中原青嵐ノ宴
<6>〜<10>
 
 
 
 

 

.....久しいの、陸伯言殿」

 おだやかで落ち着いた.....だが、どことなく冷ややかなものを含んだ声。それに対して陸遜は、きちんと礼をとって応えた。

「はい、司馬懿殿にもお元気そうでなによりです。その節は大変お世話になりました」

 ここは宮中の東方の一郭.....端的に言えば、賓客を泊めるための施設である。仰々しい出迎えをくぐりぬけ、ようやくひとごこちついた孫呉の一行であった。

「周大都督にもご健勝のこととお見受けする。喜ばしいことだ」

 身分の高い賓客に、一応の礼を通す司馬懿であった。

「はい、元気です〜。司馬懿殿にもお変わりなきようで〜。崑崙から帰ってらして、おかげんが悪くなりませんでしたか? 司馬懿殿、すっごくすっごく疲れてたでしょ? 周瑜くんもね、おケガ、してたの。いっぱいいっぱい、スリむいちゃってたの、だから.....

「ちょっと、周公瑾。ひとりで司馬懿殿相手にしゃべくりまくってるんじゃありませんよ。この美しい私を無視するとは無礼な!」

 ずけずけと割って入ってきたのは、もちろん張コウである。

 今、この応接の間には、司馬懿、張コウの他には文官が数名控えているだけだ。ものものしい警護にあたる武官連中は、控えの間の外を守っており、室内にはいない。

 そして客人の一行である孫呉の面々.....大権大使の周瑜くん、軍師陸遜と、甘寧、呂蒙だ。彼らの率いてきた一軍は、すでに割り当てられた別棟にひきとっており、ここにはいない。つまり孫呉の人物はわずか四人のみである。

 いささか緊張される場面であるが、周瑜くんだけは常とまったく変わらず、人懐こかった。もちろん張コウ以外に対してであるが。

 

「なによ、張コウ。いたの」

「ええ、ここにおりますよ、美しい私が。あなた頭だけでなく目まで悪くなったじゃありませんか?」

 ツケツケと張コウが言い返した。

「ちょっと、張コウ! そんな言い方、していーの? 今日の周瑜くんはエライんだよ? 大使さんで孫権さまの名代なんだから!」

 つんつんと周瑜くんは、顎をあげて威張った。

「ぐっ.....ひきょうな!」

「およしなさい、周大都督。これから数日、我々はこちらにお世話になるのですからね。よけいな軋轢を生まないように」

 陸遜がとりなした。司馬懿はひとつ咳払いをすると、あらためて口を開いた。

「孫呉のご一行殿。遠路はるばるようご足労くださった。式典まではまだ日がある。ゆるりと身体をやすめ、楽しんでいっていただきたい」

「お心遣い感謝いたします」

 すぐさま陸遜が応えた。

「それでは、なにはともあれ、居室にご案内申し上げよう」

「はーい、ねー、りょもー、お菓子、あるかな〜? お泊まりするお部屋にはふつーお菓子あるもんね〜」

「そーですな、普通、ありますな!周大都督!」

「周大都督、呂将軍!」

 小声で注意する陸遜の言葉など、耳に入らぬように、司馬懿が扉の方を見遣った。

.....いや、そのまえに、こちらにご滞在される間、お世話をさせていただく人間をご紹介するつもりなのだが.....まだ来ぬのか」

 司馬懿はすぐ後ろに控えていた、まだ若い文官に声をかけた。

「はっ.....ははっ! ほ、本日はご登城される御方々が多いため、主殿の警護の様子を見においでになると.....まもなく此の方へ参られるはず」

 彼の言葉は緊張のあまり、途切れがちでうわずっている。普段ならば司馬懿と口をきけるような身分ではないのだろう。もしかしたら公式の場に出るのが初めての、新人の文官なのかもしれない。

 だが、彼が返答を終える前に、どすどすという重い足音が、それを掻消した。

 ガタンと扉が開かれる。

 

 

「軍師殿、申し訳ない。遅くなり申した」

「ご無礼つかまつる」

.....し、失礼いたします」

 入ってきたのは三人の男である。いかにも武人めいた壮年の者が二名に、陸遜と変わらぬ年ごろの青年がひとり。

 

