはそれは美しい人であり、また不思議な雰囲気をもつ青年であった。

「『読もう、読もう』って、周大都督ッ! 帝からの詔勅なのですよ? だいたい.....何ゆえ、このような時期に.....? 恐れ多いことながら、帝には全面的に曹操の後見の元に御位おられると聞きます。ならば実質上、これは曹操からの直の呼び出し状ということに.....

 陸遜は俯いて、ぶつぶつと独り言をいう。苦労性の青年なのである。

「まぁまぁ、伯言。心配顔のおめーもイイ感じだけどよ。とりあえず来ちまったもんはしょうがねぇだろう。さ、ご主君!さくさくあけちまいやしょう!」

 一挙に、孫呉の殿堂の品位を貶めるのは、海賊あがりの甘寧である。物静かな周泰とは対照的に騒々しい。

 孫権はにこりとも笑わず、むっつりとした顔つきのままに、書簡を紐解いた。息をつめて陸遜がその手元を見つめる。

 

.....前将軍に叙位された」

 孫権がぼそりとつぶやいた。一瞬、場がしんと静まる。

「お.....おめでとう.....ございまする」

 素早く臣下の礼をとり、陸遜は頭を下げた。回りの者もみなそれにならう。

「わー、おめでとーございま〜す」

 と、周瑜くん。

「やったぜ、大将! こいつはめでてぇ! 野郎ども宴だ! イエーィ!」

「おおっ! すぐに座をこしらえるぞ!」

「酒だ酒だ!奥にも言って来い!」

 いきりたつお祭り好きの甘寧。その尻馬に乗る呂蒙と太史慈である。この乗りの良さ、イキオイの良さは、孫呉という国の特色なのだ。

「ちょ、ちょっとお静かに、みなさんッ! こ、これは大変なことなのですよ!」

 バンと床を叩くと、陸遜はすっくと立ち上がった。

「どしたの〜? りくそん〜、なんで怒ってんのー?」

 周瑜くんがのんびりとたずねた。

「周大都督をはじめ、ご家臣の皆様が事の重大さをまったくご理解なさっていないからですよ!」

 皆がぽかんと口をあけて、陸遜を見上げた。若き軍師はそのまま頽れてしまいそうな脱力感に襲われた。

「よろしいですかっ? 裏で曹操が何を画策しているのか、まったくわかりません! ですがこれは詔勅.....帝より下された命なのです。よって臣下である孫権様は許都に赴き、拝命の儀を受くるのが筋でございましょう」

「ふぅ〜む」

 孫権が低く唸った。皆、びくりとしてそちらを見る。これまでずっと沈黙してきた君主の声は、十二分に注意を引いたのだ。

「むむ.....孟徳よ。東呉の虎を、虎穴よりおびき寄せるか.....

 ぼりぼりと髭面を掻き、孫権はつぶやいた。もっさりと、むさくるしいなりをしていても、涼やかな瞳にはするどい知性の光りが煌と宿っている。

.....勅を奉じなければ、謀反の意有りと見なされてもいたしかたございません。古来より、この江東の地は中央より外れがちでありましたし.....たとえこれが帝の本意でなくとも.....

 苦しげに陸遜がささやいた。

「でもよ、伯言。裏で曹操が糸引いてんなら、殿が許都まで行くなんて危ねーんじゃねぇの?」

.....この書状の真の意味がわからぬうちは.....なんともいえません。本当にただの詔勅である可能性も、ないわけではないのですから。もちろん、あなたが言うように丞相曹操に異心あっての呼びだし.....である可能性も十分あります」

「だったらよー。やっぱやべぇぜ。マジで仕掛けてくるつもりなんだったら。敵地じゃよけいに不利だし.....

 ぼりぼりと頭を掻きながら、甘寧が言う。悪気はないのだろうが、ひとつひとつの動作が妙に荒々しい。

.....そうじゃな.....だが、仮にも詔勅だ.....中央の情勢が如何なるようであろうとも.....此度ばかりは.....