「あ〜〜〜〜」

 周瑜くんが、間延びした、だが遠慮のない大声をあげた。

「夏侯惇将軍〜〜!夏侯惇将軍だ〜〜」

「お久しゅうござる、周大都督。ふたたびお目にかかれて嬉しく思う」

「周瑜くんも、周瑜くんも〜。きゃっきゃっ。かこーとん将軍〜、元気だった〜?崑崙から帰ってきて、ビョーキになんなかったー? よかった〜、夏侯惇将軍に会えて〜、えへえへえへ」

 周瑜くんは小走りにやってくると、夏侯惇にねりねりと頭を押し付けてじゃれついた。とっても嬉しいときのしぐさである。

 夏侯惇は困惑したままに立ち尽くしているが、不快げではない。常に渋面をつくっている顔が、今はかすかにほころびている。

 ごほんと咳払いすると、司馬懿は続けた。

「ご存知、夏侯惇将軍。そしてこちらが徐公明将軍」

 あ、というように周瑜くんが顔をあげた。一度だけ、面識があるのだ。

「そしてこちらの張コウ将軍。この御三方は式典警護の責任者であられる。こちらに滞在している間、貴公らの身辺の安全は我々が保証いたす」

 重々しく司馬懿が言った。そのまま言葉を続ける。

「この者は司馬昭。式典の細かなこと、そして日常の身の回りのことなどについては、この文官をつけておくゆえ」

「司馬.....昭?」

 周瑜くんがぽかんとして、まだ若い文官を見つめた。

 年のころは十六、七.....といったところだ。真新しい裾引きの紺の朝服、重たげな冠が初々しい。

 司馬懿の次子、司馬昭は、緊張した面持ちで一歩前に出た。

「司馬昭でございます。物の数にも入らぬ身なれども、此の度、大役を仰せつかりました。いたらぬ点もございましょうが、よろしく御頼み申し上げます」

 くり返し練習したのだろう、固いセリフを、まさしく棒読みにしたといった様子であった。

「あの.....失礼ですが、司馬懿殿。もしかして、こちらの御方は.....

 陸遜は気付いたようだ。

「左様。私の次子で昭という」

「そぉなんだ〜。えへえへ、私ね〜、周瑜くん〜。字を公瑾ってゆーの。よろしくね」

「は、は、はい! 周大都督には、ご、ご機嫌麗しゅう! お目にかかれて光栄にございます!」

「こちらこそー。昭ちゃん、お父さまに似てんねー。色が白くてキレイだもんねー」

 ストレートな周瑜くんである。彼に慣れ親しんだ人々でさえ、時にはたじたじと後ずさりしてしまう天然の人なのである。それゆえ、初対面の司馬昭が、気の利いた言葉を返せなくともしかたのないことであった。

「い、いえ.....あの.....そんな.....]

「ねぇ、昭ちゃん、字なんてゆーの? あ、ざ、な? 周瑜くんはねー、さっきも言ったけど、こーきーん。公瑾だよー」

 なんの躊躇もなく、にじにじと間近に近寄ってきて語りかける周瑜くん。傍らの夏侯惇が、喉元で低く笑った。

「あ、あの.....子上と申します.....子供の『子』に上と書きます.....

「『君子』の子に上中下の上ですよ! ちょっと周公瑾。あんた初対面のくせに、私の昭ちゃんになれなれしくするんじゃありませんよ、ずうずうしい」

「ちょ、張コウ将軍! 大都督殿に向かってそのような!」

 と悲鳴のような昭の叫びである。

「いーのいーの。昭ちゃん! この男はあまやかすとつけ上がりますからね! 気を付けるんですよッ」

「なによ、張コウ! 今は周瑜くんと昭ちゃんがお話してんだよ! 張コウはひっこんでてよ!」

「みすみす私の可愛い子を、おまえの毒牙にかけるわけにはいきませんからね! 悪霊退散ッ!」

「ああ、もうよさぬか、張コウ将軍。昭、早く孫呉の貴人たちを室に案内せよ。すまぬが夏侯惇将軍、同行してやってくれ」

「心得た」

「あ、あの、みなさま、こちらへ」

 司馬昭があわてて一行を促す。

 ふわぁぁと大きなあくびをした甘寧が、じろじろと不躾に司馬昭をながめる。さきほどまで静かだったのは、単に眠かったからなのだろう。それを目で押さえて、陸遜は、昭の後にすぐに続いた。

「こちらから、向こう四室をご使用下さい。なにかご不便がありましたら、どうぞ遠慮なくおっしゃっていただきたく存知ます」

 まずは一番手前の室、それぞれに割り当てられた四室の他の、やや大きめの広間に落ちつくと、司馬昭はまるで台本を読み上げるように言った。なかなか緊張はとけないらしい。

「ふはー、疲れたぜ〜〜。腹も減ったしよ〜。どっか、メシ食いに行こうぜ、昭」

「ちょっと、甘将軍! あなたね、礼儀というものを心得なさい!」

 ぴしりと甘寧をたしなめると、陸遜は椅子から立ち上がって拱手した。

「ご丁寧に恐れ入ります、司馬昭殿。あらためまして、私は陸遜、あざなを伯言と申します。お父君との面識はございましたが、こうしてご自慢のご子息にお会いでき、誠に光栄です」

「い、いえ、こちらこそ! 若輩者ですがどうぞよろしくお願いいたしますッ」

「まぁまぁ、おふたりとも。かたっ苦しい挨拶はその辺になされ。これからしばしお付き合いが続きますからのぅ。楽に参りましょう、楽に、昭殿」

「はい、ええと、呂将軍、ですね。お目にかかれて嬉しく思います」

 はりつめた青年の声に、低い響きが割って入った。

「陸伯言殿、呂子明殿.....その節は大変世話になった。あわただしい折りゆえ、きちんと礼も申し述べられず失礼した。.....感謝している」

 夏侯惇である。かつて孫呉の面々と経験した、摩訶不思議な旅のことを言っているのだろう。このとき、夏侯惇は不覚にも意識不明の重体となってしまったのだ。

「夏侯惇将軍ー、夏侯惇将軍〜。えへえへえへ!」

 対面の室に夏侯惇が入ってきたときから、しゃべくりたくてたまらなかった周瑜くんは、すぐさま、夏侯惇にくっついていった。

「おお、夏侯惇殿!お元気そうで何よりじゃ! いやはやお互い災難でござったな!」

「ご機嫌よう、夏侯惇将軍。此度はお世話をかけますがよろしくお願い申し上げます」

 呂蒙に陸遜である。

「うむ.....ええと、そちらが.....

「俺? 俺は甘寧。この鈴がトレードマークだぜ。ま、おめーの眼帯みてーなもんだ」

「甘将軍!」

「んもー、伯言ってば口うるせぇの。そんでもオレ、あんたらに会えんの楽しみにしてたんだぜ。式典の日取りには余裕があんだろ。剣の稽古の相手をしてくれよ、夏侯惇将軍!」

「おう、のぞむところよ、甘寧殿」

「呼び捨てでいいぜ、夏侯惇!」

「承知した!」

.....武人同士、意外と気が合うようですね、おふたりとも」

 ふうと息を吐きだすと、陸遜はにっこりと笑った。

「みなさま、お食事はすでにこちらでご用意しております。ご希望があれば昼食がすみましたら、街へご案内いたしますが」

「わぁ〜い、行くー! 街、行く〜ッ! 市場、見るんだー」

「ダメですッ! 周大都督はお昼寝の時間ですよっ!」

 すかさず陸遜が言った。身体の弱い周瑜くんは、呉にいるときも午後の数時間は睡眠時間にあてられている。

「やだ〜、街〜。街行く〜。昭ちゃんと街、行くんだもんッ! 市場行くんだもんっ! 夏侯惇将軍も行くんだもんね〜? ねーッ?」

「あ、ああ、まぁ.....