 孫権が途切れがちにつぶやいた。なにかを考え考え口に出しているといった様子だ。それを遮ったのは陸遜であった。

「殿、わたくしが参ります。ご下命を」

「なにぃッ!」

 孫権と甘寧、そしてその場に居合わせた呂蒙ら武将の声が加わる。

「殿.....!」

「だが.....陸遜.....それは.....

「わかっています。裏はどうであれ、帝の勅という体裁がある以上、赴かないわけには参りません。ですが孫権様ご自身が出かけられるには、あまりに危険です!」

「お、おい、伯言.....

「甘将軍、黙ってて下さい!」

 きっと甘寧をにらみつけて、陸遜は続けた。

「私に考えがあります、殿!.....周瑜殿にも覚悟を決めてもらわねばなりませんが.....!」

「え〜? 周瑜くん〜? なんで〜?」

.....申してみよ、陸遜」

 緊張した面持ちで孫権が言った。皆、一様に息をのむ。

「はい」

 軽く呼吸を調え、陸遜は再び口を開いた。

.....此度の一件、帝よりの勅となれば、無視するわけにはいきません。孫家が逆賊の汚名を被ることだけは、なにがあっても避けなければなりません」

「うむ」

.....殿にはご病気になっていただきます」

「む?」

「孫権様には病床に伏していただき、叙位の拝命には、周大都督に名代をつとめさせていただくよう、帝にお願い奉るのです」

「ええええッ?」

「え〜〜〜」

 その場に居合わせた者共が、いっせいに声を上げる。あとからの間延びした悲鳴は、周瑜くん自身のものだ。

「皆様、聞いて下さい。帝が.....いえ、曹操がどう思うかはしれませぬが、表向きは通ります。孫権様のご病状が重篤で、どうしても列席できない。それゆえ、大都督であり、水軍総司令官、そして孫権様の義兄でもある周大都督が、かわりに任官の式典に参賀するということで」

..........しかし.....陸遜.....

 孫権が声を詰まらせる。

「しかし、軍師殿.....どうしても周大都督でなければなりませぬか? .....あまりに.....危険が多すぎるお役目では.....

 呂蒙が孫権の言葉を代弁するように言う。

.....呂将軍.....お気持ちはわかります」

 陸遜は頷いた。

「ですが、周瑜殿でなければならないのです。孫権様の名代として、諸侯の列に並ぶのです。残念ながら、私やあなた方では帝が.....いえ、丞相曹操が認めぬでしょう。唯一、その場において、身分的に釣り合いがとれるのは、周大都督だけなのですよ」

「む.....むぅ.....それは確かに.....そうかもしれませんが.....

「呂将軍、あなたのご心配はもっともです。私だとて、不安が無いわけですがありません。ですが、この書状はあくまでも『漢王朝』からの叙位の通達であり、曹操からの宣戦布告状ではないのですよ」

 ひと息でいうと、陸遜は大きく息を吐きだした。眉間に深いしわが刻まれている。

 ふたたび沈黙が落ちる。陸遜の言葉に反発するものも、また賛成の意を表する者もいない。いたたまれない静寂をやぶったのは、妙にのどかな、いっそ不謹慎なほどにのんびりとした声であった。

「うん、わかった〜。行く〜」

 おっとりと言ったのは、周瑜くん当人であった。

  周瑜くんはにこにこと微笑んでいる。その様子にまったく緊張したところは見られない。

「公瑾.....! 危険きわまりない役目なのだぞ。わしの名代とは言え、許都に.....曹操の手の元にふたたび赴くことになるのだから.....

 孫権が言った。一年半ほど前、樊城攻防戦の折り、豪雨の中で自軍の見失ってしまった周瑜くんは、魏の夏侯惇に保護されたのだ。当時、魏と呉は、表だって敵対はしていなかった。そうはいうもののようは人質だったのである。

 間一髪、辛くも孫呉に生還した周瑜くんであったが、慣れない気候も手伝って、本格的に胸を病んだのだ。

「だいじょぶです〜、孫権様〜。行ってきますから〜」

.....ですが、周大都督ッ!」

 思わずといった様子で声をあげたのは、心配性の呂蒙であった。

「りょも〜、平気だよ〜。お身体、もうなんともないし〜」

「そ、それはそうかもしれませんがッ! また軟禁されないという保証はないのですよ? 万一のことがあっても、合肥城のときのようにはいかないのです!」

「呂将軍」

 呂蒙の言葉を遮ったのは、他ならぬ陸遜であった。

「ご心配、もっとものことだと思います。私だとて周大都督、おひとりに、このような危険な役割を押し付けようなどとは考えておりません」

「ぐ、軍師どの?」

「私も同行する所存です」

 陸遜はきっぱりと言って退けた。いっさいの反対意見は受付けないというように。

「な.....待たぬか、陸遜!」

「殿!内政のことならば、心配には及びませぬ。魯粛殿も呂蒙殿もおりまするゆえ」

「お待ち下さい! 周大都督と陸遜殿が許都に行くというのならば、拙者もお供つかまつりますーッ! 来るなといわれても絶対について参りますよっ」

「わ〜い。りょも〜もりくそんも来てくれんの〜? うれちー。お菓子もってこ!ねー、りょも〜」

「はい、周大都督!」

「ちょっと.....ちょっとお待ち下さい、呂将軍! お気持ちはわかりますが、あなたまで建業を離れられては.....!」

 陸遜が割って入った。主君孫権は双方のやりとりを見守っているだけだ。なにか言いたげだが、ぐっと口を噤んでいる。

「呂将軍にはぜひここにお残りいただき.....

「いーえ、軍師殿ッ! あなたのおっしゃるとおり、ここには魯粛殿が居られます。周泰も蒋欽もおります! さしあたっての不安材料はございませぬ! 拙者にお供させてくださいっ!」

「それは.....その通りなのですが.....許都でなにかあったとき、この場所で、冷静に軍を動かせる人がい」

「それは太史慈や周泰、それに黄蓋殿におまかせすればよろしいッ! 敵地に赴くお二人の護衛を完ぺきにすることが肝要かとッ!」

 呂蒙が咳き込む勢いで叫んだ。

.....呂将軍.....本当に危険なのですよ.....相手の意図がまったく読めないのですから.....

 困ったように陸遜が言う。

「わかっております、わかっているから言っているのです! 帝からの叙位の勅ならば、大軍を率いて向かうわけにもいきません。そこが曹操の狙いかもしれません。そうであればこそ、護衛は少数精鋭でいくしかありません!」

「おおっと、待ったぁ! おめーにだけ、いい格好はさせねぇぜ、呂蒙!」

 ドン!とばかりに、片ひざ立てて立ち上がったのは、川賊あがりの荒くれ野郎、甘興覇その人である。

「俺も行くぜ、伯言!」

「えええッ? ちょ、ちょっと、興覇ッ! あなたまで何を言いだすんです?」

 驚きのあまり、あざなで呼んでしまう陸遜である。人前では必ず「甘将軍」と言うのに。

「なぁに、心配すんなって! この俺っちがいれば、周瑜殿も軍師さんもきっちり守りきってやるぜ!」

「わーい! りょもーも、かんねーもくんのね? すいとうはジャスミン茶にしよ〜〜」

「はいはい、ジャスミン茶ですな、周大都督! この呂蒙がちゃーんとお砂糖を入れたのを用意いたしますゆえ!」

「おいおい、呂蒙、ジャスミン茶に砂糖入れんなよ。まじーだろ」

「周大都督は、あまいジャスミン茶がお好きなのだ!すっこんどれ、甘寧!」

「おさとう〜、おさとう入れて〜」

 

「周大都督ッ! み、みなさん、待って下さい!私の話を.....