「ダメですってばッ。周瑜殿、おととい熱が出たでしょうッ 疲れがたまってるんですよッ。ご飯食べたら、御湯をいただいておやすみください!」

「や〜〜〜〜〜」

「あ、あの.....まずは食堂にご案内いたします」

 蚊の鳴くような昭の言葉を夏侯惇がくり返し、孫呉の一行はようやく食事の膳にありつけたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

司馬昭は、久々のまともな食事に舌鼓をうつ孫呉の一行の側を、そっと離れた。父司馬懿の執務室に、昼の報告をしに行くためだ。

「ああ、お帰り、昭ちゃん」

 そこにはごくあたりまえのように張コウがいた。司馬懿の傍らにいる張コウは、なぜかひどく嬉しそうに楽しそうに見える。もともと派手やかに着飾っている人物だが、父司馬懿といるときは、さらに華やかで艶やかな空気を纏うのだ。

 また不思議なことに、司馬懿の面ざしもいくぶんやわらかになっている印象を受ける。

「ごくろうさま。疲れたでしょ?」

「張コウ将軍.....ええ、緊張してますので多少は.....

「もー、昭ちゃんてば生真面目な人なんですから。いちいち気を使っていたら身体がもちませんよ」

「ええ、まぁ.....それはそうなのですが.....

.....初めての対外的な、重要な任務だからな。真面目にやってもらわねばならぬ」

 ようやく父・司馬懿は口を開いた。

「はい! それはもちろんです、父上!」

.....それでこの後、孫呉の御方々のご予定はどうなっているのだ」

「あ、は、はい。陸伯言殿より、明日以降は適宜執務につかれるとのとのことです。その合間に式典の打ち合わせを」

「さもあろうな。陸伯言の立場ならば、日々相当の激務のはずだ。こちらでもいろいろとせねばならぬことがあるのだろう.....今日はどうするのだ?」

「ええ、昼食の後は街にお出になられるとのこと。夏侯惇将軍と私が同行いたします」

「んもう!至れり尽くせりじゃありませんかッ」

 腹立たしげに吐きだしたのは張コウである。

「午後は司馬懿殿と昭ちゃんと一緒に、お茶でもしようと思っていたのにッ!」

「勝手なことを言わぬように、張コウ将軍」

 溜息交じりに司馬懿がつぶやいた。

「昭。わざわざ言うまでもないことだが、よくよくご一行の身辺には気を付けるよう、夏侯惇将軍に申し伝えよ。お忍びとはいえ、街には出来ればもうひとり同行したほうがよいと思われる」

 ゆっくりと噛みしめるように司馬懿が言った。

「あ、はい。.....そのようにいたします。.....あの、父上.....

「何だ」

「父上には.....御方々の身辺警護にずいぶんと御心を砕かれているご様子.....なにか特別にお気掛かりがあるのでしょうか?」

....................

「まぁまぁ、昭ちゃん!司馬懿殿の心配性は今に始まったことじゃありませんからね。もう、私が戦に出るたびに、今生の別れのごとく不安がられます」

 両の手をひょいと持ち上げて、おおげさに張コウが言った。それを背後から蹴り飛ばす司馬懿。

「いいかげんにせんかっ! くだらぬ虚言を吐くなッ! .....昭、よいか。孫呉との関わりは未だ微妙な空気を孕んでいるのだ。此度、孫権殿ご自身が来訪しておらぬことからも理解できるだろう」

.....はい」

「何かトラブルが発生すれば、孫呉は赤壁の恨みもあり、それみたことかと反旗を翻すであろう」

...............

.....今はまだその時ではない」

..........は?」

.....いや、よい。ともかくご一行の身辺にはよくよく留意するよう。.....もう下がれ」

 断ち切るように司馬懿は言った。

「おおっ! こちらにおられたか、昭殿!」

 ゼイゼイと息を切らせて、走り込んできたのは徐晃である。トレードマークの白い頭巾もずり落ち気味だ。

「何だ? なにかあったのかッ?」

 すぐさま問いただしたのは司馬懿であった。

「なぁに、どうなさったのです? 徐晃殿。まさか.....