 陸遜の声はほとんど悲鳴だ。

「いや、陸遜。わしもそう考える」

 断固たる口調で、言葉を挟んだのは、呉主孫権であった。

 

「と、殿ッ!? しかし、それは.....

「わしの名代として公瑾を.....そして筆頭軍師のそなたをも、許都に送らねばならぬなら、護衛は万全を期したい」

「お心遣いは嬉しく思いますが.....

「さしあたってのところ、建業の守りに不安はなかろう。呂蒙と.....甘寧の軍を率いて行くがよい。.....公瑾もそれでいいかな」

「はーい、いーでーす」

 周瑜くんは、ちゃんと右の手をあげて、応えた。

....................でも」

「へいへい、伯言。そんなシケたツラすんなよ」

 がっしと、陸遜の細い肩に腕をひっかけて、甘寧が言う。

「だいたいおめーはひとりでおっかぶり過ぎなんだよ。ま、なんつーの?新婚旅行の予行演習みてーなモンだと思って楽しく行こうぜ」

「ちょ、ちょっと、興.....甘将軍!」

「あー、ハイハイ。大丈夫、大丈夫。油断してるわけじゃねーんだから。おめーと周大都督の護衛はバチッと決めっからさ。なぁ、呂蒙よ」

「おうよ、甘寧! わしはやる気満々じゃ! さぁ、こうなったら、なにがなんでもお連れいただきますぞ、軍師殿!」

 ずずいと呂蒙が身を乗り出した。縦も横も、はるかに大きな彼に詰め寄られると、まるで陸遜は、子供のように見えてしまう。

.....おふたりとも.....

「なぁっ!伯言」

「よろしいですな、軍師殿!」

.....まったく人の気も知らないで.....

 はぁと大きなため息をつく陸遜。そして気をとりなおしたように、すっと顔をあげた。

.....とても心強いですよ。あらためて、よろしく頼みます。甘将軍、呂将軍」

 困惑した笑みを浮かべつつ、陸遜はそう言ったのであった。

 

「ち、父上ッ! い、いえ、御史中丞!」

 大慌てで、司馬懿の私室に飛び込んできたのは、司馬昭である。彼は司馬懿の次子で、嗣子である。

 室の中には三人の人間がいた。ひとりは室の主、司馬懿、そして張コウ将軍に夏侯惇将軍だ。

 バタンと音を立てた扉に眉をひそめ、司馬懿は冷ややかに言った。

「何用だ、騒々しい」

「まぁ、こんにちわ、昭ちゃん、ご機嫌よう」

 にっこりと微笑んで、妙に人懐こいのが張コウである。彼はかなり、この司馬懿の次子を気に入っているのだ。そのふたりのかたわらに立つ、夏侯惇は、「おう」と片手を上げてこたえた。

「あっ、し、失礼いたしました。皆様、おいでとは知らずに.....

 若輩者にあるまじき態度と自覚してのことか、昭はすぐさま礼をとった。

「いいではありませんか、司馬懿殿。どうなさったの、昭ちゃん。キレイなお顔をひきつらせて」

「あ、あのっ! こ、此度の式典に、私も参賀するように内示がくだされました。ま、まさか.....この若輩の身が.....このような大事に列席するのは初めてでして.....