「あ、ああ、いや、軍師殿、張コウ将軍。ちがうのだ、そんなに血相を変えるような大事ではないのだが.....だがほとほと困り果てて.....とにかく昭殿、すぐにおいでいただきたい」

「は、はいッ!参りますッ! では、父上、張コウ将軍、失礼いたしますッ!」

「ご無礼仕った!」

「徐晃殿ッ?」

「いや、軍師殿、ご心配は無用!」

 叫ぶように言い置くと、昭と徐晃は駆け出した。

 取り残された形の司馬懿と張コウ。ふたりは顔を見合わせ、眉をひそめたのであった。

 

 司馬昭は、駆けながらも、トックントックンと心の臓が高鳴るのを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「いけませんよっ! ぜったいにダメですっ! ほら、こんなにおでこが熱い! お熱が出てるんですよ、周大都督ッ!」

「ちがうもん、ちがうもん! おフロ入ったからだもんっ! おフロ入ったからおでこが熱いんだもんッ!」

「お顔も赤くなっていますよッ! ほら、手も熱い!」

「おフロのせいだもんっ! お湯のおフロに長〜く入ってたから、熱くなっちゃったんだもん! 行くッ! 周瑜くんも、街、行くッ!」

「ダメですよッ! 冗談じゃありません! 数日後には大事な式典があるというのにッ! 具合が悪くなったらどうなさるんですかっ!」

「平気だもんッ!」

「あなたは孫権様の名代なのですよッ?」

「平気だってゆってんでしょッ!」

「そういって平気だった試しがないでしょうッ! 市街散策は視察の目的もあるんです! 周大都督は大人しく寝ていてくださいっ!」

「やだっ!」

 ブンと周瑜くんが頭を振った。乾ききっていない栗色の長髪が、露を含んでキラキラと輝く。

「周瑜殿! どうしてあなたは、そう.....!」

「やだっ! みんなと行くんだもん! りょもーッ! りょもーも何とか言ってよーッ! うえぇぇんっ!」

「ええ、あ、いや、ですが.....

「行くんだもんっ! 桃のお茶もポットに入れてもらったもん!具合なんか悪くないんだからーッ!」

「これから悪くなるかもしれないでしょ?」

「いや、まぁまぁ、軍師殿。なにもそんなにキツくおっしゃらずとも.....

 おろおろととりなす役立たず呂蒙である。仲介役など、人の良いこの将軍には荷が勝ちすぎるのだ。

 頼みの甘寧は、我関せずとばかりに、寝椅子に転がって鼻毛なんぞをむしっている。

「うえぇぇぇん、りょもーッ! りょも〜ッ!」

「呂将軍ッ! この私の申すことが間違っているというのですかッ?」

「い、いえ、そんな滅相もない.....

「うえぇぇぇん! うえぇぇ〜〜んッ!」

「泣いてもダメなものはダメですッ! .....あッ.....ああ、司馬昭殿.....お騒がせして申し訳ありません」

 たった今、昭たちが居るのに気付いたように、陸遜は乱れた前髪を冠に押込み、あわてて笑顔をつくった。

「いえ.....あの.....周大都督.....お熱が?」

「ええ、そうなんですよ。もともとあまり丈夫でない体質でいらっしゃるのです」

「ああ、そういえば.....父からも聞いております」

「それなのに、どうしても街中に出るのだとおっしゃって.....

 ふぅと陸遜が溜息をついた。

 周瑜くんのワガママは今に始まったことではないが、馴染まぬ土地にやってきて、気が高ぶっているのかもしれない。

 陸遜がいくら叱りつけても、呂蒙がなだめすかしても、大人しく待っていると約束しないのだ。

「やーッ! みんな行くのに、夏侯惇将軍も昭ちゃんも行くのにーッ! いっつもいっつも周瑜くんだけお留守番ッ! 陸遜イジワルだよっ! 周瑜くん、大権大使なのにー! エライのに〜ッ! うえぇぇぇん!」

「いいかげんになさい! 周瑜殿ッ!」

 陸遜もやや気が立っているのだろう。いらいらとして、真っ向から対立しているのだ。

「まぁまぁ.....あの、おふたりとも、落ち着いてくださいませ」

 昭はオドオドとやや及び腰で割って入った。そのあまりに自信なさ気な態度のせいか、頬を染めて怒鳴りあっていたふたりは、一瞬口をつぐんだ。

「昭殿.....昭殿からも何とか言ってやって下さい」

「陸伯言殿.....そのようにお怒りにならずとも.....あの.....周大都督?」

「なぁにッ? なによっ! 昭ちゃんもひとりで居残りしてろってゆーの? おネツがあるって決めつけんのッ?」

 周瑜くんは、シャーッ!と逆毛を立てて威嚇した。

「いえ.....そういうわけでは.....お手を拝借いたします、周大都督」

「え?」

 昭は静かに周瑜くんの手をとった。

.....確かに、少し温かいように感じます。今日は昭がお付添いたしますゆえ、市中の散策は後日あらためて、ご一緒に出かけませんか?」

 司馬昭は、穏やかな声で、ゆっくりと語りかけた。武芸もたしなむ青年だが、もともと静やかな気質なのだ。

.....昭ちゃん、一緒にいてくれんの? また別の日に、いっしょにお出かけしてくれんの?」

「あ、はい。周大都督がそのようにのぞまれるのであれば」

.....ホントね」

「はい、ご希望があれば」

.....うん。わかった。.....陸遜たち、行ってきていーよ。昭ちゃんとお留守番してるよ。夏侯惇将軍と徐晃将軍。みんなをよろしくね」

 周瑜くんは拍子抜けするほど、あっさりとそう言った。陸遜も、不思議なものを見るように、大きな瞳をバチバチと開いたり閉じたりしている。

「そんじゃあ、お部屋でお休みする。昭ちゃん、来てね。側、いてね」

「あ、はい。すぐに伺います」

「うん」

 周瑜くんはこくんと頷くと、トコトコと室を出ていってしまった。呆気にとられたような、沈黙が流れる。

 ぴゅうっという品のない口笛は、甘寧のものであった。

「アンタ、やるじゃん! 昭ちゃんよー! あんなにスネくさった周瑜どのを引っ込めるたぁ見上げたもんだぜ!」

「ちょ、ちょっと甘将軍!」

「いやはや、まったくじゃ。冷や汗が出たわい。周瑜殿も軍師殿もあのようににらみ合ってしまって.....助かりましたぞ、司馬昭殿」

 呂蒙も額をぬぐいながら、甘寧に賛同する。

「いえ、そんな.....私はただ.....

「いいえ、ありがとうございました。.....すみません、私も大人げなかったです。少し疲れているせいか、イライラしてしまって.....

「あの、本当にそんなにお気になさらないでください。あたりまえのことですから.....では私、周大都督のご様子を見て参りますので、これで.....

 司馬昭はあわてて一礼すると、せかせかとその場を退出した。それを陸遜が自嘲気味に口唇を歪めて見つめる。

「いやぁ、オレ、あいつ好きになりそーだわ。まっ、とりあえず出ようぜ、皆の衆。気晴らしして、ついでに周瑜殿にみやげでも買ってってやろーぜ」

 甘寧が言った。

 

 蒼とした青空に、白雲が淡く千切れて飛んでいる。春先の許昌は、孫呉のそれよりも気候が涼やかだ。

 むしろそれは、これから市中にくりだそうとしている一行にとってはありがたかった。

 

「張コウ将軍ッ! 張コウ将軍ッ!」

 バタバタと息急き切って、司馬昭は張コウの名を呼んだ。

 回廊をぐるりと一回りし、中庭に向かって走る。そこに思う人の姿を見つけた。なぜかやはり、父・司馬懿と一緒にいる。騒々しい振舞いを、父は嫌うが、今は時間の方が惜しかった。

「張コウ将軍ッ! 父上、失礼いたします」

.....何事だ.....騒々しい」

「おーや、昭ちゃん。孫呉の連中と街に出るんじゃなかったんですか?」

 ひょいと片手をあげて、張コウが言った。いちいちポーズをとるのがクセになっているのだろう。

「いえ、別件でちょっと.....ご一行には徐晃殿と夏侯惇将軍が付き添ってくださっています。それより、張コウ将軍、あの、なにかお菓子をいただけませんか?」

「はぁ?」

 唐突な申し出に、張コウは呆れたような返事をした。かまわず昭は続ける。

「いつも綺麗なお菓子を分けてくださるじゃありませんか。何か.....何でもいいのです。出来れば見目の良い物がいいですが.....