「や〜ん、もぅ昭ちゃんってば、かわいい〜

 白い頬を上気させ、へどもどと説明する司馬昭を、長身の張コウが上からぎゅぎゅっと抱きしめる。

「ぎゃあ!」

「うっふっふっ 昭ちゃんもそれだけオトナになったということですよ。よかったですねぇ、晴れがましいことで!」

「おう、お主もいよいよであるな。先が楽しみなことだ。なぁ、軍師殿」

 夏侯惇の言葉に、軽く目礼をかえすと、司馬懿は常と変わらぬ静かな口調で告げた。

.....左様か。ならばより一層、政務に励むよう、心せよ」

「は、はい、父上!」

 十八にも届かぬ司馬昭は、背筋をぴんとのばすと、最敬礼をして、ふかぶかと頭を下げた。

「んもー、司馬懿殿だって嬉しいくせに〜。お固いんですからねぇ」

 ちゃらちゃらと抱きついてくる張コウを鬱陶しげに振り払いつつ、司馬懿は、少しだけやわらかに言った。

.....おまえは未だ若年ではあるが、先はこの父を越えるべく精進せねばならぬぞ。此度のこともよい経験となろう」

「はい、父上! 気を引き締めて頑張ります!」

「うむ」

「あ、で、では、突然失礼いたしました。これにて退出いたします」

「あ、昭ちゃん、一緒に行きましょ。お昼 司馬懿殿は忙しいんですってs」

「ああ、ではわしもそろそろ室に戻る」

 昭が退室するのを機に、張コウも夏侯惇も立ち上がったのであった。

.....孟徳はそう言っていたな」

「ふーん、そういうことなんですか」

「いや、そうでなくてはいけない! だまし討ちのようなやりかたは武人としての義に反する」

「徐晃らしい物言いだな。まぁ、此度の件については、それほど案ずる必要もなかろう」

「夏侯惇殿の話を伺って安堵いたしました。どこにも口さがない者はおりますゆえ.....

 庭園の東屋である。

 昭もまじえて四人の男たちが席につき、目の前に簡単な飲茶がならんでいる。丸テーブルの一番手前に座る昭の右隣から順に、徐晃、夏侯惇、張コウという顔ぶれだ。

 昭は目の前で繰り広げられるトップ会談.....というと大袈裟かもしれぬが、名のしれた武将同士の会話に聞き入っていた。もっとも理解できる部分は限られていたが。

 そんな昭の様子に気付いていたのか、小難しい問答をくり返す二人の男を、張コウが遮った。

「ああ、もう、ほらほら、おふたりとも! お茶しに来たのに、そんな話ばかりして。お若い方がびっくりしていますよ」

 たしなめられた夏侯惇と徐晃は、興奮したおのれを恥じるように、ごほんと咳をして黙り込んだ。

「ああ、いえ、私は.....そんな.....

「いや、これは失礼した、昭殿」

「お気になさらずに」

「あ、はい。いえ.....あの.....勉強になります。私は若輩者ゆえ、よくわからぬことが多いですが.....なるほど、孫将軍の叙位については、そのようにもとられるのですね」

「まぁ、これまでの孫呉との関係もあるゆえな。宮中では、ゆめくだらぬ流言飛語が出回らぬよう、よくよく注意せねばならぬ」

「さようでございますね。夏侯惇将軍」

 昭はうなずいた。

「ああ、でも、ザンネンですよねぇ!」

「なにがでしょうか、張コウ将軍」

「だって〜。私、一度、間近に孫仲謀殿を見てみたかったのですよ。今度こそはと思っていたのにねぇ」

 やれやれとばかりに両の手を広げて、張コウは溜息をついた。

「いたしかたござらぬであろう、ご病気ということならば」

 冷めた茶器を手に取り、徐晃がつぶやいた。

「だって、病気ってねぇ?見え透いてるじゃありませんか。そんなに警戒しなくてもいいのに」

 言葉を飾らぬ張コウの物言いに、困惑した夏侯惇が口を挟んだ。

「張コウ将軍.....まぁ、しょうがないだろうよ。それこそ、赤壁から始まって、これまでの関わり合いがあるからな」

「あの.....叙位の式典に孫将軍はお見えにならないのですか?」

 不安そうに昭は尋ねた。彼は聡い青年である。

「うむ。だが心配されるな。名代を送られるとの連絡が、今日参った。それゆえ、さきほど貴公の父君と打ち合わせをしていたのだ」

「そ、そうだったのですか.....ですが、孫権様の名代ともなれば、それ相応の身分の御方が.....