「昭ちゃんにしてはめずらしいリクエストですねぇ。別に構いませんけど。えーと、私の室は知ってますよね」

「はい!」

「あけっぱなしになってますから、勝手に入って下さい。テーブルの上に桃花が盛ってありますよ。小棚の引き戸には糖蜜と焼き菓子が」

「すいません! 少しだけいただいていきます! ありがとうございます、張コウ将軍!」

「いえいえ、どういたしまして。昭ちゃんなら全くかまいませんよ」

「では失礼します、張コウ将軍!父上!」

 ふたりの返事を待たずに、ふたたび昭は駆け出した。裾引きの衣がひどく鬱陶しく感じる。着替えてくればよかった、と思うが、考えてみれば朝からこれまで、そんな時間の余裕は全然なかったのだ。

 

 幸いにも、迎賓の客室から、張コウの私室までは、それほどひどく離れているわけではない。

 思いの外、あっさりとしたこしらえの張コウの私室に飛び込むと、品の良い器を失敬して、目に付いた菓子を盛りあわせる。あざやかなピンク色をした桃花と、引き戸から糖蜜、焼き菓子をもらうのも忘れない。

 女給のまねごとを終えると、休むまもなく、昭はそのまま取って返した。

 あてがわれた客室で、周瑜くんがひとりで待っている。

 まちがいなく昭よりも年上で、身分など比するべくもなく高い周瑜くんであったが、なぜかかまってやらなければならない気持ちにさせるのだ。孫呉の不思議青年周瑜くんは、曹魏においてもやはり不思議の国の住人であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 客室の前まで戻ってくると、司馬昭は前髪を指で梳き、冠を正した。

 フル回転でやって来たといっても、周瑜くんを納得させ、室に送り届けてから、二十分近くの時間が経っている。

 昭は周瑜くんの機嫌を損ねないように、そっと扉をたたいた。

.....周大都督、司馬昭でございます。内へ入ってもよろしゅうございますか?」

....................

 周瑜くんが何か応えた。だが彼の声はあまりに小さくて、昭には聞きとることができなかった。昭は微かに扉を開いてみた。

「昭ちゃ〜〜〜ん」

 周瑜くんは、室の奥、天蓋付きの大きな座臥の上に、ちょいんと座っていた。身長180センチ近い周瑜くんであるが、あまりの座臥の大きさに、そんな表現が似付かわしいのだ。

 横になっていたのに、無理に上体だけ起こしたといった格好の、周瑜くんを見て、司馬昭はあわてて謝った。

「あっ.....も、申し訳ございません! せっかくお休みだったのに.....お起こししてしまいました!ごめんなさい! 失礼します!」

「昭ちゃ〜〜〜ん」

「え、は、はい」

「昭ちゃん〜、遅いよ〜。待ってたんだよ〜、寝んねしないで待ってたの〜〜」

 とろとろと語尾を延ばして、周瑜くんはつぶやいた。ぽんぽんと布団を叩いてみせる。

「すみません、本当に。あの.....いろいろとありまして.....

「ここ、おいでよ〜。周瑜くんの側の椅子〜、お話しよーよ」

 どうやら機嫌を損ねたわけではなかったらしい。昭はホッと胸をなで下ろすと、菓子の盆をもって寝台のすぐ側に侍った。

 天蓋付きの座臥は、大人三人横にならんでもまだ余裕のありそうな大きさだ。天頂から四方を囲うように、梳き通る素材で織ったヴェールが張り巡らされている。

 昭は「失礼します」と声をかけ、そっと薄い布をまくりあげた。

「昭ちゃん〜〜」

 周瑜くんはこちらを向いてにこにこと笑っていた。

 長い長い、女のように煩い睫毛、すっと通った滑らかな鼻梁.....まさに柳眉といったふうの形良い眉。細い顎.....そして抜けるように白い肌。

 健康的な白ではない。どこかひっそりとして青白く、陽の光に当たったら、しゅうと音を立てて頽れてしまいそうな.....そんな「白」だ。

 司馬昭は盆を持ったまま、しばし阿呆のように座臥の傍らに立ち尽くしていた.....