「周公瑾が来るんですって! クソ面白くもない! またもやあの白痴美と顔つきあわせねばならぬとは! あー、もう、お世話係なんてキャンセルしたい!」

 叫ぶように張コウが言い放った。そのままの勢いで飲茶の肉まんにかぶりつく。

「周公瑾.....どの.....? 赤壁の戦いでの水軍総司令官、周大都督ですかッ?」

「なーに、昭ちゃん。あなた嬉しいの? まさか周瑜に興味があるなんてゆーんじゃないでしょうね?」

 ガツガツと食べながらも、張コウの瞳がキラリと妖しく光った。

「い、いえ、別に.....そういうわけでは.....ただ、孫呉の周大都督の御名は有名ですから」

「ふん! ぜーんぜんたいしたこと、ありませんよ。ただのワガママ男です」

「まさか、そんな.....希代の大軍師と伺ってますが.....

「フカシですよ、フカシ!」

「よ、よさぬか、張コウ将軍」

 思わずといった様子で、止めに入る夏侯惇。

「ふーんだ、まったく夏侯惇将軍は、周瑜びいきですよねぇ!ったくあんな男のどこがいいんだか! 私の方がずっとキレイですよ!」

「い、いや.....そういうことではなくて」

「ま、まぁまぁ」

 と割って入ったのは口下手な徐晃であった。

「それがしはかつて一度だけ合肥城赴いた折りに、お会いしたが、不思議な雰囲気の御人であったな」

「うむ.....それは彼の人に会ったことのある者は、皆口を揃えてそう言うな」

 どことなく満足げに、夏侯惇は頷いた。

「大都督というから、どのように猛々しい武将かと思ったら、なんというか.....その.....まるで.....女人のような.....

「ご本人に自覚はないようだがな」

.....そんな.....綺麗な人なんですか.....

 独り言のように、司馬昭はつぶやいた。

「もう、昭ちゃん! 夏侯惇将軍も徐晃殿も! まったく黙って聞いていればッ! まぁ、百歩譲って、そこそこ綺麗なのは認めましょう。確かに大都督といったイメージからは、想像もつかぬ人物です」

「へぇ.....

「昭ちゃん! 目を輝かせないッ! いーですかっ? 美しいということならば、周瑜なんかよりも、よほどあなたのお父様やこの私のほうが綺麗ですよ! だいたいあの男は、ぼけっとしててマヌケた顔をしてるんです。そこに持ってきて、まぁまぁ作りがいいほうだから、不思議系美青年なんていわれるんですよ。ま、私の足もとにも及びませんがね!」

.....あと一週間ですよね.....楽しみだな.....

「昭ちゃーんッ! 私の話を聞きなさい!」

 茶わんを叩きつける張コウを、あわてて夏侯惇と徐晃がなだめにかかった。

 だが、今後の政務への期待と不安、そしてまだ見ぬ、南国の大都督に思いを馳せると、そんな瑣末なことなど、今の司馬昭にはどうでもよいことであった。

「長江を越えると風が変わりますね」

 陸遜が、冠の垂布を押さえながら言った。

 旅装をしてはいるが、鎧などは身に着けていない。馬上で感じる風は、中原独特の乾いた涼しいものであった。

「おう、もうすぐ許都が見えてくるだろうぜよ。伯言、大丈夫か、疲れてないか?」

「大丈夫ですよ、甘将軍。思ったよりも順調に進んでこられましたね。周大都督はいかがなされておられます?」

「ご安心を軍師殿」

 そういって、となりに馬を付けたのは呂蒙であった。陸遜を中心に、甘寧、呂蒙と三人、轡を並べる形になる。

「さきほど御車をのぞいてみたところ、丸くなって眠っておられました」

「そうですか。周瑜殿はあまり丈夫ではありませんからね。重々気を付けねば」

「まぁまぁ、あの人もガキじゃねーんだからよ。てめぇのことくらいてめぇでできるさ」

「そうならいいんですけどね.....