 昭だとて、これまで幾人も、「美しい」と形容される人間を見てきた。

 女性だけでなく、男性をも含めて。

 

 なにより、すぐ側に張コウがいるのだ。その性格はともかくとして、張コウは稀に見る美貌の男性であった。自負するに相当の、美しい人だと昭も思う。

 顔の作りのそれぞれのパーツが意志的に、際立って調和している。それは細面をさらにきつく印象づけてしまい、彼の派手やかな衣装と立ち居振る舞いと相まって、周囲を一歩引かせてしまうところがある。

 それゆえ、まわりの人間たちは、張コウと言う人物をよく知らぬままに遠巻きに見ているのだ。

 しかし、昭は知っている。張コウ将軍という人が、父・司馬懿におとらず賢く、そしてやさしい人物であると。

 そしてこれまでに会っただれよりも、「美しい」という形容が似合う人物であると思っていた。

 また昭自身の父である司馬懿だとて、決して子の欲目というわけではなく、怜悧に整った容姿をもっているのだ。なぜか、赤の他人であるはずの張コウが、あらゆる人に自慢してまわるほどに、司馬懿の冷ややかな美貌は、表情が乏しいことも手伝ってか、一種神秘的で畏怖の念を抱かせる。

 

 .....だが、今、昭の目の前にいる人物は、そのどちらとも異なる。

『美しい』という陳腐な単語を使用するならば、それでよいのかもしれない。だが周瑜くんの、その独特の「在りよう」は、ただ外見のみの影響ではなかった。

 なにか根本的な部分が決定的に欠落している感じ.....強烈な違和感.....これまで昭が対峙してきた『明るい側』にいる人間たちとは纏う空気が違うのだ。

 

 

「昭ちゃん? どしたの? 黙ったまんまで。気分、悪いの?」

 ぼうっと眺めていた対象が、いきなり口をきいた驚きで、昭は我に返った。

「い、いえ.....ご無礼いたしました!本当に重ねて.....無礼を.....

「もぅ! さっきから、ごぶれーごぶれーって、そんなことどうでもいいよ。それより、昭ちゃん、そこ、座んなよ」

「え..........

「ほら、ベッドのおつくえのトコ。おイスあんでしょ?」

「あ、は、はい。うわわわっ!」

 ガタン!

「なぁに、どしたの、昭ちゃん」

 くすくすと周瑜くんが、笑う。昭は無様に転がした椅子をあわてて立て直した。

「い、いえ、すみません.....ご無礼いたしました」

「もー、ごぶれーはいいってば」

 少しイライラしたように周瑜くんは言った。そしてなにやらハッとしたように少し俯いてしまう。

.....ねぇ、昭ちゃん.....あの、ゴメンね」

 周瑜くんは言いにくそうにポソポソと小声になった。

「は? なにがでしょうか?」

「さっき.....昭ちゃん、ホントはみんなとお出かけしたかったんでしょ?」

.....は?」

「ホントはそうなんでしょ? 夏侯惇将軍や陸遜たちとお出かけしたかったんでしょ?」

「は、はぁ.....

 昭はあくびのような返事をしているだけだ。

「ごめんね.....わがままだったよね」

「えっ.....あ、ああっ! ちがいますよ、全然、そんなことないです。私が皆様の散策に同行するというのは、あくまでもお役目で.....

.....ここに来てくれたのも、お役目なの?」

「えっ.....

 ぐっとつまる司馬昭である。彼はまだあまりにも周瑜くんという人に慣れていなかった。

「えっ.....いえ.....あの.....

「昭ちゃん、お仕事だもんね。ごめんね、いっぱいいっぱい忙しいんでしょ? 昭ちゃん、司馬懿殿の息子さんなんだもんね。きっとアタマ良くて皆に期待されてるから忙しいよね.....

「え、ええっ! い、いえ、そんなことは.....そんなことはありませんよ。もちろん若輩者ですから、いろいろと勉強しなければならないことはありますけど.....でも.....

..........ごめんね。ちょっと寝たら、アタマ、冷えたの」

「そんな.....あやまったりしないで下さい。周瑜殿のことが心配なのは本当のことですッ! 私がお側についていたいと思ったんです。本当にそう思ったから伺ったんですッ」

 昭のこのこたえは上出来であった。周瑜くん慣れしている夏侯惇あたりが、この場にいたとしたら、ぽんと手を打っているところだろう。

 周瑜くんは真っ白な頬を微かに上気させると、

「うれしー」といって微笑んだのであった。