 陸遜は小さく溜息をついた。

 陸遜らは、皆、騎馬での行軍であるが、周瑜くんは四頭引きの輿の中だ。揺れも少なく、天幕付きで暑さ寒さもしのげる。日常生活に差し障りがあるわけではなかったが、陸遜の言う通り、周瑜くんは普通の人ほど健康ではなかった。

 

「うーん、みゅーん.....

 ころんころんと寝返りを打つ周瑜くん。

 さすがに寝疲れたのか、もそもそと起き出し、車の御簾を巻き上げた。小窓からにょにょと顔を突きだす。

「んー、おてんとさま、もう高い〜。りょも〜、りょも〜」

 のんびりと言う。大声を張り上げることはないのだが、なぜか周瑜くんの呼び声は、皆の注意を引くのだ。

 呂蒙はすぐさま駆けつけた。

「おお、周大都督! おめめが覚めましたかな!」

「りょも〜、りょも〜、おのどがかわいた〜。まだ着かないの〜?」

 周瑜くんは窓の縁に手をかけて、ピヨピヨとたずねた。

 念の為に申し添えておくが、周公瑾殿は身の丈180に近い、長身の青年である。

「まもなく到着いたしまするぞ! 長い道のりをよく我慢なさった! えらいですぞ、周瑜殿!」

「えへえへ〜 やっぱし〜?」

「おのどがかわいたのですな! なにを飲まれますか? 鉄観音茶、ジャスミン茶、もものお茶もございますぞ〜!」

「もものお茶〜」

 周瑜くんはすぐにこたえた。ほどよく冷えたよい香りのするお茶を手渡され、周瑜くんはご機嫌であった。

 

 

 

.....甘将軍」

 前方から目をそらさず、馬を進めながら、陸遜は口を開いた。

「おう、なんだ、伯言。さすがに腹減ったんだろう。これ、食わねぇ?」

 ずずいと食べかけの握り飯をつきつける甘寧。それに苦笑しつつ、陸遜は軽く首を振った。

「いえ、朝食は済ませていますから..........興覇」

「あーん?」

.....あなた、後悔していませんか?」

 陸遜は言った。それはほとんどつぶやきに近かった。

「後悔って何を? この旅に同行したことか? バッカ言うなよ。置いていかれたら、むしろ後悔しまくって恨んじゃうぜ!」

 陸遜に差し出した握り飯を、むしゃむしゃとほおばり、甘寧は威勢よく言った。

.....私を.....好いてくださっていることを.....後悔しませんか?」

 ひっそりと陸遜が言った。やや自嘲気味に。

「はぁぁあ? なに言っちゃってんの? おめー、熱でもあんじゃねぇのか、伯言」

「ありませんよ。.....すみませんね、いつでも私はこういう方法をとってしまいます。人任せにして事無きを得るというのが.....どうしてもできないのです。苦手.....なのです」

....................

「恐れ多くも軍師の筆頭という重責を担っているのですから、おのれの身を省みることも大切なのだと.....わかってはいます。でも.....

 うわごとのようにつぶやく陸遜の目の前に、すっと甘寧の腕がのばされた。それは静かに陸遜の言をさえぎった。

「皆まで言うなよ、伯言。俺っちはそういうおめぇが好きなんだからさ」

「興覇.....

「さ、あと、二、三時間ってとこかな。落ち着いていこーぜ。今からあんまし気ィ張りつめてたら、仕舞いまでもたねぇぞ」

.....そうですね.....

 陸遜は気を取り直したように頷いた。

「あなたの言うとおりです。ありがとう、興覇」

 まもなく目の前に許都の街が見えてくるだろう。

 『無機質で整っている』

 かつて、周瑜くんがそう表現した場所。

 陸遜は未だ見ぬ中華の中枢地に、背筋をただした。